一章 その2
狐の後を追うこと約十分、木々の開けた広場に旧校舎はあった。
「……ここが、呼び出しの場所か」
旧校舎は懐かしさの漂う木造建築物だった。
夜の闇に沈んだそれは、墨色の姿で俺を迎えた。
木製の壁はツタに覆われていて、窓はほとんどが割れている。その姿は忘れられた寂しさを十二分に伝えてくれた。
どこからか聞こえるフクロウの鳴き声が、忘却の哀愁を際立たせる。
狐も何か感じるものがあるのか、俺の隣でじっと旧校舎を見上げていた。
やがてどちらともなく、俺たちは歩き出す。
俺はおそるおそる、壊れたドアを開けた。思っていたより簡単に開いたので、拍子抜けした。
校内は僅かに月光が差し込んでいるものの、ほぼ完全な闇の世界だった。
ライホの懐中電灯アプリを起動させ、光線を至る所に向ける。
天井はクモの糸が張り巡らされている。光に照らされた糸は、白く煌めいた。まるで宝石を紡いだかのように、きれいだった。
床は埃に覆われ、割れた窓のガラス片が飛び散っていた。裸足で歩けば、たちどころに傷だらけになるだろう。その上、床は所々底ぬけている。気を付けて歩こう……。
光線が右手側の廊下の闇を貫いた時、光の輪の中に人影のようなものを見た気がした。俺は声をかけようとしたが、瞬きをした間に消えてしまった。……気のせいだろうか。
狐は周囲を窺うことなくさっさと歩き、正面に見える階段を上っていった。俺も慌てて後を追う。
転ばない様に足元を照らして歩いていると、埃の上に人間の足跡があることに気付く。形状から察するに、下駄のようなものだろう。行きの分しかないことから、奥に誰かがいることが察せられた。
どうやらここまで来たことは、徒労にならずに済みそうだ。
それにしても、何で山登りに下駄を選んだのだろう……。きついだろ、ここまで来るの。
階段を上りきると、狐は右に曲がった。足元を確認して、俺も続く。
そして一番奥の扉に来ると狐は立ち止まり、俺を見上げた。
入れ、そう言われている気がする。
教室のプレートには生徒会室と書いてある。ここに人々がいた頃は、学校のかじを切る生徒が集い、日々会議にいそしんでいた場所なのだろう。
汗でぬるぬるとした手を扉にかけた。何度か深く呼吸して、覚悟を決める。
俺は意を決し、一気に扉を開いた。
室内は旧校舎とは思えないぐらい、きれいに片づけられていた。
窓は新品同然で、床の上にはチリひとつない。一通りの調度品もそろっている。まるで今も利用されているようだ。
そして部屋には予想通り、一人の人間がいた。
俺と同い年ぐらいの少女。月光を受けた黒髪は長く、肌は雪原のように白い。
背を向けているが、おそらく美人だろうという予感がした。スタイルが抜群にいいからだ。
そう、スタイルを確認することができた。直で。
少女は俺に気付き、ゆっくりと振り返った。
この場から逃げようとしたが、もう遅い。ばっちりと目が合ってしまった。
彼女の表情は平常そのもの。子猫でも愛でているような、穏やかな顔。
格好は裸。俺が見ているにもかかわらず、隠そうともしない。羞恥心を持っていないのではないだろうか。
「あら、来たのね」
そよ風のように爽やかで、耳をくすぐる甘い声。思わず聞きほれてしまう。
しかしそんな悠長なことを言っていられる場合ではなかった。
「お、お前……」
俺は狼狽しながら指さす。人差し指の先にあるのは美しくも可愛らしい顔ではなく、哀れなほど小さな胸でもない。
真っ赤に染まり、絶えず真紅の雫を落とす――左手だ。
停止した思考を強引に動かし、この不可解な状況を理解しようと努める。
自信をもって見せつけるだけあって、きれいな肌だった。神々しいほどに白く、傷や黒子が一つも見当たらない。しかし彼女が完璧なまでに白いからこそ、その手から落ちる雫の赤さが際立った。
なぜ、血を流しているのか?
考えている場合ではないと、頭では分かっている。だけど体が動かなかった。血が怖いのではない。それを平然と流し続けている少女が、恐ろしい。
だから俺は、分かりきったことを口に出すことしかできなかった。
「ち、ち、血が、出てるぞ……」
何とも間抜けなセリフだが、それが俺に言える唯一の言葉だった。
「あら、本当ね」
少女は眉ひとつ動かさず、そう言った。
「湖水に宿りし青龍よ、彼の者の傷を癒したまえ」
彼女は呪文のようなものを呟き、左手を月にかざすように上げ、右手で埃でも払うように一撫でした。すると左手は、シャボン玉ぐらいのサイズの淡い光玉に包まれた。それが消えると今までそうであったように、流れ続けていた血がぴたりと止まった。
「……俺は夢でも見ているのか?」
思わず出た言葉に、少女はくすりと笑った。
「いいえ、これは現実よ」
「冗談だろ?」
「疑うなら、頬でもつねってみたら?」
爪を立てて、ぐいっとひねってみた。ひりひりとした痛みが頬に残った。
「……さっきのやつ、手品の類だよな?」
祈るように聞いた俺の質問に、彼女はやはりおかしそうに笑うのだった。
「いいえ、魔法に近い種類のものよ」
「とりあえず、服を着てくれないか?」
落ち着きを取り戻した俺は開口一番に言った。
というか、ある意味今もまだ落ち着けない。健康男児の倫理観が、まさに打ち壊されそうな瞬間だった。
「ああ、気にしないでいいわよ」
「気にするっつーの! バリバリ滅茶苦茶とんでもなく気にするわ!」
俺がどなると、彼女はハエでも追い払うように手を振った。
「やめてくれない、唾が飛ぶわ」
この期に及んで、出るセリフがそれかい……。
「それに何とも思わないでしょう? 私の裸を見ても」
確かに彼女の肌は煩悩を死滅させるかのごとく、神聖さを放っている。胸も小さいしな。
だがしかしそれはそれ、これはこれだ。
つまり何が言いたいかというと、裸のJKが目の前にいたら、男子の思うことは一つ!
「レッツ・パアアアアアアティィィィィィィッッッ!」
俺はそう叫ぶと果敢に彼女に飛び掛かった。
俺は今、最高にパッションな気持ちだった。年頃の女の子裸を健全な男子見れば、すべからく皆、同じ気持ちになるだろう。
「キャアアアアアアァァァァァァッッッ!」
直線に飛んでいた俺は何か巨大な力で右に方向転換した。どんどん壁が近づいてくる。しかし今、俺にその力に抗う術もなく。
「ブフォオオオオオオォォォォォォッッッ!」
鼻から一気に突っ込んだ。そのまま垂直にズルズルと落ち、床に着陸する。そして訳の分からないまま、頭に衝撃が走り、俺は気を失った。