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一章 その3


 最初、俺は意味が分からなかった。

 うっすらと開けた目の前の景色が、ぐらぐらと揺れているのだ。

 地震かと思った。プレート境界付近に存在する島国である日本なら、珍しくもない。

 しかしすぐに、それは違うと気が付いた。揺れているのが俺の頭だけだったからだ。それに何らかの圧力も感じる。

 つーか痛い。マジで痛い。まるで固い何かで踏みつけられているような……。

「ほら、いい加減起きなさいよ。この寝坊助のブタ」

 ……って、マジで踏みつけられてる⁉

「やめんかああああああっ!」

 俺はがばっと起き上がった。

「急に起き上がらないでくれる? びっくりするじゃない」

 少女は変哲な巫女服を着ていた。白い小袖はノースリーブ。真っ赤な袴はミニスカートのように短い。太ももまで覆うタビに覆われた足は、赤い鼻緒の下駄を履いている。

 奇妙奇天烈な格好だが、少女の神聖さを欠くことはなく、むしろ彼女の威厳を助長させているように見えた。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。目下の問題は俺の後頭部にできたコブと激痛。そしてヒリヒリと痛む頬だ。そしてその原因は、少女の赤く腫れた手と下駄を見れば明らかだった。

「おい、そこのヘンテコ巫女! 神に仕えるヤツが何の罪もない一般人にこんなことしていいと思ってんのか、ああん⁉」

 それを聞いた少女は、眉を吊り上げて逆ギレした。

「はぁ? 罪が無いですって? 笑わせないでくれる、うら若き乙女に襲い掛かっておいて!」

「おい、待てやコラ。テメー自らそうするように仕向けてきたんだろうが! つーか、うら若き乙女がその気もねーのに男に裸を見せんじゃねーよ‼」

「黙りなさいブタ、この私を誰だと思っているの? 日ノ本大学籠目学校理事長の娘、湖水波紋こすい はもんよ‼」

「知らねーよ、そんなこと! 俺の前で裸になった女は皆、俺のもんだっっっ‼」

「相手が幼少の少女でも老婆でも関係ないってこと⁉ ……節操ないわね、あなた」

 なぜか勝手にドン引きされた。青ざめた顔はその様子がフリではなく、マジだと語っている。俺は自分の明るい未来のために、不名誉な言いがかりを全力で否定した。

「んなわけあるか! 俺の守備範囲はそんなに広くねぇ‼ ババァの裸なんざ見たら吐くわ‼」

「だったら幼女はオッケーなのね?」

「二次元のロリっ子ならな」

 ますます少女にドン引きされた。って、何やってんだ俺は⁉ 初対面の女に自分の性癖を語るなんざ、正気の沙汰じゃねえッ‼

「何よ、急に頭を抱えて」

「放っといてくれ。俺は今、人生最大の自己嫌悪と戦っているんだ……」

 少女は小さくため息をついて、俺の頭を撫でた。

「さっきのことは謝るから、いい加減こっちの世界に戻ってきてくれる?」

「謝るなら最初からやるなよ」

「自己防衛のためだったんだから、仕方ないじゃない」

「その後の踏んづけについては?」

「ちょうど手頃な所に豚の頭があるのがいけないのよ」

「やっぱり謝る気ねーだろ、テメー」

 彼女は口元に三日月のような笑みを浮かべて言った。

「テメーじゃなくて、波紋よ。光雨」


 俺たちは生徒会室にあったソファに向かい合う形で座っていた。

「改めて自己紹介するわ。私の名前は湖水波紋。日ノ本大学籠目学校理事長の娘であり、生徒会長よ」

「へー、生徒会長だったのか」

「……あなた、入学式に出席してた?」

 波紋がジトッとした目で訊ねてきた。

「ああ。だが、俺には戦いという宿命に出会っちまったのさ」

「睡魔と?」

 俺は洋画に出てくるダンディのように肩をすくめた。

「魔王とさ」

「起きてすらいなかったのね……」

 彼女はやれやれと肩をすくめた。

「そして無事、姫の救出に成功し、世界に平和が訪れたのさ。そして俺は姫と愛の誓いを……」

「姫の年齢は?」

「十二歳」

 俺は条件反射で答えていた。

 それを聞いた波紋は、吐き捨てるように言った。

「くたばれ、ブタ」

 だから俺ってやつはああああああぁぁぁぁぁぁッ⁉

「で、あなたの名前はヘンタイブタね」

「違う、七色光雨だッ! つーか、さっき普通に呼んでたよな⁉」

「さぁ、どうだったかしら。というかもうどうでもいいわよ、あなたの名前なんて」

 ずいぶんなお嬢様気質だった。俺が言うのもなんだが、きっとこいつは友達がいないに違いない。

「それで、何で俺をこんな所に呼び出したんだ? つーか、さっきの芸は何なんだ? あと、お前はサディストだ」

「質問は一度に一つにしてちょうだい。それと何で最後だけ断定形なのよ……」

「いや、最後のはどう考えても事実だろ。一応、本人の口からイエスの返事を聞いてみようと思っただけだ」

「そんなわけないでしょう。私はいたってノーマル、普通の人間よ」

 嘘だ。だがこれ以上追及しても話が進まないので、俺は大人の対応で波紋に同意する。

「ああ、そうだな。お前の性癖は普通だ、うんうん」

「一番むかつく反応ね……。まぁ、どうでもいいわ。私をサディストだと思うなら、今度から私専用の玄関マットになって頂戴ね」

「断る。俺はMではないからな」

「あら、さっきはあんなに喜んでいたじゃない」

 その言葉に怒りを覚え、思わず立ち上がって叫んだ。

「どう見たら喜んでいるように見えんだよ⁉」

「普通の目であなたを見て、普通の耳であなたの声を聴いて、普通に事実を受け止めただけよ」

 茶化すような波紋の態度に俺はイラッとし、ヤツに聞こえるように舌打ちしてやった。

「ウザイ。お前、超ウザイ」

「くすくす、褒め言葉として受け取っておくわ」

 ひとしきり笑い終えると、波紋は居住まいを正した。どうやら、ようやく本題に入るようだ。

「さて、そろそろあなたをここに呼んだ理由を話すわ。それにはまず、さっきの芸について話す必要があるわね」

 彼女は立ち上がり、どっしりとした作りの机の引き出しから赤いグリップのカッターを取り出した。

「手を出して」

「何をするつもりだ、サディスト」

「あなたの手首を切るのよ」

「へー……?」

 あまりにもさらっと言われたため、一瞬流してしまいそうになった。しかしすぐにその重大さに気付き、俺はあらん限りの力を込めて叫んだ。

「殺すつもりか⁉」

「さっきの見たでしょう。大丈夫よ、傷はすぐに直してあげる」

「それはもう理解してる。だから話を進めてくれ」

 たとえ大事には至らないとしても、痛みを感じるのは嫌だからな……。

「ダメよ。それじゃあ、あなたの肉を切ることができないじゃない」

「なぁ、そろそろ呼び名をサディストからヤンちゃんに変えてもいいか?」

 無論、ヤンちゃんとはヤンデレの事だ。

「私、別に病んでないわよ?」

 俺は盛大なため息をついてやった。波紋はそれを気にすることなく、先を続けた。

「それに、見ただけじゃ実感もわかないでしょう。人間の脳ってね、見たままを焼き付けてるわけじゃないのよ。物体に当たった光を目で処理し、脳で理解できるものに作り替えて、ようやく見るに至るの。現実をそのままの形で理解する気なんか無いのよ」

「遠回しだな。もっとズバリと言えよ、見せるだけなら細工を仕込めば済む、とかよ」

「分かっているのなら、早く机の上に手を置きなさい。自分で実感して、ようやく世界は我がものとなるのよ」

 俺は渋々、波紋に右手を差し出した。

「ふーん、見た目は頼りなさそうだけど、やっぱり男なのね」

 彼女は興味津々といった感じで、俺の手を眺めた。

「男の手なんて、学校でもう見飽きてるだろ」

「あのね、敵に手の内を見せるバカは、うちの学校にはいないのよ。あなた以外はね」

 意味不明な言葉だった。だが彼女の浮かべた表情があまりにも悲しげに見えて、どうしても茶化す気にはなれなかった。

「どうしたの、急に黙り込んで?」

「残念ながら俺は、マウスをクリックすれば返事をしてくれる美少女みたいに親切じゃねーんだよ。答えにきゅうすれば聞き流しもするし、無視もするってーの」

 その瞬間、波紋の穏やかな表情ががらりと変わった。彼女に見られたヤツをすべて凍てつかせるような、冷血な顔に。

「答えなさい。あなたはどうして返事に詰まったの?」

 今度も無視をしようと思った。軽率に言葉を返せる空気じゃなかったからだ。しかし彼女の目に宿った暗い炎がそれを許さない。なんとしても本音を口から引き出す、そんな力が瞳から発せられていた。

「言葉の意味が分からなかった、ただそれだけだ」

 それを聞くと、彼女の表情がふっと和らいだ。

 俺はほっと息をつく。背筋は冷や汗でベタベタとしていた。

「……そうよね、あなたは何も知らないはずよね」

「さっきから何を言ってるんだが、俺にはさっぱりだ。そろそろ詳しく説明を――っ⁉」

 焼けるような熱が右手首に走る。全身から冷たい汗がどっと吹き出し、逆に体の内は業火のような血が駆け巡る。そして腕から落ちる血を見たとき、ようやく自分がカッターで切られたことを理解した。

「認めてあげる。あなたは何も知らない。私に何の抵抗もできない、無力なブタなのだから」

 冷たく光るカッターは紅に。垂れる雫は深紅の湖。そして俺の手首からはだらだらと流れる鮮血。痛みは紅蓮の炎。まるで、さっきの彼女と同じじゃないか。

 ムカついた。無性にイライラした。

「バカだろお前。どんな事情があるか知らねえけど、この痛さは正常な痛みじゃない。それを自ら求めるお前は、バカだ」

「そうね。これは人が味わうべき痛みじゃない。だけど、本当に正常じゃないのはこれよ」

 彼女はさっき唱えた呪文を再び呟き、俺の右手首を撫でた。傷は温かな光に包まれ、痛みはかゆみすら残さず引き、流れ出る血液も止まった。傷は跡形もなく消えていた。

「……嘘だろ?」

「なら、もう一度やってみる?」

「いや、いい」

 もう十分に分かったからだ、これは事実だと。波紋は紛れもない超能力者だ。

「さて、説明を続けるわね――」


 この世には陰というものがあるの。

 これは光によってできるものじゃないわ。

 陰とは超常現象や未確認生物のことよ。

 信じられないかもしれないけど、これは事実。

 現に私はこれまで、ユーマや神秘現象の類を腐るほど見てきた。

 陰は文字通り、陰から権力争いの道具として利用されている。政治組織や大企業があったら、十中八九その裏に陰による働きがあると考えて間違いないわね。それぐらい、陰による働きは世界に大きな影響を及ぼしているの。

 私たちの家も、先祖代々から陰を利用して社会的地位を築いてきた。

 陰の力を得るには、彼等と契約を結ぶ必要があるの。

 そうすることで私たちは、陰の持つ力を呪術として使うことができるようになるの。

 私の家は八つの陰と契約を交わしているわ。

 一つ目は癒しの湖。触れた傷を治してしまう、超常現象。

 二つ目は一段だけ多い階段。文字通り、深夜に一段増える階段の怪談。

 三つ目はベートーベンの目。宵の深い時刻、肖像画の目が光るという怪談。

 四つ目は踊る骨格標本。言うまでもなく、骸骨が夜に踊る怪談。

 五つ目はプールの底から延びる手。足首をつかまれて、溺れ死んでしまう怪談。

 六つ目は正夢のベッド。保健室のベッドで見た夢は、すべて現実で起きるという怪談。

 七つ目は呪われたピアノ。ひとりでに鳴りだしたり、人食いだったりする怪談。

 八つ目はトイレの花子さん。日本人なら誰もが知っている、有名な怪談よね。

 気付いたと思うけど、一つ目以外は怪談というだけでなく、とある共通点があるの。

 そう、二つ目から八つ目は、学校の七不思議。

 私の家はもともと、癒しの湖とだけ契約していた。

 けれど戦後すぐに、何らかの事情で七不思議との契約を結ぶに至ったらしいわ。私の生まれる前のことで、誰も教えてくれなかったから、何があったかは知らないけれど。

 そうしてこれまで大した地位がなかった私の家は、飛ぶ鳥を落とす勢いで権力を得たの。


「陰か……。にわかには信じがたいが、事実なんだろうな」

「とりあえず、ここらへんで一休み入れましょう。頭の休憩も必要でしょうし」

 ひとしきり話し終えると、波紋は傍らに置いてあった風呂敷を開けた。中にはバスケットが入っていた。

「なぁ、風呂敷に入れる必要あんのか?」

「いいじゃない、別に」

 バスケットからはサンドウィッチと小さな魔法瓶。

 波紋は棚にしまっていたティーセットを持ってきて、魔法瓶からカップへとぽとぽと注ぐ。色と香りから紅茶だと分かった。銘柄は全く分からないが。

「砂糖とミルクは?」

「たっぷり」

「子供ね……」

「俺は永遠のキッズだぜ」

 彼女は呆れた顔をしながらも、赤い水面に砂糖とミルクを入れて俺に渡してくれた。

「なぁ、ミルクティーってミルクの方を先に入れるんじゃなかったか?」

「人に入れてもらって、お礼じゃなくて文句を言うの?」

「ああ、ありがとう」

 入れてもらった紅茶を一口。味はもちろん、漂う香りが俺を楽しませてくれる。結局、銘柄は分からなかったが。あとは冷めてからいただこう。俺は猫舌なのだ。

 小腹がすいていたのでサンドウィッチも一つもらう。パンの間には卵が挟まれている。一口食べると、ふわりとした優しい甘さが広がった。

「美味い」

「そう、よかった」

 そう言って朗らかに笑う彼女を見ていると、さっきまでのやり取りがまるで夢のように思えてきた。

「そういえばさっきから聞きたかったんだけど、その恰好って何だ?」

 まるでアニメやマンガに出てきそうな、ヘンテコな巫女服。どうせそれにも、何かしらの意味があるのだろう。

「籠目高校の敷地内に神社があるでしょう」

「ああ、そういえばあるな」

「私はそこの巫女なのよ」

 カゴコーのあった場所はもともと湖だった。そこで奉られていた神様が、湖が埋められて学校が建てられた今、おわす場所が籠目神社だ。

 何だか人間の都合に振り回されていそうな神様だが、今なお多くの人が参拝に訪れるぐらい有名らしい。

 カゴコーにあった湖、籠目湖かごめこはいかなる傷をも癒すという伝説があり、それを神格化したのが籠目神社の神様、湖竜こりゅう

「……って、もしかしてお前、神様なのか?」

 いかなる傷も治すという伝説。そしてついさっき、目にした事実がぴったり一致する。しかし彼女は首を横に振った。

「いいえ、違うわ。私の使う奇跡も先祖と湖竜という陰が契約し、手に入れた力よ」

「湖竜……、竜か。とんでもないヤツと契約したな、お前の先祖。つーか超常現象とか未確認生物とか相手に、どうやって契約結ぶんだよ」

「さぁ? 私も実際に契約を見たことはないから分からないわ」

 波紋は紅茶に息を吹きかけつつ、首をかしげた。

「今までの説明で芸についてはよく分かった。それで、俺を呼び出した理由は?」

「その理由は今までの説明と大きく関わることよ。……あなたにお願いがあるの」

 彼女の眼差しは真剣そのもので、ふざけている様子は一片も無かった。だからなおさら不思議だった。初対面で無力な俺に、彼女のような異能力者が何を頼むというのだろう?

「守ってほしいの」

 波紋は机に手をついて、身を乗り出した。彼女の頬を月光が照らす。陶磁器のような白さが美しかった。しかしそれ以上に、黒真珠のような瞳に俺は吸い込まれた。

「私のことを守ってほしいの。誰でもない、あなたに」

 その瞳には一切の陰りも無く、ただ澄んだ光を放っていた。

「……初対面の、この俺に?」

「ええ」

 俺は信じられず、もう一度聞き返す。

「無力な、俺に?」

 もう彼女は何も言わず、ただうなずいた。

 俺は硬直していた体を動かし、肩をすくめた。

「……分からない。どう考えたってお前が誰かに護衛を頼む理由。それにその役を俺にしようと決めたきっかけ、動機もさっぱり思いつかない」

「きっかけはあなたの後ろにいる、彼女の情報提供よ」

 俺はその言葉に驚いて、後ろを振り返った。

 そこにはナイスバディな女性がいた。

 きっちりしたスーツは胸の部分がボインとふくらみ、しかし腰の部分が細い。足はすらりと伸び、露わになった腿はむっちりしている。

 顔はファッション雑誌に出てくるモデルのような美顔。きらりと光る眼鏡が知的に感じる。

 しかし髪型はお団子結び。その大人っぽさと子供じみたヘアスタイルのギャップがなんともいじらしい。

 そして俺には、彼女に見覚えがあった。

「舞空先生……」

「七色君、門限外の外出は禁止だぞ。なーんて、ね」

 この人を小バカにしたような話し方は、まさしく俺たちの担任、舞空九美まいぞらくみ先生のものだった。

「どうしてここに?」

「やだなー。君と一緒にここへ来たじゃない」

 一緒に? いや、俺は一人でここに来たはずだ。途中で白い狐に案内はされたが……。

「分かってないっぽいねー。なら~、これでどうだ! ぽん☆」

 舞空先生は両手で頭を押さえた。そして掛け声と同時に、手をうさぎの耳のように開いた。

 その下からは白い狐の耳が現れた。

「ふふふ、びっくりしたー?」

 いたずらっ子のように舞空先生は笑った。

「ど、どういうことだ……?」

「見た通りよ」

 戸惑う俺に波紋は言った。

「彼女は化け狐。陰の一つよ」

 灯台下暗しとはこのことか……。

「彼女が私に言ったの。彼はおすすめだって」

「おすすめ、ねぇ。俺のどんなところがお眼鏡にかなったんですか、先生?」

「アタシを化け狐と知って、まだ先生って呼んでくれるなんて、嬉しいわ~♪」

 舞空先生は両頬に手を当てて、腰をくねらせながら言った。痛々しい感じがして、見ているこっちが恥ずかしかった。

「まぁ、自分の担任が人であっても狐であっても、俺に害が無いならどうでもいいですし」

 高校の教師なんて一年か二年、多くて三年教室を共にするだけだ。あとはこちらが望まなければ、卒業後に顔を合わせることなんて無い。期限付きの関係だ。

「どんなところがお眼鏡にかなったか、だっけ。えっとー、あなたが人付き合いの悪そうなことと、馬鹿正直な性格。あと陰と無縁なとこね」

 舞空先生が指折り数えて言う条件が増える度に、俺の首は十五度ずつかたむいていった。

「まぁ、そんな顔をするわよね。でもそれは私が狐にオーダーしたことなの。こういう人を探してくれってね」

「はっきり言って、どれも意味不明な条件なんだが」

「怖かったのよ」

 彼女は窓の外に顔を向けた。さらりと揺れる髪が顔を隠す。俺からは月光に濡れた黒髪と、真っ白な頬だけしか見えなくなった。

「誰かに裏切られるのが、怖かったの」

 それっきり、彼女は口をつぐんでしまった。

 仕方がないので俺から質問してやることにする。

「で、お前は何で護衛が必要なんだ?」

 口を開かない波紋に代わって、舞空先生が勝手に話し始めた。

「ぶっちゃけて言うなら慣習、習わし。確かに波紋の家はかなりの権力を持っているけれど、実際に命を狙われたことはないんだよねー」

「へぇ。殺伐とした世界かと思えば、意外と平和的なんですね」

「甘いわね。ショートケーキに水あめをかけたような甘さだね」

 それはそれで美味いんじゃね、と思う俺は大の甘党だ。

「護衛っていうのは、存在するだけで回りからの攻撃を押さえる抑止力になりえるのだよー。アタシのようにね☆」

 舞空先生はいやーんとわざわざ口に出して、両こぶしを口元に当てた。相変わらず胃に悪いポーズだった。

「先生って波紋の護衛だったんですか?」

「ううん、アタシはただの居候だよ」

 そう言って先生はパチリとウィンクした。俺はもう痛々しいポーズに関してはノータッチで行こうと決めた。

「事情は分かってくれたかな?」

「まぁ、大雑把には」

 まだまだ疑問点はたんまり残っているが、別に知る必要もないだろう。

だって引き受ける気が無いのだから。

「で、帰り道が分からないんですが」

 こんな面倒なこと、引き受けるつもりなんてさらさらなかった。

 確かに波紋のような可愛い子と一緒にいられるのは、スゲー魅力的だ。だが、そんなことで命を危険にさらすなんてバカのやること。何よりブラウザゲームの一日ガチャを引くために、俺は一刻も早く帰らなければならなかった。こんな茶番に付き合っている暇はない。

「君は波紋の護衛を務めるつもりは無いんだね?」

「当然ですよ。それとも先生は生徒に、桜の花のごとく命を散らせとおっしゃるつもりですか?」

「おおう、いい例えだね。人の一生は桜のごとし。いつかは消える灯。今一度、一人の少女のために咲かせてみるのもいいと思うんだけどな」

 俺はやれやれとため息をついた。

「しつこい女は男に嫌われますよ」

「普通、逆じゃない?」

「俺の萌え論です」

「へ、何それ?」

 俺はいぶかしむ表情の舞空先生を見て、慌てて誤魔化した。

「いえいえ、こっちの話っす」

 いかん、いかん。今日は口のチャックが緩いな。

「とにかく、俺に対してのデメリットが大きすぎます。それに対するメリットも少ないですし。断るのは当然だと思いますけど」

「ふむ。ま、そう言うと思っていたよ」

 舞空先生は余裕ぶった笑みを浮かべて先を続けた。

「そこで交渉。もしも君が彼女の護衛人になることができたら、彼女が何でも望みを一つ叶えると言っているのさ」

「ちょっと待ってください」

「何かな?」

 何かなとはご挨拶だ。重要なことをさらっと流そうとして。

「まず、護衛人になることができたら、ってどういう意味ですか?」

「ああ、それについての説明を忘れていたよ」

 舞空先生はそこでいったん話を切って、残り少ないサンドウィッチを手に取った。

「うーん、美味しい☆」

 口を閉じて動かなければ、美人に見えるんだけどな……。

「波紋の護衛人の候補は、君の他に六人いるのだよ。その人たちは陰に扱うことにも慣れた、いわばプロ。人数が七人なのは、昔は交流のある七つの家に護衛を任せていたからだね」

「じゃあ話は簡単だ。そいつらに任せればいいじゃないですか」

「だけど波紋が、その人たちは嫌だっていうのさ」

 当の波紋は椅子の上で膝を抱いて、そこに顔をうずめていた。

「どうしてその六人じゃダメなんだ?」

「裏切られるかもしれないからよ」

 波紋はさっきまでとは打って変わって、つぶやくような声で言った。

「陰を使う一家は大抵、権力争いに夢中なの。私の護衛を務めようとするのも、そうすれば自分の家の知名度が高くなるからよ。私の家も結構有名だから」

 まぁ、籠目校って言えば知らない人はいないからな。そこを運営している湖水家の名前も有名なのだろう。表でも、裏でも。

「だけどもし、私の家よりも力のある人に、「裏切らないか」っていう誘いがあったらどうするかしら? その六人はどちらの味方をするかしら?」

 波紋の声は徐々にか細くなっていき、やがて嗚咽も混じるようになった。

「だけど私が自分で好きに護衛を選ぶわけにはいかないの。掟で、七人の候補者のうち六人を先代が、一人を次期継承者が選び、その中で最も力のある者を護衛人とする、って決まっているから。おそらく、これは後継者への一種の試練。トップに立つために必要な、人を見る目があるかどうかを試すための、ね」

 彼女の頭を舞空先生は優しく撫で、先を引き継いだ。

「まぁ、そういうことさ。だから波紋はそういうことに興味がなく、バカ正直で嘘の下手な人を探していたのさ」

 はぁ、なるほどね。

「……あれ? 条件に人付き合いの苦手な、っていうのもあったような気がしますけど……」

「ああ、それね」

 舞空先生は笑いをこらえるように肩を揺らした。

 そんな彼女を波紋はキッとにらんだ。

「ダメだから、それだけは言っちゃダメだから!」

 まるで駄々っ子のように彼女は繰り返す。

 スゲー気になる……。まぁ、今はぐっとこらえよう。

「おい、波紋」

「何よ」

「お前、本当に俺の望みを何でも叶えてくれるのか?」

 波紋は驚いたように顔を上げたが、すぐに膝に戻して、すねたように言った。

「なることができたら、ね」

「本当に何でもいいんだな?」

 俺は念のためにもう一度聞き直した。

「私にできることなら……」

 恥ずかしそうに頬を赤らめて、波紋は言った。いいねぇ、そのS心をくすぐる顔! 俺の食指がうねうねと動いちまうぜ‼

「そうかそうか、ならあんなことやこんなことも……」

 やべぇ、よだれが出そうだぜ! へっへっへ。

「あ、あんまりふしだらなお願いもダメだから!」

「何だよ、エッチは男子最大の活力なんだぜ」

「だ、だ、ダメ! 絶対にダメなんだから‼」

 彼女は食って掛からんという勢いで、俺に詰め寄ってきた。

「さっきまで裸を見せてたヤツの言うセリフか、それ」

「だ、だって今までの男の人って私の裸なんかに興味なかったんだもの」

「ふっふっふ、男は皆ケダモノ。腹の奥底では性欲を抱いていたはずだぜ。っていうかお前はその気も無いのに裸を見せんな。もしかして露出願望でもあるのか?」

「し、仕方ないじゃない! 毎日、一定量の傷を治すことが湖竜との契約内容なんだから……」

 ……は?

「お前……。もしかして腕、だけじゃない、のか……?」

 途切れがちな声で彼女に問いかける。否定してほしかった。しかし彼女はさも当然というように、こくりと頷いた。

「ええ、そうよ」

 そこに少しの疑問も、躊躇もなく。彼女は肯定した。

 俺は言葉を失った。

 治癒? 契約? 一定量の傷?

 どんな事情があるか分からない。だけど、だけど……。

「……たとえ何があっても、それが自分を傷つける理由になっていいはずねえだろうがッ‼」

 腹の中にあるすべてを吐き出すように叫ぶ。

 怒りが爆発したのだ。彼女にそうさせる何かと、それを何とも思わず実行している彼女に。

「痛い……、痛いわよ」

 無意識のうちに、波紋の肩を強くつかんでしまっていた。俺は慌てて彼女の肩を離す。

「わ、悪い」

「う、うん……」

 気まずい沈黙が流れ、それっきりどちらも口を開くことができなくなった。なんか体全体が、風呂上がりのように熱い。特に顔から熱と汗が半端なく出ていた……。

「うわー、青春だねー」

 ナイスだ、KYT(空気の読めないティーチャー)。舞空先生、あんたのおかげで気まずい空気が一瞬で白けたものへと変わったぜ。俺は朝食までこの感謝を忘れない。

「……そうだ。青春といえば、どうして呼び出しの手紙がラブレターだったんだ?」

 それを聞いた波紋は俺の胸ぐらをつかんだ。

「ちょ、それどういうことッ⁉」

 俺を食い殺す勢いの剣幕だった。その様子から、俺でなくてもあの恋文の犯人は見当がつくだろう。

「……で、どういうことなんですか? 舞空センセー?」

 彼女はペロッと舌を出して言った。

「だってー、普通に呼び出すより面白いじゃない☆」

 ブチッという何かが切れる音が波紋から聞こえた。

 その後、先生が波紋から長々とした説教を受けたのは言うまでもない。


「それで、あなたは私の護衛人になってくれるの?」

 ぷりぷりと不機嫌なオーラを出して波紋は言った。

 俺はやれやれと肩をすくめる。

 さっきまでの懇願するような感じで頼まれる方が好きなんだけどな。

 ちなみに舞空先生は生徒会室から追い出された。部屋の主の怒りを買ったんだ、当然の報いだろう。

「一つ、条件がある」

「何?」

「もう絶対に自傷行為はするな」

 彼女はぽかんと口を開け、そのまま固まってしまった。やがて小刻みに肩を揺らし、果ては思いっきり噴出した。

「いいわよ、あなたが護衛人になったらね」

「絶対だぞ」

 今、俺がどんな顔をしているのか、自分じゃ分からない。だが目の前の少女の顔が、自分の表情を教えてくれている気がした。

 波紋は神妙な面持ちでうなずいた。

「……ええ」

 彼女は立ち上がって俺の目前に立った。

「あなたに影を預けるわ。名前はトイレの花子」

 俺の額に彼女の手が添えられる。

「……別の子をあなたに与えられれば良かった」

「お前に選択権は無いのか?」

「掟によって、誰にどの陰を与えるかは先代によって決められるのよ」

「へぇ……。花子さんは弱いのか?」

 波紋は唇をかみしめ、拳を固く握って言った。

「いいえ。ただ、敵である。それだけよ」

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