真実① 〜終わりの始まり〜
俺はマリアスと顔を見合わせると、静かに扉に手をかけた。鍵を失った扉は、ギィィィィィイと掠れるような音を発し、静かにその内部を晒し出していく。
そして――
「うっ……」
流れてきた悪臭に、俺は思わず鼻をおおってしまう。水路独特の湿った臭いではない。それとは明らかに別種の、本能的な危機感を感じる空気だ。
それに。
この臭い……どこかで……
「うぅ……これはきついよ……」
「ああ。かなりヤバェなこりゃ」
マリアスもルハネスも、流れ込んできた臭いに顔をしかめている。マリアスに至っては青白い表情だ。
「ねぇ、アシュリー……。この臭い、あそこに似てない?」
「え……?」
「ほら、リアヌさんに案内してもらったとこ……。邪神族の実験場で、多くの転生者が殺されていったっていう……」
「そ、そうか……! たしかに似てるな……!」
マリアスの言う通りだ。
この悪臭は、死者の怨念に包まれた邪神族の実験場に酷似している。
だがここは普通の地下水路。
多くの死者がいるわけでもあるまいし、邪神族の実験場でもない。
なのにこの悪臭……やはりなにかあると見ていいだろう。
と。
「あ……ぁああ……!」
なんだ。
なにか聞こえる。
「ぅあ……ああああ!」
女の子の声、だろうか。
しかもかなり幼い。
なにかに怯えているかのように呻いているが、ここ近辺に魔物の気配はない。
「考えても埒が明かねえ。行くとしようぜ」
先輩冒険者たるルハネスが、一歩前に進み出ながら言った。
「この先、なにが起こるか俺にも予想できねえ。二人とも、油断だけはするなよ」
「「はい……!」」
大先輩の提言を、俺とマリアスはしっかりと胸に刻んだ。その返事に満足したか、ルハネスは首肯して歩き始めた。
警戒だけは怠らず、俺たちもひたすら水路を進む。
なんだろう。
魔物の気配は感じないが、なぜだか心の底から恐怖感が沸き起こってくる。意味もわからず鳥肌が立っていく。
一歩一歩進むたびに、動物的な本能が言っているようだ。
――ニゲロ、と。
どういうわけか、これは俺だけではないらしい。俺の隣を進むマリアスも、徐々に緊張しているのがわかる。前を歩くルハネスの背中が嫌に頼もしく見える。
そうしてどれほど進んだだろうか。
「む……」
ルハネスが歩みを止めたのに続いて、俺たちも立ち止まる。
「ルハネスさん、いったい……」
「あれを見ろ。さっきまで泣いてたのはあの子らしい」
「え……」
言われるがままルハネスの目線の先を追うと――たしかにいた。
少女だ。
年齢的には二十歳あたりだろうか。
全身を白装束で包み、長い黒髪を腰のあたりまで伸ばしている。こちらに背中を向けているので顔までは見えないが、姿形だけなら、いたって普通の少女にしか見えない。
……まあ、彼女の周囲をドス黒いオーラが覆っているので、普通の少女ではないはずだが。
「ははは……マジか」
そんな俺の思考とは裏腹に、ルハネスが表情を引きつらせる。
「こりゃやべえかもな。逃げたほうがいいかもしれん」
「え……」
「……昔、SSSランクの仲間から聞いたことがあってな。白装束に黒髪、漆黒の霊気をまとった少女――そいつの名を、魔神シュバルツというそうだ」
★
ファトル村近郊。
女神族が長、リアヌ・サクラロードは、数メートル離れた先で対峙している男――サヴィター・バルレを思いきり睨みつけた。
「やるのう……くだらん実験に身を費やしているだけではなかったか」
「ふん……貴様こそ、知らぬ間に腕を上げたようだな」
そう言い合う両者は、すでに全身泥まみれである。下手すれば世界そのものを破壊しかねない死闘を、この場で繰り広げていたのだ。リアヌもサヴィターも、相当に息を切らしている。
リアヌは片腕をもう一方の手で支えながら、乾いた笑みを浮かべる。
「これもいい機会じゃ……。人間たちの前では話せぬことを吐いてもらおうか」
「ほう……」
「ずっと怪奇に思っておった……。なぜ貴様らはアガルフやレイリーなどにこだわる。奴らはたしかに《現地人》と比べて強いが、歴代の勇者たちには遠く及ばぬはず。アガルフごときに、なぜ執心しておるんじゃ」
「ふ……ははは……」
サヴィターは右手で片目を抑えると、くぐもったような笑みを発した。
「はっはーっはっはっは! さすがは腐っても女神族! よく気づいたものだ」
「ふん……。やはりか」
リアヌはつまらなそうにサヴィターから目を逸らす。
「つまり、貴様らの目的はアガルフやレイリーに非ず……最強の転生者、キーア・シュバルツのみということじゃな」
「ふふ、まあ、八割方は正解と言っておこう」
サヴィターはなおも嫌らしい笑みを浮かべると、商業都市ルネガードの方角に恍惚とした顔を浮かべる。
「アガルフなど、私にとっては傀儡でしかない。見よ……壮大にして虚ろなる茶番劇の、あれが始まりよ」
「ふん……相変わらず下らん目論見を」
「いいのか? ルネガードにはおまえの可愛い弟子たちもいるのだろう? こんなところで突っ立っていては、奴らもシュバルツに殺されるぞ」
「たわけが。ダーリンたちは簡単にはやられん。この三百年間、保険も敷いておったしな」
言いつつも、リアヌは不安な視線をルネガードに向ける。
――ダーリンたちよ。妾もすぐに向かう。それまで、どうか耐えていておくれよ……!
★
商業都市ルネガード。
地下水路にて。
「やだ……いやだぁ!」
俺から数メートル離れた先で、黒髪の少女がひとり、悶えていた。
「こ、殺したくない……わ、私は……おとなしく、大人しく生きていたい……!」
《ナニヲイウ……コロセ……コロセ……!》
《オレタチハミンナ殺サレタンダ……!》
《ウバエ、カチトレ……! チカラコソがスベテダ……!》
――なんだ、あれは……
目の前の光景に、俺はただ呆けていることしかできなかった。
泣きじゃくる少女を、ドス黒い靄が取り巻いているのだが――その靄から、野太い男の声が聞こえてくる。
ひどい怨念に包まれたような、何百年、何千年とかけて世界そのものを恨み続けてきたような……
そんな負のオーラがヒシヒシと俺に伝ってくる。聞いているだけでも気が触れてしまいそうだ。
《ダカラサァ……モウイイダロ? オマエハ魔神。結局、誰ニモ理解サレナイ》
「やだ……嫌だ……っ! 私は、魔神なんかじゃ……!」
依然苦しむ少女に、俺はいてもたってもいられなくなった。恐怖心も当然残っているが、それすら吹き飛んでしまうほど、少女は辛く苦しそうに悶絶していた。
そんな彼女へ向け、俺は歩み始める。
「お、おい……!」
背後からルハネスに呼びかけられた。
俺は首肯だけ返して進み続ける。
「…………!」
ほどなくして、少女は俺の存在に気づいたようだった。大きく目を見開き、尻餅をついた姿勢ですこしだけ後退する。
「だめ……! 来ないで……!」
「…………」
「ここにいたら、あなたも殺してしまう! だから……」
「……そうか。誰もいない地下水路に逃げてきたのは、このためだったのか……」
察するに、彼女は何者かに憑依されているのだろう。
自分の意志では到底制御することのできない、圧倒的な怨念に。
となれば、魔神シュバルツとは、正確には彼女ではない。
真に狙うべき敵は、あの黒い怨念ども……
「気にするな。俺が君を助ける」
「え……」
彼女が大きく目を見開いた。
「助ける……? こんな私を……?」
「ああ。だから――」
そうして、少女に向けて歩き始めようとした、そのとき――
《サセルカ! オマエハ魔神! 人間トハ相容レヌ!》
「あああああああああっ!!」
ふいに、少女が大声で叫び始めた。さっきまで彼女を取り巻いていた黒い靄が、彼女の胸の内に吸収されていく……
『ゴアアアアアアアアアッ!!』
――そして、世界の終わりが始まった。