第五話 江戸を護る者達(前編)
早村友裕さん著、賽ノ地青嵐抄【江戸編】第十七話からの朝陽もとい一人の江戸の人間視点の話です。
その日は陽が昇っても不思議なくらいに、江戸の町は静まりかえっていた。
それもそのはず、昨日夏祭りが行われたばかりなのだ。
五穀豊穣を願うその祭りは、昼に行われる、寺社に舞と御輿の奉納をするのが主目的だが、どちらかといえば町民たちは夜に楽しく騒ぐ方に視線が向きがちである。江戸の町がもっとも賑わう日とも言われ、この日のために他の町から遊びに来る人も多数いると言う。
朝陽は昼間の厳かな雰囲気も好きだが、夜の騒がしい雰囲気も好きだった。
昼は矢立筆を手に、丹念に奉納の様子を記し、夜は筆をしまい、みんなで楽しく騒ぐ。繁華街の商店は軒先に出店をだしているため、より気軽に飲み食いができる環境となっていた。
爽亭も出店をだしているため、朝陽は優月と出かけるのは難しいと思っていた。だが、優月の父や手伝いをしてくれる常連さんのおかげで、短時間だが歩き回ることができたのだ。
食べ歩きができるものを買い、二人で話をしながら江戸の町を歩いていく。繁華街とはいえ、歩くのに一苦労するほど大勢の人を目の当たりにするのは、生きてきた中でほとんどない。いったいどこから人が出てきたのかと思うほど、たくさんの人がいた。
時折、江戸の治安を取り締まっている狼士組に注意を受けている人間もいたが、その他はおおむね満足げに過ごしているようだ。
優月と別れてからも、朝陽は繁華街を眺めながら歩き続ける。すると耳に鼓膜を震わす大きな音が飛び込んできた。視線をあげると、色鮮やかな花火が打ち上がっている。この日のために、花火職人たちはこだわりの花火の玉を作り上げているらしい。
誰もが視線を夜空に向けて、花火を鑑賞している。
家族、思い人、友人たちなどと共に、その光景に見とれながら。
その年に一度の大規模な夏祭りの翌日は、反動なのか昼近くでも店は大半がしまっており、通りを歩く人はまばらだった。
朝陽も起床した時間はいつもより遅かったが、昼前には行動を開始し、のんびりと江戸の町を歩いていた。
たった一日違うだけで、江戸の町の風景はがらりと変わる。その変化も目で見ておきたい。
気の向くままに歩いていると、狼士組の炯、タケ、セイと出会った。祭り後の状況を見ているようだ。彼女たちも昨晩の取り締まりで疲れているのか、欠伸をしている場面も見られたが、朝陽にはいつもの調子で寄ってくる。
「朝陽、おはよう。はやいな」
「もう太陽が昇りきっているよ。早いなんて言われる時間じゃないって」
「そうやな。ははは、つい人通りの多さで時間帯を考えるくせがあるわ。町を見回っとるねんけど、静かなもんやな。今日は一日何も起こらなそうや」
「たまには平和な一日を堪能してもいいんじゃない? いつも皆、頑張っているから」
時折笑いも入れつつ喋っていると、突然、朝陽の背中に悪寒が走った。反射的に体を北に向ける。
「どないした?」
「いや、今、変な感じがして……」
視線の先の延長線上にあるのは、海の向こう側にある江戸城。一日の間に町から城まで移動できる時間帯は干潮の二回のみ。直近の時間は正午だろう。
ただの町民である朝陽はもちろん江戸城には行ったことはないが、海に挟まれたこちら側からはよく見ている。
今日の予定は静かな江戸の町をぶらぶらと歩くだけ。少し足を伸ばして、江戸城でも見てこようか。
炯たちと別れて、なんとなく進もうとした矢先、目の前から白い猛禽類が勢いよく空を飛んでくる様子が目に入った。長い尾羽が印象的な珍しい生き物である。
「そこで刺又を持っている蜜柑色の髪の姉ちゃん!」
「え、自分のこと?」
炯が自分自身を指で示すと、猛禽は大きく首を縦に振った。それが勢いよく炯に向かって降りてくる。見たことのない生き物を朝陽は模写しようとしたが、その前にある事実に気づき、目を大きく見開かせた。
「ちょっと待って。と、鳥が喋っている!?」
「なんだい、お嬢ちゃん。そんなに俺様のことが、かこいいってか? くうーっ、俺様って人気者!」
「……いや、誰もそんなこと言っていないし」
朝陽は首を横に振る。
純白色の猛禽は炯の前にくると、くるりと宙返りをした。さっきまでいた猛禽はいなくなり、かわりに地面には大福のようにまるまると太った、耳が生え、くちばしを持ち合わせている何かがいた。
朝陽は炯と共に視線を合わせる。後ろにいたタケとセイも首を傾げていた。
「これ、さっきまで口やかましく喋っていた鳥?」
「そうそう、さっきのも俺。今の姿も俺。どっちも俺様だ!」
「……炯、変なのは放っておいて、行こう」
「そやな」
朝陽は炯たちを連れて、大福に背を向けて歩き出そうとした。だが、その背中を見て、やかましい声がある人たちの名前を上げたため、それ以上進むことはなかった。
「青と耶八からの伝言持ってきたぜ!」
「あの二人が……?」
炯が刺又を握りながら、大福の方に振り返る。それはその場で手をばたばたと動かし、地面から飛び上がった。
「おうよ、実はな、あの城から妙な馬鹿でかい化け物がこっちまで泳いでくるんだよ! めちゃくちゃ強いから、急いで住民を避難させろってよ!」
「化け物……? どういう意味や」
怪訝な表情をしている、炯、タケ、セイ。朝陽は筆を握っている手に力が入りつつ、じっと大福を見つめていた。
「そのまんまだぜい! 目玉が三つあってよ、そこら辺の人間なんか簡単に吹っ飛ばす、すげえやつ。旦那に助けてもわなきゃ、俺様も簡単に踏みつぶされたところだったぜ!」
炯はタケとセイと視線を合わせて、眉間にしわを寄せる。
大福が言っている内容は、突拍子もないものだ。目玉が三つもあれば、化け物だろうが、果たしてそんなものが存在しているのかどうか疑問である。
しかし、このやかましい白い物体は皆が知っている、青と耶八の名前をあげていた。
この点が気になり、邪険に扱えないでいた。
「どうする、炯」
「まこさんに相談してみる? もしこれの話がほんまなら、避難誘導せんといかん」
「青と耶八はそーたいちょーにも伝えてくれって言っていたぜ!」
さらに目を大きく丸くして、大福を見る。これが自発的に総隊長の名を挙げたとは……考えにくい。
炯は真っ白い色の大福を持ち上げ、両腕で抱えて、まだ静けさが残る江戸の町を走っていく。タケとセイもそれに続いた。
朝陽も少し遅れて、その後をついて行った。
詰め所にいた狼士組の総隊長真言は、隊長の鳶彦と葵之進と話をしている最中だった。鳶彦の大きな笑い声が聞こえる。楽しそうな話しでもしているのだろう。
そんな談笑の中に、炯たちは躊躇わずに突っ込んだ。
「まこさん!」
炯が叫ぶと彼女が抱えていた大福は手を動かすと、自力で真言まで近寄った。
「そーたいちょーっていうのは、兄ちゃんか!? なあ、兄ちゃんなのか!?」
「……おい、炯、このやかましい大福はなんだ。切って、焼いてもいいか?」
鳶彦が刀の柄に手を添えている。その腕を真言が握り、抑えていた。
「まあまあ落ち着いて。俺に何か話したがっているみたいだよ」
「お前は本当に人がいいな……。総隊長様に従いますよ」
柄から手を離したのを確認すると、真言は大福に視線を向けた。それを合図と見なした大福は、言葉を怒濤のように並べ始める。
「話が早くて、嬉しいよう、兄ちゃん! 俺様、青と耶八から伝言を預かってきたんでい!」
「それは気になるね、続けて」
「実はあの城から、化け物が飛び出てきたんだ! それがこっちに向かってくるんだよう。だから町の人を早く避難させろって、言われたんでい」
「化け物を江戸城で飼っていたのかい? まさか、そんなわけは……」
真言は困惑した表情を浮かべている。町民とは縁が遠い江戸城だが、仮にも江戸の町を納めている場所だ。そこに人間たちの命を脅かすものがいた、と言われてもすぐには信じられない。
「まこさん、どないしよ……。嘘っぽく感じるけど、青と耶八の名前出されると、ほんまみたいに聞こえるんや」
「……直接確認した方が早いな。葵之進」
「はい」
葵之進は細長い拡大鏡を真言に渡した。受け取ると、真言は半鐘が置いてある火の見櫓を軽やかに上り、そこから拡大鏡を目に当てて、江戸城の方に向けた。目を細めて、首を動かしていると、ある一点で止まるなり、目を大きく見開いていた。
唖然としながら、真言は拡大鏡を下ろす。
「おい、真言、どうした!?」
下から鳶彦が大声で叫ぶ。我を取り戻した真言は、顔を引き締めて、地面に向かって軽々と飛び降りた。両膝を上手く使って威力を吸収する。そして総隊長に寄ってきた、二人の隊長と炯たちに向かって、真言は固い表情で口を開く。
「みんな、急いで狼士組を集めてくれ。緊急集合だ」
口元はきゅっと引き締まる。真言は簡潔に事実だけを述べた。
「三つの目玉が付いた見たことのない巨大な化け物が、こちらに向かって泳いできている。時間が経てば、町に上陸してくるだろう」
「このうるさい鳥が喋っているのは、本当だったってことか」
鳶彦に向かって、真言はこくりと頷く。
そして彼は葵之進や炯たちに視線を移す。
「葵之進は二段以下の隊員を集めたら、彼ら、彼女らに町民の避難誘導をするよう、促してくれ。泳いでくる方向を見ると、おそらく上陸地点は武家屋敷地帯の西側だ。そちらから、重点的に避難を仰いでくれ」
「了解した」
「その鳥は……炯がそのまま持ってもらってもいいかな?」
真言が微笑んで大福を見ると、炯は胸の前でそれをぎゅっと抱きしめた。大福餅の口元が緩んでいるように見えた。
「わかったで!」
炯が元気よく返事をすると、葵之進を先頭にして、四人は詰め所に入り、狼士組の人たちをかき集め始めた。
真言は鳶彦に視線を戻す。
「鳶彦は他の隊長と三段以上の隊員を連れて、俺のところに来てくれ。……化け物退治に行くぞ」
真言はやや低い声で言い放つ。それを聞いた鳶彦は首をしっかり振った。
「誰かが止めねえと、江戸の町がぐちゃぐちゃになるからな。ちょっと待ってろよ!」
そう言ってから、鳶彦は意気揚々と詰め所の中に戻っていった。
やがて真言の視線が、一人だけ残った少女に向けられる。矢立筆を手に、今までの様子をさらさらと記していた。
「朝陽さん、緊急事態だから、俺たちの傍について取材しようとか思わないでね」
「でも……!」
「貴女も知り合いに声をかけて、東に早く避難して。話しなら、あとでいくらでもするから」
鼓動が速くなっている。
脳内には瓦版屋としての立場と、一人の生あるものとしての立場が反発し合っていた。
化け物の姿や狼士組の活躍を見たい。
だが、もしもその化け物に皆が負けるようなことがあれば、避難し終えてなかった場合、非常に恐ろしいことが起きるのではないだろうか。
真言は朝陽の目を逸らさず、真っ直ぐ見てくる。無言の威圧に従わざるを得なかった。
「……わかりました」
朝陽は筆を握りしめて、紐がついている白い布袋にめも紙と筆をしまい込んだ。