一章 その1
ラブレターをもらった。
退屈な入学式が終わり、堰を切ったように騒ぎ出した生徒でごった返した昇降口。しかし友人のいない俺は一人、猫背で喧騒の波をくぐった。
下駄箱に手をかけた時、何かが挟まっているのに気が付いた。桃色の封筒だ。それは和紙で作られたものだった。
表には筆文字で俺の名前、七色光雨と書いてあった。裏面には手紙の主の名前。湖水波紋……、何と読むんだろうか? みずうみみずはもん……?
開いてみると、数枚の便箋が入っていた。紙面には達筆な字が古めかしい文体で並んでいた。一目でげんなりしたが、意味のわかる箇所を拾い読みしていく。
あくびをかみ殺して読み進めていき、最後の一言。「お慕いしています」この一言で、難解な前文などどうでもよくなった。後には呼び出しの場所と希望の時刻が簡潔に記されていた。
寮に帰っても俺はそのことばかり考えてしまい、飯の味もろくにわからなかった。せっかく奮発してカツカレーを頼んだのに、もったいない話だ。
夜、俺は呼び出しの場所へと向かっていた。
目的地と現在地を説明するためには、俺の住んでいる場所を少し理解してもらわなければならない。
東京の片隅にある籠目村。人口一万人以下の紛れもない田舎。しかし老人ばかりの未来見えぬ過疎村とは違い、若者の姿は結構多い。その理由は村内に大型の小・中・高・大一貫の付属校があるからだ。
校名は日ノ本大学籠目学校。俺の通う高校は日ノ本大学籠目高校、通称カゴコー。どうしてこんな辺鄙なところに学校を作ろうと思ったのかは知らない。入学式で校長が長々と語っていたが、理解しようと思わなかったし、そもそも聞いてすらいなかった。
そしてこれが不思議なのだが、この学校を出た者がそのままこの村に移り住むケースが多い。確かに普通の村に比べれば、店も施設もそろっている。だが、新宿や池袋と比べればメロンとメロンパンぐらいの差がある。レジャー施設もファーストフード店もファッションストアも、新宿や池袋に比べれば圧倒的に数が少ない。同じ東京でも、その差は歴然たるものだ。
それでも住みたくなる魅力が、この村にはあるのだろうか? まぁ、それは俺がこれから三年かけて知っていくことだ。
さて、田舎といえばセットで付いてくるものがある。それは自然。だいたいが山や海だろう。籠目村では前者だ。
自然というのはさまざまな恵みを人間にもたらしてくれるが、同時に多大な迷惑も押し付けてくる。自然災害が最も代表的な例だが、それだけではない。
山だと虫を大量生産するし、海だと潮風がいろいろと迷惑をかけてくる。
だが今はそんなことはどうでもいい。
俺にとって重要なのは、そこに足を踏み入れてしまった場合だ。
山や海は夏場に定番のレジャースポットだ。しかし彼らは時折、牙をむいて人々を襲うことがある。ゆえに事前の準備と対策が必要になる。
が、それ以前に山と海を楽しむためにはそれだけでは足りない。彼らはとあるものを人々に求める。最低限の運動神経だ。それが無い者にとって、山と海は拷問を強いてくる牢獄でしかない。
俺は今、牢獄にいた。
時刻は一時少し前。一時といっても、午前の一時である。空にはきれいな月とまばらに散った星々が浮かんでいる。
俺は雑草茂る山道を進んでいた。不自然なほど明るい月のおかげで、電灯で照らさずとも足元は十分に明るかった。
道はハイキング用の山ぐらいの傾斜だったが、体力が欠如している俺にとっては富士山でありエベレストだった。五千メートルぐらい標高の差があるけど。
指定の場所は、学校の裏山にある旧校舎。指定時刻は丑三つ時。今頃になって、怪しさマックスだったことに気付く。まぁ、浮かれていた自分にそれを悟れというのも、酷な話。
浮かれていた気分はとっくに冷めていた。むしろ薄気味悪くさえなっていた。もしかして、あの手紙の主はお化けだったりして……。
一陣の強い風が吹いた。それは首筋を冷やし、葉々を乱雑に揺らす。それはぞんざいな音になり、やがてあたりは元の静寂に包まれる。
鳥肌が立った。マジで怖い、もう帰りたい……。
唐突に大きな音が響いた。
「うわあああぁぁぁっ!」
外聞なく、いやこんな山奥に人はいないだろうが、ともかく裏返った声で叫んでしまった。腰が抜けて尻もちをついた。先日の雨でぬかるんだ地面のせいで、ズボンが汚れた。だが立ち上がる気力もなく、ただ震えるしかなかった。
……しかし落ち着いて聞いてみれば、音源はライトフォンことライホだった。誰かがこんな夜遅くに電話をかけてきたのだ。
「お、脅かすなよ……」
俺は通話ボタンを押して電話に出た。
『やぁ、七色! ムラムラしてるかい?』
ウザイぐらいに明るい声が受話部から聞こえた。
「……暗いか。ムラムラはしてねぇが、テメェにムカムカはしてっぞ」
『暗だよ、は・ら・い!』
「ああ……、そういえばそんな名前だったな」
こいつの名前は暗陽輝。髪を金髪に染め、サングラスを身に付けている、見た目から性格までちゃらちゃらした男だ。だがなぜかその外見としゃべり方のギャップが一部の女子に人気で、けっこうモテる。まぁ、ヤツが救いようのないヘンタイだって知れば幻滅されるだろうけどな。ま、負け惜しみじゃねーぞ。
暗は寮での知り合いだ。入寮した日になぜかヤツの部屋に荷物を届ける羽目になって、それ以来よく話しかけられるようになった。
『それにしても君、こんな時間にどこをほっつき歩いてるんだい?』
寮生はそれぞれ個室を与えられているため、ルームメイトではない。にもかかわらず、俺の不在を知っているということは……。
「……今、俺の部屋の前か?」
『ザッツライト!』
当たり前だが、午前一時は門限時間をとっくに過ぎている。というか、早い時間に店が閉まるこの村で、門限時間外に外を歩く物好きはほぼいない。それなのにこんな夜遅くに外出しているんだ。ヤツが不思議に思うのも当然だろう。
「あー、今トイレに行っててだな……」
『トイレットは個室の中にあるよ』
ふん、なかなか鋭いじゃねーか。
「じゃなくて、ちょっと風呂に入りたくなって」
『バスタイムはとっくに終わっているはずだよね』
これでもダメか。なら……。
「……本当は、小腹がすいたからちょっと買い出しに」
『この時間で開いてるストアがあるかい?』
ちっ、しつこいヤツめ……。
『もう素直に白状しなよ。そうすれば楽になれるよ』
「テメーにだけは言わねーよ」
校内一のペラペラ男こと暗にばれた日にゃ、一日も経たないうちに学校中にうわさになっちまう。
『そんなことを言ってると、財布の中の食券を全部いただくよ。お、カツ丼定食じゃないか。けっこうレアなものを持ってるねー』
ポケットの中を探ってみる。無い。ブレザーにもズボンにも、財布が入ってない……。
「やめろ……。それだけは……、それだけはやめてくれええええええぇぇぇぇぇぇッ!」
俺は力の限り叫んでいた。ただ金が無駄になるだけではない。カツ丼定食の職権は、裏では高価な値段で裏取引されるほど珍しい存在だった。
籠目校のカツ丼は寮に入った直後、先輩たちのうわさを聞いて知った。
この世のものとは思えない味、食感! 口にした瞬間、頬が落ちるような肉汁がいっぱいに広がる。その幸福感、何ものにも代えがたし! 食材はかの高級食品、イベリコ豚‼ 米は最高の銘柄、銀の満月‼ それゆえに食券の数はただでさえ少なく、おまけに買占めが起きる。口にできる者は限られ、年に二十にも満たない。
それを俺は、食券機の前に二十四時間張り込むことで手に入れた。
本当は何十枚も買っておきたかったが、財布の都合で五枚が限界だった。
それでも手に入れたのだ、究極のカツ丼定食に至る、その切符を……!
「頼む。何でもするから、それにだけは手を出さないでくれ。頼むッ……!」
『え、本当に持っているのかい?』
……は?
「だってお前、財布の中を見たから、言ってたんじゃ……」
俺の言葉に暗は呆れた声で答える。
『あのね、七色。ピッキング技術も無い僕が、キーのかかった部屋に入れるわけないだろ?』
「……テメェ、たばかったのか⁉」
『ハッハッハ! 君ってヤツは、ホントにバカ正直だね。おかげでカードがそろった、そろそろ交渉を始めようじゃないか』
「……交渉、だと?」
ザッツライト、と答えて暗は続けた。
『僕は君が門限時間外なのにも関わらず、外出していることを知っている。つまりだ、今すぐにでもこのことを寮長に報告することができる。ここまではOK?』
「……おーけー」
『ここで僕からの要求だ。君の差し出せるカードは二つ。一つはさっきのカツ丼定食の食券』
「断る」
俺は一枚目のカードをコンマ数秒で破り捨てた。
『ま、そう言うと思ったよ。で、二枚目のカードはさっき君が自分で言ったことさ』
「……何でもする、ってやつか?」
『ピンポンピンポーン。さ、どっちにする?』
くっそ、調子に乗りやがって……!
『あ、このことについては、委員長にもチクっておくから』
やはりそう来るか……。正直、寮長よりもあの堅物委員長に知られる方が怖い。ブチ切れられた時の恐怖と言ったら、背筋が凍るなんてもんじゃない。殺気で人を殺せる、と表現しても過言にならないほどホラーなのだ。
「……何でも言うことを聞きますので、食券は勘弁してください」
『うん、君は素直なところが取り柄だよ。ハーッハッハッハッ!』
調子づきやがって……! いつか、ヤツの弱みも握ってやる‼
『さて、僕はそろそろベッドインさせてもらおうかな。七色も早く帰って寝たほうがいいよ。入学早々に寝坊をして遅刻とか、洒落にもならないからね』
「ああ、おやすー」
『グッドナイト!』
ツー、ツー、ツー……。
急に無音の世界へと突き返されると、寂しさもひとしおだ。
もう引き返そうか、そう思った時。
「……ん?」
何かの気配を感じた。
誰かに見られている……。辺りを見回しても、視線の正体は分からない。耳を澄ませると、草の揺れる音が僅かに聞こえた。
そちらに視線を向ける。すると、影から何かが飛び出してきた。
驚いた俺は、再び尻餅をつく羽目になった。
「いつつ……、あ?」
間抜けな声を出してしまった。目の前に白い毛の狐が現れたからだ。大きさは大型犬ぐらい。毛並みはほれぼれするぐらい美しかった。
「何でこんなところに……?」
問いかけるも、もちろん狐は答えるはずがない。
白い毛の狐なんて、ほぼ寒いところにしか存在しないはずだ。なのに、なぜ東京の山奥に?
好奇の眼差しで狐を見ていると、ヤツはどこかへと歩き去った。かと思ったが、数歩歩くとこちらへと振り返った。その目はまるでついて来い、と言っているようだった。
俺は立ち上がると、狐の方へと向かった。
狐はまるで俺の歩調に合わせるように、再び歩き出した。
不思議と迷いもなく、俺は狐の後をついていくことにした。