翼はいらない(後)
美羽が去ってから、六年の月日が流れた。
俺は大学卒業後、地元の中堅企業に就職した。彼女を失って、灰色ながらも男友達と大学生活を送った後、今に至る。皮肉にも、俺は流れる年月を早く感じた。いつの間にか大人へと向かうエスカレーターから降ろされ、自力で階段を上らなければならなくなったような気分だ。上った先に、一体何があるというのだろう。
この前、俺は同期の女子社員から告白された。彼女は中々可愛らしい娘で、元々普段から親しくもあった。嬉しくなかったかと言えば大嘘になるが、俺は彼女からの交際の申し入れを断った。もったいないと思われるだろう。けれど、俺が彼女を好ましく思う部分は全て美羽を思い出させるものだった。怒り方が美羽に似ているとか、笑顔を見せるタイミングが美羽とほぼ同じとか。彼女と美羽は全く違う女性なのに、俺は美羽を求めてしまう。だから、俺は断った。「他に好きな女が居るから」と。
自分がここまでネチっこい男だとは思わなかった。もう居ない美羽を、俺はしつこく想い続けている。絶対に手の届かないところに居る彼女を忘れられない。この気持ちを切り替えられたら、どんなに楽だったろう。別の女と別の幸せを歩めていたら、この苦しみからもきっと解放されるのだろう。だがその反面、苦しんでいる自分のことを、俺はそんなに嫌いじゃなかった。マゾでも自己陶酔でもない。ただ、美羽がそばに居なくて寂しいだけなのだ。
こんなことを考えるのは、今日みたいに雨の日が多い。俺と彼女の間にある空を、雲がさらに遮ってくるように思えるからだ。その上、冷や水を浴びせてくるだなんて、たまったものじゃない。
一日働いた身体を引っ提げて、今日も帰路につく。慣れた夜道。傘をさしながら歩く。角を曲がると、美羽と初めて出会った公園の前を通る。何度、再び美羽が公園のベンチに姿を現すことを望んだだろうか。しかし、そんなことを思っていたのは、この帰り道がルーチンワークと化す前のこと。今はもう、……いや、チラッと覗くことはあるくらいかな。
何だか自分が子どもっぽくて嫌になったので、素通りしようとしたが、しかし、公園に見逃せないものがあった。
電灯で照らされていないはずのベンチの方が光っているのである。その光は、小雨とはいえ視界が悪くなっている雨天の中においても、俺の目によく伝わった。
俺は引っ張られるようにしてベンチに近づいて行く。さっきまで無理やり動かしていたような足取りが嘘のように軽い。ふらふら動いていた足が、ベンチの前で止まる。
ベンチには一人の女性が腰掛けていた。
素の薄い髪が背中ほどまで伸びていて、白いワンピースが雨で濡れ放題になっている。雨のせいじゃないとわかるくらいに彼女は目を真っ赤にして泣いているが、口は半月を描くように笑みを浮かべていた。
大きな瞳を俺に向けて、目尻を細めながら、彼女は口を開いた。
「ただいま」
これは夢かと疑った。色々と背や髪やその他諸々少しばかり大きくなっているが、どう見ても俺の目の前に居る女性は美羽だった。
いやいや判断を誤るな、俺。美羽に会いたいあまりに、幻覚を見ている可能性があるぞ。
「あの…………、そろそろ何か言ってくれない」
「すまん、待ってくれ。あなたが本当に美羽かどうかを確認したい。ちょっとワンピースを捲ってもらえるか?」
「捲ってもらえる訳ないでしょ! 六年ぶりに何言ってんの、あんた!」
「いやぁ、腰骨の触り心地から判断しようと思って」
「パンツの方まで捲らせるつもりだったの⁉︎ というか、そんなところから判断しないでよ! 私は正真正銘美羽だから」
頭の上から湯気が出んばかりに怒る姿を見て、俺はその場にへたり込んでしまうくらいに安心してしまった。見てすぐにわかっていたことだが、この女性は間違いなく美羽だ。
「おかえり、美羽。……お前、天界に帰って行ったんじゃなかったのか?」
「天界には帰ったよ。でも、地上に戻って来たの――――あなたにもう一度会いたかったから」
それを聞いて、思わず笑ってしまった。俺は、ベンチから立ち上がった美羽を、自分の傘の中に引き寄せながら、宣言した。
「もう一度どころか、もう何度でも会ってやる。だから、ずっと俺のそばに居てくれ」
彼女を見つめる俺を見つめ返す、彼女の瞳がさらに潤んだ。
「はい!」
「その相合傘、わたしも入れてはくれないか?」
俺と美羽は急に飛び込んできた声にギョッとして、ベンチの方を見ると、幼い女の子が足を組んで座っていた。ツヤツヤな金髪をおさげにして、白いワンピースを見にまとい、幼気な美貌がふてぶてしい笑みを見せていた。それを見た美羽は大口を開けて、目もまた大きく見開いて驚愕している。
「ま、まさか、母上⁉︎」
「然り。地上に降りるには力をかなり抑えなければならなくてな。結果、このように幼い姿となってしまったのだ」
「い、いえ、その前になぜ貴女が地上に居るのですか?」
ああ、それはだな、と謎の幼女は偉そうな口調で続ける――俺は黙って見ていることしかできない。
「お前がそれほどに思い入れを注ぐ地上というものが気になってな。わたしも興味が湧いたのだ。それに……」
幼女は美羽にゆっくりと近づき、その背中に腕を回した。
「十三年もわたしの元を離れよって……、その埋め合わせをさせろ、バカ娘」
「母上……」
ただの幼女ではなさそうだが、それにしたって、とても大人びた声音だった。
というか、いい加減状況を説明してくれ。この幼女は何者だ?
俺は美羽と幼女から、ここに至るまでの事情を全て話してもらった。
「……なるほど、貴女はつまりお義母様という訳ですね」
「左様。そなたがお義母様というにはまだ早いがな。カンナちゃんと呼べ」
「おや、そうでしょうか。美羽の魅力を、俺はよく心得ているつもりですが。そして、美羽と結婚する気満々なんですが」
「ほう、言うではないか。よいぞ。話を聞こう。そなたの家に酒はあるか? 酒を酌み交わしながら、ミーウェル……美羽の魅力について語り合おうぞ」
「乗りました! 本当は一人で呑むつもりだったんですがね、旨い地酒があるんですよ。朝まで語り合いましょう、カンナちゃん」
「変なところで意気投合しないで!」
こんな展開、予想外だよぅ、と頭を抱える美羽。
それはこっちのセリフだぞ。
美羽と再会できてハッピーエンドどころか、女神までもが現れて、新たなシチュエーションコメディが始まりそうな予感だ。
感傷に浸らせてもくれない。少しでも気を抜けば、今にも笑い転げてしまいそうだ。
とりあえずは、傘をさして一緒に帰ろう。
明日はきっと晴れる。
ここまで読んでいただきありがとうございました。美羽と別れたままでもそれはそれで美潭になったのかもしれませんが、こういう締めもありなんじゃないかなと思います。ではまたっ!




