三章 その2
私は自分の部屋の天井をぼんやりと眺めていた。もうずっと見ている、私の世界のすべて。
久しぶりに開いた口から出たのはため息だった。
私は頑張った。なのに、すべての努力は泡となって消えた。あんなに頑張ったのに、あんなに頑張ったのに……。
「私はすべてに嫌気がさし、この思いを誰かにぶつけなくては壊れてしまいそうになりました。他人を自分の人生の生贄として欲したのです。それは自分の父となりました。私の感情の引き金は彼自身が引きました。それは些細なお小言の一つだったのかもしれないし、あるいは単に私の悪口だったのかもしれない」
そう、私の精神は限界まで追い詰められていた。友人、勉強、家族。それらすべてが私を追い詰めたんだ……。
「その時の記憶も、もうおぼろげです。この手に持った大きなハチミツのビンの感触、重さ、それを投げた時の解放感、それが父の頭を打った時の音。言葉でしか思い出すことしかできません。だけど胸を締め付けた絶望だけはよく覚えています。幸い父の命に別状は無かったそうですが、それは私にとっては関係のない話です。はっきり言ってしまえば、どうでもいいことなのです。私が絶望したのは人にケガをさせたのに、それを後悔をしていないことです。理解できないかもしれませんが、私は後悔しなかったことを後悔したのです」
覚えてる。私はこの手で父にケガをさせた。だけど全然、罪悪感が湧いてこなかった。そんな自分が怖かった……!
だって、おかしいよ。人にケガをさせたら、その人に申し訳ないっていう気持ちを抱くのが普通。それが人として当然。正常。それなのに私はそんなこと、考えもしなかったんだ……。ただ、怒られたら面倒くさいな、としか思えなかった……!
「私はおかしいのです。人としての心が腐っているのです。気持ちが死んでいるのです。それは私の心が動かす頭も心臓も手も足も指も瞼も肺も、みんなみんなおかしいのです」
私はおかしい。私が書いた遺書も普通の人が書いた遺書と違っておかしいだろうし、私が部屋から出れないで、階段を降りられないのも私がおかしいから。きっとこれから行う自殺も、普通の人と違っておかしいものなんだろうな……。
「こんな普通の世界におかしい私がいるのはおかしいことなのでしょう。だから私は×にます。おかしなものはいらないもの。ちゃんと壊して処分しやすくしておくので、ゴミ捨て場にでも運んでおいてください。つたない遺書を読んでいただきありがとうございました。どうか世界に普通が戻りますように。×月×日、××××」
私はおかしい。だから×ななきゃならない。×ななきゃ。×ななきゃ。
私は死ぬために階段を昇り始めた。高くなくても、きっと頭から落ちれば×ねるはず。おかしなものを壊せば、普通を取り戻せるよね。
私はきっと、生まれた時からおかしかった。だから×ねば普通に戻れるんだ。世界も、みんなも、そして私自身も。
よし、×のう。
決心した私はずっと前から用意しておいた遺書を机の上において、準備を始めた。
しばらくぶりに外に出たり、買いものをしたり。
誰かと話す時、声がなかなか出てくれなくて戸惑った。
私服のまま学校に行ったのは、スリルがあって面白かったな。
そして準備は夕方までに全部終わった。
私はクリーニングに出したまま一度も着ていなかった制服に袖を通した。しわひとつなくって新品みたい。くるりと姿見の前でターンしてみる。なびく自慢の長い髪。広がるスカート。何だか入学式の時に戻ったみたいで、新鮮な気分。
部屋の中はほとんど何もない。余計なものはみんな、捨ててしまったから。
私は自分の格好が×ぬのにふさわしい格好だと確かめてから、学校に向かった。
それにしても、不思議だ。何で私は死に場所に学校を選んだんだろう。
死ぬのならもっと確実な方法、人のいない場所があるはずだ。それなのに私は二階しかない学び舎から飛び降りるという不確実な方法を選んだ。
前代未聞の方法かもしれない。でも私の頭の中に、真っ先に浮かんだ方法がこれだった。
自分でもバカだなと思う。もしかしたら死にたくないという思いがあるから、成功率の低いこの手段を選択させたのかもしれない。
いや、違うだろう。私は本気で死ぬつもりだ。確信がある。覚悟がある。確実に死にたいと思っている。
……ああ、そうか。だからこそ、この方法を選んだんだ。
この方法は成功率が著しく低い。だから躊躇うことが無い。臆病な私でも迷いなく実行することができる。私の中では、一番成功率が高い方法なんだ。
でも、時間帯はちょっと悪かったな。夕暮れ時というのは人を惑わせる。私の中で死にたくないという思いが、生まれてしまっているではないか。
道中の景色は写真のように実体のないものだった。もうここは自分のいるべき場所ではないからだろう。
校舎が見えてきた。それを目にした時、わずかに哀愁の情が心に浮かんだ。
校内に入ると静けさが私を包んだ。もう遅い時間だから、みんなはすでに家へ帰ってしまったのだろう。
夕空が彩る、踊り場の窓を見上げた。陽光が眩しくて、思わず目をつぶった。久しぶりに、生きているっていう実感がした。
私はギィギィと鳴る階段を上る。一段上るたびに私の体は光に包まれていった。まるであの世の住人になる儀式のように感じた。
あと一段で階段を上りきる瞬間、私は×へ向かう甘美に酔いしれていた。夢心地な思いで、踊り場に踏み出す。
それなのに、まだ一段残ってる。あれ、と思いながらもう一回。……おかしいな、って思いながらもう一回。もう一回、もう一回、もう一回……!
「どうして、何でよ、何で登れないの⁉ 何で、何で、何でよッ⁉ おかしな私には×ぬ資格すら無いっていうのっ、ねぇ……⁉」
私は誰もいないのを知りながらも、この理不尽を強いる何者かに話し続けた。
顔はもう涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。せっかくこれから×のうっていうのに……。酷い、酷い、酷いよ……。
「私はそんじょそこらの殺人魔や兵士よりも、よっぽど残酷。枝を伐って根を枯らすなんてことはしない。この世という地獄で生きることをあなたに強いる」
誰かの声が聞こえる。誰もいないはずなのに、誰かの声が聞こえる。ああ、やっぱり私はおかしいんだ。早く×にたい、×にたい、早く×なせて×なせて×なせて!
「生きなさい。たとえ、辛い思いをしても。石を砕くように、歯を食いしばって。落ちる涙で、花のような波紋を描いて。生きなさい」
波紋……? 波紋、波紋……、波紋!
俺は夢から覚めるように、意識を取り戻した。
「……何やってんだよ、バッカじゃねーの」
ぼんやりと覚えている、誰かの記憶。俺はその誰かに、言ってやらなきゃいけねえ。そんな思いが弾けて、絶叫となって口から飛び出した。
「限界まで追い詰められる、それは仕方ないことかもしれない。だけどさ、戦うなよ。死神と戦って勝てるわけねーんだ。最後の最後まで逃げろよ、勝ち目が見えるまで逃げろよ。死んじまったら逃げることもできねーだろうが。だからひとまず逃げろよ! 絶対に戦わなきゃいけねー時まで逃げろってんだッ‼」
俺は誰に向かって叫んでいるんだろうか。分からない。でもその誰かは今、すぐそばにいる。そんな気がした。
すっきりした気分で振り向くと、わなわなと震えている先輩がいた。彼女は唇をかみしめて、俺をにらみつけていた。
「そんな……、地獄顕現を破った? 不可能、理解不能、ありえない、ありえない、ありえないッ! あれを破るのは何人たりとも不可能ッッッ‼」
「確かにこの世に不可能なことはあるだろうさ。だけど目の前で起こったことは否定するなよ。まぁ、現実逃避だって認めるならいいけどな」
階段を上ろうとするも、やはり最後の一段を上りきれない。まだこっちは顕在か。それでも俺の心には余裕が生まれていた。催眠術もどきを破ることができたんだ、このまやかしだってどうにかなるはずだ。
「一度破られたって、もう一度行えば済む……!」
マズイ、ゆっくりしている暇はなさそうだ。
俺は辺りに視線を巡らせる。それはある一点で止まった。教室に隣接する壁。その所々に穴が開いている。よし、ここから逃げる……!
「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉッッッ!」
雄叫びとともに、壊れかけた壁へ全体重をかけて突進する。
狙い通り半壊していた壁はいともたやすく壊れる。俺の体は宙に飛び出し、床へと落下した。
「いってー……」
そこは映画かゲームでしか見たことのない、荒れ果てた教室だった。床は廊下のように至るところが底ぬけていて、机はそこら中に倒れている。俺が着地した時に積もっていた埃が舞い、それが月光で照らされて、星のようにきれいだった。
「さてと、こんなところでのんびりしている場合じゃねーな」
俺は制服に着いた埃をはたき、廊下へと続く扉を開けた。
扉を開けてすぐ、天井から降りてきた縄に手首を束縛された先輩を見ることになった。
「遅いじゃない、退屈過ぎてこいつを操り人形にしようかと思っちゃったわ」
「おう、花子。お務めごくろー」
俺は明るく、その状態を作り出した人物、花子に挨拶をした。まぁ、人じゃなくて陰だが。
花子は先輩の顎を撫でていた。操り人形として値踏みしていたのか、百合っ気があるのか。意見は人それぞれ分かれるだろうが、俺個人としては後者を支持したい。
「まさか、ここまでうまくいくとはなー。もしかして俺って天才?」
花子は鼻で笑って否定した。
「バカ言うんじゃないわよ。傍から見ていた私は、危なっかしくて見てられなかったわ」
「それ、文法おかしくないか? まぁ、最終的には成功したんだし、別にいいじゃん」
俺は手をひらひらと振り、抵抗のできない先輩の胸をも……、じゃなくて胸ポケットの札を破いた。
「……どういうこと、これは?」
先輩は珍しく困惑した顔をして聞いてきた。
「へっへっへ。女子の自由を奪った後にすることといえば一つしかねーだろ」
「ふざけてないで、真面目な返答を要求する」
「はいはいよー。まぁ、簡単に言えばバカ正直な俺でも本気を出せば、先輩を騙すことができるってことさ」
俺は得意げになって説明を始めた。
「まず、召喚しておいた花子をそこの教室に待機させておく」
今しがた出てきた教室を指さす。旧校舎の部屋は生徒会室意外カギがかかっていないため、自由に使うことができる。
「次に俺が花子を今回は使わないって嘘を吐く。ここが一番の難関だったわけだが、暗いここなら挙動不審になってもばれにくいから、勝算はあった」
「そして結果は吉と出たわけね。あまりにたどたどしい口調だったから不安だったけど、あなたは思った以上に純粋だったのね。見事に騙されてくれたってわけ。くっくっく」
先輩は悔しそうに唇をかんだ。
「信じるに決まってる。昨日、あんなことがあった。それなのに、なぜあなたは花子を今回の戦いに参加させた?」
俺はにっと笑って言った。
「花子に約束させたんだ、もう二度と人を殺さないって。俺はそれを信じた、ただそれだけだ」
それを聞いた先輩はぽかんと口を開けた。
「……花子が約束を破るとは思わなかった?」
「だったら助けてやるさ、こいつでな」
俺は赤いグリップのカッターを取り出した。
「でも、あなたはそれをもう二回使ったはず。あとたった一回でどうにかできるわけ……」
「ああ、それってこれのことか?」
俺はポケットの中からもう一本のカッターを取り出す。
「え……?」
先輩は狐につままれた顔で、二つのカッターを見比べる。まさかここまで驚いてくれるとは思っていなかったので、俺はますます天狗になって説明を続けた。
「つまり、お前がさっき折ったカッターの刃は呪具じゃなくてただの文房具さ」
「私は脅されていたのよ。殺そうとしても無駄だって」
俺はまだこいつのことを完全に信用したわけじゃない。だから保険を用意しておいたのだ。
「でもあなたはもう一つ、呪術を持っているはず。なのに、何で?」
「え? 何だそれ、初耳だぞ?」
先輩の言ってることは、花子は首つりの縄意外にもう一つ能力を持っているっていうことだ。つまり俺の脅しには、何の効力も無かったってことか……。
「それなのに、お前は約束を守ってくれたのか?」
俺は花子の方を見たが、一瞬目を離した間に彼女はいなくなっていた。
「……あいつ、何を考えているんだ?」
昨日は俺が暗を助けるのを黙って見ていた。今日も先輩を殺すことができたのに、何もしなかった。
もしかしたら花子は、ただ残酷な性格をしたヤツじゃないのかもしれない。
「それより、いい加減これをどうにかして?」
「ああ、忘れてた。悪い、すぐ解く」
結び目はそう固くはなく、するすると解けた。
「先輩、そういえば一つ聞きたいことがあるんだが」
「何?」
「さっきの催眠術みたいなのって、何だ?」
先輩は腕に着いた後をさすりながらしばらく口を閉ざしていたが、やがてぽつぽつと話し始めた。
「……あの催眠術、私は地獄顕現と呼ぶ。発動すると私の頭の中には、誰かの遺書の文面が浮かんでくる。それは自殺願望者のものという共通点がある。それ以外にどんな法則があるのかは知らない。でもとにかく浮かんでくる。それを唱えると、対象者をその自殺者と同じ結末を行わせることができる」
「よくそんなエグイことを何でもないように言えるなー……」
「あなたはそれを打ち破る強さを持っている。だから包み隠さず話せる」
強さっていうか、波紋の名前を聞いたら急に目が覚めただけだけど……。まぁ、恥ずかしいから言わないが。
「でも、それだけじゃねーだろ。術にかけられた俺は自分の意識は無かった。いや、まるで別人の意思に乗っ取られていたと言ってもいい」
「そこら辺は詳しく知らない。だって術にかかった人たちは例外なく自分を失ったから」
「それってつまり、廃人状態になったってことか?」
「ん。私は命を奪わない。ただ心を殺すだけ」
……もしもあのまま自分を取り戻せていなかったら、俺も意思なき人形になっていたのか。今更ながら、恐怖で体が震えるぜ……。
「それで、その意思を乗っ取られるってどういうこと? 詳しく聞きたい」
「自分がまるで別人になったような感じになるんだ。俺の場合は確か、女の子が自分はおかしいって思いこんじゃって、そのまま飛び降りようとしたけどなぜかできなかったっていうやつだった。年は中学生か高校生かな。髪の長い女の子だった」
先輩はじっと俺の顔を見ていた。何だか照れるな。
「でも私の目には、あなたの姿は変わらなかった。これは私の推測だけど、その女の子の記憶があなたの頭の中で再現されたんだと思う」
「だけど、女の子は階段を登れなかった。これは先輩の持っている術でしか行えない。お前がその子を引き留めたわけじゃないだろ?」
先輩はうつむいて黙り込んでいた。だがふいに顔を上げて、早口で話し始めた。
「一つ、可能性がある」
「可能性?」
「私より前に階段に閉じ込める術を持っていた誰かが、その女の子を引き留めようとした」
突飛な発想。しかしその考えをバカらしいと切り捨てることはできなかった。なぜなら術にかかっていた時、窓から差し込んだ光は月のものではなくて、夕暮れの太陽のものだったから。
そのことを話すと、先輩は再び沈黙する。どうやら彼女は考えごとをする時、黙り込む癖があるらしい。
「……そういえば、ばぁやに聞いたことがある。ばぁやが中学生の時に同級生が自殺したって」
「死因は⁉」
「首つり」
首つり……。でも俺の見た光景は、飛び降りらしきものだった。
「じゃあ、そいつとは違うヤツなんじゃないか?」
俺の言葉に先輩は首を横に振った。
「決めつけるのは早い。自殺を止めた人と別れた後、再び行った可能性は捨てきれない」
何だか妙な話になってきた。俺はただの好奇心で先輩の能力を聞いただけだ。だけどそれは、過去に起きた何かと大きくつながっているらしい……。
無視することだってできるだろう。しかし、さっき俺は彼女の過去の一部を、彼女自身の意識で知ってしまった。もう引っ込みがつかない。
「……なぁ、ふと思ったんだが」
「何?」
「もしかしたら彼女のいた場所、ここかもしれない」
俺がさっき見た景色と今見ている現実を混同して考えてしまった原因の一つは、漂う雰囲気がほぼ同じだったからだ。
「でも、ここは旧校舎。ばぁやの同級生が死んだのは中学生の頃」
俺は窓の埃を指でぬぐって言った。
「俺たちの学校は小学校から大学までの付属校だ。ここがどの旧校舎か、調べてみなきゃ分からないぜ」
先輩は少し考えた後、昇降口に向かって歩き出した。俺もその後に続く。
外に出た後、先輩は何かを探し始めた。
校舎の壁、地べた、壊れた門。俺も先輩が何を探しているか察しがついたので、自分なりに当たりを探ってみる。
お目当てのものは、ぼうぼうと雑草の生えている中にあった。
「先輩、見てくれ」
俺は見つけたものを先輩に渡す。
それは一見、ただの木の板だ。しかしよく見れば、文字が書いてあったことが分かる。
「……籠目中学校」
そう、旧校舎の表札だ。
「これで同一人物である可能性はさらに高くなったな」
中学生という一致。場所の一致。能力の一致。偶然という言葉を使うにはあまりにも乱暴なぐらい、すべてが一致していた。
「……ん。確かに可能性は高くなった。だけど、決め手には欠ける」
先輩の言う通りだ。どれだけ必然的に思えても、それを事実だと証明するには確かな証拠が必要だ。
「確かにこのまま普通に調査するだけじゃ、一生かかっても分かりっこないだろうな。だから俺が考えうる中で、最も有効な方法を提案したい」
先輩は値踏みするように俺を見てからこくりとうなずいた。
「ん、言ってみて」
俺は一度強く瞼をつぶってから言った。
「もう一度、先輩の呪術を俺に使ってみるんだ」




