二章 その6
結局、トイレに着くまでにカッターは制限回数分使い切ってしまった。役目を果たしたカッターはポケットの中でお休みいただいている。
トイレに入ると真っ先に俺はドアを閉めた。体当たりの音は聞こえるが、ドアが破られる様子はない。ひとまず安心だ。
波紋の言っていた通り、女子トイレは清潔に保たれていた。いや、きれいすぎた。床が壊れていることもなく、クモの巣もない。埃も舞っていない。人が手入れしている雰囲気。この旧校舎で生徒会室と同じく、異様な場所だった。
俺は入り口から数えて三つ目の個室の前に立つ。深呼吸を数回。そして握りしめた拳を打ち付ける。
コン、コン、コン。
ノック音が残響となって耳に残る。
俺はつばを飲み込み、震える声でお決まりの文句を唱えた。
「花子さん、遊びましょう」
しんとした静寂。俺の言葉に答える者は誰もいない。
一瞬肩の力が抜けたが、すぐに気を引き締める。助力が無いのなら、迫りくる危機を自らの力で退けなければならない。
手汗をズボンでぬぐい、ドアから入口へと視線を移す。
「おわっつっ⁉」
驚いて奇妙な叫び声が出てしまった。
目の前には、いつの間にか眼鏡をかけた少女がいた。
アップで結わわれた左右の髪と、暗そうな雰囲気の漂う表情。見るからにミスマッチな組み合わせだった。
そして足元は膝の下あたりから消えかかっている。映画で見るような幽霊そのものの姿だ。
「……お前は、誰だ?」
自分が名前を呼んで召喚したのだ、正体はもちろん分かっている。しかしそれでも聞かずにはいられなかった。
少女はくっくっく、と薄気味悪く笑って言った。
「私の名前は花子。学校の七不思議の一つ、トイレの花子さんよ」
鳥肌が立つような、薄ら寒くなる声だった。
その時、どたどたと騒がしく廊下を駆ける音が聞こえた。この運動音痴特有の走り方、間違いない。暗だ。そもそもこの校舎には俺とヤツしかいないのだから、足音の主は考えるまでも無かったが。
「花子、初対面の俺がお前に何かを頼める筋合いじゃないっていうことは、重々承知している。それでもこの場を切り抜けるには、花子の協力が必要なんだ。頼む、力を貸してくれ!」
俺が頭を下げるのとトイレのドアが開くのはほぼ同時だった。
獰猛な鳴き声から察するに、相当な数の黒犬がいるようだ。もう呪具も使えない俺だけじゃ、太刀打ちどころかロクに抵抗することもできないだろう。ここで花子の協力が得られなかったらおしまいだ……。
「……いいわよ」
「ほ、本当か⁉」
俺は花子の返事を頭の中で何度か反芻し、ようやく頭を上げることができた。
一瞬、目を疑った。
目の前の彼女は変貌していた。結わわれていた髪はいつの間にか解かれていて、ヴェールのように宙を舞う。眼鏡はどこかへ消え、その下からは息を呑むような美貌が現れていた。
彼女は波紋の持つような可愛らしさは無かった。ただただ、人を魅了する美麗さだけ。もしかしたら、皆が波紋に感じている印象とはこんなものなのかもしれない。
「人が人に罰を与えられぬなら、せめてそれを知らしめることを許したまえ。天より現れよ、断罪の象徴たる預言の糸」
彼女は詠うように言葉を紡ぎ、ゆっくりとした動作で踊り始めた。彼女は舞を舞っていた。まるで琴の音色が聞こえてくるような、その華麗な動きに俺は心を奪われた。
しかし突然、後ろから必死な唸り声が聞こえ、俺の心は引き戻された。
「ウ、グ……アアァァァァァァッ!」
後ろを振り返ると、そこには信じられない光景があった。
天井から垂れ下がる無数の縄。それには無数の黒犬が、首吊りにされていた。
「うっ……うわあああああああああぁぁぁぁぁぁッッッ!」
俺は何も考えられず、ただ悲鳴を上げるしかなかった……。
「力を貸してくれって言ったでしょう? だから、貸してあげたのよ」
俺は胃から込み上げてくるものを何とか飲み込んだ。そうだ、自分から頼んだんじゃないか。ここで文句を言うのはお門違いってもんだ……。いくら常軌を逸していた方法だったとしても、彼女は助けてくれた。むしろ、礼を言わなければならない。だけど、だけど、目の前に広がる惨状に俺は涙が止まらなかった……。
暗は黒犬のことを式神だと言っていた。しかし目の前の犬は、作りものだとは思えないほど生々しすぎた。口の端から垂れるよだれ、はみ出した舌、空ろな瞳。
今、目の前のこいつらは生きている。そして刻々と、死に近づいているのだ……。
黒い犬はやがてキラキラと煌めく砂となり、崩れていく。最後には黒い紙と縄だけが残るのだろう。危機は去ったのに、やりきれない気持ちが心にこびりついていた……。
「ぅぅ……ぁぁッ、ぅうぅぅうあああぅ……」
黒い砂の向こうから、苦しそうなうめき声が聞こえた。
「あ……ああ、ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッ!」
黒犬がすべて消えて残った光景。それを見た俺は頭の中が真っ白になった。
地面が割れたかのような低いを轟かせて雷が閃き、暗の顔を青白く照らした。だが俺の目はヤツの顏ではなく、別のものに引き付けられた。空中に長い一本の線があった。それは天井から垂れ下がっており、暗の首に……ッ! 縄だ。縄がヤツの首を絞めているのだ。
縄のわっかが暗の重量によって首に食い込む。ぎゅうぎゅうと、ぎゅうぎゅうと、暗の首を絞める……。その首が折れるまで、腐るまで、切れるまで、絞めつける……ッ!
「どうして、どうして、どうしてあいつまで殺す必要があるんだよ⁉ 暗は人間なんだ、命があるんだッ‼ いや、そんなことは関係ねぇ……。ヤツは友達なんだ! 俺の友達なんだよ‼ なのに、どうしてどうしてどうしてッ⁉」
俺は花子の胸ぐらをつかんで、焼き殺すかのごとく怒りをぶつけた。だが花子はまるで喜劇でも見るようにニコニコとした笑いを浮かべるだけで、まともに取り合う様子は無い。
落ちつけ、暗はまだ生きている! 助ける方法はあるはずだ、諦めるには早すぎる‼
俺は乱れた呼吸を整え、どうにか平常心を取り戻す。
「逃げるな、背を向けるな。今は戦わなきゃいけねー時だ」
自分に言い聞かせ、頬を叩く。
頭を冷やせ、冷静になれ。
ヤツを助けるにはどうすればいい。呪具はもう使えねえ。縄を切断するのは不可能だ。
暗が縄を緩めようとして、必死にもがいている。しかしそれは自分の喉を掻くだけとなり、状況の改善にはなっていない。ヤツにつられて俺も焦りそうになるが、唇をかんで平静を保つ。
波紋に連絡してみよう。彼女なら近くにいるだろうし、不思議パワーでどうにかしてくれる。俺は通信機能を持った札に向って話しかけた。
「おい、波紋。暗がマズイことになってるんだ、今すぐ来てくれねーか⁉」
しかし波紋から応答は無い。
花子は癇に障る声で笑いながら説明してくる。
「無駄。護衛戦の慣習でこの戦いが終わらない限り、彼女と連絡は取れないわ。通信機能が働いていないってことね。もっとも、あいつは遠く離れたところにいるでしょうから、こちらに着く頃にはそこの坊やも死んでるでしょうがねぇ、くっくっく」
「さっきまであいつは旧校舎の前にいたんだぞ⁉ すぐに駆けつけられるはずだし、仮に遠くにいても呪具か何かですぐにこっちに来れるはずだ‼」
俺の反論はまるで意味をなさないと、笑い続ける花子を見ていて分かった。しかし僅かな希望を捨てきれず、最後まで言葉を切れなかった。
「くっくっく、それって式神か何かじゃない? それにもし慣習を破って近くにいたとしても、今回の戦いの準備で制限回数分の呪具を使い切っているはずよ」
……そうだ、この札だってその一つだろう。化け狐だって彼女の近くにいなかったし、外からの応援は望めない。
「くっそ、他に方法は⁉」
思考を巡らせ、方法を探す。
時間を無駄にしている間に、バリバリと暗がのどを掻きむしる音とうめき声が大きくなる。
やめろよ、そんなことしたって縄は緩むことはねえ。むしろ、余計に重量がかかってお前の首を絞めるだけだ。
……緩む? そうだ、縄を切る必要は無い。何か足場を用意して、ヤツに縄を緩めさせればいい。
足場になりそうなもの、どこかにあれば……。
視線を彷徨わせるが、見当たらない。
近くの教室に机があるかもしれないが、それを探しに行くには危険すぎる。まだ黒犬が残っているかもしれない。もしも襲われたら、もう抵抗する手段が無い。食い殺されるのが落ちだ。
もう時間が無い、他の方法を考えろ……!
改めてヤツを観察してみる。よく見れば、床とヤツの足の間の空間はさほど広くない。
「……いけるッ!」
俺は駆け足からのヘッドスライディングで暗の足元に滑り込む。そして四つん這いになって、ゆっくりとヤツの足を持ち上げる。
「いいか、しっかり足を踏ん張れ! 俺のことを踏みつけろ‼ 足を滑らせて落ちでもしたら、首が閉まってそこでお陀仏だぞ‼」
「な、なつ……や」
よし、縄が緩んだ!
「そのまま首を縄から引っこ抜け! ゆっくり、慎重にだ」
頭上で髪が縄とこすれる、ざらざらという音が聞こえる。そして背中にかかっていた重量がなくなり、どさっという落下音が響いた。
「暗ッ⁉」
俺はばっと体を起こし、ヤツの無事を確認する。首の回りにはくっきりと縄の跡が残っているが、おそらく命に別状はないだろう。呼吸もしているし、胸も上下していた。
しかしいくら命の無事を確認したところで、安心はできない。早く医者に診せる必要がある。いや、俺は医者以上に頼りのなる存在を知っているじゃないか。波紋だ。あいつの呪術ならば、どんなケガだってたちどころに治せるだろう。
俺は波紋のところに連れていくため、暗を背負って立ち上がった。
「な……つや。ありが、とう……」
「例はいらねえ。それより一つ聞かせてくれ。外に黒犬はまだいるか?」
「いや……、もう、いない」
「分かった。すぐに波紋のところに連れて行ってやるから、大人しくしてろよ」
手を切らないように注意し、割れた窓のカギを開けた。一刻も早く暗を波紋のところに連れていきたくて、昇降口まで回るのが面倒だったのだ。そして窓から外に出ようとした時だった。
「ま……待て、七色」
かすれた声で暗は話しかけてくる。
「何だ?」
ヤツは震える手を自分の胸に乗せた。そしてびりっと何かをちぎる音。
「君の、勝ち……だ、……七色」
ヤツの手には札の切れ端が握られていた。そしてその腕はぶらんと力なく揺れ、紙の切れ端は宙を舞った。
「暗ッッッ⁉」
慌てて俺は背負っている暗の顔を見た。
ヤツの口からはよだれが垂れ、気持ちよさそうな寝息が聞こえた。
「おいおい……、呑気なヤツだな」
俺は笑いながら、窓から外に出た。
最後にトイレの方へ振り返ってみたが、花子の姿は見えなかった。




