二章 その5
深夜、俺は波紋に呼び出されて例の旧校舎に向かった。昨日、散々歩いたのが嘘のように、今回はすんなりと辿り着いた。
彼女は昨日と同じ、コスプレのような巫女服を着ていた。
「ずいぶん不機嫌な顔ね。何か気に入らないことがあったのかしら?」
「別に」
トランクスとやらの騒動の疲れが残っているせいでもあるが、それ以上に暗の処置に対して腹が立っていた。
「くっそー、俺も生まれ変わったらモテモテになってやらー!」
「急にどうしたのよ……」
「俺の回りのヤツら、皆モテモテ人間ばかりなんだよ! ああくそ、羨ましい‼ 暗といい、委員長といい‼」
考えただけでも腸が煮え返るぜ、コンチクショウ!
「どーせ、波紋もモテるんだろう? 容姿はそこそこいいし、言い寄って来るヤツもかなりいそうだ」
それを聞いた彼女は、きょとんとした様子で黙り込んでしまった。
「どーした?」
「べ、別に何でも……。それならまず、その性格を直しなさい。そんなことを恥じらいも無く口にする人は、間違いなく異性に嫌われるわよ」
「願望っていうのは、まず言葉にすることから始まるんだ。目標を明確にするのって大切だと思うぜ」
それを聞いた波紋はわざとらしく大きなため息をついた。
「なら、わざわざ人に言う必要は無いでしょう」
「言葉は一人でつぶやいても言葉にはならない。誰かに聞かせることで、初めてそれは存在できる。共有っていうのかな。ほら、一人きりで生きるなら言葉なんて必要ないだろ? つまり言葉は共有から生まれるんだ」
「どれだけ理屈で取り繕っても、相手に嫌悪感を抱かれたらそれまでよ」
まさしくその通りだが。
「お前なら、こういうことを言っても相手を嫌ったりはしないだろ?」
「どういう意味かしら?」
「だって、お前暗いじゃん。こういうぐちぐちとした、愚痴とか好きだろ?」
彼女はにっこりと笑って、俺に近づいてくる。そして俺の足、それもつま先の辺りをげしげしと踏んづけた。
「いてっ、いてっ、いってーーー! 何すんだよ‼」
「黙りなさい、ブタ。そういうことを無神経に口にするからあなたはモテないのよ、クズ」
「でも事実だろ⁉」
「おまけに言葉の間にセンスも無い洒落を混ぜるとか、バカじゃないの。いえ、断定してあげるわ。あなたはバカよ」
こうまで一歩的に貶されるとイライラする。俺は少し仕返しをしてやることにした。
「じゃあ、言ってみろよ」
「え?」
「言ってみろよ、ハイセンスな洒落。ほらほら、どうした?」
「えっと、えーっと」
波紋はせわしなく目を泳がせる。
やっぱりそうだ、こいつは洒落のセンスが皆無だ! それも俺以上に‼
俺が愉悦に浸っていると、波紋は一言、ぽつりと漏らした。
「手とかけまして、真珠と解きます」
「……その心は?」
彼女は消え入りそうな声で言った。
「どちらも、つながリング……」
一陣の風が寂しげな音を立てて、俺たちの間を吹き抜けた。
「……どういうことだ?」
「ほ、ほら、手も真珠もつないでいけば、輪になるじゃない。だから……」
「念のために言っとくが、真珠はひもで繋げるから輪になるんだぞ」
「手だって、心の糸が繋がるから……ごにょごにょ」
真っ赤になった彼女はテンパって、やがて湯気を立てて黙ってしまった。痛々しい沈黙が、辛い。
俺は彼女をフォローしようと思い、頭に浮かんだ言葉をかたっぱしから並べ立てた。
「……あー、お、面白かったぜ! 俺の洒落よりマジでセンスあるって、マジで‼ もしも今、目の前にドームいっぱいの客がいたら、笑い声で地震を起こせるって‼ 自信持てよ、な?」
「……いいわよ、どうせ私はつまらない人間なのよ! もう放っといてくれる⁉」
すっかり波紋の機嫌を損ねてしまったようだ。どうにかしてヤツの気分を慰めねば……。
「ああ、そういや何でこんな時間に俺を呼び出したんだよ? こんなコントをするためじゃないだろ?」
「ええ、そうよ。あなたと漫才をするためじゃないわ」
こほんと咳払いを一つして、彼女は続けた。
「あなたにはこれから、私の護衛選抜戦に出てもらうわ」
「ああ、昨日話してたあれか。で、いつどこで……って聞くのも野暮か」
「察しがいいわね。今日ここでない限り、あなたを呼び出す必要は無いものね」
俺は肩をすくめて、ため息をついた。
「何だってこの時間、この場所が選ばれたのか、説明ぐらいはしてくれるんだろうな?」
「それは両方とも、一言で説明できるわ。人目に付かないからよ」
「まぁ、そうだよな。陰なんて超常のもの、一般人に見られたらアウトだ」
波紋はすっかり調子を取り戻したようで、余裕のある笑みを浮かべていた。
「今回行われる戦いのルールは簡単。リーグ戦で、一番多く勝った一人が護衛として選ばれる。勝負は相手に参ったと言わせるか、相手に付いている札を破るか燃やした方の勝ち。そのための手段は問わない。開始諸定位置は中央階段の踊り場。一度校舎に入ったら戦いが終わるまで出ることはできないから、そのつもりで。一歩でも出たら、その時点で失格だから」
「しつもーん」
「何かしら?」
「お花摘みに行きたくなったらどうすればいいんですかー?」
波紋は蔑んだ目をしてつま先を踏んだうえに、ぐりぐりと体重をかけてきた。
「校舎にも便所はあるでしょ、ブタ!」
「いたっ、痛いって! ていうか旧校舎の便所って衛生的にどうなんだよ⁉」
「大丈夫よ不自然なぐらい、きれいに保たれているはずだから」
彼女は俺の胸ポケットに一枚の白い紙を付けた。達筆な文字で何か書いてあったが、俺には読めなかった。おそらくこれがルールにあった札だろう。
「これも戦いが終わるまで、外したら失格だから。不正をしてもすぐに分かるから注意してね」
「へいへい」
波紋は札がしっかり固定されたことを確認するように、ぽんと札を叩いた。その時、彼女の手の感触を感じて、俺の心臓は大きく弾んだ。
「あなたに与えた陰、花子さんの説明をしていなかったわね。彼女の持つ力は、首つりと紙の色よ。けれどそれらは、あなた自身で発動することはできないの」
「……どういうことだ?」
「私の力、あなたは見たでしょう? 傷、そして病をいやす呪術。それは私自身が持つ能力のように発動することができる。つまり自分が超能力者になる、ってことね」
俺は昨夜のことを思い出す。確かに彼女はまるで魔法を使ったように、自分と俺の傷を治してみせた。
「で、花子さんの場合はどうなんだ?」
「彼女の持つ呪術は、あなたには使うことができないの」
「じゃあ俺はどうやって戦えばいいんだよ? 何も出来なかったら、一方的タコ殴りにされちまうぞ」
「案ずることはないわ。彼女が勝手に戦ってくれるから」
波紋の発言に俺は眉をひそめた。
「じゃあ、俺の出番はないってことか。まるで金魚の糞だな。ていうか、それならそいつに護衛をやってもらえばいいじゃねーか」
それを聞いた彼女は嫌悪感丸出しの顔をして、地面に唾を吐いた。
「あれに付きまとわれるなんて、死んでもごめんだわ。無論あなたにも、もし護衛になったら別の陰を使ってもらうつもりだし」
尋常じゃない憎悪を波紋から感じる。いったい花子とはどんなヤツなのだろうか。
「あと、簡単に彼女に戦いを丸投げできると思わないことね。そのためには面倒な手順があるのだから」
「面倒な手順って、何だ?」
「女子トイレに行って、入り口から数えて三番目の個室を三回ノックする。そして花子さん、遊びましょうと声をかける。それでようやく呼び出せるの」
小学生の時に聞いた七不思議そのものだった。あの頃はまさか、本当に実在するとは思わなかったが。
「でもよ、相手もただ指をくわえて見ていてくれるわけじゃないんだろ? 背を見せて走った時点で、背後からバキュン! そこでジ・エンドだ」
生身のまま戦ったって、俺に勝ち目は無いだろう。さっき言ったようにタコ殴りにされるのが関の山だ。
「そうね。だから一つ、お守りを渡しておくわ」
波紋は背負っていた風呂敷包みを開けた。中にはバスケットやガラクタの山、そして見覚えのあるカッターがあった。
「それ、昨日の……」
「ふふふ、そうよ。私とあなたの血を吸った、心血の刃」
「中二の臭いがぷんぷんするな。でもどうせならデュアルブラッディ・ブレードぐらい言ってみろよ」
「長いうえにダサい。あなたのネーミングセンスはゼロね」
心血の刃も同レベルだと思うのだが……。
俺は受け取ったカッターをポケットに入れた。
「それは誰かのかけた呪いにかかっているわ。裏の世界では、呪具と呼ばれるものよ。強い怨念の込められた物体は、陰のような力を持つようになるの。普通の人間はそれに触っても何も起きない。だけど陰を授かった、あなたなら」
俺はごくりと唾を飲みこみ、その先を引き継いだ。
「その力を引き出すことができる、ってことか」
「そういうこと。そしてこれは、とびっきり強力な負の力が眠っているわ。そんじょそこらの陰や呪具にはまず負けないわね。負の力を持っているのに、負けない。なんだかおかしいわね」
俺は波紋の説明を聞いていて、ふと嫌な想像をしてしまった。顔の血の気が引いていくのが、自分でもよく分かる……。
「どうしたの、そんな辛気臭い顔をして」
「……その怨念って、お前のものじゃねーよな?」
波紋はぱちくりと瞬きをし、やがて腹を抱えて笑い始めた。
「あはははははは! 何よそれ、さっきのつまらない洒落より、何万倍も面白いわ‼」
「つまりお前のものじゃないんだな」
「さぁ、どうかしらね。くすくすくすくす!」
その笑い転げる姿が質問の答えそのものだった。
俺はほっと胸をなでおろして、彼女の横を通り過ぎた。
「じゃあ、行ってくる」
旧校舎の入口へ向かおうとすると、波紋の打って変わった鋭い声で呼び止められた。
「待って。呪具は陰とは違う。陰は契約さえ守っていれば何度でも使えるけど、呪具には使用制限があるの。種類を問わず、一日に三回しか使えない。それの場合、刃が折れることが一回分ということになるわ。そして手に持っていれば、イメージするだけで発動してくれる。もっとも、それは呪いが強すぎて獲物を見つけると勝手に襲い掛かっちゃうけどね。」
「四回目に使おうとすると、どうなるんだ?」
「死ぬわ」
飾り気のない、簡潔な一言。しかしそれは、今まで以上に危機感をはらんだものだった。
「そうか」
俺は今度こそ立ち去ろうとして、すぐに足を止めた。
「そういえば、陰を使うには契約が必要なんだよな。俺は誰とも契約を結んでないんだが」
「私は母から陰を管理する権限を譲られたばかりの、いわゆる見習いなの。その時に先代が陰と結んだ契約内容を聞いたんだけど、花子さんのものだけ教えてもらってないの」
「……もしかして」
俺はある予感を抱いたが、それを言葉にする勇気が無かった。
彼女は躊躇する俺にかまわず、抱いた予感に肯定の返事をした。
「そうよ。あなたは私を中間に、花子さんと契約を結んだの。契約内容はさっきも言った通り。……私も知らないわ」
「……そうか」
「あの子、きっと怒ってる」
さっきまでの憎しみが冬に差し掛かった葉々のように枯れ、北風のような寂しい響きを伴った声。とても同じ人間が出しているとは思えなかった。
「何で?」
「……決まっているでしょ、怒らせるようなことをしたからよ。本当はね、頼みごとに行ったはずだったの。あなたを勝たせてくれるように、頑張ってくれって。でもできなかった。降り積もった積年の恨み。それはまるで北国の雪のように、溶けることは無いのよ」
何が言いたいのかわからなくて、俺は返答に困ってしまった。とりあえず、もっともらしい一般的回答を言っておくことにした。
「まぁ、その、今度会ったら謝っておけよ」
背を向けているから、どんな顔をしているのかわからない。でも聞こえてきた声は、僅かに元の調子を取り戻していた。
「……ええ、善処してみるわ」
旧校舎の中は昨日よりも暗い闇に包まれていた。
それもそうだろう、唯一の光源であった月光が今日は雲に閉ざされている。
俺は足元を照らすために、ライホの懐中電灯アプリを起動した。
その時、闇の奥から声が聞こえた。低い、男の声だ。
「この優しい闇の中に光を持ち込むとは、感心しないね」
俺は驚いて声の主に向って、光を滑らせた。
声の主は階段の踊り場にいた。
彼はすぐに顔を隠してしまった。だが一瞬だけ目にしたその顔は、よく見知ったものだった。
「急に僕を照らすのはやめたまえよ。眩しいじゃないか」
「お前……、どうして」
男はゆっくりと顔の前から腕をどける。やっぱり……、見間違いじゃなかった。
俺の胸の奥は疑問と怒り、そして悲哀が渦巻いて、やりきれない気持ちを生み出していた。
それは限界まで膨らんで爆発し、悲鳴となって溢れた。
「……どうして、お前なんだ⁉ 暗……‼」
ヤツはゆったりとした動作で肩をすくめ、日向ぼっこでもしているような顔で言った。
「どうしてって、僕が護衛候補だからさ。七色」
きっと俺は独り相撲をしている、バカなヤツという役を演じているんだろう。だけどそんなこと、どうでもいい。俺が抱いたすべての疑問に対する答え。それをヤツの口から聞き出さない限り、この気持ちは収まりそうになかった。
「お前、陰を使う一家の跡取りなのか?」
「うん」
「俺と戦うことに、何の疑問も持ってないのか?」
「うん」
それっきり俺は喉が内側で貼りついてしまったかのように、声が出なくなった。
何でこいつはこうも素直に、当然のように質問に答えてるんだ? 少しぐらい動揺するもんだろ、こういう時って……。
ずきずきと頭が痛くなってきたが、その原因が低気圧のせいか、それとも今の状況のせいかは分からなかった。
「分かった。君には一から話した方がよさそうだね」
暗は小さくため息をついて、そう言った。
「とりあえずこっちに来なよ。これじゃあ僕が君を見下しているみたいで、気持ちよく話せないじゃないか」
俺は言われるままにヤツの元へ向かおうと思った。
そして旧校舎の中に入った時、すぐに奇妙なものを目にした。
昇降口から少し進んで、廊下と階段の三本道に分かれるところ。その右手側に、二つの球体が浮かんでいた。
「ッ……⁉」
俺は漏れそうになった悲鳴を何とか飲み込んだ。
それは白い球体。真ん中に黒い円が一つ。後ろ側には赤い線が数本、ギザギザと走っているのが見える。
……そう、目玉だ。
気のせいだ、気のせいだと心の中で繰り返しながら暗の元へ向かう。幸いヤツは強い光を受けたせいで、まだ闇の中じゃ目が利かないはずだ。今のことも気付くのは不可能だろう。
「まず、お前の正体を聞かせてくれ」
俺は開口一番にそう聞いた。
「僕は暗陽輝。元大企業の社長の息子さ」
「おい、元の付く場所がおかしくないか?」
ヤツは頭を掻いて苦笑した。
「おかしくないよ。僕の父さんは事業に失敗して、規模を縮小したんだ」
普段の様子からは想像できなかったが、意外とこいつは苦労人だったんだな……。
「だけど、陰を持っていればそれなりの権力を持つことができるって波紋は言ってたぞ」
暗は石でも吐き出すように、大きくため息をついた。
「裏では成功していたさ。ただそれでも、表の失敗を全部もみ消せるほどじゃない。ま、それでも倒産を免れたのは裏のおかげだけどね」
そして彼は黙った。フクロウの鳴き声だけが静寂を満たす。夜はこんなにも静かなものなんだと、改めて実感した。
「で、お前はその跡取りなんだな? 表でも、裏でも」
「その通りさ。だけどもう、表は崩壊寸前。風が吹けばそのまま消え去ってしまうぐらいにね」
それで俺は全容が理解できた気がした。
「これに参加したのは、実家を復興させるためか?」
ヤツはまた肩をすくめた。だけど今度のものは、ゆったりというより、ずっしりした何かを背負ったような重いものだった。
「そういうことになるのかな。選ばれたのは偶然だった。だけど父さんは、それを期待しているみたいだ。棚から牡丹餅でも見つけた気分なんだろうね。迷惑な話さ」
口にする暗自身からは気乗りしない、だけど拒否できない者特有の暗い雰囲気を感じた。
「何を考えているんだって思うよ。僕の家が受け継いできた影は、確かに裏の仕事をするには優秀な能力さ。だけど他の陰と戦うには弱すぎる。はっきり言って雑魚だ」
「でも今は、波紋から陰を借りてるだろ」
暗はさらに沈鬱な面持ちになって先を続けた。
「先に言ってしまうけど、借り受けた陰も役に立ちそうにないよ。もう負けが決まっている。その表現も過言じゃないさ」
こんなにもこいつは、暗いヤツだっただろうか? 出会ったばかりの俺に、暗の人となりを語る資格は無いだろう。でも、いつも明るく笑っている、ウザいぐらいに楽しいヤツだ、ぐらいは言っても許されるはずだ。それなのに目の前のこいつは何かに疲弊しきった老人のように見えた。
「暗が自分のことを言ったのに、俺が語らないのはフェアじゃねーよな。まぁ、お前みたいに特別なことは何も無いが。俺の名前は七色光雨。家族を失って祖父母に引き取られた、ただの高校生だ」
暗は驚いたように目を見開いた。
「それは……、何でも無いことじゃないよ」
「いや、お前に比べたら何でもねーよ。特に家族に思い入れがあるわけでもねーしな」
外からテレビのノイズ音のような雨音が聞こえてきた。さっきまで聞こえていたフクロウの鳴き声よりも賑やかな音が響いているのに、余計静かになったように思えた。
「それよりも、教えてくれ。波紋も言っていた。裏って、具体的には何なんだ? お前たちは陰を使って何をしているんだ?」
暗は雨粒のぶつかる窓へ目を向けた。だけどサングラスの向こうにある目は窓の外を見ていないだろう、となぜか確信できた。いや、何も視界に入っていないんじゃないだろうか。微動だにしない彼自身がそれを証明しているような気がした。
「それは能力や考え方によって三者三様だよ。たとえば会長の家は不治の病を治したりして、大金をもらっている。未来予知、戦争への武力的助力、人助け。慈善事業で能力を使う家もあれば、権力や悪徳な商売として利用している家もある。つまり陰を持っている者が何をしているかなんて、一くくりに答えることはできないんだ」
お手本のような答えだな、と俺は思った。例えるなら裏の陰と陽の両方を見せられたような、どちらにもピントを絞らないで全体図をあけっぴろげに示したような。それは暗が裏の事情に興味が無いことを表しているような気がした。
「それで、お前の家は何をしてるんだ?」
「暗殺」
あまりにもさらっと言われて、俺は茫然としてしまった。
「……暗殺?」
「そう、暗殺。主に政治界の重要人物を密かに殺すことだね」
こいつは何を言っているんだ? この平和な島国、日本じゃ暗殺なんて滅多に聞く単語ではない。
「お前、運動音痴じゃねーか。とてもじゃないけど、暗殺なんかしている姿、想像できねーよ」
「もちろん、僕が自分で殺すわけじゃないよ。これを使うんだ」
暗はポケットから一枚のチケットのような紙を取り出した。まるで闇に溶けてしまいそうなほど、その紙は一面が漆黒だった。
「これは式神さ。暗殺するのに、僕自身の手を汚す必要は無いんだ。ただ式神に指示すれば、すべて片付けてくれる。証拠をまったく残さず、殺すことができる」
「いいのか? そんな大事なことをこれから戦う俺に漏らしちまって。少しアドバンテージをもらっているような気がするんだが」
「問題ないよ。さすがに今まで陰とかかわりの無かった君に負けるとは思ってない。これぐらいのハンデはあってもいい」
背筋が凍った。サングラスでも隠し切れない、鋭利な刃のような視線を感じたからだ。
「……まぁ、安心しなよ。無駄にあがかない限り、殺しはしないから」
俺は無理に笑顔を作って、ヤツに言い返した。
「ははは、そうはいかねーな。俺にも負けられない理由があるんだ」
「ふーん……。君は謎だらけだよ。湖水家が君を候補として選んだ理由も、君が参加する動機もね。でも、七色。下手に抵抗するのなら、命の補償はしない。いいね?」
「……もちろん」
暗の声と表情には、冗談もはったりも無い。ただ純粋な殺意に、俺の背筋は凍った。
「最後に教えてあげるよ。なぜ、湖水家権力者なのか」
「複数の陰と契約したからじゃないのか?」
俺は今更だと思い、そう言った。だけど暗は予想に反して首を横に振った。その時のヤツの顔は真っ白なキャンパスのような無表情だった。
「確かにそこから絶大なカリスマが生まれたのは事実だ。だけど、それはきっかけでしかない」
暗はコツコツと窓を叩いた。いやにその音は大きく響いた。
「湖水家はカゴコーを使って、陰と契約している家の子供を村に取り込んでいる」
「……っていうことは、籠目村はッ⁉」
俺はあまりの衝撃に言葉を失ってしまった。頭では理解できても、感情では納得できない。
ヤツの話によると、籠目村には多くの陰と契約した人間がいることになる。そしてそのような状況を作ったのは湖水家。ということは、取り込まれた人は全員……。
「全容が見えた、っていう顔をしてるね。おそらく君の想像した通りだと思うよ。つまりこの籠目村に住む人間の約半分ぐらい、それでも数千人ぐらいになるのかな。彼らは裏と精通していて、しかも湖水家の言いなりさ」
あまりの規模の話に、俺は乾いた笑い声で答えるしかなかった。
「ははは……、何を言ってるんだよ。そんなの、取り込まれた人にメリットも何も」
暗は俺の言葉を遮って、先を続けた。
「メリットならあるよ。湖水家には多くの依頼が舞い込む。それを村に住む、自分の取り込んだ人間に割り振るんだ。当然それらは、公にできない仕事。依頼主は社会的な大物。つまり、金になる。……湖水家の真の正体は仲介役。そして多くの人間を従えた、裏の村長でもある」
暗の説明を聞いているうちに、俺の肩は怒りに震えた。
「何だよ、何なんだよ。それじゃあ……」
「七色……」
ヤツは気遣うような声を俺にかけたが、そんなことでこの怒りが落ち着くわけも無かった。
俺は積もりに積もった怒りを活火山の噴火のごとく吐き出した。
「余計にモテモテになるじゃねーかよおおおおおおッッッ!」
「……は?」
鳩が豆鉄砲を食らったかのような、当惑した表情を暗はしている。だが、なぜ分からないのかと俺は言いたいッ!
「あんな可愛い外見に、裏の村長っていうミステリアスな追加要素付きだぜッ⁉ 少しぐらい性格が悪くたって隠せば、健全な男子は惚れちまうだろうがッ‼ それにあのドSな性格だって一部の方には大人気‼ これでモテねえ理由がどこにあるってんだッッッ⁉」
俺のがなりにヤツはサングラスがずれていることにも気が付かず、大声で笑った。
「あっはっはっはっは! 君は面白いね、実に面白いよ‼ 会長に惚れたなんて、生まれて初めて聞いた‼」
今度は俺が当惑する番だった。顔全体が熱を発し、頭の中がぐちゃぐちゃになる。胸の奥から羞恥心が、どくんどくんと沸いてきた。
「おいおい、俺は自分が惚れたなんて言ってないぜ⁉ ただあの外見なら、絶対にモテるって言っただけだ‼」
「会長にかかわる人間は、ほとんどが裏の顔を知っているからね。仮に知らなかったとしても、周りの雰囲気と彼女の態度で気後れしてしまって、惚れるどころじゃない。彼女はモテないよ、良かったじゃないか七色!」
「だ、だから何勘違いしてんだよ! 確かに可愛いとは思うけど……」
『こほん、こほん!』
その時、札から波紋の声がした。どうやらこれは通信機能もあるようだ。
『いい加減、始めたいんだけどいいかしら?』
「お、おう」
さっきまでの話を聞かれたのかと思うと、気恥ずかしくて素気ない返事しかできなかった。
『双方、準備は――』
「ちょっと待ったああああああッ!」
俺の気合の叫びは無音の世界を創造した。……つまりみごとに滑った。
『……何よ? さっきはいいって言ったじゃない』
ため息をつく波紋に、俺はチッチッと指を振って意見を述べた。
「まぁまぁ、聞いてくれよ。俺は陰の効果的に、立ち位置が重要なんだよ。そこで開始位置を一階側と二階側に分けて、ジャンケンで場所を決めたいってわけだ」
ちなみに一階側の方が微妙に女子トイレに近い。だから俺はそっちに立つことができれば、多少有利な状況で戦いを始めることができる。
『好きにすればいいんじゃない?』
「僕はどうでもいいよ」
全員の同意を得られたところで、俺は掛け声とともに拳を振り上げた。
「じゃあ行くぞ~! 最初はグー、ジャンケンポン‼」
俺がパー、暗がパーだった。数度のあいこの後、俺のチョキが暗のグーに敗れた。
「七色は一階側でいいよ」
「いいのかよ? お前、運動音痴なうえに、色々あって疲れてるだろ」
「別に肉体的に疲れていても、陰を操るのに支障はナッシングさ」
暗は自分が負けるとは、微塵も思っていないようだ。まぁ、そりゃそうだ。今までのんべんだらりと生きてきた俺とヤツじゃ、踏んできた場数が違いすぎる。
『それじゃあ、今度こそ準備はいい?』
「オフコース」
「ああ、いいぜ」
もったいぶった沈黙の後、波紋は開幕を告げた。
『我への忠誠を胸に、いざ始めよ!』
俺は始まると同時に、暗に背を向けて走った。
「まずは、ひとまず逃げる! あばよ暗‼」
走り出すと同時にポケットからカッターを取り出し、持っておく。
階段を二つ飛ばしで降りる。途中で足が絡まって転けそうになったが、何とか体制を立て直して駆ける。
階段を下り切ろうとした瞬間、ひとりでにカッターから刃が飛び出して、蛇のような動きで背後の何かに襲い掛かった。
後方をちらりと確認すると、黒い大型犬のようなものが刃に一刀両断されていた。真っ二つになった犬の体は、キラキラ光る黒い砂になって崩れ落ちた。……あまり見ていて気分のいいものじゃないな。
俺は最後まで確認する余裕もなく、廊下の角を曲がる。
その瞬間、暗のハリのある声が耳に届いた。
「私はいつだって、お前を見ている。気付かぬならば、その証を見せてやろう」
その声と同時に俺は強く目をつぶり、勢いをつけて前方へショルダータックルをかました。確かな手ごたえを感じ、何かが前へと吹っ飛ぶ。おそるおそる瞼を開けると足元には目を懐中電灯のように光らせた人体模型が転がっていた。おそらく何らかの方法で目意外を透明化して、さっきの詠唱で目を光らせたのだろう。確か七不思議の一つに、ベートーベンの目が光るってあったしな。
人体模型に気を取られていると、乱暴に鈴を鳴らしたような音が響いた。
「グルァァァァァァッ!」
「ッッッ⁉」
驚いて顔を上げると、窓をぶち破った黒い大型犬が俺に向って飛び掛かってきていた。
「な――ッ⁉」
眼前に迫る黒犬に、俺は何の抵抗もできなかい。しかし黒犬の攻撃はあと一歩で俺に届かなかった。カッターの刃がムチのように黒犬に襲い掛かり、いとも簡単に八つ裂きにした。
カッターの刃は黒犬を切り刻み終えると、パリンと音を立てて折れてしまった。
「これで残り二回、か……。それにしてもスゲーな、これ……」
窓の外からはまだまだ犬どもが群となってこっちに向っていた。
「やっぱり、さっきの犬も事前に呼び出しておいたヤツだったのか……」
戦いの前に仕掛けを用意しておいてはならない、ってルールは無かったしな。俺も先に花子さんを呼んでおけばよかった。まぁ、今更ぼやいても後の祭りだ。
「とりあえず、早くトイレに逃げ込まないとヤバイな……」
俺は脚の回転を速めて、女子トイレへ急いだ。




