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朝夕疾風記  作者: 桐谷瑞香
第二章 江戸編
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第六話 江戸を護る者達(後編)

 朝陽は炯たちと共に、避難誘導の手伝いにあたっていた。

 武家屋敷地帯の避難は、炯たちよりも上の段の者に任せ、下っ端の隊員たちは繁華街を中心に町民たちに声を投げかけている。

「皆、必要な物だけ持って、江戸の町の東側に避難してくれ!」

「どうしてだい、何かあったのかい?」

 紺碧色の羽織を翻す隊員に、町民たちは首を傾げて尋ねてくる。

 視線を合わせた隊員たちは、江戸城の方に視線を向けた。

「――化け物と見られるものが、こちらに向かっているらしい」

 町民たちが息を呑む音が聞こえた。表情が一瞬で強ばる。

 しかし、それを和らげるかのように、隊員たちは笑みを浮かべて口を開いた。

「なに、安心しろ。隊長たちが退治してくれるから。あの人たちの強さは町の皆が知っているだろう!」

 その言葉を聞いた町民たちの顔の筋肉が緩む。お互いに話をし、頷き合った。

真言(しんげん)さんや鳶彦(とびひこ)さんたちが退治してくれるんだよな。それなら安心だ! よろしく頼んだって、言っておいてくれ!」

「まこさんの素晴らしい活躍を心から応援していますと、伝えてください!」

 老若男女、江戸の町の自警団『狼士組』の名前や活躍は幅広く知れ渡っている。彼らが既に手を打っているのならば、安心できるという雰囲気が漂っていた。

 ふと朝陽は僅かだが地面が揺れていることに気づく。耳を澄ますと、雄叫び声も聞こえた。

 炯たちに近づき、急いで避難誘導を再開するよう促す。彼らも化け物の気配を感じており、軽くだが首を振り返していた。

 心配させないように、笑顔で隊員たちは先導していく。朝陽はその様子を見ながら、次なる避難誘導地域へ移動した。

 だが、避難している町民の中で慌てふためいている女性がいた。気になった朝陽は彼女に近づき、肩を叩く。

「どうかされたんですか?」

「子どもが見あたらないのよ!」

「避難している人たちの波に呑まれて、行ってしまったのではないですか?」

「そうだといいだけど……、あの子、忘れ物したとか呟いていて……」

「……お住まいはどちらですか?」

「西の武家屋敷地帯に少し入ったところよ」

 朝陽はごくりと唾を飲み込んだ。

 最悪の状態に近い。

 武家屋敷も広いため、彼女たちが住んでいる屋敷の傍を化け物が通るとは考えにくい。

 だが、子どもは好奇心の固まり。振動や音に惹かれて、化け物の前に飛び出てしまう可能性もあった。

 場所がはっきりしない中、たった一人の子どもの捜索を狼士組に頼むのは気が引ける。

 また、もし子どもが化け物の近くにいた場合、現場にいる真言たちが化け物より先に接触できる保証はない。

 ならば今、頼れるのは自分の直感と今まで培った知識だけだ。

 朝陽は覚悟を決めて口を開いた。

「――あたしがあなたの屋敷の周辺に行って、その子がいないか確認してきます」

「え?」

「避難場所でお子さんと合流できる可能性もおおいにありますが、念のためです。――お屋敷の場所、そしてお子さんの特徴と名前を教えてください。早く!」

 女性は朝陽の声に圧倒されて、子どもの特徴をぽつりぽつりと呟いてく。朝陽は脳内にしっかりその特徴と名前を埋め込んで、町民たちが進んでいる方向とは逆の道を走り出した。



 江戸の町は抜け道も含めて、ほとんど脳内に叩き込んでいる。普段は地図を手にし、確認しながら用心深く進んでいるが、おおまかな場所であれば脳内の地図だけで充分だ。

 最短距離で武家屋敷地帯まで駆ける。狼士組にも見つからない場所を通っていたため、誰にも会わずに進んでいた。

 静かだ。

 お祭りが終わった後の反動ではなく、文字通り人っ子一人いない中、静寂が漂っている。

 そんな静寂を突き破るような化け物のうなり声が、朝陽の耳に嫌でも飛び込んできた。

 はやる思いを抑えながら、女性が言っていた屋敷の地帯に入る。

 声は出さず、目と耳だけで子どもを探していく。だが周囲を一回りしても、人の気配はない。気になる点と言えば、化け物がいる方向に残っている小さな足跡。

 朝陽は歩調を速めて、その足跡を追う。

 間もなくして、ある角に入ったところで、少年とぶつかった。

「君――」

 あの女性が言っていた名を言おうとしたが、朝陽はその前に少年の表情に釘付けにされた。彼の顔が大きく歪んでいたのだ。

 朝陽はとっさに少年を自分の背後に移動させ、護身用の短刀を真正面に突き刺した。

 どこを向いているのかわからない、三つある赤い目玉。頭の両側から出た角はその場で一巻きしている。両腕はそれぞれ獣と海獣のもののようで、見た目通りの化け物が道を四つ足で張って歩いていた。

 化け物が動くと、腕に付いていた鎖がぶつかり合う音がする。

 朝陽の全身は、あり得ないほど震えていた。強く意識しなければ短刀を落としてしまう。

 この化け物を退治しようとしていた狼士組はどこにいるのか。

 もしかして、全滅してしまった……?

 化け物は朝陽たちを三つの目玉で見る。視線を射抜かれると、全身が震えあがった。化け物は狙いを定めると、朝陽に向かって突進してくる。

 恐怖から少しでも逃れようと、思わず目を閉じた。

 瞬間、体がふわりと浮き上がった。目を薄らと開けると、視線が高くなっている。突進し、近くの壁に当たった化け物を見下ろす形になっていた。

「……どうしてこんなところにいるの、朝陽さん」

 溜息と共に言われたのは、朝陽が憧れている人の声。

 朝陽と少年をそれぞれ抱えた紺碧色の人たちは、近くの屋根の上に着地した。

 屋根の上に足を付けると、朝陽と少年は四肢の筋肉が抜けたように、その場にしゃがみ込む。

 強面の隊長の鳶彦と、肩をすくめている総隊長の真言が二人を見下ろしていた。

「嬢ちゃん、さっき逃げろって言われたよな? ……まあ大方、お節介な人探しでも引き受けたんだろ」

 鳶彦の視線が、袋に入った物を大事そうに抱えている少年に移る。視線を感じた少年はびくりと体を震わせた。

「……まあ、いい。今はそんなことしている暇はないからな」

 地上部では隊長二人と、剣術の腕に自信がある隊員が化け物を取り囲んでいる。

 しかし、化け物が突進すると、すぐにその包囲網は解かれた。

「俺たちもすぐに加勢しないと危険だ。行くよ、鳶」

「おうよ。どうやって倒すか考えながら動かなくちゃな」

 鳶彦は屋根の上から飛び降りる。真言は朝陽と少年を見て、頬をゆるました。

「君たちは大人しくここにいて。下手に地上に降りられると、化け物がまた襲ってくるかもしれない。この屋敷には突進させないように注意するから。――あと、朝陽さん」

「は、はい」

「ここにいる人たちが皆やられちゃったら、葵之進(もりのしん)にでもその事実を伝えて。あとは――全力で逃げるんだよ」

 そういってから真言は屋根の上を駆けていき、化け物の傍に寄っていった。

 彼の見せた儚い微笑が目に焼き付き、思わずその場を乗り出そうとしたが、足下を外しそうになり、我を取り戻す。

 離れたところでは緊張した面もちの総隊長と三人の隊長達が、化け物を包囲している。朝陽はただその場で祈るしかなかった。

 ふと、一人の人間が走ってくるのが見えた。眼帯を付けている隻腕の少年。他の町から来た青だということに気づくのに、そう時間はかからなかった。

 鳶彦は青を見ると、指さして寄ってきた。

「お前、訳分かんねえ伝言、突然寄越すんじゃねえよ」

「訳分かるだろう。あのバケモノの事を知らせてやったんだ」

「口の減らねえガキだな」

 鳶彦が口をへの字にしていると、真言が視線だけ化け物からそらして、二人の仲介に入った。

「今はそれよりあの化け物を何とかする事を考えよう」

「ああ、そうだ。それについては当てがある」

 青がさらりと出した言葉に、皆は目を丸くした。彼の口から出された内容は、あの化け物が羅王(らおう)という名であり、江戸城を脱走し、ここまで来たこと。そして正午までに砂州まで連れて行きたいというものだった。

「――砂州まで行けば何とかなるんだね」

 真言と鳶彦は腕を組んで考えている。どうやって連れて行くかを思案していりょうだ。誰かを囮にするという手もあるが、途中で興味が逸れる場合があった。

 鳶彦が頭をかき、化け物をちらっと見ながら、引っ張っていくという意見を出す。そしてすぐに近くにいた隊士に言付けをすると、すぐに彼は屋根の上を飛んでいった。

「弱らせて、縄引っ掛けて、引っ張っていくしかねえだろう。――真言、俺も準備にでてくる。怪我ァすんなよ、総隊長」

「分かったよ。そっちは任せる。鳶彦も無茶しないでよ」

 二人で拳を突き合わせた後に、鳶彦もその場から去っていった。



 青と残った狼士組、そして先ほどから加勢し始めていた耶八(やはち)、爽亭をよく出入りする立待と数名の武士が、羅王の足下を駆けていた。

 さらに見たことのない女が翻弄するかのように飛び回っている。背中からは赤い痣が垣間見えた。

 その痣を見て、朝陽は目を大きく見開いた。

 書物で見たことのある、蝶のような痣。血の羽を思い出す背中は――羅刹(らせつ)族の特徴だった。

「ど、どうして羅刹族と耶八くんたちが共闘しているの!? 羅刹族は人間にとっては敵なんでしょ!?」

 目にも止まらぬ速さで、羅刹女は羅王を傷つけていく。人間には到底できない攻撃を繰り広げていた。

 耶八や青の攻撃、真言の繰り出す剣術ももちろんすごい。だが、羅刹女の強さは朝陽から見ても群を抜いていた。

「すごい……!」

 心の底から、素直に言葉が出た。

 圧倒的な力を持つ羅刹族。無族の者がその前に出ても、相手になるはずがない。

 複雑な思いが朝陽の脳内で対立する。

 あの強さに助けられている、今。

 あの強さであるがゆえに殺されてしまった、過去。 

「……お母さん、何があったのよ……」

 手をぎゅっと握りしめた。

 視線を逸らしているうちに、羅王の動きが徐々に鈍くなっている。倒せるのは難しくとも、大人しくできることには成功しているようだ。

 しかし、それでは根本的な物事の解決にはならない。歯をぎりっと噛み締めていると、鳶彦が非常に太い縄を肩に担いで現れた。

 彼は屋根の上から降りながら、器用にその縄を羅王の角と腹に引っかける。予め結び目を作っていたらしく、その部分に上手い具合にあたって、羅王を捕らえることができた。

 捕らえられた羅王は激しく身じろぎをする。鳶彦だけでは力が足りないと悟った狼士組は、すぐに加勢に乗り出す。

「よし、一気に行くぞ!」

 鳶彦のかけ声と共に、縄を持っていた狼士組たちは、声を掛け合いながら、羅王を引っ張り始めた。

 砂州に向かって、少しずつ進んでいる。

 だが圧倒的に力が不足していると、朝陽は屋根の上から見下ろして感じ取っていた。

 もっと多くの力が必要だ。ここにいない狼士組を全員合わせても難しいかもしれない。それならば、考えられることは一つ。

 朝陽はその場で立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。

「ねえ、江戸の町は誰のもの? 皆のものでしょ。つまり皆で守る町なのよ!」

 真言にまた怒られるな……と思いながら、朝陽は少年を連れて、もと来た方向を戻り始めた。



 しかし、朝陽が急いで戻る必要はどこにもなかった。

 移動している途中、江戸の町民たちが、狼士組が羅王を引っ張っている方に向かっているところに遭遇したのだ。

「どうなっているの……?」

 事情が読めず立ち尽くしていると、大福餅のような鳥を連れた炯が駆け寄ってきた。

「朝陽、どこにおったんねん!」

「ご、ごめん、ちょっとね……。ねえ、これってどういうこと?」

 老若男女、江戸の町を走っていく。

「あの化け物を海岸まで引っ張るのに力が足りないって、この鳥が言ったんよ。ほんまやろうと思ったから、避難誘導している隊長に頼み込んで、町民たちに知らせているんや。忍び装束着たおなごにも頼んでいる。そろそろ人が集まり終えそうだから、うちらも加勢にでようと思うとる」

「わかった。あたしも引っ張る側に回るわ。――ありがとう、大福!」

 白い鳥にお礼を言うと、その鳥は口を開こうとしていた。あの怒濤の喋りが始まる前に、朝陽はその場を離れて、海岸に向けて駆けだした。



 海岸に向かう途中で優月と合流した朝陽は、二人で縄を引く人たちの中に入り込む。鳶彦など狼士組が羅王の近くで引っ張っているため、町民たちは彼らに反対の声を押し切りながら、その後ろで団子状態になって縄を持った。

 そして縄をぎゅっと握りしめて、屋根の上にいる火消しの長さんと鍛冶屋の大吾の声に合わせて、皆で力を合わせて引っ張った。

「せーのっ、そいやー!」

「そいやー!」

 大きな声を掛け合いながら、縄を引くと、羅王が引きずられる速度が増した。

「正午までに砂州だな、江戸っ子の根性見せたらあ!」

 鍛冶屋の大吾が、羅王の周囲で呆気にとられている狼士組を見て叫んだ。

 それに合わせて、朝陽も含めた町民たちも声をあげる。

「優月、無理しないでね。手の皮が剥けちゃ、看板息子の名が泣くわよ!」

「朝陽だって気を付けてよ。手がぼろぼろになったら、しばらく筆を握れなくなるんだから」

「……まあそうなったら、しょうがないわね」

 狼士組が、避難するよう幾度もなく声をあらげるが、誰一人その場から逃げ出す者はいなかった。むしろ反論する声があがる。

「江戸は儂らの町だ。儂らにも手伝わせろ!」

「全員でやれば何とでもなる!」

「狼士組だけに任せておく訳にはいかんだろ!」

 かけ声と共に、さらに勢いよく羅王を引きずる。

 あの大きな化け物から見れば、人などただの塵程度しか感じられないだろう。攻撃されればあっさりと傷を負い、暴れれば逃げまどうしかない。

 しかし、その者たちが多く集まれば、それは大きな力へと変わる。

 江戸の町を守り抜きたいという、思いがさらに大きな力を生み出すことができるのだ。

 化け物は、傍に寄っていた青と耶八に注意が向いていた。

 他の町から来た彼らも頑張っている。理由は知らないが、羅刹族も手助けをしてくれた。

 彼ら、彼女らのためにも、縄を握る力を緩んではいけない。

 声を掛け合い、海岸へと引っ張り続ける。

 視界が徐々に開けてきた。潮のにおいがする。目的地までもう少しだ。

 明るく江戸の町を照らしている日輪は、もう少しで天頂の位置につくだろう。

 海岸の砂浜まで引っ張ったところで、離れろという声があがる。最後まで握っていたい人たちも多くいたが、自分たちよりも経験が豊富な自警団からの言葉を聞き流すわけにはいかない。

 江戸の町民たちは、一斉に散り散りになって海岸から逃げ出す。羅王が逃げていく住民たちを見て追おうとしたが、青と耶八がそれを阻止した。

 左目を貫き、弱った羅王を誘い出すように、彼らは背中を見せずに長い砂州の上を歩く。羅王は意識を二人だけにし、ぼろぼろになった体を動かして、二人を追っていた。

 いよいよ日輪は天頂に昇っていた。羅王もちょうど砂州に踏み入れている。

 砂州の向こう側から、翡翠色の髪を高い位置からくくっている女性と、髪を綺麗に剃った男が、羅王に向かって駆けてきた。

 彼女は青と耶八と言葉をかわすと、腰の刀を抜く。そして羅王に向かって高く舞うと、攻撃をかわしつつ、最後の目玉を切り裂いた。

 耳につんざくような、おびただし咆哮があがる。

 女性は羅王の背後に着地すると、大きく刀を振り上げた。

「比良! 打てえ!」

 隣にいた男、そして青と耶八もその場で身を伏せた。

 次の瞬間、砂州でつながっている江戸城から、砲撃音が鳴り響いた。

 速度を付けた巨大な鉄の塊が、羅王の体に直撃し、勢いのまま貫通した。

 羅王は砂を巻き上げて、仰向けで倒れ込む。大きな音と共に、化け物は砂州の上に横になった。



 あっという間の出来事を目の前で見て、呆然としていた町民たち。

 ほんの少し沈黙が続いた。

 だが、どこからともなく歓声が沸き上がる。朝陽は隣にいた優月と抱きしめあい、体で喜びを表現した。

 そして海岸の端に移動していた町民たちは、狼士組の近くまで駆け寄った。

 見慣れた紺碧色の羽織に身を包んだ総隊長の真言が、ちょうど赤目で翡翠色の髪の勇ましい女性を出迎えるところだった。

 真言は表情を緩めて、彼女に挨拶をした。

「自警団狼士組の総隊長を務めております、真言と申します」

 女性は一瞬逡巡した後に、口をはっきり開いた。

「二十三代将軍、翆蓮(すいれん)だ」

 周囲にいる人たちがざわめく。朝陽も食い入るように彼女を見た。

 将軍はいると聞いていたが、まさかこのような美しい女性だとは。

 真言も朝陽が思っているのと同様のことを述べると、彼女はさらりと将軍の地位を引き継いで以来、公の場にでていなかったと言った。

 将軍が手を差し出すと、真言は軽く頭を下げてから、手をひらひらと振った。縄を引っ張っていたため、皮が剥けて真っ赤になった手のひらを見せている。

「とても将軍様のお手に触れるわけには参りません」

 手を引っ込めようとしたが、翆蓮はぱっと掴んだ。顔をゆがめたのを見て、一瞬離したが、次は優しく傷ついていない部分に触れた。

「私が遠くばかりを見ていて、足下を疎かにしていたようだ」

 ぽつりぽつりと呟かれるのは、羅王の存在を知らなかったことと、今回脱走を許し、江戸の者たちに多大な迷惑をかけたこと。

 皆、将軍から語られる言葉に、口を閉じて耳を傾けていた。

「皆の働きは対岸から見ていた。素晴らしい、素晴らしい力だ。皆が江戸を誇る心こそが、江戸が誇る何よりの宝だ。しかし私はもどかしかった。目の届くところで、手の届かぬところで誰かが傷つくのは!」

 翆蓮から出される、感情を爆発させた声。

 嘘偽りのない声が、朝陽や住民たちの心に深々と刺さった。

「羅刹との和平は絶対だ。長年の私の夢だ。それを諦めることはできん。しかし、これからはもっと江戸の町に力を注ぎたい。皆が愛するこの町が、平和で明るくあるように」

 そして将軍は笑顔で言い放った。

「橋をかけよう。江戸の町と、江戸城を繋ぐように。そうすれば私はもっと江戸の町に近づける。今のようにもどかしい思いをすることもなくなる。なあ、権左!」

 髪を剃り上げた男が大きく頷いた。

「とてもよい案だと思います。姫様の御心のままに」

「では決まりだ。明日から始めよう。江戸城からの大橋を!」

 その内容を聞いた住民たちは、再び割れんばかりの歓声をあげた。



 朝陽はその場で小さく拍手をしていた。

 歴史が変わる瞬間を見た気がした。江戸の町の人たちの思いが、将軍にも伝わった。

 それは何と嬉しいことだろうか。

 そして将軍が言葉に出していた、羅刹との和平。

 先の戦いで手助けしてくれた羅刹のことを思い浮かべれば、それも不可能ではないのかもしれない。

 母を失った悲しみもある。

 なぜ失ったのか、腑に落ちない点はある。

 だが、それでも前に進むべきなのだろう。少しずつでもいいから。


  

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