『私』は真夜中の校舎で
学校の七不思議、七つ目は知ってはいけないんだよ
ぺたん、ぺたんと間の抜けたようなサンダルの音が烏羽色の静寂を破っていく。紺色のセーラー服のプリーツスカートや、紅いスカーフが一歩踏み出すたびにひらひらと揺らぐ。
硝子窓の向こう側では、漆黒に塗り潰された空で歪な形の月が明るい光を反射している。
『私』は棟と棟を繋ぐ連絡通路を歩きながら小さく鼻歌を歌っていた。
苔色のリノリウムの摩擦音に混じって、か細い音で紡がれるその曲はこの学校の校歌である。少し古臭さを感じさせる角ばった歌詞、楽器を伴奏に持ってくることを前提に考えられた移動の少ない音程。
新入生が入ってくる時期のせいなのか、最近目覚まし代わりに良く聞いているのだ。
引き攣った顔で一列に並び声を張り上げる新入生。応援団による恐怖の洗礼はそうすぐにはなくならないらしい。なんて。
まぁ、ふざけ半分でその列に加わっても、誰も『私』の存在には気付いてくれるわけではないのだけれど。
そう、それは今日も昨日も一昨日も。
そしてきっと、明日も明後日も。
淋しくなんかない、と言ってしまえば、それは強がりという事になるのだろう。
勿論、淋しい。寂しい。
本当はどうしようもなく淋しくて仕方ないのだ。
無論気付いてもらうことなど不可能なのだが。
きゅっ、と紅い唇を心持ち強めに噛み締める。柔い弾力。
握り締めたスカートの裾に皺が寄った。
きゅっ、とサンダルはリノリウムと摩擦する。
ようやく着いた。
先に静止した左足に右足を揃えるようにして歩みを止める。
そして『私』は目的地である教室の扉をそっと開いて中に這入った。
見慣れてきたとはいえ、やはり異質な空間が目の前に広がる。
整然と並べられた沢山の机と椅子。机に乗ったままのノート。誰かの名前が記された運動着。立てかけられたテニスラケット。黒板の隅に薄く書かれた落書き。ちびたチョークにこびりつく粉。
黒板の上、丁度真ん中辺りに掛けられた時計を見上げると、まぁるい文字盤の上の針は二時半少し前の辺りを示している。
草木も眠る丑三つ時。
古来から妖怪や幽霊などのヒトならざるモノが活動を始めると言われている時間帯だ。
そして現代の学校で囁かれる噂に置き換えるなら、『学校の七不思議』が動き始める時間帯である。
ふぅ、と溜息を吐いた『私』は教卓の正面の席に着いた。
椅子の脚とリノリウムが擦れる耳障りな音が、静かな教室内に響く。
――この『学校の七不思議』を言い出したのは一体誰なのだろうか。
乱暴に拭かれただけの黒板を見つめながら思考する。
『私』達の生みの親である『噂を創り出した生徒』の正体は未だに知られていない。
一体何時頃在籍していて、どんな性格の、どんな生徒であったのか。
そもそも一人だったのか、数人のグループだったのかすら。
まぁ、誰にせよ随分と無責任でひどいことをしてくれたものだ。
何せ、彼ら又は彼女らは『学校の七不思議』の内きちんとした自我を持ち得る『不思議』を『私』しか創り出してはくれなかったのだ。
……しかも、『私』に名前をつけてはくれなかった。
あぁ、それにしても無知というのは恐ろしい。言霊の力を知らない者でもこんなことが出来るのだから。
もう一度、深く溜息を吐く。
それから軽く瞼を閉じて、『私』はいつも通り指折りながら『学校の七不思議』を一つ一つ挙げ連ねていった。
「一つ、時越えの鏡」
『昇降口』に設置されている古びた大鏡。下の隅の方に金字で贈った卒業生達の卒業年度が刻印されていた筈だ。
しかし『昇降口』は『校舎』内ではないので、行動範囲が『校舎』内に制限されている『私』は、これを見に行くことは出来ない。
「二つ、真夜中の放送」
これはかなり気紛れな『学校の七不思議』だ。
毎日始まる週もあれば、全く音沙汰のない一週間もある。共通点と言えば土日祝日は確実に鳴らないということだろうか。
「三つ、追ってくる人体模型」
出来ることなら、もう二度と遭いたくはない。
あれは『三棟』という『校舎』内でも限られた場所から出られない『学校の七不思議』とはいえ、実際に追いかけられたときの恐怖は並々ならぬものなのであるのだ。なにしろ人体模型なのだし。
「四つ、曲がり角のない階段」
これは発現場所が不安定な移動型の『学校の七不思議』だ。
放送は煩かったりするだけで、耳を塞いでしまえばあってもなくても同じなのだが、階段だと移動中に発現されると困るのだ。
『私』にだって役目はあるから、ある程度経ったら戻って貰えるのだが。
「五つ、紅い水の出る水道」
放っておく分には問題ないのだが、水を飲もうと蛇口を捻る度にあれなのでは気が滅入る。
数個に一個あるかないか位の発現なのに、毎度当たってしまうのはどうしてなのだろう。
「六つ、『学校の七不思議』を語るもの」
昼は認識されずとも学校の中を見つめ、丑三つ時になると何処かの教室に現れては、『学校の七不思議』を語る存在。行動意味は未だに不明だが、唯一自律意志を持った『学校の七不思議』。
そして、これが、今の『私』。
パチリ、と音が聞こえそうな程に勢い良く目を見開く。
そして見計らったかのようにぴったり同じタイミングで教室の前の扉が勢い良く開かれた。
がらり、と。
自分がしっかり認識される時間にこの音を聞いたのは一体何時以来だっただろうか。そんな事を頭の隅で考えながら、『私』は視線を扉へと向けた。
そこには、独りの少年が、いた。
この春に入ったばかりの新入生だろうか。真新しい黒の詰襟は着慣れていないせいか角ばっている。しっかりと第一ボタンまで閉められているのがいかにもと言った感じだ。
『私』を見つめる眼差しは確かに生真面目そうだが、流石は真夜中の学校に忍び込む蛮勇を持つだけあって妙な光を宿している。
あぁ、強烈な既視感。
少年はにこりと愛想良く『私』に笑いかけた。
「『学校の七不思議』を語るもの、ですよね」
「――ええ」
自分が発したとは思いがたい程に褪めた声が返答する。
内心では胸を焦がす歓喜が咆哮をあげているというのに。
少年はゆっくりと、しかし何の躊躇いも見られない動作でこちらまで近づいてきている。
さあ、もっと近くへおいで。
「伝えられていない『学校の七不思議』の七つ目を教えてくれるという」
「ええ、そうよ」
外見上は褪めた声のままに応対を続ける。
やはりこの少年も自身の好奇心に抗えなかったクチなのだろう。
そこで『私』は初めて少年に笑いかけた。
それはもう、努めて『学校の七不思議』らしい笑顔で。
「『学校の七不思議』、その七つ目は」
ゆっくりと立ち上がり、少年の顔を見据える。
座って見ていた時の印象よりも高い。上向きに上げなければいけない首の角度がなんだか少し悔しかった。
少年の頭越しに時計を見やると文字盤は午前三時近くを示している。
もうこんな時間なのか。制限はなかった筈だがそれでも気持ちは僅かに焦りを覚える。『私』は浅く息を吸い込んだ。
「交代する『学校の七不思議』」
冴え冴えと冷えた声が唇から零れ落ちる。
それはまるで濁った水のような、透き通った闇のような。
発せられた言葉に、少年はクエスチョンマークを顔に浮べた。
あぁ、わからないのだろう。
解らない、分からない、判らないのだろう。
君にはきっと、まだワカリエナイのだろう。
『私』はいかにも『学校の七不思議』らしい笑みを顔中に貼り付けたまま、固まったままの少年に問うた。
「ねぇ、どうして『学校の七不思議』を語るものなんだと思う?」
「えっ?」
唐突の質問に少年は首を傾げる。そこに理解を示す色はない。
どうやらまだワカラナイらしい。
鈍いというか、遅いというか。
本当に蛮勇だけでここまできてしまった感じの人なのだろうか。
僅かな苛立ちを内心に宿しながら、『私』はそっと背伸びをして、机の向こう側の少年の眸へと手を伸ばした。
「『私』は見ての通りの女の子だよ? だったら、もの、だなんて不自然だと思わない?」
反射的に少年が眸を閉じてしまう前に、その網膜に焼き付けるつもりで歯を覗かせた嫌な笑いを浮べてみせる。
一瞬そこに浮かんだように見えたのは、理解の色だったろうか。
あながち自身のわかって欲しいという願望の反射なのかもしれない。
「だったら、わかりやすく『学校の七不思議』を語る女子生徒、のほうがいいと思わない?」
とん、と少年の瞼と『私』の指先が軽く触れる。薄い皮膚を通じて眼球が小刻みに動いているのが伝わってきた。くりくりと。
少年は、ぴくりとすら、動かない。否。動けない。
「ものである理由はね――この『学校の七不思議』だけ交代するからなの。性別年齢立場関係なしに『学校の七不思議』と遭ってしまった人と交代を繰り返してるからなんだ」
くすくすと喉を鳴らしながら、ゆっくりと瞼から指を離す。
『少年』が糸の切れた操り人形みたいにその場に崩れ落ちるのを目を細めて見つめる。
ガッシャ――ンッ、ガラ、カラ。
周りの机や椅子を巻き込む大響音。人の体重というものは存外侮れないもののようだ。怪我をしないように身を引きながら表情を元に戻す。
私はスカートに付いた捻れを丁寧に直し、教室の後ろ側の扉へと向かった。
「次は『君』の番だね。私の時みたいに直に次の子が来てくれるといいけどねぇ。まぁ、一番長くて三年間らしいから。手順は自然に思い出せるし、過去の記憶も同時にわかるから安心して」
がらり、と勢い良く扉を開ける。
後ろを振り返ると、早くも失神から立ち直ったらしい『少年』がぼんやりとこちらのほうを見上げていた。不安げな眸と視線がかち合う。
暗い眸は逃げるのかと縋ってくるかのようだ。
私もきっと彼との別れの時に同じような目をしていたに違いない。
……優しくはない、寧ろ残酷ですらあった私の前の彼は、別れの時にわざとらしくお前から逃げるんだよと笑ったものだが。
「……」
かたかたと硝子窓が淋しげな音を立てる。
そう、私は彼ほど残酷ではないし、正直者でもない。どこにでもいそうな勇敢ぶった小心者だ。
『少年』を嘲るには私には覚悟も性根の悪さも足りていない。
だから。
私は努めて普通の人間らしい笑みを浮べた。
どこまでも優しく柔くて、無責任な笑みを。にっこりと。
「頑張って」
ぴしゃん、と勢い良く扉を閉める。
勢いが良すぎて僅かに隙間が空いてしまったほどだ。
苔色のリノリウムを駆ける『昇降口』へと向かう足取りは軽い。
『学校の七不思議』を私がやっていたのは僅か数週間のことだが、一応『時越えの鏡』で過去に戻る手順は踏んだほうがいいだろう。
前の彼ら彼女が皆そうしたように。
『校舎』を出た外廊下でふと空を見上げると、歪な形の月が鬱屈とした黒雲に丁度隠れようとしていた。
実は投稿作のほとんどは高校時代の手直し