凡人は想われる
俺は恐る恐る、怪しげな靄に手を突っ込んでみる。
「…………っ」
予想通りというべきか、この先は《向こう側》に通じているらしい。本来は壁に突き当たっているはずの俺の手は、謎の空間に転移してしまっている。
俺は無言で腕を戻すと、生徒たちを振り返った。
「おまえたちは簡単に言うが、この先は危険だ。なにが潜んでいるかわからない」
邪神族が潜伏している可能性もおおいに考えられる。ゴブリンなどと、誰でも倒せるような魔物とは格が違うのだ。
それでも――
「私は行きたいです。アシュリー先生!」
決然とした瞳でそう言うのは、剣聖の娘たるリュア・レインフォート。
「レインフォート流は悪を断つ聖なる剣技……。父の背に追いつくためにも、ここで引いてはいられません!」
「リュア……」
そうか。
彼女には彼女で、引けない理由があるんだよな。
剣聖の娘として生まれたにも関わらず、低すぎるステータスのせいで、おそらく父からは見放されつつあるのだろう。だから――いまできることを、精一杯やりたいのだ。
「ふふふ……私は言うまでもないでしょう? アシュリー先生」
ミアは相変わらず小悪魔的な笑みを浮かべる。
「ご心配なさらず。私もリュアも、引き際はわきまえています。危険を感じたら引きますので……どうか行かせてください」
「…………」
そう。
もしこの場に生徒たちがいなければ、俺は問答無用で靄に突っ込んだだろう。大事な故郷が近くにあるのだから、放っておくわけにはいかないのだ。
なにより気がかりなのは――生徒たちだ。
「こうなったら仕方ない。君たちは教室に転移してもらって、俺ひとりで……」
「な、なにを仰いますか先生!」
リュアがちょっと怒ったように叫ぶ。
「わ、私たちはそんなに頼れませんか!? そんなに……足手まといですか……!」
「リュア……」
「力不足は充分に承知しています。でも……先生は右手が使えない! 自惚れているかもしれませんが……どうか、サポートだけはさせてください!」
「ふふふ。リュアは、剣技とは別の意味で先生が放っておけないようですね♪」
うっとりしたように頬に手を添えるミア。
「……でも、リュアの言っていることも一理あると思いますよ? 相手がもし、私たちの予想通りだとしたら……さすがの先生だって、手助けはほしいでしょう?」
「…………」
「大丈夫です。ちょっとだけでいいですから……その背中に乗ってる重たいモノを、私たちにも背負わせてください」
「ははは……すごいな、君たちは」
これがリングランド魔術学園の生徒たちか。
本当に……できあがった生徒たちだ。
戦闘の腕前はまだまだ未熟だが、いずれ本当に、国にとって重要なポジションに就くだろうな。
「わかった。一緒に行こう。ただし、危険と判断したらすぐに退却する。それでいいな?」
「「はい!」」
二人の返事が重なった。
幽世の神域。
リアヌに案内してもらった場所はどこか神秘的な雰囲気を漂わせていたが、この場所は違った。
一言で例えるならば――面妖。
周囲には背の高い木々が天を貫いており、地には雑草が生い茂っている。また正体不明の光虫が飛び回っているせいで、この場所の空気そのものが翡翠色に染まっているようだった。
「な、なんなんだ……これは……」
リュアが目をぱちくりさせたまま立ち尽くしている。
「幽世の神域……。思った通り、ただならない重圧だな」
「ええ。そうですわね……っつ!」
それはあまりに突然だった。
「お……おい!」
ミアが急に頭を抱え、うずくまりだしたのだ。
さっきまでの余裕そうな表情はどこにもない。苦悶に表情を歪ませている。
「大丈夫か! ミア、ミア!」
「はぁ……はぁ。ええ……大丈夫です。ちょっと頭痛が起きただけで」
「…………」
ちょっとどころではなかった気がするが……
「やっぱり戻るか? 体調が良くないなら――」
「ふふ……先生。大丈夫ですよ。私だって……どうしても調べたいことがあるんです」
「ミア……」
と。
「二人とも、静かに! 構えろ!」
ふいにただならぬ気配を感じ取り、俺は全力で叫んだ。
――この尋常ならざる力の胎動。
忘れもしない。
これは……!
「いるんだろう! 出てこい、邪神族ども!!」
「はは……我らの気配を感じ取るとは。大きくなったな、アシュリー・エフォートよ」
そして。
俺たちの目の前に、緑色のローブを被った見覚えのある男――邪神族が現れた。
かつて転生者アガルフ・ディぺールを呼び寄せたとき、サヴィターの隣で転生者を持ち上げていた人物だ。