ファイナルファンタジー15を遊んで思ったこと
俺は酒を飲むと雄弁になる。素面の時に無意識で感じているであろう、言葉にしていないあれこれが言葉に変わっていくのは快感だ。俺の頭は特別製なんじゃないかと思うくらいだ。
でも違うわけだ。そいつは錯覚に過ぎないわけだ。一山いくらの出来の悪い脳みそにアルコールを注いで、今まで誰も到達していなかった境地に至ったという、俺が渇望する幻想を俺に見せるわけだ。アルコールの幻想はよりどりみどりだ。いっちょ前にタフになった幻想、権威主義に噛みつく骨太なインテリになった幻想、金には縛られない精神的自由人になった幻想、ああそうだ、どれもこれも醜く浅ましくひたすら頭が悪い。
ちょっと前の俺なら(本当にちょっと前だ。一月も経ってない)ころりとアルコールに騙されて、万能感に支配されながら小手先の小説を書いて、俺ってやっぱり天才じゃねえかと悦に浸って、それでおしまいだ。
俺の書くものは端的に言って、まあクソだ。何もこのサイトで評価されないからクソってわけじゃない。ただ単にクソなだけだ。素晴らしい小説を読めばすぐにわかることだ。例えばドストエフスキー。例えばディック。例えばカフカ。例えばラファティ。例えば飛浩隆。例えば大江健三郎。まだまだいる。腐るほどいる。嫌になるくらいにいまくる。
連中の書いたものと俺の書くものが同じ小説だなんて、どうして言える? 俺は恥ずかしくて言えないよ。恥ずかしいよ、俺は。こんな俺が小説を書こうってのが恥ずかしくてたまらんよ。何だって俺は小説を書きたいなんて思うのか。無力感に打ちのめされるのはわかっていたのに。だから嫌だって言ったじゃん!
まあ、あれなんだよな。でも、やるんだよ! ってやつなんだよな。俺がやりたいと強く思うことを俺が止めることなんてできやしないわけだ。だから、俺にできることはなるべく俺を満足させるような小説を書けるように頑張っていくしかないわけだ。同時に俺は俺の書くものに対して甘い評価を下すことは絶対に許されない。クソなものはクソだから、決してクソを書きたくて書いてるわけじゃないんだけど、俺なりに必死こいて禿げそうなくらい頑張ってるんだけど、それはわかっているんだけど、頑張ってるから許すってわけにもいかないんですね。何でクソしか書けないのかと言うと、俺がまだまだ小説と言うものを理解していないからで、簡単に言うと馬鹿で幼いからなんだな。
俺は事実として齢三十もとっくに過ぎていて、本来ならとっくに成熟しているはずなんだが、俺の実感からすると中学生くらいから成長が止まってる。いまだに、こいつ偉そうにしてるけど俺より喧嘩強いのかなとか考えるし、女とはうまく話せないし、出先でウンコをするのがとてつもなく嫌だったりする。
これは何故かと言うと、俺の中で喧嘩が強いヤツは威張ってもよくて、女とへらへらお喋りするヤツは軟弱者で、出先でウンコしたら馬鹿にされると言う思い込みが生きてるからで、もっと言うと俺は男らしくありたいって欲が人一倍あるんだな(考えてみると出先のウンコはむしろ男らしいから、これはただ単に俺がナイーブ過ぎるだけかもしれない)。で、その欲望が稚拙な形でしか表れないのが俺には不満なわけだ。何でこんななんだろうかと考えてみると、俺の中には昔から乙女が住んでいて、小さいころは髪を三つ編みにしたり(母親に三つ編みにしてくれと懇願した。すごく嫌な顔をされた)お姫様に憧れたりしてすげえ虐められたのが反動になってるんだろうなと俺は思う。ついでに言うと俺は男性ホルモンの影響の薄いなかなかの美少年だったので、そのコンプレックスもあるんだな。どうしてもなめられやすい。家が貧乏だったこともそれに拍車をかけて、まあとにかくなめられる。子どもの頃は一度なめられると辛い毎日を送るハメになるわけだ。それを覆すにはどうしても粗暴になるしかなかったし、俺が本来好きな読書よりもどう日々をサバイヴするかってことに比重を置いた結果、こういう幼い価値観ができてしまったんだろうなと思う。逆に言えば、子どもの頃の俺は今の俺よりよっぽど社交性があったってことだね。その社会の中でより良い地位を築こうと頑張ったわけだから。
なんか子どもの頃を思い出してしんみりしてしまったんだけど、だからと言って俺の書くものがクソであることが許されるわけではない。許すわけにはいかない。俺はもう歳三十五なわけで、まだ実感としては表れていないけれど、間違いなく体は衰えはじめているわけだ。もちろんこの民生用の脳みそも体の一部なわけだから、既にガタがきているのを想像すると俺は震えあがってしまう。クソを書いている場合ではない。だからと言って、いきなり俺が素晴らしい小説を書けるわけもないので、これからもクソを書いてしまうのだろうが、俺がクソをクソと判断できるうちはまだ正常だと思うので、今のうちに俺の小説が良くなる方向に俺を導いていきたい。その方向が正しくなかったら、その時はもう仕方ない。
俺が何故こんなものを書いているかと言うと、ファイナルファンタジー15があまりにも素晴らし過ぎるからだ。ぱっと見、キャラデザインはダサいし台詞はクサいし演出は痛いし、俺が今の日本のアニメやこのサイトで人気の小説に感じるアホくささを凝縮している様だけど、少し遊んで(と言っても既に三十時間このゲームに費やしている)わかった。このゲームは本当に凄い。何がリアルで何が幻想なのかという認識をぶち壊しにかかってくるかなり危ない代物なのだ。それは俺が俺の小説に欲しいものなので、素直に感動する。
このゲームにはメタな部分が数多くあるんだけど、ゲームにおけるメタってゲームシステム的なものへの自己言及や、ゲームを遊んでいるヤツへの否定や、ただ単なる思いつきのおふざけが殆どだと思うけど、このゲームのメタな部分って幻想とリアルをゲームとして融合する結果として、どうしても入れざるを得なかったって気がするんだよね。だって、ゲームのメタってややもすると熱中して遊んでいる人間を冷静にさせてしまう恐れがあるわけで、インディメーカーのとんがったセンスを前面に出した小品ならまだしも、ファイナルファンタジーっていうブランド化した超大作でメタをやるメリットってないでしょう。だけど、やるんだよね。別に受け狙いでやるんじゃなくて、真面目に考えた結果、やらない方がコンセプトに反すると考えたんだと俺は感じている。
もちろん妥協している部分もたくさんあるだろうし、ブランドの伝統に則らなきゃいけない部分もあるだろうと思うけど、何か異様なんだ、ファイナルファンタジー15ってゲームは。色々と突き抜けていながら、妙にフレンドリーで、何となくまとまってる。見た目は狂ってるのかと思うほどダサいしね。
俺は本当はファイナルファンタジー15の批評をしようと思ってこの文章を書き始めたんだが、書けると確信していたんだが、こんなものになってしまった。俺は頭が悪い。