四章 その4
最初は誰も気づいていなかった。俺の見間違いかと思った。しかしそれはやがて、無視できない異常となった。
尋問の間のヒカリゴケが、紅く染まり始めていた。
「……なぁ、雫さん」
「ええ、分かっていますよ」
雫さんに確認した直後だった。天井からぱらぱらと砂ぼこりが落ち、どこからかうなりのような地響きが聞こえた。
「な、何だい、これは?」
暗は体勢を崩し、尻餅をついた。俺も倒れそうになったが、舞空先生が支えてくれたおかげで何とか体制を崩さずにすんだ。
ねねは天井を見上げて、ため息を吐いて呟いた。
「……契約違反、してしまったからよ」
「ど、どういうことだ?」
「この間を支配する陰、湖竜。だけど実際の名前は違う。籠に竜と書いて籠竜、それが本当の名前」
「ば、バカな! 湖竜が祭られているのはここじゃねーだろ⁉」
彼女は空っぽな笑い声を響かせて言った。
「くっくっく。バカね、神が自分のいる場所を人に委ねると思う?」
俺は返せる言葉も無く黙るしかなかったが、代わりに波紋がねねに問いただした。
「でも、私は契約を破ってないわ! ちゃんと傷もそれなりに治していたし……」
「契約内容は、それだけではないのです」
雫さんがねねより先に答えた。
「ところで皆さんは、ここの村の名前をご存知ですよね?」
唐突な質問に俺は戸惑ったが、すぐにその質問の意味に気付いた。
「籠目村……、まさか⁉」
雫さんはこくりとうなずいて先を続けた。
「ええ。籠竜様は湖だけでなく、この村のすべてを見守る神様なのです」
俺はごくりと唾を飲み、震える声で聞いた。
「そ、それは分かりました。だけどそれと契約に、何の関係があるっていうんですか?」
「籠竜様はどんな傷をも癒す力をお持ちの、偉大な神様です。しかし籠竜様は大層出不精な方でして、その神秘の力を使うために自身が外へ出るのを嫌われたのです」
呆れる思いで言った。
「……ああ、それで湖水家に癒しの呪術を授けたんですか。酷く面倒くさがり屋な神様っすね」
「それが由来となって籠もる竜、すなわち籠竜様と呼ばれるようになったのです」
生き埋め寸前のこの状況下でも、誰も冷静さを失うことは無かった。雫さんの話に出てくる神様があまりにも情けないヤツだったので、そいつが起こしたこの事態に危機感を覚えられないのだろう。
「でも私は、その契約を破ってないわよ?」
波紋の言葉に雫さんはうなずいて、再び口を開いた。
「湖水家と籠竜様の間にはもう一つの約束があるのです。それは百年に一度、人身御供を行うこと」
「そりゃ、ふざけた儀式っすね。それで、その意義は?」
「籠竜様は大層寂しがり屋なお方で、誰かが傍にいてくれないと孤独に耐えられないからだそうです」
……引きこもりの上に、ウサギ体質ときた。
「ワガママな神様だねー」
星子の言葉に、皆そろってうなずいた。
「それで雫様、肝心な契約違反はどのようなものなのでしょうか?」
委員長はこの空気の中でも、普段の真面目さを絶やしていなかった。本当に大したヤツだ。
この問いにはねねが答えた。
「人身御供となった者は、生きている人間と親しく交わってはいけない、というものよ。他の人に自分のおもちゃを取られたと思って、すねる幼児と同じような感じじゃないかしら。くっくっく」
うわぁ……、本当にろくなヤツじゃねーな。
その時、巨大な石が俺の傍に落ちた。
「とりあえず、ここから出たほうがいいんじゃない?」
舞空先生の言う通りだ。あまりにもバカな話のせいで、俺たちの危機意識は鈍っていた。
「さ、行きましょう」
雫さんが先頭になって俺たちは出口へ走り出した。
「……どうしたんだよ。お前も早く来いよ」
いつまでも動かないねねの腕をとって、走らせようとした。しかし彼女は一向に動く気配がない。
「おい、早くしねーと埋葬されちまうぞ。死んで陰になってるとはいえ、それはマズイだろ」
俺の言葉の何が面白かったのか、ねねはくすりと笑った。
「さっき、雫が言ったでしょ。人身御供となった者は、生きている者と親しくなってはいけないって。その人身御供が私なのよ」
「んなもん、どれだけバカなヤツだってとっくに察しがついてるに決まってんだろ! お前はそれでいいのかよ⁉ 神様のワガママに付き合って、ずっとこんな最悪なところにいるっていうのか⁉」
「私は人身御供。これまで好き勝手にしてきたけど、そろそろここで大人しくしていないと、神様に怒られちゃうわ」
ねねのふざけた言葉を俺は鼻で笑った。
「花子さんしてた時だって、ほとんどトイレにいなかっただろうが。それにルールを無視して俺の横に立ってみたりよ。お前は何かに縛られて生きるようなヤツなんかじゃねーだろ。逃げ出しちまえよ、こんなところ。永久にな」
俺はそれでも動かないねねを無理に引っ張って走り出した。今度は抵抗せずに、彼女は俺の後をついてきてくれた。
「何やってるのよ、生き埋めになりたいの⁉」
扉のところで皆は律儀に待っていた。
「ったく、先に行ってくれても良かったんだぜ」
「あなたたちを置いていけるわけないでしょ」
「死ぬときは一緒だぜってか?」
「バカ言うのはここを出てからにしなさい」
牢屋のあった通路は、瓦礫や折れた鉄骨がそこら中に転がっていた。
「結局、牢屋なんざ使う機会は無かったな」
「趣味で作ったものよ、別に未練なんてないわ」
俺はねねの腕を引いて慎重に、でも急いで通路を駆け抜ける。
中間あたりまで来た時、後ろから何かおかしな音が聞こえた。これはそう、まるでシャワーの音を何十倍も凶暴にしたような……。
「……ん!」
振り返った先輩は、驚愕の表情になって口を開けていた。俺もわずかに首を動かして背後を窺った。
「……な、なんだありゃ⁉」
地面から巨大な水柱が吹き上がって、こっちに大量の水が流れてきていた。
「急ぎましょう!」
委員長の言葉に俺たちは全力疾走から超全力疾走となって出口へ駆けた。しかすすぐに俺は足を止めなければならなかった。
「きゃッ!」
ねねが石にでもつまずいたのだろう、大きな音を立てて転んでしまった。
「大丈夫か?」
「いたた……」
彼女は擦りむいたらしい膝よりも、足がありそうな透明な部分を押さえていた。
「……足をひねった幽霊なんて、聞いたこと無いぞ?」
「くっくっく……。そうね、私もよ。……もう、走れそうにないわ。私を置いて、あなたは逃げなさい」
水は濁流となって、すぐそこまで迫ってきている。皆はもう出口まで逃げきってはいたが、こちらが心配でドアの向こうにも行けず、しかし濁流のせいでこっちにも来れず、といった感じだった。
俺たちのいる場所はちょうど瓦礫が積もっていた場所で、小島のようになっていた。水位は今はあまり高くない、確かに逃げるなら今のうちだろう。だが。
「はっ、バカ言ってんじゃねーよ。テメーを置いておめおめと逃げたら、波紋に殺されちまうだろ」
「バカはあなたよ。このままだったら、生き埋めじゃなくて溺死よ?」
「あいつに殺されるよろはよっぽどましだ。ほら、乗れよ」
俺はしゃがんでねねに背中へ乗るよう言った。彼女は躊躇しながらも、素直に従ってくれた。
ねねはまるで人と変わらない重さと、温もりを持っていた。
「さてと、じゃあ二人で仲良く行きますか」
「二人なんかじゃないわよ」
「ん」
「え? ええ⁉」
俺は首を左右に振って、二回仰天させられた。
革靴を履いていた先輩も、下駄を履いていた波紋もよくここまで来ることができたな、と最終的には四重にビックリした。
「波紋に先輩⁉ い、いつの間に……」
「あなたたちがのんびりしているから、しびれを切らして来ちゃったのよ。まったく、本当に死に時が一緒になっちゃいそうで、嫌な気分だわ」
そうは言いつつも、波紋は楽しそうに笑っていた。
「ふぅ、やれやれ。お前は本当にバカだな」
「あなたもね」
「んー」
不機嫌そうに袖を引っ張る先輩の頭を俺はよしよしと撫でてやった。
「先輩、ここまで来てくれてありがとな」
「ん」
満足そうに笑う先輩はまるで猫のように可愛い。だが、まだ愛でている場合ではない。
「で、この状況をどうする?」
俺が尋ねて皆黙り込んだらどうしよう、と思ったがその心配は杞憂だった。
「私に考えがある」
先輩は無表情になって話し始めた。
「まず、波紋様が愛義守を使って、この場の安全を確保する」
そう言って波紋に例のブレスレットを渡した。
「次に七色、あなたが黒血之追跡者で猛世のごとく道を切り開く。さっき見たけど、それは物体だけでなく空間や時間さえも断つことができる。水で満たされても、脱出路を維持することも不可能じゃない」
そこで先輩は言葉を切って首をひねった。俺たちがあまりにも静かだからだろう。
「ん?」
「……先輩。一つ聞いていいか?」
俺はパンドラの箱に手をかける思いで聞いた。
「ん」
「お前、中二病だったんだな」
「ん!」
慌てて首を振るがもう遅い。黒血之追跡者と愛義守はモロに中二臭がしたし、猛世もかなり怪しい感じがした。
「ん、ん!」
先輩は誤魔化すように、波紋に呪具の使用を催促した。
「……夏世。あなたがどんな趣味嗜好でも、私はありのままのあなたを受け入れるわ」
「んー、ん!」
「はいはい、分かったわよ。このままだと、全員そろって溺れ死んじゃうものね」
波紋が赤い粒子の壁を展開させるのと、濁流が小島を飲み込んだのはほぼ同時だった。
「危なかったな」
「あなたたちがふざけているから」
そういう先輩もこんな時に中二病を発病させるからだ、と心の中で言い返す。口に出したらまたもめるのは目に見えてるからな。
「さて、次は俺の番か。ねね、少しの間、待っていてくれ」
「ええ、頑張ってちょうだい」
俺は背負っていたねねを下ろして、カッターを構えた。
ドアの方を見ると、開け放されたまま皆がいなくなっていた。一足先に脱出したのだろう。
イメージしろ。濁流の中に、俺たちが生き延びる道をこの手で切り開く。死から逃げるため、俺はこの刃を振るい、未来へ進む!
「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉッ!」
俺は垂直に、真一文字にカッターを振るった。カッターは俺の思いに応えるように刃を伸ばして濁流を真っ二つに引き裂き、生まれた狭間は水を両端へ弾き飛ばした。
イメージ通り、そこには俺たちが通れるぐらいの道ができた。
「やった……!」
俺は肩で息をしながら、自分の作った道を見た。それは階段まで続く、長い道だった。
「ははは……、自分でやったなんて信じられねーな」
「何言ってるのよ」
波紋はカッターを握った手に、自分の手を置いて言った。
「あなたがやったのよ。その手でね」
彼女が微笑み、それを見た自分の頬も緩んでいく。濁流の中にいることさえ忘れてしまいそうな、穏やかな瞬間だった。
「さぁ、行きましょう。もたもたしてると、せっかく光雨の作ってくれた道が閉ざされてしまうわ」
もたもたしてたのは俺たちだけどな、と心の中で苦笑して、再び俺はねねを背負った。
「先輩、波紋。一足先に行って皆に俺たちは無事だって伝えてきてくれねーか」
「ん」
先輩は瓦礫が残る道にもかかわらず、平地と変わらないように走っていった。波紋も下駄を履いているとは思えない速さで駆けていく。
「じゃ、俺たちも行くか」
「ええ」
ねねと俺はうなずきあって、濁流に挟まれた道を歩き出した。
「なぁ、ねね。こんな時で悪いが、一つだけ聞いていいか?」
俺は何度目か分からない一つだけ、を口にして聞いた。きっと俺は、欲張りな人間なんだろうな。
「何かしら?」
「俺は雨桜がお前の親友だと思っている。だがお前は生贄として、湖水家から籠竜へ差し出されていた。なぜなんだ?」
ねねは俺の耳元で、ぼそぼそとした声で言った。
「私はおかしかった。だから、おかしな神様なら私のことを分かってくれると思ったの。でもダメだったわ。神様は一度も私に姿を見せてくれなかった。結局、私を理解しようとしてくれたのは、あなただけだった」
「俺、そんなことしたっけか?」
ただ護衛戦のために、こいつを利用した記憶しかねーんだが……。
「あなたは過去の私になっても自分を見失わなかった。それだけでも十分なのに、私を諭そうとさえしてくれた。……もしもあの時、あなたがいてくれれば、私は陰にならずにすんだかもしれない」
俺は立ち止まってねねを背負いなおし、再び歩き始めた。
「もしも、か。好きだぜ、その言葉。あらゆる可能性が存在することを臭わせてくれるからな」
「この言葉を使えば、私たちは神様にさえなれる」
「なれねーよ。せいぜいが人間どまりだ。だけどな、もしもを使えばスゲーことができる」
「へぇ、どんなこと?」
「誰かの未来を変えられるかもしれない。例えば、波紋のとか」
「……分かっていたのね」
「さっき波紋も言っていただろうが。お前は声優さん並の演技で悪役を演じて、波紋を窮地に立たせた。誰かを信じなきゃ、ゲームオーバーになっちまうぐらいのな。お前と湖水家の契約、当ててやろうか?」
「ええ」
「子孫が一人にならないこと。誰かと共に生きていけること」
「根拠は?」
「無い。だが、先輩が言っていた。雨桜は人付き合いが苦手だって。俺は湖水家の頭首みたいな権力のある人は皆、孤独だと思うんだ。誰かが自分の命を狙ってるんじゃないか、とか誰かに裏切られるんじゃないかって。そして雨桜は心の支えだった、一番の親友がいなくなってしまった。心の傷は相当のものだっただろうな」
自分でも無責任な言葉だとは思ったが、話を進めるにはこう言うしかなかった。心の中で雨桜に謝りながら、俺は先を続ける。
「お前は陰として彼女の元に戻ったが、護衛の家に出されたり、人身御供になったりでなかなか会えなかっただろう。そんな境遇だ、自分が孤独だって思っても無理はない。それに加えて、娘の雫さんも自分と同じような、人を信じられない性格になっちまった。雫さん自身が言ってたよな。私には相談できる人など、一人もいなかったのですから、って。雨桜は不安に思っただろうな。自分の人間不信が、まんま娘に引き継がれちまったんだ」
俺たちはもう通路からとっくに広場まで出ていた。しかし進むことも戻ることもできずに、ただ立ち止まっていた。
「さっき俺の言った契約はこれまでの話、お前の行動、言動から確かなものだと推測できる。そして契約の結ばれた時期は雫さんの生まれた後にされたものだと考えられる」
「まるで見てきたかのように語るのね……。当たっているから、ケチを付けることはできないけれど」
俺は天へと続くような長い階段を見上げて、ねねに聞いた。
「……波紋と雫さんは、もう一人じゃないよな?」
ねねはくっくっく、と笑って言った。
「あの子たちは元から一人じゃないわよ。ただ、気付いていなかっただけで」
「じゃあ、気付くことはできたのか?」
「ええ。あなたと、化け狐。そして他の子たちのおかげでね」
「そっか」
俺は札のベタベタ貼られた扉に手をかけた。
「そしてもうお前も一人じゃない。こんなところにいなくていいんだ。一緒に、皆のところに行こうぜ」
「ええ。例え、神様が許さなくてもね」
俺は扉を閉じて、札に手を当てた。
「そういうことだ。籠竜、悪いがねねは諦めてもらうぜ。寂しいなら、こんなところから出て来いよ。一緒に遊んでやるぜ」
札は赤い光を発して、呪術を封じた。しかし扉は閉ざされたわけではない。
「籠竜。お前のこと、逃げずに待っているからな」




