第4話 ラン メロス
「どうやら、貴方は効果が出にくい体質みたいね」
楠さんは軽くため息をついてから、俺に向き直る。
「まあ、仕方無いわ。それで?どのくらい昨日の事は覚えてるの?」
楠さんの眼鏡のレンズがギラリと光る。
綺麗な顔には、もうまったく笑みは浮かんでいない。
かなり無表情に近い状態になってしまっている。
俺はそんな楠さんの雰囲気に気後れしながらも、自分が覚えていた事を説明した。
死体の山、その中心で微笑む先輩、死体を投げ合う二人。
「二つほど気になる事があるんだけど、質問していいかしら?」
俺が話し終わると、楠さんが無表情に質問してきた。
もちろん俺に断れるハズもない。
「どんどん聞いてくれ」
「では、まず一つ目ね」
楠さんは、俺の目の前に人差し指を一本を突きつけてから話し出す。
「貴方の話を聞いていると、なぜか『あの事』が話に出てこないのよね。昨日のトラブルに巻き込まれるきっかけになった『あの事』は覚えていないの?」
なぬ?
楠さんの話を聞いて、俺の頭の中にはでっかいクエスチョンマークが浮かんできた。
そうだ、なぜ俺があんな状況の中にいたんだ?
何かしら、巻き込まれるきっかけがあったはずだ。
改めて思い出そうとしてみても、その部分が全く思い出せない。
「その表情から察すると、貴方はどうやら『あの事』は綺麗スッカリ、スッカラカンに忘れてるみたいね」
「うむ。確かになぜ巻き込まれたのか、その部分が完全に記憶から抜け落ちてるな」
俺の返答を聞くと、ほんのわずかだが楠さんの口元がニヤリと笑った。
ちょっと気になってきた。
いったい何があったんだ?
「俺が巻き込まれるきっかけになった『あの事』って何なんだ?」
「では、二つ目の質問ね」
俺の質問をあからさまに無視して、楠さんはピースの様に二本指を立て、顔の前に突きつけてきた。
「二つ目の質問は、それほどたいした意味は無いのよ。だから気にしてる訳じゃないの。ほんのちょっとだけ気にしてるだけなのよ。けっして深い意味は無いの。だからね、忘れてるなら忘れたままでもいいのよ。あくまでも確認のために聞くだけだから。けっして気にしてる訳じゃないのよ。そこの所は勘違いしないでね。」
妙に長い前置きをおいてから、赤いフレームの眼鏡をギラリと光らせて、
楠さんは本題にはいった。
「先輩が私に対して言った、罵倒の言葉は覚えてるの?」
『貧乳』
と、言う言葉がすぐさま頭に浮かんだ。
しかし、俺は喉まで出かかったその言葉をあわてて飲み込んだ。
その言葉をそのまま言ってしまって、これ以上、自分の身を危険に晒すほど俺は愚か者でも無い。
「いや、なんだったかな?キャーキャー騒いで死体を投げ合っていたのは覚えてるけど、何を叫んでいたのかまでは、よく覚えてないな」
「それなら、それで問題ないわ」
俺の答えに、楠さんは満足そうに微笑んだ。
今度の微笑みは心からうれしそうな本物の微笑みに見えたのは、俺の気のせいでは無いだろう。
そして、今さら気づいたのだが…
楠さんは微笑むとむちゃくちゃに美人だな。
眼鏡の奥の少しきつめの瞳は知性的な光りを帯びている。ほっそりとした顎のラインなんかは有名な画家が描いた美人画のようだ。スタイルだって、ほっそりと痩せて手足がスラッと長くヨーロッパの雑誌のモデルのようだ。雪の様に白い肌がその細さをさらに強調している。静かに本を読んでいる姿などはまさに『アジアンビューティー』と言う見出しと共に雑誌に載っても不思議じゃないくらいだ。
まあ、性格の方には、かなり問題がありそうだが。
そこで始業を知らせるベルが鳴り響いた。
「あら、どうやらタイムオーバーね」
楠さんは、すっかりいつもの優等生な楠さんの表情になっていた。
うっすらと優しそうな微笑を浮かべて、とても人当たりの良い話し方にもどっていた。
「まだ、ちょっと話したい事があるから続きは昼休みにしたいけど。いいかしら?」
俺もけっきょく聞きたい事は、殆ど聞けずじまいだ。もちろん異論は無い。
俺は肯定の意味でうなずいた。
「あ、まって。やっぱり続きは放課後でいいかしら?」
「俺は構わないけど、なんで放課後なんだ?」
「一応なんだけど、先輩にも相談しておかないと。相談してもだいたいロクでも無い事を言い出すだけで余計にめんどくさい事になるだけ、なんだけどね。でもあの先輩、教えておかないとスネちゃうのよ。一度昼休みにでも話してくるわ」
楠さんは、肩をすくめて見せた。
「それじゃ、また放課後よろしくね。…えーと…」
そこで楠さんは、言い淀む。
すごく苦悩した表情が楠さんの顔に浮かんできた。
何を悩んでいるんだ?
「う、ごめんなさい。聞いてもいいかしら?」
楠さんは、ものすごく申し訳なさそうな表情をしている。
「何を?」
俺が聞き返すと、楠さんはおずおずと聞いてきた。
「貴方の名前なんだっけ?」
『ガーン!!』
頭の中で、昔の漫画風な擬音が鳴り響く。
そりゃーね!俺はクラスでも目立たない男ですよ!
今日まで一度もまともに、楠さんと話もしたこともないですよ!
楠さんみたいに有名じゃないですよ!
俺だってクラスメイトの名前を全部覚えてる訳じゃないですよ!
それでも それでも!
やっぱりちょっとショックだ!
そんな心の叫びをかみ殺して、俺はなるべく平静を装って答えた。
「俺は津島、津島修治だよ。覚えていてくれよ」
「え?津島修治?本名なの?」
俺の名前になぜか楠さんは目を丸くして驚いている。
「もちろん本名だよ。嘘なんか言ってどうするんだよ」
「津島修治って…そんな名前の人がクラスにいるとは知らなかったわ。だって津島君って全然クラスで目立たないんですもの」
さりげなく心をえぐる事を言われて、かなり傷ついた。
しかし、それよりも気になったことがあった。
「楠さん。俺の名前を聞いて驚いてたみたいだけど、なんでだ?」
俺の質問に楠さんは、急に笑い出した。
何か笑いのツボにはいったらしくてお腹を抱えて大笑いしている。
「何、笑ってるんだよ?」
「笑ったりして、ごめんなさい。でも、ひょっとして貴方、自分では気づいてないの?」
「何が?」
楠さんは、コホンとひとつ咳払いしてから、歌うように言った。
「真実とは決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうかわしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
??
「意味がわからん。」
楠さんは楽しそうにクスクスと笑う。
「話の続きは放課後ね。早く教室に行かないと、もう授業が始まるわよ、津島君」
そう言って、楠さんは軽やかな足取りで保健室から出て行った。