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四章 その2

「……ってここ、旧校舎じゃねーか?」

 俺たちは旧校舎まで戻ってきていた。

「ええ、そうよ。この中に尋問室はあるの」

 さっさと入っていく皆の背を俺は疑わしい気持ちで見て、後を追った。

 階段を上り、二階へ。そして右に曲がる。道順は生徒会室に行くルートを辿っていた。

 途中で波紋が唐突に立ち止まり、教室と教室の間を指さした。

「ここを見て。この壁、不自然に広いと思わない?」

 言われてみれば、確かに他の壁と違って少し幅が広かった。

「まさかここに、秘密の部屋があるのか?」

「いいえ、ここではないわ。ただ、そこを叩いてみると少し面白いかもしれないわね」

 そう言って廊下の先へ歩いていく。というかその先にはもう生徒会室しかないような……。

 俺は好奇心から、壁を軽く叩いてみた。生じたコンという音は壁の向こうまで響いた。中は空洞のようだ。

 だがこの中に部屋は無いという。なら何があるんだろうか?

 俺は首をかしげて生徒会室に入った。

 中は前に入った時と同じで、整理が行き届いているこざっぱりとした部屋だった。

 波紋はみんなが見守る中、本棚の中をいじっていた。

「何してるんだ?」

「秘密の部屋へ続く道を開けているのよ」

 ああ、よくある仕掛け、隠し扉か。

「この学校にもね、陰とは関係のない七不思議があったみたいよ。その中の一つ、誰もいない部屋から足音がするっていうのが一番有名だったみたい。実際に聞いた人が不自然なぐらいにいたかららしいわ。当然よね、それは生きた人間が起こしていたのだから。まぁ、歩いていた場所は教室じゃなかったんだけど」

 何語か分からない字が書かれた背表紙の本を右から左へ移動させた後、波紋は手をかけて本棚を横へずらす。いや、本当ならずらせるはずがない。それは結構な大きさだったし、辞書のような大きさの本がそこそこ入っている。女子が一人でどうこうできる重量ではないはずだ。しかし彼女はいともたやすくずらしてみせた。

 裏には狭い空間が広がっていて、階下へと続く階段があった。もわっと湿った臭いがして、埃が舞っている。あまり居心地のいい場所ではないようだ。

「へぇ、すごいね。まるで漫画か映画でも見ているみたいだ」

 暗はひゅうと口笛を吹いた。

 本気で驚いていそうなヤツは暗も含めて、誰一人いなかった。

 階段はさっき上ってきたものよりも使い古されていて、人一人しか通れないほど狭かった。

 委員長、暗、星子、先輩、舞空先生、雫さん、俺、波紋の順で階段を下りていった。

 中は最初こそ暗かったが、下っていくと優しい光を灯したランプが吊り下げられているのが見えた。ライホで足元を照らす必要は無さそうだ。

「なぁ、波紋。あの本棚って呪具か? 何か仕掛けがありそうな感じだし、呪具じゃなくても仕掛け棚とか」

 俺はこっそりと波紋に聞いてみた。男の子は皆、秘密や仕掛けという言葉に弱いのだ。

「いいえ。大きすぎてよく分からなかったかもしれないけど、下に小さなタイヤが付いているのよ」

 波紋はぼそぼそとした言葉で返してきた。

「だったら、さっきの合言葉的な動作は何だよ?」

「ただの演技に決まっているじゃない」

 ……人が悪い。

「賊が入ったとしても、まず隠し通路がどこか分からない。知っていたとしても、本棚に仕掛けが無いことに気付かずに入れない。そしてタイヤに気付いても、この先にある扉を開けられない。まぁ、正直に言って最後の扉以外はお遊びみたいなものだけれど。それに今となっては掃除の時以外は立ち入らない、不要なところだし」

「だけどこれから使おうとしているじゃないか」

「まぁ、たまには空気を入れてあげないと可哀想だから」

 つまり星子を尋問する場所なんてどこでもよかったが、思いつきでここを選んだってことらしい。

「それに、場合によってはこの先を本当に使うことになるかもしれないしね」

「星子ってそこまで重要な情報を持っているのか?」

 彼女は楽しそうに笑って否定した。

「いいえ、尋問なんてしないわよ。雇い主なんて、村の連中に調べさせればすぐに分かるし。ただ、気に入らないヤツだったら閉じ込めておこうと思って。牢屋も使ってみたいしね。くすくすくすくす」

 俺が想像していた以上に、湖水家は権力を持っていらっしゃるようだ。

「つーかお前って、本当にサディストな」

「うっさい、あんたもブタ小屋に突っ込むわよ」

「さーせん」

 階段はとっくに一階より下へ潜っていた。材質もいつの間にか木製から鉄製へ変わっている。

「ここら辺は最近リフォームしたのよ。もちろん秘密裏にね」

「ならさっきの部分も作り直せよ」

 俺の突っ込みに彼女はにこりと笑った。

「嫌よ。だって部屋の雰囲気に合わないじゃない」

「実用的な理由じゃなくて、ただの趣味かよ。……大した無駄遣いで」

「金と人は使い放題なのよ、くすくすくすくす」

 いい加減足が疲れてきた頃、ようやく階段を下り切ることができた。

 階段を下りたそこは、ちょっとした広い空間があった。あそこに見える扉はきっと、尋問に使う部屋に繋がっているんだろう。簡単に蹴破れそうだが、きっとベタベタ貼られている札が呪具で、見かけに反して頑丈に補強されているのだろう。

「ったく……、どんだけ深く掘ってんだよ」

「ご先祖様はもともとあった洞窟を利用して、ここに尋問の間を作ったそうです。昔は誰も踏み入れないように、様々な仕掛けや工夫を凝らしていたようです。それぐらい重宝されていたのでしょうね。今となってはただの無価値な場所ですが」

 雫さんの解説で、ようやくここが重要な場所だったと理解できた気がした。

「さぁ、この先が尋問の間です。どうぞ、お入りください」

 黒板をひっかいたような音を立てて、扉は開いた。

 皆が入っていく様はまるで自分から化け物の口に入っていくような、不気味な光景のように見えた。

 扉からは異様な冷気が漏れ、水が岩を打つ音がよく聞こえた。

 俺は最後にその扉をくぐった。

 中はエメラルドに光る苔が繁殖していて、人工の光は必要なさそうだった。

「すごいね、これ。まるで宝石の世界みたいだよ」

「ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のヒカリゴケよ。とても希少で、天然記念物に指定されているわ。あと、レッドリストの準絶滅危惧というものにもね。これらは発光しているように見えるけど、レンズ状の細胞が僅かな光を反射しているだけなの」

 興奮する暗に、波紋は平静を装って答えていた。まぁ、きょろきょろと首が動いていたが。

 星子も捕虜という立場を忘れて興奮していた。

「へぇ、少しでいいから持って帰りたいなー」

「採取は規制されているのよ。もっとも、ここの存在は国に知られていないから話は別だけれどね、くすくすくすくす」

 空間は百メートルていどの一本道で、両側に空っぽの牢屋が並んでいた。それに用いられている棒が新品なのはリフォームとやらのせいだろう。

「なぁ、さっきのドアは何で変えなかったんだ?」

 俺はふと思いついた疑問を波紋に聞いてみた。

「見たでしょう、あの不気味な札。どんなものか得体が知れないから、手を出せないのよ」

「即死トラップとかだったら嫌だもんな……。でも、他の仕掛けもあったんだろ? 何であれだけが不気味がられてるんだ?」

「遺言に扉に触れるべからず、ってあったらしいわよ。うちの親族は怖がって、ここにだけは寄り付かなくなったわ」

 そんじょそこらの怪談より、よっぽど怖い話だ。霊能力者一家の祟りとか、笑いごとじゃすまなそうだからな……。

「でもお前の趣味も同じぐらい怖いぞ。何でこんなところを改築する気になったんだ?」

「だって急に入用になったら困るじゃない、くすくすくすくす」

 うん、こっちの方が怖いな。俺は波紋から半歩離れた。だけどすぐに彼女はその空間を詰めてくる。

 奥に行きつくと、巨大な観音開きが俺たちを出迎えた。漆黒に塗りたくられたそれは、まるで触れられるのを拒むような威圧感を放っている。この先に入ってはいけない、そのまま引き返せ。そう語っているようでもあった。

 この場にいる誰もが、このプレッシャーに呑まれているだろう。……ただ一人、舞空先生を除いて。

「こんな場所で、よくあくびが出ますね。感性が鈍ってんじゃないですか?」

 俺は皮肉っぽく言ってやった。彼女は気にすることなく、眠そうな声で言った。

「うんにゃ、寝不足でねー。最近始めたライホゲームが面白くてさー」

「いや、眠くてもせめて空気ぐらい読みましょうよ。間近に捕虜もいるんですし」

 まぁ、その捕虜も今は「でかーい、くろーい」とか危機感のない歓声を上げているわけだが。

 雫さんは扉に手をかけて、ふと思い出したように俺たちに奇妙な注意を促した。

「それでは開けますよ。皆さん、今のうちに深呼吸をしておいてください」

 深呼吸? 中は宇宙空間で呼吸ができないのだろうか。

 しかしそんなふざけた妄想も、扉が開くまでだった。

「うっ……!」

 突然の異臭に、俺は思わず鼻をつまんだ。まるで鉄と魚を混ぜたようなとでも形容すべき、耐えがたい悪臭だった。

 それはほとんどの人も同じで、舞空先生と雫さんは平然と、ただ突っ立っていた。

「これは……、亡骸の臭いだ」

 暗の言葉が信じられず、俺は否定を期待して聞き返した。

「嘘だろ?」

「本当だよ。こんな臭い、一度嗅いだら二度と忘れることはできないよ。裏の世界にはこんな臭いが蔓延しているのさ」

 表と裏。その違いは死が身近にあるかどうか、ってことなのか……。

「皆さん、ご安心ください。この中に仏さまはいらっしゃいません。ただ少々、臭いが染みついてしまっているだけです」

「少々って……、これが⁉」

 波紋の叫びに雫さんは何も言葉を返さず、ただ首を縦に振った。

「お前、ここに入ったことは無いのか?」

「無いわよッ! こんな臭いがするなんてことも知らなかった……‼」

 波紋は泣きそうなぐらい震えていた。俺は彼女を安心させようと、肩を抱いた。

「大丈夫だ。何があっても、俺が波紋を守ってやる」

「えっと、あの、その……ありがとう」

 波紋は顔を赤らめて俯いてしまった。

「そっちこそ、よくこんな状況でラブコメできるよねー」

 舞空先生に茶化されて、恥ずかしくなった俺は肩に回していた手を外した。

「べ、別にラブコメってるわけじゃないですよ。ただ、心配だったから……。というか、先生は平気なんですか。この悪臭……」

「ま、もう慣れちゃったからさ……。化け狐の寿命って、長いんだよ」

 そう語る舞空先生は、急に何百歳も年老いたように見えた。

「いくら嗅いでも慣れませんよ、この臭いは……」

 委員長の呟きも舞空先生はからからと笑った。

「年季が違うんだよ、年季が」

 どれだけの年月、嗅ぎ続ければ慣れるってんだ……。

 まるで体全体で嗅いでいるような悪臭。胸の奥から大切なものを抜かれているような死臭。……例えようのない、怖い臭いだった。

「いつまでもここにいては仕方ありません。中に入りましょう」

 波紋はしばらく躊躇していたが、意を決して皆の先頭になり、中に入った。きっと心の中では今頃、後悔しているに違いない。それなのに彼女は、自尊心で自分を湖水家当主たらしめているのだ。

「……すごいな。プライドで自分を支えられるなんて」

 俺の言葉を舞空先生は真剣な声で否定した。

「そんなこと、まだあの子にはできないよ」

 彼女は俺の肩に手をのせて言った。

「あの子を今支えているのはあんただよ、七色。誓った通り、何があってもあの子を守ってやるんだよ」

 彼女の顏にはいつものぽわんぽわんとした面影はなく、大人特有のクールな笑顔が浮かんでいた。

「……それが舞空先生の素ですか。めっちゃカッコイイですよ。まるで本物の先生みたいです」

「いつものノリの方がよかったかな、七色君?」

「いえ、ぶりっこはカッコ悪いっす」

「もう、つれないなー」

 舞空先生はやっぱり舞空先生のようだ。


 室内は異臭がするのが不自然なぐらい、殺風景だった。

 あるのは中央に置かれた、汚らしい木製の椅子。それをコの字で囲む畳、そして一際高いところに岩でできた天然の階段と、高価そうな洒落た椅子。あとは壁や天井に張り付いたヒカリゴケ。それがこの空間内にあるすべてだった。

「何もないのに、何でこんな鼻をブチ折りそうな臭いがするんだ……?」

「そりゃ、昔ここで何かがあったからじゃないかい……、うぅ」

 暗はそう言ったが、自分でもその言葉を信じられないようで首をひねっていた。

 ここは尋問の間のはずだ。尋問は言葉で行うもので、決して殺生のことを指すものでは無いはずだが……。

 雫さんは機械的な声で解説を始めた。

「確かに、ここは尋問の間でございます。しかし時にはどうしてもこちらに屈せず、おまけに対しているだけでも危うい存在を招いてしまうこともあります」

 その先が想像できてしまった俺は、耳をふさぎたかった。しかし耳をふさいでは、鼻を抑えるのをやめてしまうことになる。そうすれば待ち構えている異臭を招き入れることになってしまう。それだけは避けなければならない。しかし、これから耳にするであろう言葉も異臭に負けず劣らず、胸糞悪いもんだ……!

 俺が決めかねている間に、雫さんはその言葉を言った。

「そういう時は、こちらも望ましくはありませんが、お首を頂戴することにしていたそうです」

「お……、首ィッ⁉」

 首の尊敬語など、生まれて初めて聞いた。お首を頂戴するってことはつまりあれだ、刀とかで首と胴体をすぱんと真っ二つにするっていう、いわゆる斬首ってやつだ。そうすると胴体の方からは真っ赤な噴水が上がって、首の方は真っ白な目が虚空をにらみつけて、それで、それでッ……⁉

「ぐぎゃあああっあああぁぁぁあああぁぁぁッッッ……⁉」

 俺はいつの間にか声にならない悲鳴を上げていた。

「想像力豊かだねえ、でもそういうのはベッドの上だけにしときなよ」

 舞空先生のふざけた姿はいつものものだ。だけどそれはおかしい! だってこの空間は普通じゃない、異常な空間なのだから‼ 死臭が支配し、生者の存在を否定する、倫理の覆される場所なのだからッ‼ それなのに何で、舞空先生と雫さんは平然としていられるんだ……⁉

「うっく、うううっ……。吐き気のする空間だけど、ここでなら思う存分、すべてを吐き出せるんじゃない? 円谷星子」

 波紋は精一杯強がって、当主としての威厳を保とうとしていた。

 しかし星子は、波紋の言葉を聞いていなかった。ただ目を見開き、口をあんぐりと開けて、天井を指さしていた。

「人が人に罰を与えられぬなら、せめてそれを知らしめることを許したまえ。天より現れよ、断罪の象徴たる預言の糸」

 どこからか、和歌を詠むような声が聞こえた。その声の主を探すために首を回らせた波紋の動きは唐突に止まる。

「え……⁉」

 波紋のたった一言のつぶやきで、すべてが終わった。

 一瞬の出来事だった。縄が天井からするすると降りてきて、先端の輪っかが波紋の首を捕らえる。そして天井へと引き上げる。後は何もせずに、ただ波紋の首をぎりぎりと、ぎりぎりと締め上げる……ッ!

「な、何だよこれ……。ふっざけんなよッ、誰がやりやがった⁉ 出て来やがれ、このクソヤローがッ‼」

 俺の怒りを煽るような嘲笑いが、洞窟内を反響して俺たちの回りを飛び交った。まるで何十人もの人間に笑われているように感じたが、実際はたった一人。

「誰がやったかですって? そんなこと、言わなくても分かっているでしょうに。くっくっく」

 そう、分かってた。昨日も今日個、散々この光景は見せられてきたのだから。ただ、信じたくなかっただけなんだ……。

「やっぱり、やっぱりテメェなのかよッ! 花子……いや、白樺ねねッ‼」

 豪奢な椅子に悠然たる態度で座る少女。彼女こそ学校七不思議の一つトイレの花子さんこと、白樺ねね。いつもの根暗な格好なのに、すでにあの優雅で恐ろしい雰囲気がにじみ出ていた。

「くっくっく、ご名答。私こそがトイレの花子、またの名を白樺ねねというわ」

 ヤツは高らかに笑うと、パチンと指を鳴らした。それが合図だったかのように、波紋の首を締め上げる縄はクレーンゲームのアームのように彼女をボロっちい椅子に運び、つま先だけが天板に付くように下ろした。

 ねねは満足そうにその様を見て、高らかな声で俺たちに告げた。

「このような場ではあるが、これより湖水波紋の裁判を始める」

 ヤツは唇の両端を持ち上げ、嫌らしい笑顔を浮かべた。

 ギリギリと歯ぎしりをして、俺は怒鳴った。

「裁判だと? 何を寝ぼけたこと言ってんだ、寝言は寝て言いやがれ!」

「まあ、落ち着きなさい。こいつが別に何も悪いことをしていないと証明されたなら、すぐに解放してあげるから」

「バカなお前に説明してやる。そういうのは正式な手順を踏んで行うものだ。決してこんな乱暴な手段で行っていいものじゃねえ」

 ヤツはさも面白い冗談を聞きました、と言わんばかりに腹を抱えて大哄笑した。

「あなた、私を笑い殺すつもり? くっくっく、魔女裁判がそんな公正な手段を踏んで行われると思ったら、大間違いよ」

「魔女裁判ン? はっ、バカらしいにもほどがあるぜ。魔法を使えるのが罪なら、ここにいる陰と契約したヤツほぼ全員が罪人ってことになるだろ。それにその条件なら、お前が悪魔ってことにもなる。立場的に、お前が裁ける範疇のものじゃねーだろーが」

「あなたの言い分も分かるけど、文句は事件概要を聞いてからにしてもらうわ」

 さして俺の言葉を気にした様子も無く、ねねは勝手に裁判とやらを進行した。

「一端の裁判長を気取ったつもりかよ……。ふざけるのもいい加減にしろ!」

「くっくっく、これを見てもまだそんな口を叩けるかしら」

 ヤツが再び指を鳴らすと、天井から映写機用の白いスクリーンが下りてくる。

「あなた、星子さんと言ったかしら? どう、私のマジックは?」

 ねねの問いに、星子は不敵な笑みを見せて言った。

「マジシャンにはさ、もっとも重要な掟があるって知ってる?」

「掟ぇ? 何かしら」

「マジシャンは観客や出演者の安全を保障しなければならない。決して、命を失わせるようなことがあったらいけないんだよ」

「それ、山一つを焼き払った女が言うセリフ?」

「誰か一人でも大ケガした人や、命を失った人がいる?」

 ……その件については俺もねねに同意したいところだが、確かに重傷者がいないのは事実だ。もしもそれを計算してやったのなら、星子はまさしくプロのマジシャンであると言えるだろう。

「でも七色が波紋さんを好きになっちゃって、無謀にも火中へ助けに飛び出したのは、私の誤算だったけどね。……色々な意味で」

「す、好きとかそういうんじゃねーよ!」

「もうその手のやり取りには飽き飽きしたわ。さぁ、始めてちょうだい」

 ねねがそう言うと、かちゃかちゃという音が響いて銀幕に映像が映し出された。

 振り返るといつの間にか現れた映写機が、スクリーンへ光線を放っていた。

 現れた? いや、違うだろ。俺たちがねねや波紋に注意をそらされている間に、誰かが用意したんだ。マジシャンが右手を見せている時は、左手を見ろ。なぜなら観客の目が右手に集中しているうちに、左手でタネを仕込むのだから。ねねの右手が波紋だとしたら、左手は何だってんだ……?

 よく見たら、映写機から白い尻尾が生えていた。おそらく舞空先生が化けたものだ。どうやら彼女は花子に加担しているらしい。

 だけど舞空先生が敵だとは思えない。彼女も波紋を大切に思っているはずだ。意味も無く、波紋を危機にさらすはずがない。きっとこの映像には、何か大切なメッセージがある……!

 スクリーンには最初、数字の回りを黒い点線が回るというふざけた編集が映写されていた。

 三、二、一……。

 カウントダウンが終わり、ようやく始まった映像は、朝か昼の旧校舎のトイレの一室を斜め上から映したものだった。夜の時よりも多少明るいとはいえ、やはり個室の中は不気味な薄暗さを閉じ込めていた。

 音声は無く、映写機がフィルムを巻き上げるチチチという音だけが静寂を乱している。

 しばらくすると、個室に一筋の光が差し込んだ。ドアが開けられたのだ。中に誰かが入ってくる。それはヘンテコな巫女服に身を包んだ少女、波紋だった……。

「や……、やめてェエエエエエエェェェェェェッッッ!」

 耳を突き抜けるような叫び声が響いた。現実の波紋が必死の形相で、映像を停止させるよう訴えていた。

 今、ここで映像を止めるのは少し困難だが、不可能なことではない。花子の妨害があるのを覚悟して、舞空先生を攻撃するか、スクリーンをぶった切ってしまえばいい。ポケットの中にある呪具を使えば、おそらく可能だ。

 だが、俺はそれをしなかった。波紋には悪いが、俺は見届けなければならない。舞空先生の伝えようとしているメッセージを見届けなければならないからだ。

 映像に意識を戻す。個室内にぼうっとした靄が立ち込めたかと思うと、それは突然ねねに変わった。

 個室に入ってきた波紋は最初、礼儀正しい様子でねねと話しているようだった。しかし彼女の顏は徐々に憎悪の色で歪み、態度は醜悪なものへと変わっていく。そして彼女はふいに手をつき出して、大きく口を開けて何かを唱えた。その口の動きに、俺は見覚えがあった。俺は彼女の動きをまねて言ってみた。

「人が人に罰を与えられぬなら、せめてそれを知らしめることを許したまえ。天より現れよ、断罪の象徴たる預言の糸」

「イヤァアアアァァァアアアァァァッッッ!」

 波紋が悲痛な絶叫を上げると同時に、映像のねねの首に縄がかかる。そして体を宙へと持ち上げ、か細い首を容赦なく締め上げる……!

「くっくっく、アーッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」

 それを見たねねは、まるで笑う以外の動作を忘れてしまったかのように、甲高い笑い声を洞窟中に響かせた。

 ねねの気は完全に狂っている。自分の首に縄をかけられるのを見て喜ぶヤツなんて、世界のどこを探したっているはずない。いや、ある意味では正常なのかもしれない。誰だって自分の失敗を振り返れば、大抵は笑い話になっている。だから死者が自分の死に様を思い出し、滑稽だと笑うのは当然なのかもしれない。死者と生者の境目は、おそらくそういうところにあるのだろう……。

 映像の中の波紋はねねのようなどす黒い笑みを浮かべて、再び何かを唱える。首をくくられたねねの表情は見えないが、必死にもがく姿から相当苦しい思いをしていることは分かった。そして最後、波紋が何かを叫ぶと、……ねねの体が……赤い液をぶちまけて……!

「うわぁあああぁぁぁあああぁぁぁああああああ……ッ! ああああああッッッ‼」

 映像を見ていた皆の叫び声がミックスジュースのようにかき混ぜられ、誰が何を言っているのか分からなかった。どれが自分の声なのか、それとも自分は何も声に出してはいないのか。誰が叫んでいて、誰が叫んでいないのか。もう何が何やらさっぱりだった。

 そこから先は何が起きているのかは分からない。スクリーンは一面を真っ赤な液に染められ、もう個室の中の様子は映っていなかったからだ。

「さて、こちらの証拠の提示は以上だけど……。何か反論はあるかしら?」

 ああ、そうだったのか。こいつは裁判長なんかじゃなくて、検事だったんだ。被告人の罪を見せつけるために、こんなところへ来たのか。

 裁判長は俺たちの方だ。俺たちがこの映像を見て何を思い、そして波紋への罪の裁量をどうするか。それを寧々は見たいんだ。彼女がどのような結末を望んでいるかは、顔を見れば明らかだ。……有罪。特に波紋が信じた俺、波紋を大切に思っていた先輩が木槌を叩くことを強く願っている。彼女の視線がそう語っているんだ。

 先輩の顔を見るが、無表情で何を考えているかは分からない。

 俺がどうするかはもう決まっている。ここに入る前に誓った、波紋を守るって。それは命だけじゃなくて、彼女の心さえ守るってことだ。こんなことで怯むわけにはいかない。

「逃げるな、背を向けるな。今は戦わなきゃいけねー時だ」

 彼女を信じて、俺は弁護士になるんだ。

 被告人の無罪を主張することはできない。なら、あとは何ができる……⁉

「……それでお前は、波紋が自分に酷い仕打ちをしたから魔女だって言いたいのか?」

 俺の問いに彼女はくすくすと笑ってうなずいた。

「まぁ、そういうことになるのかしらね。別に悪魔でも鬼でもいいけれど。今更だけど、別にこれは裁判でもない、個人的な復讐よ。それでも、これを正当なものだって認めてくれる人は多いんじゃないかしら? いくら親の仇だと思っていたとはいえ、ここまで残虐なことをしてみせたのだから。そして彼女はそのことを微塵も後悔していない。そうよね、雫?」

 ねねに返答を求められた雫さんは何も答えず、ただ黙って俯いていた。だがその姿は彼女がどう思っているかを答えているも同然だった……。

「何で、雫さんに聞くんだよ? それは波紋に問うべきことだろうが」

 ねねは俺の言葉を鼻で笑って一蹴した。

「だってこの状況で被告人が何を言うかなんて、決まりきっているでしょ」

 俺は返す言葉も無く、花子をにらんだ。

 その時、真っ赤な画面にわずかな隙間ができ、個室の様子が見えた。

「……泣いてる」

 無意識のうちに、俺の口から言葉が漏れた。

「……え?」

 ぽかんと口を開けるねねに、俺は聞いた。

「お前、この映像を最後までちゃんと見てないのか?」

「いえ、見ていないけど……。でもそんなもの、その女の醜さを示す以外に何の役に立つというの⁉」

 俺は黙ってスクリーンを指さした。

 一面、赤い液で濡れた映像。それに傷跡のようにできた隙間。

「あ……あ。ああッ⁉」

 ねねは驚愕の表情を浮かべて、体を震わせる。

 そこにはねねを抱いて、泣いている波紋の姿が映っていた。

「嘘、嘘……、ウソ、ウソ、ウソッ! どうして、どうしてあんたが泣いているのよ⁉ 何で、何で、何でッ⁉」

 戸惑う彼女に、俺は言ってやる。

「決まっているだろ。お前を死後とはいえ、殺めてしまった。そのことを悔いて、悲しんでいるからだ」

 ねねは髪が抜けるほどに頭を掻きむしって、俺の言葉を否定する。

「違う、違う、違うッ! ありえない、こいつは魔女、いえ悪魔のような心を持ったクズ同然のヤツなのよッ‼ 後悔なんて、するわけないッッッ‼」

 俺は矢継ぎ早に彼女に問う。

「だったらなぜ、波紋はお前を抱いている? そして何で涙をこぼしているんだ? あ、嘘泣きっていうのは無しだぞ。これを撮られているの、こいつは知らないんだろ?」

「し、知らないわけがない! 旧校舎の中には護衛戦のために、あらゆるところに監視カメラが仕掛けられている。だからそれをこいつが知らないわけがない! つまり映されることを前提に、こいつは演技しているのよッ‼」

 俺はため息をついて、それを否定する。

「証拠をわざわざ残す犯人がどこにいる? それを知っていたらなおさら、そんなものが存在するはずねーだろ。俺だったら間違いなく、監視カメラを停止させるぜ」

 ねねは拳をわなわなと振るわせて、椅子の手すりを叩く。

「信じない、信じない、信じない! 私は絶対に信じない‼ だってその子は、私が父を殺したって信じているはずなのよ⁉ それなのに仇を殺して、後悔している⁉ 信じられない……、信じられるわけがないッ‼」

 発狂する彼女は付けていた眼鏡を床に叩きつけて、足で踏み壊した。それでもなお飽きず、レンズを粉々に砕けるまで踏み割る。

 俺はその隙にポケットの中の呪具であるカッターを取り出し、波紋の首にかかったロープを断ち切った。その拍子にカッターの刃が折れる。これでカッターを使えるのは、あと二回。

「けほっ、けほ。……ありがとう」

「あ、ああ。それより、痣……」

 波紋は首を横に振って、無理に笑った。

「これぐらい平気よ。湖水に宿りし青龍よ、彼の者の傷を癒したまえ」

 波紋は首のロープを取り、首をさすった。青い痣が付いていたが、それはたちまち消えて、元の白い肌に戻った。

「……大丈夫そうだな。お前にはすべきことがある、倒れている場合じゃねーもんな」

「すべき、こと……?」

「ああ。それは……」

「お待ちください」

 俺が言いかけた言葉を雫さんが遮った。

「波紋、あなたに言っておかなければならないことがあります」

「お母さん……?」

 戸惑う波紋に、雫さんは頭を下げた。

「ごめんなさい。あなたの父……、主人を殺したのは他でもない、私自身なのです」

「えっ……?」

 俺も波紋も、突然の雫さんの告白に驚きを隠せなかった。だが俺はすぐに心当たりがあることに気が付いた。先輩が言っていたじゃないか。波紋の父が乱暴な人だったって。

「殺意を抱く瞬間は何度もあったのです。主人は少々乱暴なところがあり、私は度々、暴行を加えられたことがありました。しかし、耐えました。こんなことでそのような感情を抱くのは、妻失格だと。しかし娘にまで手を上げた時、我慢できなくなりました。あなたはまだ幼かったから、覚えていないかもしれませんけど。主人は運動こそしていなかったものの、体格は人並み以上でした。女である私では取っ組み合いをしても、勝ち目はありません。けれど陰の力を使えば赤子の手をひねるように、わけ無いことでした。今になって思います。誰かにこのことを相談すればよかったと。でも、それは無理なことだったとも思います。私には相談できる人など、一人もいなかったのですから」

 言葉を失った波紋の瞳からは、一筋の涙が流れた。

「……そんなヤツと、何で結婚したんですか?」

 俺の疑問に雫さんは苦笑した。

「それは……、急いでいたからでしょうか。よくその人のことを見ようとしなかった、それが最大の原因です。デートさえ一回もしない、お見合いによる結婚でしたから。けれど私には、どうしても早く結婚をしなければいけない理由があったのです」

 星子がおずおずと口を開いた。

「それは掟、とか……?」

「……この先は、私の口からは話せません。あの子との、約束ですから」

 我を忘れて叫び声を上げているねねを見て、雫さんは呟くように言った。

「……お母さん」

 波紋は泣きながら、雫さんの耳元で何かをささやいた。

 雫さんは驚いたような顔をしたが、やがて困ったような笑顔を浮かべて言った。

「私のような人間にそんなことを言ったら、ダメですよ」

 いつの間にか俺の隣にいた舞空先生が、優しい声で言った。

「……これでようやく、一つ決着がついたね」

「さぁ、波紋。あなたには、やるべきことがあるでしょう」

 波紋は大きくうなずき、俺たちへ振り向いた。

「私は今日まで、たくさんの罪を犯してきました。それをこれから償いに行きます。皆さん、……協力してください。お願いします」

 懺悔とともに、波紋は頭を下げた。

 俺は真っ先にもちろん、と言ってやりたかった。しかしその返事は、周りさえも無理に巻き込んでしまうものだ。人は一人でも立ち上がる人間がいたら、何と無く雰囲気で同調してしまうものだ。それぞれが自分の気持ちに整理がつくまで、俺は待つことにした、が……。

「ん」

 とノータイムで先輩はうなずき、

「私はもちろん、協力するよ」

 と舞空先生は笑い、

「僕は七色がやるなら」

 とふざけたことを暗は言い、

「私は湖水家に忠誠を誓った者です。いつでもご命令のままに」

 と委員長はかしこまり、

「ま、ここで湖水家に恩を売っとくのも悪くないよねー」

 と腹黒さ全開で星子は承諾した。

 波紋は驚きを露わにして顔を上げ、先輩たちの顔を見回した。

 俺は慌てて、波紋が思っているであろうことを皆に問う。

「待て待て、本当にいいのかよ⁉ まだ具体的な話さえ聞いてないんだぞ‼ お前らころっと騙されて怪しいツボを買うタイプだろ⁉」

 そうまくしたてる俺に、先輩は言った。

「あなたは協力しないの?」

「え、いやその、……するに決まってるだろ! っていうか俺が真っ先に名乗り出たかったっつーの、コンチクショーッ‼」

 俺は悔しさ天に向かって叫んだ。天とはいっても、天井だが。

 波紋はおかしそうに笑うと、俺の耳元に口を近づけて言った。

「あなたって、本当にバカね」

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