確かな未来へ向けて、敢然と。
「ああああああっ!」
魔神に殴られたアガルフは、呆気なく民家の壁面に激突し、その場に崩れ落ちてしまった。
しかも相当のダメージを負ったのだろう。
数秒たってもまったく起きあがる気配がない。
「え……?」
「嘘だろ……?」
しん、と。
周辺で戦いを見守っていた住民たちが、一転して押し黙る。さっきまで酔いしれるように転生者を応援していた者たちが、一瞬にして静かになった。
それほどまでに、この戦いには現実味がなかった。
最強と呼ばれた転生者、アガルフ・ヒドラー。
彼が手も足も出せず、むしろ弄ばれてしまうとは。
転生者を盲信している現地人には、とうてい信じがたい光景だろう。
「ふふ……どうしたアガルフよ」
魔神シュバルツは暗い笑みを頬に称えながら、つかつかと転生者に歩み寄っていく。
「加減はした。まだ意識は残っているはずだ。それでも起きあがろうとしないのは、私と戦うのが怖いのかな」
「…………」
たしかにそうだ、と俺は思った。
気配を察するに、アガルフはまだ起きている。明確な意識が残っている。
なのに――やられたフリをしたまま、動き出す様子もない。
彼我の実力差を知って、絶望してしまったのだろうか。
「くく。アガルフよ、私にそのような小細工は効かぬ。ほれ、起きあがってくるがよい」
言いながら、魔神シュバルツは人差し指をくいっと自身の方向に折り曲げた。
と。
「……くあっ!?」
なんらかの魔法が発動したらしい。アガルフが急速に魔神に吸い寄せられていった。その際に瓦礫が勢いよく崩れ落ち、大きな破砕音が響きわたる。
「あ……あぁああ……!」
そうして近寄ってきたアガルフの首を再び握りしめるや、魔神はにやりと片頬を吊り上げた。
「情けない奴だ。私には勝てないと踏んで、死んだふりに徹するとはな」
「くぁぁぁああ……!」
アガルフの悲鳴をよそに、魔神はぐるりと住民たちを見渡し、大声を張り上げた。
「皆の者、見たか! これが――おまえたちが勇者と崇める者の正体だ!」
「……おぉおおおお……!」
「見よ! 私の手のなかで、泣きながら足をばたつかせる勇者の姿を! おまえたちの《希望》は、私には到底適わない!」
「…………うがが」
その言葉を最後にして、アガルフはとうとう意識をなくしたようだ。魔神シュバルツに持ち上げられたまま、手足をだらんと垂らして動かない。
死んだのか、もしくは気絶しただけか――
俺の位置からでは判別はつかなが、ひとつだけわかったことがある。
――強すぎる。
あのアガルフ・ディペールは、俺が何百年とかけて到達した境地を、いとも容易く突破していたはずだ。実力的には充分に強いはず。
なのに。
あの魔神シュバルツにはまったく適わなかった。それこそ赤子の手をひねるように、最強の転生者をねじ伏せてきた。
まさに、チートをも超えた異次元の強さというほかない。
俺たちが息を詰めて場を見守るなか、魔神シュバルツは退屈したように吐き捨てた。
「ふん。つまらぬ。現代における最強の人間がこの程度とはな」
そうしてボロ雑巾のごとく、アガルフをいずこへと投げ飛ばす。
もう悲鳴が聞こえてくることもない。
かつて俺を迫害した転生者は、そのまま瓦礫に埋もれて見えなくなった。
いつしか魔神シュバルツの周囲には、見覚えのある黒い靄がうっすらと漂い始めていた。元々血に染まっていた両の瞳が、さらに光度を増す。見ているだけで怖気が走るような――そんな圧倒的な威圧感が発せられている。
瞬間。
魔神シュバルツがふいに片頬を吊り上げ。
住民らを見渡した。
「人間たちよ、光栄に思うがいい。最強の神である私に殺されることをな……!」
その瞬間に起きた現象を、俺は一生忘れることはないだろう。
「わあああああっ!」
「やぁぁぁぁああ!」
奴の瞳が深紅の輝きを発するや否や、住民たちが次々と倒れ始めたのである。不可視の攻撃でも行っているのだろうか。なにが起きているのかもわからぬままに、ひとり、またひとりと倒れていく。
死んでいく。
「やだ! やだ! 死なないで! お母さん!」
「だ、だめ……。あなたは逃げなさい……」
「や、やだよ、お母さ――かはっ!」
年齢、性別はもはや関係ない。
生きとし生きる者すべてが、瞬く間に死んでいく。理不尽なまでに。
ある程度の実力者には効かないのか、俺やマリアス、ルハネスにはなにも起こらなかった。ただ目を見張り、この常軌を逸した光景を見つめるばかりである。
「やべぇな……これほどたぁ……」
冒険者として最高級のランクを持つルハネスでさえ、恐怖が顔に張り付いている。その乾いた苦笑いには、微塵の余裕さもない。
そして。
ルハネスはすうと息を吸い込むや、どこか諦観した表情を俺たちに向けた。
「良かったぜ……念のため、これを認めてきてよ。アシュリー、ちょっといいか」
「え……」
言いながらルハネスが胸ポケットから差し出してきたのは――一枚の書類。
「こ、これは……」
「Aランク昇級の推薦書だ。これをギルドに持ち込めば、おまえさんは一気にAランクに上がれる。いままで受けられなかった依頼も受けられるだろうよ」
「そ、そんな、なんで……いまこれを……」
「俺ァ嬉しかったぜ。転生者でもねえおまえたちが、自分の努力だけでここまで強くなってよ。おまえらなら、きっと誰も到達したことのない境地に達せる。世界を救うことも夢じゃねえ」
俺は口を開けたまま、なにも言うことができなかった。
なんだ。
わからない。
わからねえよ。
こんなときに、なんでこんなこと言ってくるんだ……?
なんでそんなに覚悟を決めたような顔をしてるんだよ。
なにを――やろうとしてんだよ……!
そんな俺の想いに反して、ルハネスは俺たちに向けてぐっと親指を突き出した。
「短い間だったが、おまえたちに会えてよかったぜ。だから――絶対に生きろ。じゃあな」
「ル、ルハネスさん!!!」
俺の絶叫を背に受けて、ルハネスはあまりにも強大な神へと突っ込んでいった。