凡人は平和を噛みしめる
終わった……のか……
俺は大きく息を吐き込むと、その場にどさりと倒れ込んだ。
全身が痛い。
身体の節々から血が濁流のように放出されていくのがわかる。
「はぁ……はぁ……いつつ……」
もう動けない。
なにもしたくない。
見ると、俺の隣でもアガルフ・ディペールが同じ姿勢で横たわっている。
彼も魔神によって散々痛めつけられたうえ、右腕を失った身だ。その痛みはもはや想像を絶するものだろう。
――アガルフ・ディペール。
いままで相当に憎んできた奴ではあるが、このときだけは、なにをする気もなれなかった。そんな元気もないしな。
「ダーリン……よく頑張ったの」
優しい声音でそう言ってきたのは、俺の恩人にして師匠――リアヌ・サクラロードだ。
彼女も相当に疲れ果てているだろうが、俺たちのように倒れ込んではない。さすがは神というべきか。
リアヌは俺の横にしゃがみこむと、ゆっくりと額を撫でてきた。
「すまんの……すぐに回復魔法をかけてやりたいところじゃが、妾も終焉魔法で力を出し切ってもうた。もうしばし、辛抱してくれまいか」
「大丈夫さ……死にゃしない……」
むしろ、いまの俺は恐ろしいほどに穏やかな心境だった。
やっと魔神を倒せた達成感。
そして、ルハネスを始めとして、多くの犠牲者を出してしまったという虚無感。
いま、俺の感情はかつてないほど真っ白だった。
「なあ、リアヌ……」
「ん?」
「これで終わったのか……? 世界は平和になったのか……?」
「…………」
リアヌは数秒の沈黙ののち、言いにくそうに言葉を紡いだ。
「……たしかに当面の脅威は退けた。……だが、根本的な問題は解決できておらん。残念ながらな」
「根本的な問題……」
俺がオウム返しに呟くと、隣で横たわるアガルフが言葉を発した。
「……女神さんの言う通りだと思う。サヴィターやユージーン大臣はまだ生き残ってるし、奴らがなにをしたかったのか……俺にも正直わからない……」
そうだ。
諸々あって忘れていたが、サヴィターを始めとする邪神族はまだ健在である。
加えて、今回の魔神出現を企てたユージーン大臣のことも放ってはおけない。
アガルフの声がふいに震えだした。
「俺やレイリーはまんまと踊らされたわけだ。おそらくは、あの魔神シュバルツを蘇らせるために……」
「うむ。そうじゃの」
リアヌが同意の首肯をする。
「魔神が倒れたことすらも、奴らにとっては想定範囲内じゃろう。まったく、愚かな者どもめ……」
「マ、マジかよ……」
魔神を倒して終わりじゃないのか。
……それどころか、どんどんスケールが大きくなっている気がする。
もしかして、今回の事件は始まりに過ぎなかったのか……?
「ア、アシュリー!!」
いきなり名前を叫ばれ、俺はびっくりする。
振り返るまでもない。
ファトル村からずっとついてくれた幼なじみ。マリアス・オーレルアだ。
「こらこら。ダーリンは満身創痍じゃ。そこで止まれい」
「リ、リアヌさん、そのポジションずるいんですけど……」
「わっはっは。おぬしも妾と同じくらいに強くならなくてはな。さもなくば、ダーリンを抱擁する資格はないぞ?」
「む、むむむぅ……」
どういうわけだか女同士の喧嘩が勃発している。
激闘後だってのに、元気だなこいつら。
「やめてくれ、めんどくさい……」
「むー……」
マリアスは納得しかねる様子で頬を膨らませる。
そのとき。
どどどどどどどど! と。
多くの足音が近づいてきて、俺は思わず肩を竦めた。
「おお! まだ生きてる! よかった……!」
「ありがとう。あんたたちがいなかったら、今頃どうなってたか……」
どうやら生き残った住民たちらしい。
みんなが輝く瞳で俺を見つめてくるから、なんだか心地悪いぞ。
「なあ剣士さん、あんた、名前はなんていうんだ?」
「えっと……アシュリー。アシュリー・エフォート……」
「アシュリーか。わかった。覚えとくよ!」
なんだかむず痒いな。
そんな尊敬するような目で見つめられるなんて……慣れてない。
「アシュリー。あんたは街の英雄だ!」
「SSSランクの冒険者なんだろ?」
しばらく住民たちは俺を誉め称えたあと、街の復興作業に戻っていった。彼らのなかには身内をなくした者もいるだろう。こんなことに時間を費やしている場合ではない。
「ふふ……ダーリンよ、悪い気はしなかろう?」
リアヌが嬉しそうに頬を緩めながら言った。
「これは間違いなく、ダーリンが勝ち取った実績じゃ。すべての脅威が去ったわけではないが、お主は見事、神に打ち勝ってみせた」
「リアヌ……」
「妾は嬉しいよ。転生者でも神でもない。どんな者であっても、いずれは達人の境地に達せる。それをダーリンが証明したのじゃ」
「……それはリアヌのおかげだよ。リアヌに出会えなかったら……俺は今頃村で引きこもってただろうし」
「ふふ。そう謙遜するでない」
そう言って優しく撫でてくるリアヌだった。
しばらくは穏やかな時間が流れた。
アガルフはかなり気まずそうにしていたが、俺もリアヌもマリアスも、しばし談笑に花を咲かせる。ゆっくり言葉を交わすなんて、そういえばろくになかったからな。
「あ、そうだ」
ふいにマリアスが思い出したように言う。
「ねえアシュリー、ルハネスさんのご遺体……見てない?」
「え……ルハネスさんの?」
「うん。せっかくお世話になった方だし、ちゃんとお墓つくろうと思ったのに……どこにもないの」
「そうか……」
まあ、魔神に対して派手な魔法を何度もぶっ放したからな。考えたくないが、見つかりづらい状態にあるのかもしれない。
と。
「ルハネス……?」
ふいに、リアヌが若干険しい顔つきで呟いた。
「もしや、あのSランク冒険者のことかの?」
「あ……ああ。そうだが……」
振り返ってみれば、リアヌはルハネスのことをほとんど知らないままだったな。
彼と初めて会ったのも、リアヌがいないときだった。
マリアスとリアヌが《幽世の神域》にて修行していたとき、初めて彼と出会ったのだ。
「……ダーリン。そういえばお主が神の力に目覚めたのは、ルハネスが倒れた直後じゃったな?」
「そういえばそうだな……。それがどうかしたか?」
「なるほどのう……」
リアヌはすべてを察したかのように、ふいに背後を振り向く。
「隠れていないで、そろそろ出てきたらどうじゃ。サヴィター・バルレよ」
「――ほほう、さすがに気づいていたか」
え……?
邪悪な声とともに背後に現れるは、邪神族が長――サヴィター・バルレ。
疲労のせいかまったく気づけなかったが、どうやらずっとそこに潜んでいたらしい。リアヌの視線が嫌に鋭かった。
「サヴィターよ。とぼけるのもそこまでじゃ。いったいなにを隠しているか……洗いざらい話してもらおうかの」
「ふふ……なにを今更。私はなにも隠してはいない。昔から言ってるだろう? 私は永遠なる僕。あの方の忠実な犬でしかない」
「あの方……?」
目を丸くする俺に対し、サヴィターは「くくく」と含み笑いを浮かべる。
「わからないか? おまえたちはあの方に何度も会っているぞ」
「え……」
俺が言葉を失った、その瞬間。
「――さっきぶりだなアシュリー。マリアスも」
Sランク冒険者――ルハネス・ゴーンが、サヴィターの隣に現れた。