翼はいらない(前)
翼を失い、私は『美羽』になった。
天使としての禁忌、つまり、ある生命の救済をしてしまったからである。
天使とは、その言葉通り、天からの使いであり、個の意志を持ち出してはならない。例えば、主である神がある人間を天界に迎え入れろと仰せならば、その意志に忠実な行動を取らなければならない。天使に個々の思考形態があったとしても、それはあらゆる環境に合わせた対応を取るための効率化を図った装置に過ぎない。
だから、本来喪われるはずだった生命を地上に留めておくことは許されない。ある天使の思考――感情の独断で、本来死ぬはずだった男の子の運命を改変させてはならなかったのである。
しかし、私はやった。やってしまった、とは思わない。自動車事故で死ぬはずだった男の子を家に留まらせ、事故に遭うという事実をなかったことにした。何故かはわからない。徳も悪業も積む時間すら与えられなかった子どもを救いたかったのかもしれないし、その子に特別な思い入れがあったのかもしれないし、その両方が理由であったのかもしれない。
けれど、何にしても、私の行為は神への叛逆だ。許されず、ペナルティを与えられた――天使としての力や、それに纏わる記憶の消去、そして、有限なる人間としての肉体だ。
そうして、私は地に堕とされ、独りになった。初めて味わう、寂しさと孤独。身寄りもなく、記憶を失って、このような状況に陥った経緯がわからないことが、更に私の孤独を強めた。
どこか遠くに私を孤独にしない存在があるけれど、それはもう手が届かないところにある――それだけしか、その時の私にはわからなかった。堕ちた地の上が慣れなくて空を仰いでも、広い分余計に寂しくなるばかり――そんな時に、私は声をかけられた。
地上に堕ちたばかりの私に近づく男の子を、しかし、私は初めて出会った感じがしなかった。
それもそのはず、今となっては自明の理だけれど、その男の子こそ、私が禁忌を犯してまで助けた生命だったのだから。
その記憶もない当時の私は、自分を気遣う男の子と、たどたどしいながらも会話をした。その中で、私は自らの中で『美羽』という存在を確立させていったのだ。ある意味では、彼が私の生みの親であると言えるのかもしれない。
この瞬間から、『美羽』という一人の人間を形成するための環境が整えられ、私は彼と共に十三年の月日を過ごした。
十三年という、一見中途半端な数字には意味がある――これは、恐れ多くも神様の視点からみれば、私が生命を留めた子どもが大人になるまでの保護期間なのだ。私の地上への追放というペナルティーにはそのような意味も含まれていたのである。
…………そうとも知らず、そもそも天使としての記憶や自覚もなく、私は生きてきたけれど。泣いたり、怒ったり、笑ったり、……恋したり。心休まる日は一日もなかったけれど、寂しい日もまた、私には一日もなかった。
ただ、これは永遠のものではない。天使だった頃の記憶や、力(相手の心中を読み取ったりなど)が段々と戻ってくるのを感じて、私は彼との別れを悟った。人間で居られなければ、地上に居ることは許されないからだ。まだ彼と出会って数年も経っていない頃に読んだ、かぐや姫の話と似ている。どんなに親しんだ地であっても、生まれた場所でないその地からはいずれ去らなければならない。
決められたことだから。
だけど、それでも、私は人間に戻りたい。
人間よりも多くのものに恵まれた天使であるけれど、そこに人間としての苦労という楽しさはない――そして何よりも、彼がそばに居ないから。
翼はいらない。地べたを歩く足が欲しい。
天界に戻って、しばらく天使としての業務をしながらも、私のその願いが消えることはなかった。
一か八か、私は全天使を治める大天使様に嘆願をすることにした。
「天使ミーウェル、大天使ガブリエラ様に嘆願したく、参上仕りました」
「おお、久しいのぅ。そう畏まらずともよい。近うよれ」
ガブリエラ様は以前お会いした時とまるで変わらない、ふてぶてしい(この表現は失礼に値するのだろうか)笑みを浮かべて、椅子に腰掛けていた。天界には具体的な場所の概念はないけれど、あえて言うならば、ここは地上における玉座の間に近い。ガブリエラ様の言に従い、私は立ち上がり、その場から五歩ほど前に進み出て跪く。彼女は長い金髪を靡かせながら、
「ミーウェル、まだ天使としても幼かったお前を地上に追放することになって、すまなかった。何分わたしは天使半ば女神半ばだから、そんなに立場が強くなくてな」
「いえ、滅相もありません。私が消滅せずに、こうして活動できているのも、貴女様のおかげです、ガブリエラ様」
「そう、それ!」
「はい?」
「そのガブリエラって名前、変えたいんだよねー、わたし」
「はあ?」
いきなり何を言い出すんだ、このお方は。
「ガブリエラって、濁点多くない? もっと柔らかい感じの名前に変えたいのだよ」
「別に悪い名前ではないと思うんですけど」
「あー、またそういう言い方をするー。みんなそうなんだよなー。当たり障りのない言い方でその場をやり過ごすけど、濁すばかりで結局何も言い切ってくれないんだよなー。これ、日本人の悪いところだぞ」
「日本人じゃないです、天使です」
「ミーウェルって、地上では『美羽』って呼ばれてたんだろう。良い名前じゃないか。語感も良いし、要点を押さえてあるし。それに対して、わたしの『ガブリエラ』って何だよ、いかつくない?」
「あのー、ガブリエラ様? 私が地上に居た間に、いつの間にそんなサバけた感じになったんですか?」
「いや、これが素だぞ。全ての天使はわたしの子だし、お前もわたしの娘だろう? 自分の娘の前でくらい、ありのままで居たいものだ。だろう?」
「まぁ、確かにその通りだとは思いますよ」
大天使であり、母でもあるからこそ威厳が欲しいとも思うけれど。
「ちなみに、お前のモノローグも丸聞こえだけどな。しかし、その真面目さとチョロさもお前のよいところだ。萌えポイントだ」
「娘に萌えないでくれません⁉︎」
「でだ、わたしも名を改めようと思ってな。これからは『神那』と名乗ろう。カタカナでカンナと呼べ」
……何言ってるの、この母上⁉︎
「あのー、ガブリエラ様?」
「カンナだ」
「ガブリエラ様」
「カンナたそと呼ばせるぞ」
「…………カンナ様、そろそろ私の用件を聞いてもらってもよろしいでしょうか?」
ガブリエラ様改め、カンナ様は口をOの形にして、
「おお、そうだったな。また人間になりたいのだったら、別に構わないぞ」
へ?
「どうした、そんなに惚けて? 地上が寂しくなって、また人間になりたいと思い、わたしを訪ねたのであろう?」
一瞬頭が真っ白になってしまったけれど、意識をすぐに復活させて、私は問いかける。
「本当によろしいのですか? ペナルティーを受けて堕ちた場所に戻りたいと申し上げているんですよ、私」
「よろしいから、構わないと言ったんだ。お前も察しているように、お前の地上行きはあの人間の男の保護観察も兼ねていたからな。しかし、杞憂だった。案じていたほど、天はあやつの肉体の死を望んではいなかったらしい」
「では、本当に……」
「良いと言っているであろう。くどいぞ、お前。自らの願いだ、自信を持て。…………ミーウェル、お前の想いはそれほどヤワではなかろう」
私はすっくと立ち上がり、母を見据えた。
「はい! ありがとうございます、……母上」
母上も椅子から立ち上がり、私の髪をくしゃっと撫でる。
「なあに、仕方なかろう。まったく忌々しいことに、可愛い娘の幸せは天界ではなく地上にあるらしいのだから」




