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朝夕疾風記  作者: 桐谷瑞香
第二章 江戸編
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序 とある通りにて

 その少女はひたすら走っていた。

 一本に結った長い黒髪を揺らし、紫色の羽織りをなびかせながら、目を爛々と輝かせて人の往来が激しい通りを駆け抜けていた。

「素敵な話のネタよ、今行くわ、待っていなさい!」

 少女の颯爽と走りゆく姿を見て、人々は慌てて道を空けていた。物珍しく彼女を見る者、またあの少女が元気に走っているなと、まるで孫を見るかのような温かい瞳で眺めている者など多種多様だった。

「たしか次の角を右に曲がれば目的の場所に着くはず!」

 そして角を見るなり、速度を落として、大きく回りながら右の通りに踏み入れた。だがそこは先ほどまで歩いていた通りと同じように穏やかな人々が歩いているのみ。少女は腰に両手を当てて、首を傾げる。

「おかしいな。ここら辺で騒ぎが起こっているって聞いたんだけど。道間違えたかな?」

 うむむと唸りながらも、その通りを歩いていく。すると見知った顔が視界に入るなり、少女は淡い薄紅色の着物と同系色の靴をその人に向けて、駆けだした。

優月(ゆづき)!」

 名を呼ばれた、荷物を抱えた背の高い短い淡藤色の髪の子は目を丸くしていた。

「朝陽、走っていたみたいだけど、どうしたの?」

 優月に名を呼ばれた朝陽はきょろきょろと辺りを見渡しながら近づいていく。

「さっきね、こっちで騒動があるって聞いたの。だから急いで来たんだけど、この様子だと場所間違えちゃったのかな?」

「騒動? そういえばさっき騒がしかったような……」

 優月が後ろを振り返ると同時に、激しい音と共にある母屋の入り口の障子が人間ごと通り側に倒れ込んだ。倒れた青年は口から血を吐き出して、赤く張れた頬に手を触れている。そして母屋の中から、がっちりとした男が一歩一歩踏みしめながら通りへと姿を現した。

「この野郎、いい加減にしやがれ! 期限過ぎたにも関わらず、まだ返さないとはいい度胸だな!」

 青年は立ち上がり、男性に鋭い視線を突き付けた。

「いい度胸って、それはお前の方だろう! 勝手に期限を後から書き換えただけでなく、借りた額もいじりやがって! 無理に決まっているだろう、あんな額!」

「あんだと!?」

 青年と男性はお互いに睨み合いながら口々に言い始めた。時が進むにつれて、罵声まで出てくる。しまいには手まで飛び出てきて、通りの一角は乱闘騒ぎになりつつあった。

「朝陽、どうしよう。早く自警団呼ばないと!」

 おろおろしている優月に目もくれずに、朝陽は乱闘騒ぎをじっと見つめていた。そして視線を逸らさずに、肩からかけている鞄から糸で閉じた紙と筆を取り出す。

「朝陽……自分の世界に入っちゃったね」

 優月が苦笑しながら、記録を取り始めた朝陽の様子を眺める。

 朝陽は紙に筆を置くと、勢いよく乱闘騒ぎの始まりから半ばまで書き始めた。自分が読める程度の字の荒さだが、大切なところはきちんと押さえて記していく。筆を扱うその速さに、ちらりと彼女の様子を見ていた人たちは驚いていた。

 程なくして町の自警団がその乱闘騒ぎを納め出す。店の用事で外に出ていた優月が朝陽の傍から離れようとも、自警団の実況検分が終わるまでは、ただその場でひたすら書き続けていた。



 * * *



 北倶盧洲ほっくるしゅうの北に位置し、西に多摩川、東に荒川が流れ、二本の河川の間に広がる平野の上にある中央都江戸は、多くの人々で賑わっていた。

 だが平和な日常の中にも些細ないざこざや、事件も起こったりする。それを瓦版の父を持つ朝陽は事件の噂を聞きつける度に、江戸の中を走り回り、こうして取材を続けていた。その取材を元に情報として皆に知らせてもよいと父に判断されたものに関しては、文字に起こして皆に配って回っている。

 非日常を体験するのが楽しく、人々の新たな一面も見られるため、父に危険だからやめろと言われても、ついつい朝陽は事件を追っていた。

 今はただ珍しい事象を追いかけるだけで満足している。だがいつかは闇に消えた真実を追い求めたい。

 幼い頃、母が殺された。ヒトよりも遙かに腕力や体力が優れている羅刹族に殺されたらしい。なぜ殺されなければならないのか、物心付いたときには朝陽は常々思うようになっていた。

 父の手伝いと称して町を駆け抜けるようになってから、その思いは強くなっている。

 だがそう簡単に平和な江戸に羅刹族の情報が入ってくるわけがない。羅刹族すらほとんど見ることがない地では、そのような情報が出回る理由がなかった。

 北倶盧洲ほっくるしゅうの西に位置している賽ノ地(さいのち)には羅刹族の本拠地が近いため、そうではないらしいが。

 出張と言って賽ノ地に行った、朝陽の姉、夕凪(ゆうなぎ)のことをふと思い出す。時折手紙をもらうが、決して安全な地ではないことが文面から読みとれた。

 早く姉と直接会って聞き出したい。

 賽ノ地のこと、羅刹族のこと、そしてその土地で出会ったヒトたちのこと――。

 姉のことをぼんやり思い浮かべつつも、一旦事件の噂を聞きつければ意識はそちらに集中する。

 どこからか自警団を呼ぶ声が聞こえてきた。

 その声がした方に向かって、今日も朝陽は江戸の町を走り始めた。

 走り始めた先に多くの出会いがあることも、楽しみにしながら。

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