序章
「失礼します、お母様」
「入りなさい」
薄暗い和室にすっと月光が差し込む。
室内にいた女は、閉じられた目をうっすらと開けた。
彼女の前には高校生ぐらいの少女が穏やかな笑みを浮かべて座った。
「今日、あなたを呼び出したのは管理権を譲る儀式のためです。この意味が分かりますね?」
「はい、お母様。湖水家が代々受け継いできた陰を私が譲り受ける、ということです」
女の問いに少女はよどみなく答えた。女は無表情でうなずいた。
「よろしい。……本来ならこのまま何も告げずに儀式を行う所ですが、あなたには一つ言っておかなければならないことがあります」
「何でしょうか」
「……例の件は、あの子の仕業ではないということです」
室内に差し込んでいた光の線がすっと引き、完全な暗闇が訪れる。互いの表情は闇に溶け、相手の表情がまったく見えなくなった。
そのせいで女は気付かなかった。少女の顏に一瞬、影が落ちたことを……。
再び月光が和室を照らす頃、少女の顏には元の穏やかな表情が浮かんでいた。
「はい、お母様」
「分かってもらえたなら、よかったです」
女は厳しい表情を崩し、破顔した。
張りつめていた空気が緩み、二人は冷めた緑茶に口を付けた。
「では継承の儀を行います。居住まいを正しなさい」
「はい」
少女は背筋をぴんと伸ばし、目を伏せた。
女は着物を着ているにもかかわらず、衣擦れの音一つすらさせずに立ち上がった。
「我、湖水雫は現時刻を持って湖水家代表の座を湖水波紋に譲る。これは我の子孫だからという理由だけではなく、彼の者の器量と素質が湖水家代表としてふさわしいと判断したからである」
女、雫は神棚から幣を手に取り、少女に突き付けた。ただし、持ち手を少女に向けて、垂らした紙を自分の方へ向くように持っている。
「継承者、香水波紋。そなたは湖水家の引継ぎし、偉大なる陰をその身に秘める覚悟はあるか?」
「もちろんです、お母様」
少女、波紋の言葉に応じるように、雫の持つ幣から淡く白い光玉が泡のように現れる。
光玉は流れ、波紋の額に吸い込まれる。
すべての光玉が消えると、雫は波紋に幣を差し出した。
「儀式は終わりました。これより湖水家の代表はあなたです」
「謹んで頂戴します」
波紋は幣をうやうやしく受け取り、立ち上がった。
その所作の節々から継承者としてふさわしい自信が感じられた。
波紋は気付いていなかったが、その様子を部屋の隅で見守る小さな影があった。