二章 その3
「七色じゃないか! 君も無事だったのかい」
昇降口の前で暗と出くわした。
ヤツは額に汗を浮かべて息を切らしていた。履いている上靴は泥だらけで、一目で命からがら逃げてきたことが分かった。
「ああ。そっちは大変なことになってるみたいじゃねーか」
「そうだね。もう半数近くの仲間が風紀委員にキャプチャされてしまったよ」
ブレザーに着いた土や草を叩く暗の顔には、いつもの余裕やふざけた様子は一切なかった。
どうやらヤツの組織は洒落にならない状況に立たされているらしい。
まぁ、俺には関係ねーけど。
「じゃ、頑張ってくれ。俺は役目を果たした。後はテメーらでどうにかしろ」
俺は暗に背を向けて、昇降口に向おうとした。
その瞬間、ヤツはただならぬ様子で叫んだ。
「だ、ダメだッ! そっちに行ってはいけないッッッ‼」
「はぁ? 何言ってんだよ、テメー」
だがすぐに俺はそのセリフを理解することになった。
「な、な、何だありゃああああああぁぁぁぁぁぁッ⁉」
地響きが聞こえてくる。立っている大地が上下に揺れた。大勢の人間がこちらに駆けてくるのだ。
俺は最初、風紀委委員の連中かと思った。だが風紀委員の付けているワッペンを彼女たちは付けていなかった。
そう。彼女たち、だ。こちらに迫ってくるのは全員女子だった。
「彼女たちはチェイサーさ。風紀委員よりもよっぽど厄介な、ね」
「あいつら、ベリーパッションなテンションで向ってくるのだが。何が目的で、お前を追っているんだ?」
暗の代わりに彼女たちが俺の問いに答えてくれた。
「キャアアアアアアッ! はらいくううううううぅぅぅぅぅぅんッッッ‼」
「テメーの追っかけかああああああぁぁぁぁぁぁッッッ!」
彼女たちのラブコールと俺の突っ込みはほぼ同時だった。
「そうみたいだね。あれに巻き込まれるのはデンジャラスすぎる、早く逃げようッ!」
暗は冷静に判断を下し、俺の手を取って走った。俺もあの何十人にもおよぶ集団に蹴散らされるのは御免だったので、ヤツに言われるままに走った。
「もしかしてお前が薄汚い格好だったのは……」
「ああ、彼女たちから逃げるために刻まれた勲章さ」
モテるっていうのは意外と辛いものなんだな。
「俺、ちょっとお前に同情するぜ……」
「……七色」
「それはそれとして、滅茶苦茶腹が立ったから一発殴らせてくれないか?」
「数秒前の同情は何処に⁉」
そんな漫才をしながら上階へ走る。一階は人が多くて、他に逃げれる場所が無かったのだ。無関係の人を巻き込むわけにもいかなかったしな。……まぁ、俺も無関係の人間なはずだが。
二階に着くと同時に、俺たちは廊下を駆け抜ける。
「何か考えがあって逃走する方向を選んでるんだよな?」
「…………」
「おい、暗!」
俺の声に、暗はかすれた声で答えた。
「ゴ、ゴメン……。ちょっと、走るのに専念させてくれないかな……」
「……お前、もしかして俺以上に体力が無いのか?」
「はは……。どうも、そうみたいだね」
いつの間にか俺が暗の手を引く形になっていた。
「ったく、しょうがねーな」
どこか隠れる場所は無いか視線を巡らした時、進行方向を一つの影が阻んだ。
「ここは通さん」
筋肉ムキムキの、プロレスとかやってそうなデカブツヤローだった。着ている制服が今にも破けそうなほど筋肉が盛り上がっている。
「誰だ、あんた?」
「俺は風紀委員第一の刺客、真岩譲治。おめぇらを捕えてくるよう、委員長の命令を受けて参上した」
前方には巨体の風紀委員、後方には暗の追っかけ集団。万事休す、か……。
「大丈夫さ、七色」
「挟み撃ちじゃねーか、この状況のどこが大丈夫だってんだ」
「君なら、ヤツに勝てる……。自分を信じて、フルパワーの一発を見舞ってやるんだ」
「暗……」
俺は風紀委員を見据えて、拳を握る。
どう考えてもこんなヤツに勝てるとは思えない。相対しているだけでもヤツが放つ威圧感が、俺の足を震えさせる。だけどこの状況を打破するためにも、やるしかない。
「どうした、小僧。ビビッて無条件降伏か? ガッハッハッ!」
俺は足を肩幅に開いて、固めた拳を腰に引き付ける。目線は風紀委員の顔にぶつけてやる。これからぶん殴る相手の顏ぐらいは覚えておいてやろう、という俺なりの礼儀だ。まぁ、返り討ちに会いそうな気がするが……。
「へっ、ほざけ。テメーも大して年は違わねーだろうが」
足の力を抜く。戦へ踏み込む一歩は、重くてはいけない。しかし軽すぎてもダメだ。素早く動くための柔軟性と戦う覚悟。それらを兼ね備えた一歩こそが、勝利への足掛かりとなる。
「俺の体は城だ。おめぇはその内堀にすら踏み込むことはできねぇよ」
そう言って、風紀委員は上着を脱ぎ捨てて自分の筋肉を見せびらかす。……やっぱり最近は露出が流行っているんだろうか? その流行は女子の間だけにしてもらいたいもんだが。
「へぇ、それがテメーの決めゼリフか? だっせー」
「なっ、何だと⁉」
「つーか堀に足を突っ込むバカがどこにいるよ。常識的に考えやがれ、ボロ小屋」
軽口をたたきながらも、ヤツのすきを窺う。
「じゃあ、おめぇの決め文句も聞かせてもらおうか」
あるかよ、そんなもん……。風紀委員に入ると、そんなことを考えさせられるのだろうか。今度、委員長にも聞いてみよう。
「どうした、小僧? ほれほれ、言ってみろ」
「えーと……」
何かスゲー期待されているのだが。そんなもの、即興で思いつくもんか!
「七色」
暗にぽんと肩を叩かれた。
「僕の言ったことをそのまま繰り返してくれ」
「ああ……」
後方からの足音が大きくなってくる。
早くこの場を片付けないといけないのだが、どうも異様な空気がそれを許してくれない。
暗は一呼吸置くと、俺の耳元で囁いた。
「天涯孤独の流浪の戦士、七色光雨。ここに見参!」
「……言えるか。はずいわ」
「えー」
そうこうしている内に、いよいよ追っかけが追い付いてきた。
「ひとまず逃げる! 行くぞ暗‼」
俺はヤツの腕をつかむと、乱暴に手近な教室の扉を開けた。
「……なッ⁉」
絶句。
そこには大勢の男子がたむろっていた。カーテンは閉め切って、電気も付けられていない。人工的な、闇の空間。そこで彼らはとあるものを取引していた。
「何だ、これ……」
「ここはもしや……」
俺と暗のつぶやきは同時だった。
背後の風紀委員も呆然とした顔をしていた。
室内にいた男子たちは俺らをぎょっとした様子で見ていた。当然だろう。手にしたものが、思春期男子の夢の本。エロ本なのだから。
「あ、あいつ風紀委員じゃねーか!」
「おい、今日のカギ当番は誰だ⁉」
「さ、さーせん! 俺っす‼」
「ちっ、見られたからにゃ生かして帰せねーな!」
ど、どうなってんだこりゃ……。
焦る俺とは対照的に、暗は冷静な声音で語り始めた。
「七色。ここはシークレットエイトの一つ、ダークバザールだ。多くの男子らが持つドリームブックを自身の欲するものとトレードするために行われる、いわゆる非合法な闇市さ。それを取り仕切っているのが、教卓に座っている男。彼がここのリーダーだ」
それを聞いた教卓の男はにやりと笑った。
眼帯を目に付けて黒いマントを羽織った、いかにも中二的な男だった。ヤツは見るからに危ない人で、できれば近寄りたくない雰囲気を放っていた。
「ほう、よく知っているでござるな。お主の言うとおり、拙者がここの首領。黒鉄守でござる。それで、各々方は何用か?」
風紀委員は声を張り上げて怒鳴った。
「風紀委員の真岩譲治だ! 貴様らを学校の風紀を破った罪で、生徒会室へ連行する‼」
うわぁ、こんなヤバそうなヤツにケンカを売るとは。さすが風紀委員だ。
「面白いことを申すでござるな。推参者とはまさにうぬのためにある言葉よ」
さて、これはチャンスだ。風紀委員は中二に気を取られている。あとは追っかけさえどうにかできれば……。
そこでピンときた。
ここは闇市。取引されるのは何も、ものである必要は無い。ブラックマーケットとはそういう場所のはずだ。
「よし、皆の者。その輩を――」
俺は黒鉄の言葉を遮って叫んだ。
「テメーら、よく聞けええええええぇぇぇぇぇぇッ! 俺はテメーらと商談があるううううううぅぅぅぅぅぅッ‼」
野郎共は怪訝な表情で俺をにらんだ。
「あんだと? お前ごときに俺たちと取引できるブツがあるってのか?」
「おうよ、モチのロンだぜッ! 俺にはこのバザール史上最高のブツの用意があるッ‼ 市場だけになああああああッ‼」
俺のただならぬ気迫に野郎共は息を飲む。
「そ、そのブツってぇのは、いったい……?」
俺は不敵に笑う。ドタバタという賑やかな足音が間近に迫っていた。そろそろ頃合いだ。
「いいぜ、教えてやろう。それはだな……」
俺と暗は室内へ飛び込む。逃げ遅れた風紀委員は女子の群れに跳ね飛ばされていた。あの見かけのくせに、中身は貧弱なヤツだったらしい。
「リアル女子だああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!」
「うおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉッッッ!」
湧き上がる大歓声に、追っかけの女子はたじろぐ。
「一人何人でも可! お持ち帰りは自由‼ ただし、本気で嫌がる女の子においたはダメだぜ。あと、返り討ちになっても当方は一切責任を持ちませんのでそのつもりで」
俺の話を聞いているヤツは一人もいなかった。エロティックな本に囲まれた薄暗い部屋だ、正気を保っていられなかったのだろう。
ただ、戦力差は男子十数人に対して女子数十人。戦わずとも結果は見えている。まぁ、時間稼ぎぐらいはしてくれるだろう。
「やってくれたでござるな、お主ら」
黒鉄は戦いに混じらずそれを眺めていた。さすがは首領、冷静さを失わなかったようだ。
「まぁ、こっちもいろいろ事情があるんですよ」
黒鉄は舌打ちして立ち上がった。
「今日はもう店じまいするでござる。……お主ら、名前は?」
「僕は暗陽輝です」
「七色光雨だ」
「暗どのに、七色どの。覚えておくでござる」
そして彼は戦いの喧騒に混じり、去っていった。
俺と暗はベランダに出て、柵の下を覗いた。
「……本当に飛び降りるつもりかい?」
顔面を蒼白にして暗はビビッていた。
「ここは二階だし、下は花壇だ。とちっても死にはしねーよ」
校内から脱出するために俺が考えた策は、二階から外へ出ることだった。
「いつまでもモタモタしちゃいられねえ、覚悟を決めて飛ぶぞ」
そう言って策に手をかけた時、誰かにぽんと背中を叩かれた。
もう女子が追い付いてきたのか⁉ おそるおそる振り返ると、そこにいたのは夏世だった。
「なんだ、夏世か」
「ん」
相変わらずの無表情でヤツはうなずいた。
「あ、あなたは清原夏世先輩じゃないですか!」
暗は感激の表情で彼女の手を取った。馴れ馴れしいヤツだ。
「今までずっとあこがれていました! 幼児体型ながらその立派なお胸‼ 幼さと大人の魅力を兼ね備えたあなたは、まさに完璧に完成された存在と言えるでしょう‼」
「……ん?」
先輩はわけが分からないようで、首をひねっていた。
「おいコラ、初対面の先輩に向って失礼なこと言ってんじゃねーよ」
「こ、これは失礼しました。……って君も呼び捨てにしてたじゃないか!」
「ん」
夏世こと先輩は寸分も表情を変えずにうなずいた。まるでロボットみてーだな。
「へいへい。それで何の用だ、先輩?」
「ん」
先輩はさっき俺の見ていた花壇を指さした。
「……花壇がどうした?」
「ん」
ただ指さすだけじゃ、何を言いたいか分からねーって。……ああ、もしかして。
「飛び降りたら花が可哀想だって言いたいのか?」
先輩はこくりと首を振った。
「分かるのかい、七色?」
「いや、ただの当てずっぽうだ」
「ん」
彼女は指先を花壇からベランダへと変えた。そこには避難用の滑り台が組み立てられていた。
「あれを使えってことですか?」
「ん」
「用意がいいな……。まるで事前に行動を見られていたみたいだ」
俺はぼやいている途中であるものに気が付いた。それは雨よけの裏に張り付いていた。
「監視カメラか。どうせ、校内の至る所に仕掛けてあるんだろうな。送られた映像を見ているヤツは波紋か?」
「ん」
先輩は淡々とした調子でうなずいた。
「お前は意思疎通の手段を三つしか持っていないのか?」
「んー」
ゆっくりとした動作で首を横に振る。どうやら言葉を発する気はさらさら無いらしい。
「はぁ……。まぁ、どうでもいいか」
ようやく思い出したが、こんなことをしている暇は無かった。
「なぁ、先輩。一つ頼まれてくれないか?」
「ん?」
「もうすぐ大勢の女子が押し掛けてくる。そいつらを足止めしてくれないか?」
「ん」
先輩はうなずいた。もうそれ以外にコメントすべきことは無い。
「待ちたまえ、七色こそ先輩に失礼なことを言っているじゃないか! だいたい一人であんな大勢をストップさせるなんて、できるはずがない‼」
「いや、先輩ならできるはずだ。なんせ波紋がわざわざ助っ人として送ってきたんだ、タダ者なわけがない」
「君はとことん失礼な人間だね、会長を呼び捨てとは。というか七色は、会長と知り合いだったのかい?」
俺は滑り台のワクに手をかけてため息を漏らした。
「まぁ、色々あってな。盗撮とか」
「ああ、なるほど。……もしかして、それが原因で風紀委員に情報が漏れたんじゃないかい?」
「だったら、先輩を送ってくるわけねーだろ。ヤツは不問にするって言ってたしよ」
俺は滑り台に尻を乗せた。少し不安な座り心地だったが、避難用の滑り台なんてこんなもんだろう。
「さて、そろそろ行こうぜ。飛び降りじゃなくて滑り台ならお前も大丈夫だろう」
「ああ、それなら平気だよ」
俺は先輩の方を向いて礼を言った。
「色々ありがとな、先輩。波紋にもよろしく言っといてくれ」
「ん」
「あと、次に会う時までには少しでも人語を話せるようになっといてくれ」
「ん?」
やれやれ、先輩と円滑にコミュできる日は来るのだろうか。
「まったく、俺以上に人付き合いが苦手そうだな」
「ん?」
その時、教室から轟音が聞こえた。
「マズイよ、追っかけがこっちに来る!」
「あーくそ、無駄話してるんじゃなかった! 暗は滑り台を使え、俺は飛び降りる‼」
「オ、オッケー」
俺は立ち上がって柵に飛び乗り、花壇へとダイブした。
「じゃあな、先輩!」
「ん……、バイバイ」
「ってー……」
着地に失敗して、尻から花壇に突っ込んでしまった。幸いケガはないようだ。
「七色、すごい音がしたが平気かい!」
「おう、大丈夫だ」
俺は尻に着いた土を払う。つぶれてしまった花には心の中で謝罪する。
「やれやれ、結局あいつの努力は水の泡、か……」
ここは園芸部の花壇だろうか? 今度、謝っておこう。
「そういえば、例の写真とかデータの入ったチップってどうしてるんだ? それさえ隠しておけば捕まったとしても、白を切ることができるんじゃないか?」
「残念だけどほとんど押収されてしまったよ。おまけに化学室内にいたメンバーは風紀委員に、こっそり顔を写真に収められてしまったし……」
盗撮されたのか。まったく、ミイラ取りがミイラとはよく言ったものだ。
「僕の手に残ったこの一枚は、何があっても死守しろとリーダーからの絶対命令を受けている。そこらへんに放っとくわけにはいかないよ。それに組織とは関係なく、これだけは手放せない理由があるんだ」
「ふーん、そっか。まぁ、とりあえず寮に向かうか。個室ならプライベートを盾に、ものを隠すこともできるだろ」
「それを言うならプライバシーだよ」
「ああ、そうそうプライバシーな」
暗は苦笑いした後、急に真顔になって俺と目を合わせてきた。
「それにしても、さっきの七色はすごかったよ。君には人の心を動かす力があるのかもしれないね」
「そんなもんねーし、人を扇動する力なんていらねーよ。行動っていうのは、人に言われて起こすもんじゃねえ。自分で考えて、その思いを胸に動く。それが一番だ」
「そうかな。人が道を踏み外してしまいそうな時に、正してあげる。君の才能は、そうやって使うこともできるんだよ」
俺は肩をすくめて、ベランダを見上げた。そこには誰もいなかった。方法は分からないが、先輩が彼女たちを食い止めてくれたのだろう。
「さて、これで捕まったらヤツと先輩に顔向けできない。行こう、ぜ……?」
視線を下げて、一階の窓の前。つまり花壇の奥。そこに一人の少女がうずくまっていた。
「お、おい大丈夫か?」
「う、うう……、痛いよぉ」
少女の膝からはたらたらと赤い血が流れていた。彼女の前のガラスが割れていることから、破片が膝を切ったのだろうと察せられた。なぜか地面に黒いしみのようなものがあった。何かの焦げ跡だろうか。近くにあるのはシルクハット。おそらく彼女のものだろう。
「こりゃ酷いな……。すぐに保健室に連れて行く。いいな?」
彼女に確認を取るが、痛い痛いと繰り返すだけだった。
「じゃあ、僕は寮に行く。君はその子を保健室へ連れて行きたまえ」
「お前、一人で帰れるのか?」
「ま、どうにかするさ。君のおかげで追っかけの女の子は撒けたしね、風紀委員ぐらいどうにでもなるよ」
そう言って暗は去っていった。
空はいつの間にか橙色に染まり、太陽はゆらゆらと赤く揺れていた。それはまるで、今にも消えそうなロウソクの灯りのようだった。
「これでいいだろ。しばらくは激しい運動は控えるんだぞ」
「あ、ありがとう」
少女は俺の巻いた包帯をじっと見ていた。
保健室には養護教諭が不在だったため、俺が少女の手当てをした。
「少しの乱れもなく、きれいに仕上がってる。すごいよ、君」
誰かに褒められるというのはずいぶん久しぶりだ。何だかむずがゆくて恥ずかしいような、でも不思議と嫌な感じはしなかった。
「まぁ、医者だった祖父から一通りの応急処置は叩きこまれていてな。だけどそこまで自慢できるもんじゃねーだろ」
「ううん、謙遜しちゃダメだよー。これは立派な特技だよ!」
手当に使った道具を片付けて、俺は椅子に座った。しかしそれでも目線が合わない。俺が斜め下に視線を下げて、やっと目が合う。そう、彼女は夏世先輩並にちびっ子だった。胸は波紋並だが。
「えっへへ~、君がいて助かったよー。あんまりにも痛くて、歩くこともできなかったからー」
彼女は二つに結んだ髪をふわりと揺らしてほほ笑んだ。少女の天真爛漫な笑みと、差し込む夕日が眩しくて俺は目を細めた。
「そういえば、お前は何であんなところで何してたんだよ?」
「えっとね、ウチってマジック研究会の会長なんだー」
ふふん、とえらそうに胸を張る少女はどう見ても小学生ぐらいにしか見えなかった。
「へー。……え」
焦げた地面。割れた窓。今は彼女の手にある、転がっていたシルクハット。そして今の少女のセリフ。それらがすべて繋がった。
「……つまりお前は、マジックの練習で失敗して、ケガをしたと」
「うん」
「よし、分かった。生徒会長とは知り合いだから、割れた窓とお前のことは伝えておくから」
俺は立ち上がって部屋から出ていこうとする。
「わわわ、ちょっと待って! 今月のお小遣い、もう大ピンチなの‼ マジックの道具って、お金がかかるんだから‼」
「そんなもん、会費から出せばいいだろ」
少女は腕を組んで、ため息をついた。
意気消沈した顔は彼女には似合わないな、と俺は思った。
「研究会や同好会って、部員が入らない弱小グループに付けられる、いわば悪口みたいなものなんだよ。それで学校は、そんなところには部費を出してくれないの。部員が五人よリ少ないとゲートボール同好会とか、川柳研究会って呼ばれちゃうんだ」
「お年寄りの集まりかよ……」
「だから今回のことは黙っていてほしいの、お願い!」
つぶらな瞳を潤ませて頼まれちゃ、断れるわけがない。
「ああ、分かったよ」
「ありがとー! ところでさ、マジック研究会に興味は無い?」
俺はずいっと迫ってくる少女のおでこに指を当てて、椅子へ押し返す。
「悪いな、俺はもう入る部活を決めているんだ」
「えー、どこー?」
不満そうな少女に俺は指を突きつけて言ってやる。
「帰宅部だ」
じとーっという、呆れた視線を彼女に向けられた。
「あのさー、青春は今だけなんだよ? もっと積極的になっていこうよー」
俺は鼻で笑って反論してやった。
「省エネ一番。限りある資源を大切に、だ」
「ダメだよー。そんなことを言ってる人は卒業した後、もっと色々やっとけばよかったなー、って後悔することになるんだよ! 高校時代っていうのは、皆の憧れ‼ なら輝く青春をチャレンジ精神で駆け抜けようよ‼」
青春と言われて俺が真っ先に思い浮かべたのは、ギャルゲーだった。
「青春かー、憧れるよな。夕暮れの教室、女の子と二人きり。高鳴る鼓動、合わさる唇と唇。そして男は少女のボタンを――」
ちょっと待て。そのシチェーション、すでに半分ぐらい達成してるぞ⁉
「やべぇ、しかも相手は紛うこと無きロリっ子! 完璧だ、理想通りだ‼ 今の状況、どこにも死角は無い‼」
興奮する俺の両肩に優しく手を置いて、少女は言った。
「ウチたち、十八以下。おさわりノー、オッケー?」
「……オッケー」
がっくりと膝をつく。法律を盾にされた一個人など、無力なものだ。
「でもでも、その……。憧れるよね。夕暮れの教室で、大好きな人とキス、っていうの」
「お前が言っても、ませた女の子が大人ぶってるようにしか見えねーな」
俺の言葉に少女は風船のように頬を膨らませて憤った。
「もー、もー、もー! 失礼な人だね、君は‼ そんな礼儀を知らない君は何年生?」
「一年生」
「年下じゃん! ますます失礼だよ‼ あーもう、助けてもらうならもっと、カッコよくて優しい人が良かったー」
せっかく助けてやったというのに、酷い言われようだ。
「ああ、分かったよ。お前は十分可愛くて魅力的だよ。なんだ、あと、きれい、かな?」
「最後、疑問形じゃん! もういいよ、どうせ私は子供っぽいですよーだ」
「悪かったって、そうすねるなよ。ほら、飴ちゃんあげるから」
「もー、もー、……でもキャンディはもらっておくね」
彼女は俺がやった飴をポケットに入れた。見た目通りの好みだった。
「ま、助けてもらって、おまけにキャンディまでもらっちゃったんだし。お礼をしないと悪いよねー。うーん……。じゃあさ、マジックを見せてあげるよ!」
「へぇ、マジックねぇ……」
「あ、その目! マジックなんてこいつにできるはずない、って疑ってる⁉ これでもウチは一応、マジック研究会の会長なんだからね!」
まくしたてる彼女には悪いが、信じる気には到底なれない。
「お前さ、さっき失敗してケガしてたよな」
「あー、うん。あれはその、たまたまだよ!」
うわー、不安だ……。
「とにかく見ててよ! すごいんだから‼」
そう言って彼女はシルクハットの中をこちらに向けた。
「はい皆さん、ご覧ください! このシルクハットには種も仕掛けもありません‼」
「皆さんって……、客は俺一人しかいないぞ」
「別にいいの、雰囲気を出すためなんだから。さぁさぁ、この空っぽの帽子に魔法をかけてみましょう! ワン、ツー、スリー‼」
少女はシルクハットを机の上に置き、粉を描けるように右手を振った。俺はその間、彼女の左手をじっと見ていた。
「……あのさ、君ってすごい疑り深いね」
「マジシャンが右手を動かしている時は、左手を見ろ。これは詐欺師に騙されないための鉄則だろ」
「詐欺師って……。魔法を信じる純粋な心を失ったら、人生つまらなくなるよ?」
太陽を背にした少女が動き、隠れていた日光が目に刺さる。俺は思わず目を閉じる。再び開いた時、彼女はシルクハットに右手を突っ込んでいた。
「それでは、魔法のシルクハットさんに奇跡を見せていただきましょう! それ‼」
彼女の右手には一粒のキャンディが握られていた。
「どうどう? すごいでしょ? でしょ?」
「何が魔法だよ。どう考えたって手品だろう」
「えー、何でよー」
説明するのもバカらしいトリックだが、少女の気を収めるために仕方なく俺は語ってやることにした。
「種は簡単だ。俺が目をつぶった隙に、ポケットの飴を取り出しただけだろ」
「ふーん。じゃあじゃあ、もう一度やってあげるよ」
彼女は再びシルクハットに手を突っ込んだ。
「待て、その前にシルクハットを確認させろ」
少女から受け取ったシルクハットを確認する。種も仕掛けも無かった。
「次はお前の制服の袖を見せてみろ」
「とことん疑り深いねー。いいよ、ほらほら。存分にお確かめくださいなー」
袖にも異常は無かった。
「……もういい? じゃあ、再び奇跡をご覧にいれましょう! そりゃー♪」
シルクハットの中からはパンダのぬいぐるみが出てきた。
「……マジかよ」
「えへへー。どうどう、見直した?」
「まさか……、まさかこんなところで会えるとは思わなかったぜ、パン食いパンダ!」
「え……、そっち?」
困惑する彼女を無視して俺は続ける。
「大人気オンラインゲームかんづめガールズのメインヒロイン、シュガーちゃんの相棒だ! いつも乾パンを抱いているだけのただの子パンダだが、サービス開始時から多くのファンがいるマスコットキャラなのだ‼ そいつのぬいぐるみが数量限定で販売されることが発表された直後、注文が殺到して即販売終了。以後再販情報が無いまま今に至る、幻の一品だ! それが目の前にある……、目からナイアガラの滝ものの感動だぜ‼」
「よ、よかったらあげようか? 卒業した先輩の忘れ物だし……」
少女が差し出したぬいぐるみを俺は小躍りしながら受け取った。
「いいのか? ありがたくいただくぜ!」
俺はもらったパン食いパンダを我が子のように抱き上げる。
「おお、お前を手にすることができる日が来るとは思わなかったぜ!」
「わー……、ぬいぐるみを手にはしゃいでる男子高校生とか、気持ち悪―い」
「ほーら、たかいたかーい」
そして俺は放り投げたパンダが目の前に落ちてきた瞬間、渾身の一撃を叩き込んだ。
「うらああああああぁぁぁぁぁぁッ!」
バシンッ! と拳を叩きこまれたパンダは一直線に飛んでいき、壁に打ち付けられて床に落ちた。
「な、な、な、何してるのーーー⁉」
俺は肩で息を整えて、額の汗をぬぐった。
「シュガーちゃんは誰もがタッチ欲を刺激されるほどの美乳であり、巨乳なんだ」
「へ、へぇ……」
気圧されている彼女を追い詰めるように、俺は怒涛の勢いで続ける。
「そして彼女の相棒、パン食いパンダ。ヤツはいつもシュガーちゃんに抱かれている、にっくき猛獣だ。あのビッグパイにいっつも顔をうずめてるんだぜ⁉ かんづめファンからはパイ食いパンダと呼ばれる始末! ぶん殴るには十分すぎる理由だ‼」
「で、でもすぐに売り切れたぐらい人気なんだよね?」
俺は大きく肩をすくめて、窓の前まで歩いた。そして鮮血に染まったような茜色の空を眺め、懐かしい過去の追憶にふけった。
「サンドバック」
「へ?」
「ぬいぐるみ、パン食いパンダに名付けられたあだ名さ」
運よく買えた者は、それを殴る動画を投稿していた。そのコメントで生まれた名前が、サンドバックだったのだ。
「もー、そんな乱暴する人にこの子は上げられません! この子はウチが責任もって、大切に育てます‼」
なんか、子供をめぐる親の言い争いみたいになっちまったな……。
「ねぇ、君もマジックやってみる?」
「お、いいのか?」
彼女はシルクハットを飴にかぶせるように机に置いた。
「さぁ、消えろーって念じて帽子を取ってごらん」
俺は言われるままに帽子を取った。一応、心の中で消えろと念じながら。
机の上の飴は跡形もなく消えていた。
「お前、手先は器用なんだな」
少女はわざとらしく首をひねって笑った。
「どゆこと? これは君の起こした奇跡、魔法なんだよ」
「簡単なトリックだよ。お前はシルクハットを飴にかぶせる寸前に、飴をさっと手の中に隠したんだ。あとは袖の中に収めるか、ポケットの中に忍ばせればいい」
俺は少女にシルクハットを返した。その時、少女の手の中には何もないことを確認しておく。彼女は底に手を入れ、何かを取り出すような動作をした。シルクハットの底には何も無かったはずだ。しかし彼女の手には飴が握られていた。
「見事な手品だ」
「これはどうやって説明するつもりかな?」
「事前に飴を手に持つのは不可能だった。俺が確認したからな。そしてシルクハットの底にも無かった。なら、話は簡単だ。袖の中に隠しておいたんだろう」
彼女はくすくすと笑って、シルクハットの中に手を突っ込んだ。
「どんな魔法や奇跡も、知らない人間が見ればただのマジックになり下がる。たとえ自分自身が使っていたとしても、ね」
彼女はシルクハットの中からひもにつるされた国旗や紙ふぶき、白いハトに風船をいっぺんに取り出して見せた。昔、テレビで見たマジシャンそのものの光景。それを前にして、俺は思わず息を飲んだ。
「ふっふっふ。見直した?」
「ああ。本当スゲーよ、お前。将来、きっとプロのマジシャンになれるぜ」
「ほめすぎだよ、悪い気はしないけどね」
彼女は一度咳ばらいをすると、改まった声でステージの幕を閉じた。
「本日は円谷星子のステージをご覧いただき、ありがとうございました」
俺は惜しみない拍手を星子に送った。