間章二
「どういうことですか、波紋?」
ししおどしの乾いた音が響く。月が雲に閉ざされ、人口の光も灯さない和室は墨汁で満たしたかのように暗かった。
「何のことでしょう、お母様?」
少しの沈黙を挟んで波紋は言った。完全な闇の中ではお互いの表情は当然見えない。相手の感情を探るには発言内容、声の抑揚から読み取るしかない。
「言うまでもなく、花子さんのことです」
二人は相手の発言の後に、すぐ自分が話すことはしない。相手の言葉と声を吟味するための時間を作るためだ。それは探り合いであり、騙し合いだった。自分の真意を相手に悟らせず、あるいは誤解させ、いかに相手の本心を見抜けるか。そんな好戦的な気持ちが顔ににじみ出ていた。
「彼女が暗陽輝のことを殺そうとしたことですか?」
「いいえ、そのことはどうでもいいのです」
雫の言いように波紋は眉間にしわを寄せた。人命を軽視するような言い方をしたのだ、不快に思って当然だろう。
「問題はあなたが花子さんに手を出したことです」
「はぁ、特に彼女へ害を与えた覚えは無いのですが?」
波紋の反抗的な返答に、雫は声を荒げた。
「とぼけても無駄です。あなたが花子さんに、それもよりにもよって彼女の能力を使い、害を与えたことはすでに私の耳に入っています」
波紋は小さくため息をついて、そっぽを向いた。
「確かに、その件は私に落ち度があるでしょう。しかし彼女自身には何の害も無いはずです。彼女は陰。死ぬことは無いのですから。しかし花子が手に掛けたのは人の首。……一歩間違えれば、死んでいたかもしれないんですよ!」
話している内に、波紋の気は高ぶっていった。暗を心配する七色の顔を思い出し、怒りが湧いてきたのだ。
「……お母さんにだって、大事な人を失う気持ちは分かるでしょ?」
消え入りそうな、嗚咽交じりの声で波紋は言った。
雫は波紋の気持ちに気が付いたのか、はっと顔を上げた。
もはや、最初の心理戦はすっかり鳴りをひそめていた。ここで起きているのは、ただの親子げんか。自分の思いを理解してくれない相手に不満をぶつける、単純で、しかし終わりの見えない口論だった。
「波紋、あなたの義憤はよく分かります。しかし……」
雫が言い終える前に、波紋は鬱憤を爆発させた。
「お母さんはいつもそう。いつだってあいつの肩を持つ。そんなにあいつが大事なの⁉ 家族よりも、人の命よりも、あいつの方が大事なの⁉ 答えてよッ‼」
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
激昂した波紋を前に、雫はただただ謝るだけだった。
「私は謝ってほしいんじゃない、答えてほしいの。お母さんの大事なものは何?」
雫は唇を結んで黙り込んだ。時間の流れを知らせるものが存在しないこの部屋での沈黙は、まるで時の停止を知らせているかのようだった。
「……その無言を返事としていただきます。失礼しましたッ!」
波紋が荒々しい足音を出ていったあと、雲が切れて月が顔を出し、和室を照らした。
「母さん、波紋が起こって出ていっちゃったけど、何かあったの?」
狐こと舞空九美が月光を背にして、和室に入ってきた。
「あなたは私の娘じゃないわよ?」
「いいじゃん、いいじゃん。なんかあんたって、皆の母さんって感じがするしさー」
「もう……」
雫は口では文句を言いながらも、まんざらでもない表情をしていた。
「で、どうするんだい? このまま娘とケンカしたままってのも、気持ちよくないだろ?」
「うん……。だけど、私じゃ何もできない気がするの。花子との契約もあるしね」
「契約内容を自分の子供に話しちゃいけない、だっけ? なんていうか、難儀だねー」
舞空は雫の隣にだらしなく胡坐をかき、手に持っていた酒瓶を畳の上に置いた。顔は赤く火照っていて、すでに出来上がっているようだった。
「ええ……。でも、私じゃ示せなかった。だから、波紋に頑張ってもらうしかないの」
「できるさ。あんたの娘と、七色なら」
雫は驚いた表情で舞空の顔を見た。
「七色って、波紋が候補者に選んだ子?」
「ああ。あいつは大したとりえもないけど、バカ正直で真っ直ぐっていう、かけがえのない長所を持っている。あいつなら花子の見たかった景色を見せてやれるはずさ」
舞空は酒をラッパ飲みし、口元をぬぐった。そしてにやっと笑った。
「だから雫は何も心配することは無いよ。ただ、待っているだけでいい。アタシとあいつらで、すべてを終わらせる」
雫は瞳に涙を浮かべて舞空に抱き付いた。
「泣くなよ、お月様が見てるぞ?」
「……あなたが、九美が私の夫ならよかった」
舞空は頭を掻きながら、照れくさそうに笑った。
「よせやい、アタシはメスだ」
雫の頭をなでながら、舞空は空を見上げた。
半月の夜だった。




