海の穴
海の穴
夜風に揺れる三つ編みをただ見つめていると、それに気づいた彼女は照れ臭さかったのか、下を向いた。
先ほどまで子供のようにはしゃぎ波を蹴っていた足には何故だか膝の上まで砂が付いている。
ふわりと舞うスカートを手で押さえつけながら、彼女は遠慮がちに「なんですか?」と私に問いかけた。
「いや…楽しそうだなと思って」
私が正直な感想を述べると彼女はまた身体を海の方へ向け、「そりゃあ、楽しいですから」と呟いた。
そしてまた波を蹴って遊び始めた。
頼りない電灯の明かりに照らされて鈍く光る無数の美しい傷跡。彼女はそれを隠すことも恥じることもなく白いノースリーブのワンピースを選んだ。
患者服では目立ってしまうから、と彼女に言われ立ち寄った古着屋。店員は訝しげに私たちを見ていたが、特に問題はないだろう。
サラサラの砂に腰を下ろしたままぼんやりと遠くを眺める。真黒な海は電灯の明かりをもってしてもやはり何も見えず、何があるかもわからないその足元の先を考えると、ほんの少しだけ恐怖心が掻き立てられる。
しかし、彼女はそんなこと思いもしないのだろう。変わらず波を蹴り三つ編みを揺らしながら真黒な海と戯れている。
いつもはむさ苦しい檻の中でポツンと座り表情一つ変えない彼女も、今はまるで別人のように無邪気だ。
「先生は、入らないんですか?」
「私はいいよ、もうそんな体力のある歳でもないんだ」
「そう、残念です」
ポケットから取り出したタバコに火をつけようとしたとき、彼女は不意にこちらを向き「なんで私をここへ?」と尋ねた。
「…さぁ、私にもわからないなぁ」
我ながら白々しい答えだった。彼女は自分が聞いておきながらさして興味もなかったようで、「ふぅん」と無表情のまま首を傾けた。
止めていた手を動かし火を付ける。ほんの少し火花を散らすライター。答えはタバコの煙と共に消えていけばいい。
「先生、知ってますか」
「なにをかな」
「海の穴」
唐突に彼女から発せられた聞き慣れない言葉。
意図がわからず少し悩むふりをするが、知ったかぶりをしてもしょうがないので正直に答える。
「いや、知らないね。聞いたこともない。海に穴があいてるってことかな」
「いえ」
瞬間的にダム穴と呼ばれるものを思い浮かべた。私はこれにはそこまで怖さを感じないが、人によっては恐怖で身体が震えるほどらしい。
すぐに彼女に否定されてしまったが。
「穴が空いてるわけじゃないんです、けど、すごく大きい穴なんです」
「……そう、そんなものがあるんだね」
仕事柄、自分が理解できないものにも深く突っ込まずに肯定する癖が付いている私は、ついいつもの様にそう返した。それに気づいたのか、彼女はやや不服そうに目を細めたが、話を続けた。
「ある、て言われると確証はないんですけど。まあ、あるんじゃないかなあって。青い海には青い穴が。黒い海には黒い穴が。あるんですよ、多分。すごく深いとこに、すごく大きい穴が。あ、さっきも言いましたけど穴は空いてるわけじゃないんですけどね、なんて言えばいいのか…うーん難しいなあ。でもとにかく海の中の奥深く、壁や地面。そこに広がるまあるい穴。なんだかゾクゾクしませんか?先生」
彼女がこんなに喋るのを、私は初めて見た。初めて病院に来た時も、毎日のカウンセリングでも、彼女はいつもどこか上の空で私の質問に答えたり軽い世間話をする程度だったのに。
これが本来の彼女なのか、はたまたこの真黒な海が彼女にそうさせているのか。
恍惚とも取れる表情を浮かべた彼女はやはり私には理解出来ないことを話した。
タバコの灰が落ちそうなのに気づき慌てて携帯灰皿に入れる。
彼女はただ私を見つめていた。私が答えるのを待っているのだろうか。規則的な波の音がなんだか遠くに感じる。
「…あー…そうだね、私はそんな穴があったら少し怖いかなあ」
「変なの」
無難に返したつもりだったが、彼女はキッパリそう言い放った。いつの間にか私の目の前に立っていた彼女は、私を見下ろし指をさして。
「先生、絶対、好きなのに。海の穴」
波の音が、ひどく遠く。
「……それは」
それはどういう意味だ?
何故だか聞くのを躊躇ってしまう。彼女から視線が反らせない。暗くて見えない彼女の表情に私は自分もどんな顔をしたらいいかわからなくなっていた。
「先生」
「な…」
「先生は、さ。」
彼女は私の目の前にしゃがみ顔を覗き込んだ。顔は目の前にあるはずなのに。それなのに、何故だか表情がわからない。
「なんで私をここへ?」
タバコは、さっきの一本で最後だった。
私が何も答えられないでいると、彼女は私の手を引き私を見つめたまま今度は海を指差した。
「先生、探しに、行きますよね?海の穴」
口角を吊り上げ彼女は初めて笑ってみせた。
私も心の底から笑うしかなかった。
もう波の音は聞こえない。
end