二章 その1
ホットケーキとパンケーキって何が違うんだろうか。
波紋と旧校舎であった翌日、ではなく同日の朝。俺は素朴な疑問の回答を求めて、パンケーキを食していた。
ここは寮の食堂。寮生が全員集まっても半分も席が余るぐらい広い。おそらく体育館の二倍は軽くあると思う。こんなに広くしてどうするんだろうか、と生徒の間でまことしやかにささやかれ、七不思議の一つにもなっている。
ぼちぼち集まってきた生徒たちが、思い思いのメニューを友人と食べていた。
そいつらを横目に一人優雅に食事を続けていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「やぁ、七色! 相変わらず一人寂しくブレークファーストかい?」
「ちっ、暗いか」
「暗だよ、は・ら・い! いい加減に覚えたまえ‼」
俺はヤツの剣幕を無視してプチトマトを口に運んだ。
「七色、人が話をしている時は食事を中断したまえよ」
「くちゃくちゃ、もぐもぐ」
「ぬぬぬ、ならこうしてやる!」
俺の眼前に暗の腕が伸びてきたかと思うと、猫が魚をかっさらうようにパンケーキをひったくり、ぽいと口に放り込んだ。
「おい、何してんだよ⁉ パン返せ‼」
「もぐもぐ、ごくん。残念ながら、胃に落ちたものは返せないよ。これに懲りたら、人の話はきちんと聞くことだね!」
ぶん殴ってやろうかと思ったが、必死に怒りを抑える。人目の多い場所でやったら、何かと面倒だからな。後で覚えてろ……!
「で、何か用か?」
「そうそう、そのことなんだけど……」
暗は急に声を潜めて顔を近づけてきた。別にそんなことをしなくても、こんな喧騒の中じゃ誰かに話を聞かれることも無いと思うのだが……。
「七色、例の約束は覚えているよね?」
「……昨夜の件のことか?」
とぼけても無駄だと思ったので、正直に答える。
「さっそく君に頼みたいことがあるんだ」
「待て、その前に言っておきたいことがある」
「何だい?」
ヤツは不満そうに口を尖らせたが、後のトラブルを回避するためにこれだけは宣言しておく必要がある。
「その約束で俺が動くのは一回だけだからな」
それを聞いた暗はやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。
「僕は使える弱みは何度でも使いまわすタイプだ。だけど今回ばかりはそうもいかないのさ。なぜならこれを頼むことによって、君も僕の弱みを握ることになるからさ。この件が片付けば、僕と君は対等だ」
「つまりこき使われるのは今回限りってことだな」
「ザッツライト」
暗はそう承諾したが、口約束だけだと心もとない。
俺はポケットからライホを取り出し、ビデオアプリを起動させる。そしてカメラをヤツに向けた。
「さ、もう一回言ってくれ。俺が約束の件でこき使われるのは今回が最後だよな?」
暗は呆れた表情をしつつもうなずいた。
「ああ、そうだよ。……七色、そんなに疑り深いから友達ができないんじゃないかい?」
「うっせー、余計なお世話だ」
暗が続きは誰にも話を聞かれないところで、と言ったので場所を俺の部屋に移した。登校時間までまだ余裕があったし、やっておきたいことがあったからだ。
「さて、さっそく密会を始めたいわけだけど……」
無駄にものものしく暗は言った。
「おー、いいぞ」
「せめてこっちに顔を向けてくれないかい?」
俺はヤツに背を向けてブラウザゲームをしていた。
「ちょっと待ってくれ、編成を変えたら流すから」
流す、というのは俺専用のゲーム用語のことだ。俺のやっているゲームは敵を倒してアイテムをゲットする、シンプルなRPG。だがこのゲームは普通のものとは少し違う。バトル中に何の操作をしなくとも、勝手に進行していく。そのため、別の作業をしながらでもプレイできるのだ。これを俺は流すと呼んでいる。
「七色、そんなほとんど何もしないゲームをしていて楽しいのかい?」
俺がコンピューターを背に暗の方へ向くと、ヤツの呆れた表情が見えた。ちなみに俺の背後では自分のキャラとNPCが勝手に戦っている。
「まぁ、作業用BGMだと思えば。それにこのゲームは定期的にストーリーが追加されるから、それを見るのは楽しいし」
「キャント・アンダースタンド。理解できないよ……」
「それにキャラが可愛いし」
「へぇ。ちょっと見せてよ」
興味を持ったらしい暗が、俺をのけて画面をのぞき込む。
「おおー、エクセレントな裸! イッツ・ワンダフォー‼」
「お、おいちょっとどけ!」
裸という単語に反応して俺はコンピューターに飛びつく。
別に女の子の裸を見たかったわけじゃない。むしろこのゲームでは女の子の裸は見たくない。
「うおおおぉぉぉッ、全滅してやがるううううううッ!」
「急に大きな声を出さないでくれたまえ……。一体どうしたんだい?」
俺は自嘲気味に笑って言った。
「何でもないさ……。ただ、目算が外れていた。それだけのことさ」
暗はなんのこっちゃと言わんばかりに首をかしげた。まぁ、この気持ちは経験したヤツにしか分かるまい……。
「……暗、始めてくれ」
「わ、分かったよ。まず、最初に話しておくことがある。僕はカゴコーの裏側を支配する八つの組織ことシークレットエイトの一つ、アール・オブ・ザ・トランサンダンスに入った」
俺はあくびを返事として返した。まったく理解できずに退屈っす、というメッセージだ。
「……簡略化すると、秘密組織に入ったってこと」
「ああ、なるほど。で、その組織名がアール・オブ・ザ・トランクスってわけだ」
それを聞いた暗は額に青筋を浮かべてブチ切れた。
「トランクスじゃなくてトランサンダンス! 日本で言うと超越って意味‼」
「別にどうだっていいだろ。で、そのトランスって何をするところなんだ?」
「略さないでくれたまえ! 組織名アール・オブ・ザ・トランサンダンス、和訳すると超越のRっていうんだ。カッコイイだろう?」
「わー、かっこいー」
「……超棒読みだね」
これでも感動したように聞こえる努力したんだがな。
「で、テメェらの組織は何を超越するってんだ?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくれた!」
暗は奇妙なダンスを踊り、最後にエチケット袋必須の決めポーズを取った。格好つけているつもりなんだろうか……。
「Rとはレーティングのことを指す。つまり……」
再びダンスもどきが始まる。イラッとした俺は先回りして答えを当てることにした。
「チェスでも始めるのか?」
ダンスもどきを邪魔された暗は不機嫌そうに言った。
「違う」
「じゃあ、どこぞの大会に何かで出場するとか」
「まるっきり的外れの大外れ」
「じゃあじゃあ、……レーティング、つまり序列を超越するってことだ。まさか、学校の教師たちを超える、つまり乗っ取りをするつもりか⁉」
「ちっっっがああああああうッ! そんな危ない橋を渡るもんか‼」
「じゃあ何をするつもりだ。簡潔明瞭にお答えくださいな」
「簡単なことさ」
ヤツは俺のコンピューターのスクリーンを指さした。さっきのほぼ裸の女の子が映っていた。ちなみのこのゲームは全年齢対象である。……ってまさか⁉
「気づいたようだね」
暗はにやりとした笑みを浮かべ、高らかに叫んだ。
「Rとはレーティング! そして目指すは十八‼ 俺たちの至上目的は、女子の裸をこの手に入れることさっ‼」
俺はライホを取り出して電話を掛けた。
「あ、もしもし。警察署ですか?」
「な、何をしているんだ!」
ヤツは俺のライホを取り上げた。相変わらずの早業で、俺には反応することもできなかった。
「返せよ、犯罪者! 俺には善良な一般市民として果たすべき義務があるッ‼」
「黙りたまえ、偽善者! 君だって女子の裸、見たいだろうッ‼」
……昨日、すでに見てるんだよなー……。
「え? 何でそこで無言なわけ? 見たいよね、女子の裸?」
「あー、まー」
「うわっ、微妙な反応。……もしかして七色、男の方に興味があるとか言い出さないよね?」
暗は嘔吐のポーズをとって後ずさった。
「んなわけねーだろッ! 男の裸なんざ金くれたって見たくねーわッ‼」
俺はヤツのひっぱ叩いて怒鳴った。BLに関しては一切興味ない、ノーマルな男子なのだ。
「そうかそうか、安心したよ。じゃあ女子の裸には興味があるんだよね?」
「興味はあるが、犯罪行為をしてまで見たいとは思わない」
俺は犯罪者(予定)にきっぱりと告げてやった。
「違う違う、僕たちはそんな集団なんかじゃない。女の子を密室に閉じ込めてエッチぃことをしようなんてこれっぽちも考えていない、由緒正しい秘密組織なのさ」
「うさんくせー。っていうかいい加減、何をする組織なのか教えやがれ」
「ふっふっふ、ついに語る時が来たようだね……」
ヤツは懐に手を入れ、何枚かの写真を取り出した。
「こっ、これはッッッ⁉」
驚愕のせいで声が裏返ってしまった。しかし世界中の男子皆、これを見たら同じ反応をするだろう。
「やはり君も男子の端くれだね。そう、これこそ我が属する組織の歴史の結晶! その名も、PANCIRAフォトだアアアアアアァァァァァァッッッ‼」
空が晴れ渡っているにもかかわらず、一閃の稲妻を見た気がした。いや、落ちたのだ。この写真の一枚一枚に、それに勝れども劣らない衝撃が込められていた。
「……認めよう。テメーの組織が高尚であることを」
「ふっ、君なら理解してくれると信じていたよ」
がちりとぶつけ合う拳と拳。今、俺と暗は男の友情を確かに交わした。
「七色、お前に頼みたいことがある」
「ああ、何でも言ってくれ」
暗は悪代官のように黒い笑みを浮かべて、口を開いた。
「一緒に、花園へ飛び込んでくれ」
ヤツの願いは、女子更衣室にともに忍び込み、一枚でも多く室内の女子を写真に収めることだった。
「言うまでもなく、僕は組織では新参者だ。しかし僕は一刻も早く、成果を上げてトップに上り詰めたいんだ。そうすれば、望んだパンツやブラのフォトをこの手に収めることができるからね」
暗はどこか遠くを眺めるように己の夢を語った。きっとその先には無数のパンツやブラがあるのだろう。
「今回のミッションはその足掛かりさ。自分の信ずる絶景を手にミューティングへ臨め。ま、多くのメンバーはありきたりのパンチラ写真が限界だろう。だが僕は違う。組織の至高目的、それは最高の一枚をこの目に焼き付け、それを永遠に残すことッ! そのためならばこの身を谷底にだって投げ捨てる覚悟さ。だから今回、狙うはパンモロ&ブラモロ! それも一つじゃない、無数に広がるまさに花園……、いや、満天の星空をこの手に収めるッ‼」
俺は暗が語り終えると同時に、自然と拍手をしていた。涙が止まらなかった。彼の熱い熱弁には、隠されることなく己の欲望が込められていたのだ。これを聞いて泣かずにいれる男子は世界中のどこを探してもいないだろう。
「七色、これを見てくれ」
俺は涙をぬぐって渡された紙を見た。それは女子更衣室の上面図だった。場所は中央校舎二階東F地点と記されていた。
「作戦は簡単だ。このバツ印の付いたロッカーに忍び、室内の様子を撮影する」
「バツ印の意味は?」
「ターゲットの二年A組の欠席者が普段使用している、ということ。おそらくこの中ならよほど大きな音を出さない限り、気付かれることはないはずさ。念のために言っておくけど、撮影の時にフラッシュを焚くなんてバカなことはしないでくれよ」
「俺もそこまで間抜けじゃないさ」
暗は一枚の写真を机の上において、先を続けた。
「今回の最重要ターゲットは二年A組出席番号七番、清原夏世。体系こそ小柄だけど、彼女の持つ胸は校内一、二を争う上物さ」
写真にはショートヘアの子供っぽい女子が写っていた。
「ロリ巨乳か……、二次元だったら最高だな」
ぽろっと零した言葉に、ヤツは苦笑いした。
「七色……。君は一度生の女子の裸を見て、その腐った煩悩を洗い流すといいよ」
生の裸を見てからの発言だったんだけどな……。それに俺だって、三次元に無関心ってわけじゃねーし。
「やれやれ、君のオタク趣味も理解できないわけではないが……。ま、その話はまた今度にしよう。とりあえず、これが二年A組の生徒の顔写真付きのクラス名簿だ。清原夏世のところは必ずチェックしといてくれよ」
俺は渡された資料に目を通していった。つーかこんなもの、どこで手に入れたんだか……。
「……ん?」
「どうしたんだい?」
「あ、いや……。何でもない」
ある一か所から目を離せなくなった。その顔はごく最近、間近で見たものだった。
出席番号八番、……湖水波紋。