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間章一

 夜の闇を朝日が振り払う。

 空一面が一切の濁りの無い青色に染まった。

 爽快な朝は、あらゆるものを新鮮に見せる。

 それは人々から忘れられた、木造の旧校舎も例外ではない。一時だけ朝日という、真っ白なペンキに外装を塗り替えられ、新築の頃の雰囲気をわずかに漂わせる。

 このような日は狭く苦しい室内に籠もっているより、外に出て空を仰ぎたいと思うのが人情だろう。

 だがこの青空を背に、木造校舎に誰かが入っていく。

 自ら光を捨て、闇の世界へと――


 旧校舎の中は薄暗い。ほのかに入る日光は、ただ薄暗さを際立てる。

 宙を漂う埃。クモの巣が隙間風に揺れる。家鳴りと風の音が、不気味に響く。

 生活臭が無い、人気が無い。

 その閑散とした空間に、さっきの人影が入ってきた。

 彼女の姿が寂光に包まれる。

 髪が長く、風変わりな巫女服を着た少女。湖水波紋だった。

 波紋が廊下に現れると同時に、埃が雪になった。

 その描写が茶化しにならないほど、彼女は周囲を絵画へと様変わりさせた。

 要因は一目瞭然だろう。波紋の佇まいが、とても美しかったからだ。

 動作の一つ一つが洗練されており、まるで廊下が雅な屋敷になってしまったのではないかと錯覚してしまう。

 大和撫子。彼女に似合う単語を挙げるとすれば、まさしくそれだろう。

 その存在はすでに絶えたと多くの者が思っているかもしれない。

 しかし二十一世紀の今でもなお実在すると、彼女の容姿が雄弁に証明していた。

 波紋は廊下の突当りで立ち止まった。

 正面には何もない。右側の窓には青空。

そして左。そこには一枚の扉があった。波紋はその扉を静かに開く。扉を一枚隔てた空間は薄暗い廊下よりもさらに暗い、田舎の夜空から星々を奪い去ったような闇が広がっていた。

 彼女は迷うことなく、そこへ足を踏み入れる。

 黒髪が墨汁に染まったかのごとく、光が完全に失われた。


 そこは古びた厠だった。

 どう見てもトイレという外来語は似合わない、木造の厠。

 扉は板でできており、中で用を足すときはそれを背にする。

 木目というのは暗い所で見ると不気味で、昼間でさえ薄暗いここでは不気味以外の何物でもない。見る人が見ればそれは人の顔のようで、また見る人が見れば虫にもなるだろう。

 ゆえにこの厠に入るということは、背に恐怖を感じることと同じ。夜に利用するのは、誰であっても気が進まないだろう。

 足音が静かになった。床の軋みがすっかり消え去ったのだ。そのことから、この空間がさっきの廊下と違い、新品同様であることが分かる。

 不可解な話だ。誰も利用することのない旧校舎。そして唯一の利用者である波紋の、唯一利用する生徒会室から最も離れた一階の女子トイレ。そこがなぜ、いつも利用できるように保たれているのか……。

 クモの巣も見当たらず、ここの部屋だけは最近も清掃されていることが分かる。

 カツカツとリズミカルな足音がぴたりと止む。

 そこは入り口から数えて三つ目の個室の前だった。

 波紋は拳を軽く握り、扉を叩いた。

 コン、コン、コン――

「花子さん、遊びましょう」

 波紋は明るく、誰もいないはずの個室へ呼びかける。

 しかし扉はゆっくりと、ひとりでに開いた。

 波紋のノックしたドアは、入り口から三つ目の個室のもの。

 そして彼女の唱えた言葉。

 それらを結びつければ、目の前で起こっている事実との因果関係を導き出すことは難しくはないだろう。

 そう、その真相は日本で最も著名な怪談。学校の七不思議のひとつ、トイレの花子さん。

 個室の中には、一人の眼鏡をかけた少女がいた。

 言うまでもなく、この根暗そうな少女が花子だ。

 彼女の脚は膝の下から消えている。よく人々が想像する幽霊のようだ。

 紺を基調に白いラインの入った、古めかしいセーラー服を着ている。スカーフはワインのような赤色だった。

 背は高く、細身だ。針金でできた人形みたいだが、大きなメロン、あるいはスイカか、とにかく大きな果実を二つお持ちだった。一言でまとまるとスタイルがいい、だろう。

 度の強そうな眼鏡をかけており、その中の瞳にはまるで生気が無かった。淀んだ沼のようだ。

 頬は病人のようにこけて、青白かった。それらのせいだろう。顔立ちはいいのに、見た目の印象はあまりよくない。死者そのもの、という感じだ。

 長い髪は根元から二つにまとめられている。ツインテールだ。しかしその快活な髪形は似合わず、むしろ対照的な彼女の暗澹とした空気を強めていた。

 花子は虚空を見ているような眼を波紋に向け、口を開いた。

「……あなた、誰?」

「私は今日から先代に代わり、あなた方の主人となりました。湖水波紋と申します。これからも先代と変わらぬお付き合いをどうぞ、よろしくお願いいたします」

 波紋は花子とは対照的な、愛想のいい笑顔を浮かべて語り、丁寧にお辞儀をした。

 沈黙。それが彼女たちの間で流れた。

 花子が何も返さず、会話が途切れたためだ。

 彼女たちの間の沈黙は、長く、重かった。

 しかしその沈黙は、小さな笑い声で破られた。

「くすくす、くすくすくすくす……」

 囁きのような笑い声は、次第に大きくなっていく。

 それをバックに花子はため息をついた。

「……何がおかしいの?」

 波紋が顔を上げた。彼女の口は三日月のような笑みを浮かべていた。

「失敬。七不思議序列第二位の花子様に対する、事前に抱いていた印象とあなたが、あまりに大きく異なっていたものですから、つい……。くすくすくすくす」

「……そう。序列、第二位。それさえお情けでもらったものと言っても、相違無いけれど」

「ご謙遜を。霊でありながらも、人々を凌ぐ力を持つあなたに相応しい位であると、私は思いますよ。くすくすくすくす」

「そうね。毎年、最初は圧倒的な勝利を収める。しかし後半にはパートナーに恐れられ、裏切られる。一度だって、頂点に立つことは許されない。そして付いたあざなが……」

「永遠の二番手……。くすくす、くっ……あっはっはっはっ、アヒャヒャヒャ!」

 とうとう波紋は堰を切ったように、どっと哄笑をあふれさせた。空間を満たすかのごとく、笑い声が響く。花子はただ無感情な眼差しを少女に向けていた。

「……戦いとは一切の情けを捨て、敵を打つこと。しかし人間は愚かしくも感情に騙されて、加減を戦場に持ち込む。それは劣勢の種となり、敗北の実を結ぶ。……心組みが甘い。人々の戦いに対する姿勢は勝利に対する冒涜」

「ひいては、私は悪くない……と?」

「そういうこと」

 波紋の目が鷹のもののように、すっと細まった。

「……本気でそんなこと、思っているの?」

「ええ」

 花子の表情は石像のように変わらない。そこには揺るがない信念のようなものがあった。

「へぇ、……そう」

 波紋はずっと笑みを浮かべ続けている。しかし伴われる感情は、秋空のごとく変わる。今は親しみを感じるような、柔らかな笑みを見せていた。

「そうですね、人間ってバカですよね。手心を加えた戦術や攻撃なんて、何の意味も持たない。意味を持たないということは、その存在が無価値であることを証明している。そしてそういうゴミは排除すべきである、と」

 そこで一度言葉を切って波紋は花子をにらみつけた。

「だけどあなただって、人間だったんでしょう?」

 重苦しい沈黙が彼女たちの間を流れた。やがて花子はぽつりとつぶやいた。

「昔の話よ。今の私は陰。人間だった頃の心なんて、忘れたわ」

「……分かりました。最後に一つ、教えてください」

 波紋は花子を鏡で映したような無表情になって、花子に問う。

「陰だったら、人を殺してもいいんですか?」

 どこかで古臭い壁から入る、隙間風の音が聞こえた。それはヘタクソな奏者がリコーダーを吹いているような音だった。

「人を殺してはいけないというのは、ただ法律で禁止されているからというだけのこと」

 直接的な回答ではなかったが、波紋にはもうこれ以上話す必要は無かった。

「そうですか。なら、」

 波紋は見る者をゾッとさせるような笑みを浮かべて、右手を突き出した。

「なら、人ではない陰を殺しても、法律で罰せられないから、何をしてもいいということですよね?」

 花子は波紋の問いに何の反応も見せず、ただぼんやりとした様子で突き出された右手を見ていた。

「そう。じゃあ、遠慮なくやらせてもらうわ」

 波紋は花子の首を絞めるように、右手を締めるように拳を握り、呪文を唱えた。

「人が人に罰を与えられぬなら、せめてそれを知らしめることを許したまえ。天より現れよ、断罪の象徴たる預言の糸」

 花子の眼前に、蛇のような影が下りてきた。もちろん、その正体は蛇ではない。

「ッ⁉」

 花子の首を強い圧迫感が襲った。そしてそのまま、花子の体が宙に吊り上げられる。表面のざらざらとした感触、固く頑丈で細長いもの。……花子の首を絞めたのは、縄だった。

「くすくすくすくす! ねぇ、どんな気分? 自分の呪術で自分の首を締め上げられるのは」

「……そう、ね。とっても……懐かしいわ」

 花子の言葉を聞いて、波紋はにったりと不気味な笑みを浮かべた。

「そうでしょう。あなたは自分の死因が呪術になったのだしね」

「う、く、ああ……」

 もう波紋が何もせずとも、花子の首はぎゅうぎゅうと絞まっていく。表情にもう余裕は無く、ただ苦しみから逃れようと必死にもがいていた。しかしもがけばもがくほどさらにきつく縄は首を締め、抵抗する力を奪っていく。

「くすくす、可愛い声で鳴いちゃって。もう少しあなたのその姿を見ていたいけれど、時間も無くなってきたし……。そろそろ終わりにしましょうか」

 波紋は再び右手を上げて、ゆっくりと、噛みしめるように、言葉を紡ぎ出す。

「赤色の紙、青色の紙、黄色の紙。あなたはどれがいい?」

 学校の怪談では定番の文句。セオリー通りなら、選択は問われた者に委ねられる。

「き……いろ」

しかし波紋の問いは形式的なものである。

「そう、黄色がいいの」

 つまり花子の答えは、波紋の行うことに何ら影響も及ぼさない。

「でもね、あなたに黄色は似合わない。あなたには深紅の血のような赤こそがふさわしいわ! くすくす、アハハハハハハ!」

 赤。その言葉がトイレに響いた途端に、彼女の体から皮という皮が、風船のように破裂した。個室にどす黒い鮮血が飛び散り、三面の壁をべたべたと赤黒く塗りつぶす。そしてゆっくりと床に、黒い血だまりが広がった。

 花子であった肉塊はロープに首を切断され、べちゃべちゃと床に落下した。

 返り血、と言うべきだろうか。波紋も体中に血しぶきを浴び、特に突き出していた右手は、まるで赤い手袋をしているかのようになった。

 波紋は放心したような顔になって、その光景を見ていた。

 天井からしたたる黒い雫が血だまりに落ちると、ぴちょんといやに大きな音が響いた。

 ドアを開け放したまま、波紋は個室に入った。

 彼女は肉塊を抱いて、撫でながら呪文を唱えた。

「湖水に宿りし聖霊よ、彼の者の傷を癒したまえ」

 白い小さな、泡のような光玉に肉塊は包まれる。それがすべて消える頃には、肉塊は花子の姿に戻っていた。

 波紋に抱かれた彼女は眠っているかのように目を閉じていた。付けていた眼鏡は無く、髪は何にも縛られず、血だまりの上を自由気ままに毛先が広がっていた。

 波紋は花子の体を強く抱きしめ、うわごとのように同じ言葉を繰り返した。

「ごめんね、ごめんね……」

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