閑話1 媚薬/チョコレート
夜会の裏話です。
文中の『フロレンチア』『ドロイラ』『イスパーニャ』は、フェルナンド王子の母国語です。
【フェルナンド視点】 媚薬
その女を見た瞬間、目が離せなくなってしまった。
夜空よりも黒い艶やかな髪。
黒く長い睫毛に縁どられた、黒曜石のような黒い瞳。
肌理の細かい滑らかな肌。
凹凸に乏しくも、整った顔。
話しに聞く遥か東方にある帝国の人のような容姿だ。
なんとも興味をそそられる。
フロレンチアの神殿学校で出会った女は、ドロイラの王女の付き添いらしい。いや、付き添いにしては王女との仲が親しすぎる。
自由奔放でいながら、時と場によっては礼を弁える。
常識に疎いところも見られるものの、教養は十分にある。むしろ、教科によっては教える側よりも知識があるのではないかとさえ思える。
不思議な女だ。
名をマイ・クロフィメと言う。
本人は否定しているようだが、黒き姫君と呼ばれているところを察するに、きっとかの帝国の姫なのだろう。
ならば身分も申し分ない。
しかも、聖女候補になったというではないか。
聖なる女神の生まれ変わりだと言う者も多い。
俺には高く括った髪型意外に聖なる女神に似ているとは思えぬが、世間が言うのならそうなのだろうし、彼女の価値を高らしめるなら好都合だ。
侍従によれば、今回のドロイラの王女の遊学は俺との内々の顔合わせだという。
つまらぬ。
あのような子供よりも、クロフィメ嬢のほうが我が妻に相応しい。
あの黒髪の姫を見れば、誰もが羨むに違いない。
まぁ、体つきが貧弱なのが少々不満だが、ドロイラのような田舎では碌な食事ではなかったのだろう。我がイスパーニャ王国に来れば、すぐにふくよかにさせてやれる。
聖なる女神の生まれ変わり、聖女候補の黒き姫。
ぜひとも我が物にしたい。
俺は逗留先のフロレンチア公に、近々開かれる公主催の夜会にクロフィメ嬢を招くように要求した。
公爵は一も二も無く応じた。俺の機嫌を取りたいのだろう。
公爵と言えば聞こえはいいが、遥か昔に任じられたフロレンチア公を代々受け継いでいるだけに過ぎぬ。領地の運営は経済にしろ政務にしろほとんどが平民に差配されるがままで、領主という地位さえ安泰ならばよしとする凡庸な男だ。
近頃はその地位さえ一介の商人によって危うくされているともなれば、大国であるイスパーニャに恩を売っておこうと考えるのも止むを得ぬところだろう。
夜会で会ったクロフィメ嬢は更に美しかった。聖女候補ということも相まって、誰もが目を奪われていた。
なかなか踊ろうとしないクロフィメ嬢を俺が強引に誘ったことがきっかけになり、次々とダンスを申し込まれた彼女は、さすがに疲れたのだろう。残念がる相手に丁寧に謝り、広間の隅にさがった。
そして、使用人の案内で休憩用の個室に移動した。
計画どおりだ。
俺は、クロフィメ嬢が疲れた様子なら個室に誘導するようにと、予め公爵を通じて使用人に命じておいたのだ。そして、用意しておいた菓子を出すようにと。
この菓子はショコラテという、新大陸から持ち込んだカカオの実を原料にしたものだ。
それ自体はとても苦いのだが、砂糖や蜂蜜、ミルクを加えてれば甘く仕上がり、女の口にも合うものになる。
実は、このショコラテを食べると体が熱り頭がのぼせるのだ。特に女子供にはよく効くらしい。つまりは、媚薬の類だ。
ショコラテを口にした女を口説き落とすのは容易い。甘い言葉を囁けば、後は俺の思うがまま。今までこれで落ちなかった女は皆無なのだ。
クロフィメ嬢とて同様だろう。
どのような痴態を見せてくれるのか、今から楽しみだ。
そろそろ頃合いかと、クロフィメ嬢のいる部屋の扉を叩く。
返事もそこそこに扉を開ければ、部屋にはショコラテ独特のほろ苦い香りが満ちていた。
「ああ、クロフィメ嬢。こちらにいたのですか」
本来なら女が一人でいる部屋に男が入るのは許されざる行為だが、媚薬が効いた女にそれを糾弾する意識は無い。もっとも、素面でも俺を拒む女は少ないがな。
クロフィメ嬢は俺に気づくと、さっとソファーから立ち上がった。その手にショコラテの菓子を持って。
案の定、彼女の頬は上気して赤く染まっ……ていない? 食べていないのか?
いや、ショコラテの皿はほとんど空だし、彼女の口元も密かに動いている。
どういうことだ?
「……菓子は気に入っていただけましたか?」
彼女が言葉を発せないことを察するように、軽い調子で話題を振ると、
「……は、はい。とっても!」
少し照れたような笑顔が返ってきた。
ふむ。食べたことは確かなようだ。まぁ、薬が効きにくい体質なのかもしれない。ならば、別の手でいくか。
「それはよかった。実は、その菓子は『ショコラテ』といって、我が国で作られたものなのです」
「え、じゃあ、ここでは手に入らないのですか?」
クロフィメ嬢の困惑した声に手ごたえを感じる。
「ええ。ですが、我が国来れば好きなだけ食べられますよ」
「あ、いえ、食べたいわけじゃないんです。あ、もちろん食べたいんですけど、今はそういうことじゃないっていうか」
ん? 何を言っているのだ? ショコラテだけでは足りぬと言うのか?
「ショコラテだけではありません。我がスパーニャ王国は今新大陸から様々のものを運び入れています。この交易のおかげでスパーニャは今や世界一の強国になりました。我が国に来れば欲しいものは思いのままに手に入りますよ」
そして、軽やかに右手を差し出す。
「どうです? 我が国いらっしゃいませんか? 我が妻として」
「……は?」
あまりに魅力的な申し出に、さすがの聖女候補も理解が追い付かないのか。
「私の妻になって欲しいと言っているのです」
「いえ、でも……」
ん? これほど直接に言えば即受け入れると思ったが、まだ躊躇っている?
「無論、正妻として迎えるつもりですし、将来は王妃となることを約束いたしましょう」
「王妃?」
クロフィメ嬢は眉を寄せて訝しんでいる。俺が第2王子だから王妃になれるわけがないと思っているのだろう。
確かに、俺はイスパーニャ王国アズオブルゴス家の次男として生まれたが、それがどうした。
第1王子の兄は愚鈍だ。先に生まれたというだけで自分が王になれると妄信している取るに足らない男だ。俺の方が王に相応しい。
「私が第2王子だからと躊躇う必要はありません。国では少なくない貴族が兄ではなく、私を王太子に推しています。故に私が王太子になることは間違いありません。そして、いずれは国王です。そうなれば、あなたは王妃になるのです」
誰もが羨むイスパーニャの王の妻の座だ。断る理由などなかろう。
「え、私、王妃なんて無理です」
だが、クロフィメ嬢は胸の前で両手を振って俺の手を取ろうとしない。
なぜだ?
栄華を極める世界一の強国、イスパーニャの王妃だ。あらゆる賛美を集め、叶わぬ望みなど無い。これ以上のものがあるだろうか。
そういえば、東の帝国では謙虚さが美徳だと聞いたな。すぐに承諾するのは良くないと躾けられているのか。
「謙遜することはありませんよ。あなたはとても美しく優秀だ。あなたがスパーニャの王妃になることに何の不足があるでしょうか。むしろ、あなたでなければ私の傍に立つことなどできますまい。さあ、この手を取って我が妻となってください」
クロフィメ嬢は困ったような顔のままで、じりじりと時間が過ぎる。
いつまで俺にこの姿勢を取らせるつもりだ。
「……あまり私に恥をかかせないで欲しいな」
つい、先程と同じセリフを口にすると、
「ごめんなさい!」
と、クロフィメ嬢が体を前に折り曲げた。何のつもりだ?
訝しく思っていると、クロフィメ嬢はその姿勢のまま言葉を続ける。
「私、王妃とかそういうの苦手っていうか、面倒そうなのでお断りします」
「め、面倒?」
王妃が面倒?
「じゃあ、私もう広間に戻りますね。ごきげんよう」
クロフィメ嬢はそう言うなり、完璧なカルタシーの後、淑女にあるまじき速足で部屋を出ていった。
ははっ。誰もが羨むイスパーニャ王国の王妃を面倒だと一蹴する女がいるとは思わなかな。
おもしろい女だ。
マイ・クロフィメ。
黒き姫君。
なんとしても我が物にしたくなったぞ……。
【マイ視点】
あー、ビックリした。
いきなり妻にならないかとか意味わかんない。
ていうか、あの人クラリスのお見合い相手でしょ。私が受けるわけないじゃない。
だいたい、私には高妻くんがいるんだから!
……まぁ、別に結婚するとかそういうんじゃないけど、ほら、一応ね、付き合ってるわけだし、エスコートしてもらってるし……。
エスコートの相手って、家族とか親戚じゃなかったら、婚約者みたいな特別な関係だって見られるのよね。王子には高妻くんがそう見えなかったってことかしら?
うーん。何がダメだったんだろう?
もっとベタベタしたほうがいいのかな? でも、そういうガラじゃないしなぁ。
高妻くんんもマメじゃないっていうか、普段から愛情表現が足りないのよね。
私に魅力が無いってことはないはずだし。ほら、プロポーズだってされたし。
あ、プロポーズされたって言ったら、ちょっとは焦るかな? それで、私を引き留めようとあれこれしてくれる?
うーん。無いわぁ。
逆に身を引かれそうで恐いし、そもそもそういうのってフェアじゃない気がする。
やっぱり、王子とのことは内緒にしておこう。
それよりも、チョコレートよ、チョコレート!
デュロワールじゃ見たことなかったから諦めてたけど、まさかここにあるなんて!
あ、でも、スパーニャに行かないとダメなのかな? うーん、あの王子に頼むのはちょっとイヤだし……。ジローラモさんに聞いてみようかな。
あるとわかったからには欲しいもんね。
チョコレート。
この時期の必須アイテム。
なんとしても手に入れなくちゃ……。




