二章 その4
「やっぱり送っていくか?」
「ううん、いいよ。こんなケガ大したことないし、一人で帰れるって!」
俺は星子を女子寮まで送っていこうとしたが、彼女は大丈夫の一点張りだった。
「それに、あの男の人は放っておいていいの?」
「とっくに寮に帰ってんだろ。どうせ今頃、俺のことなんか忘れてくつろいでいるさ」
それでもなぜか一抹の不安を覚えた俺は、暗に電話をかけてみた。
「……出ない。何で、出ないんだ?」
俺は延々と続くコール音を聞き、さらに不安が掻き立てられる。
「きっと帰れてないんだよ。一人で行動した人は、行方不明になる。まるでありきたりな推理小説みたいだね」
視界がぐるぐると回る。背筋を冷たい何かが這い上がってきた。
「行きなよ。早くしないと、手遅れになっちゃうかもしれないよ?」
「……ああ、悪いな」
「謝る必要なんかないよ。ウチを手当てしてくれたんだもん、それだけで十分だよ」
俺は呼吸を整えて、頬を叩く。
「……でも、あいつはどこにいるんだろうか……」
「いくら考えても、どうにかならない時がある。そんな時は、とりあえず走ってみるしかない。違う?」
「そうだな。……こっちこそありがとな、どうにかなる気がしてきたぜ」
星子はもう何も言わず、俺の背中をポンと押した。
俺は押されるままに、当てもなく走り出した。
暗を探している途中、一人で帰っている波紋と会った。
「あ、波紋! 暗を知らないか⁉」
彼女は盛大にため息をついて言った。
「あのね、光雨。ここは学校の敷地内、それに今は下校時間なの。校内にはまだ多くの生徒が残っているのよ。言いたいことは分かる?」
「そんなことどうでもいいから、質問に答えてくれよ。先に聞いたのはこっちなんだしさ」
波紋は苦虫をかみつぶしたような顔をして、俺の向こうずねを蹴った。
「いってーな、人に暴力を振るうなんて最低だぞ! 武力反対、ラブ&ピース‼」
「何を言っているの、これは暴力なんじゃないわ。教育よ、きょ・う・い・く。先輩と話すときは敬語を使うものよ。あと、上級生の名を呼ぶ時には先輩をつけなさい」
「ああ、わりー。で、今はおひとりで寂しくお帰りですか、波紋せんぱーい?」
できるだけ尊敬の念を込めていったが、波紋は不満そうに眉をひそめた。
「あのね、言葉上で礼儀正しく振る舞っても、心の底から相手を敬う気持ちが無ければ誠意は伝わらないものよ」
「暴力女を敬うなんて無理ゲーだろ。尊敬されたいのなら、それ相応の行動を示して見せろってんだ」
再びすねを蹴られる。巨漢の弁慶ですら泣いたんだ、俺は泣き叫んでも文句は言われまい。唇をかんで耐えたが。
「社会的常識を教えてあげているのよ、感謝なさい」
女に手を上げるのも情けないので、俺は黙ってうなずいた。別に痛くて声が出なかったわけじゃない。
「よろしい。それで、暗陽輝の居場所だったわね。確か体育館裏で盗撮犯を見つけたって風紀委員の連中が騒いでいたわよ」
「分かった。ありがとな、波紋」
「はぁ、結局改める気は無いのね。まぁ、もうどうでもいいわ」
駆けだそうとして、すぐに足を止めた。
「どうしたの?」
「そういや、さっきの質問に答えてもらってないなと思ってな」
波紋は呆れたように眉尻を下げた。
「……本気で気になってたの?」
「そりゃそうだろ。ボッチの俺と違って、あんたは人望あるヤツしかなれない、生徒会長だ。一人寂しく下校、なんて似合わねーだろ」
「私もあなたと同じよ。生徒会長なんてね、学業成績さえよければ、友人なんていなくたって勝手に推薦されるものよ」
彼女はそう言い残して立ち去ろうとした。
「あのさ、明日から一緒に帰らねーか?」
俺は自分でも気が付かないうちに、そう言っていた。彼女は一瞬驚いたように大きく目を見開いたが、すぐに微笑みを頬に浮かべて首を振った。
「何が悲しくて、盗撮魔の後輩と帰らなければいけないのよ」
彼女の瞳は揺れる夕日を映しているせいか、とても悲しげに見えた。
緑の葉々を付けた並木通りを波紋は長い影と共に歩いていった。
波紋に言われた通り、体育館の裏で暗を見つけることができた。
日はもう暮れているが、ヤツを照らす無数の懐中電灯のせいでそこはやけに明るかった。
予想通り、風紀委員の集団がそこにいた。人数はざっと数えただけでも十人以上。ヤツらは暗を取り囲むように立っていた。まるで怪盗と警察を見ているようだ。
そしてその現場のお約束のように、野次馬もうじゃうじゃいる。
俺は彼らをかき分けるように前に出て、暗へと近づいていく。
「コラ! 大人しく寮に戻りなさい‼」
野次馬と格闘している風紀委員のわきの下を通って、暗へと駆け寄る。
「よう、ずいぶん人気者になったじゃねーか。何があったんだよ?」
俺がいつもの調子で声をかけると、ヤツは驚いた表情で声を上げた。
「七色! 何でこんなところにいるんだい⁉」
「電話しても出ねーから、心配になって来てやったんだよ。それでこの騒ぎは何なんだ?」
ぐるりと見まわしても、人が見えないところは背後の壁だけだ。ここに立つと、風紀委員と野次馬が警備員と観客に見えなくもない。まるで俳優にでもなった気分だ。まぁ、容姿的にメインは暗ってことになるのだろうが。
「寮に向かっている途中で、風紀委員に見つかってしまったんだ。それで逃げ回っている間に追っ手が増えていって、このありさまさ」
「これじゃ、もう逃げ場はないな。どうするつもりだ?」
俺の問いかけに、ヤツは大きくため息をついた。
「投降するさ。それしかないだろ?」
「まぁな」
改めて暗を見ると、全身ボロボロだった。制服は所々破けて、そこから覗くかすり傷は痛々しい。生地はどこもかしこも、砂色のコーティング。靴は片足が裸足だった。極めつけは顔だ。グラサンにはひびが入り、頬は真っ赤に腫れている。鼻からはとめどなく血が流れ続けていた。
「その何だ、お前は頑張ったよ。それはここにいる誰もが分かっている。見ろよ、あそこの一角を。追っかけの女子たちだよな。あいつら、こんな情けない姿を見ても黄色い歓声を上げてるぜ。愛されてるよな、お前」
言っているうちに殺意が湧いてきたが、ここはぐっと堪えよう。
「……ははは、どうもそうみたいだね」
「もう十分だ。ゆっくり休めよ」
「うん」
そう言って、暗は風紀委員の元へ歩いていった。
だが彼はすぐに足を止めて、尻ポケットに右手を突っ込んだ。左手ではこっちへ来い、と手招きをしている。俺は誘われるままに、彼へ近づいていった。
「これ、受け取ってくれ」
小声で言う彼が差し出したのは、一枚の写真だった。
「……お前、これのために……⁉」
それはミューティングの後に渡すという約束をした、波紋と夏世の写真だった。
写真の中の波紋は恥ずかしそうに微笑み、夏世はさりげなくピースを作って、口元に笑みを浮かべていた。
「さっき別れる時に、渡しておくべきだったよ。まったく、僕はバカだね」
俺は突然目から溢れてきた、何か熱いものをぬぐった。何だこれ、何なんだよこれ、くそっ。
「本当に、お前はバカだよ。こんな……、こんなっ」
こんなもののために、と言いたかった。だけど写真の中の二人を見ていると、その言葉を口にすることはできなかった。
「大切なものなんだろう、それ」
「お前はっ……、何でこの写真を俺に届けるために、そんなボロボロになるまで走り回ったんだよッ⁉ その約束は動画にだって撮ってないだろうが⁉」
ヤツはいつの間にか曇った、雨の降りそうなどんよりとした空を仰いで言った。
「七色。アール・オブ・ザ・トランサンダンスの至高目的を覚えているかい?」
「何だよ、こんな時に」
「最高の一枚この目に焼き付け、それを永遠に残すこと、さ」
俺は写真に目を落とす。心なしか、少し滲んで見えた。
「俺……、よく分かんねーけど、それはアールを超えてるのか?」
「超えたんだよ。その一枚は彼女のアールをさ。……いずれ、アールが追い付く日も来るかもしれないけどね」
そこで彼は一度言葉を切って、満面の笑みを見せて言った。
「それに君は、友達だろ」
ヤツは今度こそ足を止めずに風紀委員の元へ去っていった。
最後の笑みはやりきったという思いが伝わってくる、爽やかなものだった。
あの後、暗は生徒会室でこってり絞られて戻ってきた。
「それで、どんな処分を受けたんだ?」
「それがさ、僕には何の罰も無かったんだ」
「……は?」
俺は一瞬、ヤツが何を言っているのか分からなかった。
「お前、それ、どういうことだ?」
「なんかさ、女の子たちが僕になら覗かれてもいいって、かばってくれたんだ。被害者がそう言うんじゃ、風紀委員の人たちも強く出ることができなくてね。で、結局僕は無罪放免になったっていうことさ」
話は理解できた。しかし納得はできなかった。
「なぁ、一発殴らせてくれないか? 頬でいいから」
「いやいや、よくないよ⁉ 七色だって何の罰も受けてないから、そこまで怒ること無いじゃないか⁉」
「いや、理由が無性に腹立つんだ。それなら堂々と裸を見てくればよかったじゃねーか、この合法覗き魔が!」
「そんな不名誉なあだ名はいらないよー! って、あ、痛い、痛いって七色‼」
ヘッドロックで怒りを暗にぶつける。
そしてにぎやかに夜は更けていった。