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朝夕疾風記  作者: 桐谷瑞香
第二章 江戸編
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第二話 昼間の朱塗りの門の先

「こんにちは! 優月!」

「いらっしゃい、朝陽。今日は甘味でも食べに来たの?」

「実は昼ご飯、まだなんだよね。雨降った上に寒くってさ……」

 長い黒髪を一本にして結っている少女は、爽亭の店員の優月からお茶をもらうと、湯飲みを両手で持って一口すすった。そしてにっこりと微笑みつつ、丸いお盆を持っている優月に顔を向けた。

「鮭茶漬けをお願いするわ」

「了解。少し待っていてね」

 そう言うと、優月は注文内容を伝えるために厨房へと入っていった。淡藤色の短い後ろ髪を見ながら、朝陽は再度お茶をすすった。緑茶の味が良く出ていて、美味しい。特に寒い日に飲むお茶は格別である。

 鮭茶漬けが出てくるまでに、今日の取材内容をまとめるために、鞄から紙の束を取り出した。めくると乱雑に書かれた文字が並んでいる。それを読みながら、別の紙に要点を書き写していった。

 ふと、茶屋の外に腰掛けがあるのに目が付いた。

 爽亭にはお団子といった手軽に食べられるものも多く、外にある腰掛に腰をかけて食している者も多くいる。だが今日は朝方からしばらく雨が降っていた関係で、腰掛けは店の中に引っ込めているはずだ。実際、店内の入り口には腰掛けが一脚多い。

 朝陽は疑問に思いつつ立ち上がり、外に置いてある腰掛けに近づく。そしてじっと見下ろした。

「腰掛けだけど、なんか違和感が……」

 妙な気配を感じる。朝陽は首を傾げながら、腰掛けに手を触れようとした。

 だが、その前に外に顔を出した優月が声をかけてきた。朝陽は触れる直前で止まる。

「鮭茶漬けできたよ?」

「わかった、ありがとう!」

 朝陽は腰掛けに背を向けて、優月の方に振り返る。

「ねえ、優月、ここに腰掛けって――」

 問いかけるより前に、優月が盆を口元に当てて小さな悲鳴を上げた。朝陽は慌てて腰掛けの方に体を向けると、一人の男が走り去っていく背中が見えた。長い茶色の髪を一本に結っている青年。赤い襟巻きが印象的だ。

「あの人、あっちから走ってきたっけ?」

「あ、朝陽、見ていないの!?」

「何が?」

 きょとんとして優月を見ると、彼女は震える指を青年が走り去った方に向けていた。

「い、今、あの人が突然朝陽の後ろに現れたの!」

「あたしの後ろから、突然?」

 ますます眉間にしわを寄せ、朝陽は優月に背を向ける。そして何気なく視線を下に落とすと、腰掛けがなくなっていることに気づいた。唐突に一つの仮説が立ち上がった。

 今までなかった場所にあった腰掛け、突然現れた青年、そして再び消えた腰掛け。それを意味することは――。

「……まさか……ね」

 朝陽は腰に手を当てて、苦笑いをした。店の中から優月の父親が彼女を呼ぶ声が聞こえてくる。

 優月は返事をし、それを受けて中に戻るのに便乗して、朝陽も暖簾をくぐって店の中に入っていった。

 不可思議な疑問を抱きながら。



 今日の昼以降に取材をする方面は、江戸の町を西へ横断した先にある、荒川に近い花街付近。他の場所と違い、昼よりも夜の方が賑わっている一帯だ。その花街の周囲は細い水路が巡らされており、自然とその中は特別な場所と感じられた。夜になれば、遊女と戯れるために、どこからかともなく男たちが集まってくる。朝陽の父も若い頃は出入りしていた経験があるらしいが、母と出会った以降はやめているらしい。

 今は昼の半ば過ぎ、花街の門の下で禿かむろと思われる白い髪の少女が箒で水たまりを掃いているくらいで、人気はほとんどない。

 そのような静かな空間に、ある時間になると鴉の鳴き声がどこからともなく聞こえてくるという噂を聞き付けたのだ。

 鴉は存在さえしていれば、鳴いていてもおかしくはない。

 だが鴉の姿が見えない場所で、しかも同じ時間に、一定の間隔の日数を開けて鳴くのは――奇妙だ。

 その話を父にしてみれば、ただの偶然だと一蹴され、優月に聞いてみると、顔を青くして体を震わせていた。

 誰にも相手をされなかったため、朝陽は一人でここに来たのである。

 事前調査から、今日、鴉が鳴く日だと検討を付けている。これで違ったのならば、朝陽の思考の巡らし方が間違っていたか、本当に単なる偶然だったのだろう。

 予定の時刻まではまだ時間がある。朝陽は辺りを探索して、時間まで過ごすことに決めた。

 ふと視線が切りそろえた白髪の少女と目が合う。彼女は朝陽と視線が合うと、きょとんとしながら首を傾げた。

「姐さん、何か用でありんすか?」

「あのね、噂話を聞いて、それが気になって来てみたの」

 朝陽が近づくと、少女――つむぎは箒を脇に寄せて出迎えてくれた。

「君は知っている? ある時間になると、鴉が鳴くことを」

「鴉でありんすか? 鴉の鳴き声ならたまに聞きんすよ。何か妙なことでもあるのでありんすか?」

「一定の日数を置いてから鳴くらしい。珍しいなって思って……。……あれ、何か白い毛玉が近づいてくる」

 壁に沿って鈴を鳴らしながら、大きな毛玉――いや白い毛に黒い斑が混ざっている猫が近づいてきた。たれ目の猫がゆったりとした足取りで来る。その猫を見ると、つむぎの顔はぱあっと花開く。

「姐さん、麻呂丸(まろまる)が来んしたよ~!」

 麻呂丸が傍に来ると、つむぎはその猫を意図も簡単に持ち上げた。少女と対面していた朝陽は、必然的に麻呂丸とも視線が合うことになる。目の上にある太い毛が眉毛に見えたが、よく見ると、ただの模様のようだ。

 非常に重量感がありそうな猫。

 朝陽は麻呂丸を指で示しながら、つむぎに尋ねる。

「重く……ないの?」

「持ってみんすか?」

 つむぎに麻呂丸を差し出され、ごくりと唾を飲み込みつつ受け取った。途端に朝陽の姿勢が崩れ落ちる。思わず地面に腰を付けてしまった。同時に水が跳ねる激しい音がする。

「お、重っ! な、何なの!? このデ……猫は! ……って、水たまり!?」

 朝陽は麻呂丸を離して、慌てて立ち上がり、視線をお尻の辺りに向けた。そしてそっとその辺りに触れる。冷たい。お気に入りの紫入りの羽織に、水に濡れたことでできたシミが広がっている。その中に着ていた、淡い薄紅色の着物も仄かに冷たい。

 事の重大さに気づくと、顔が真っ青になった。

「ちょちょちょ、どうしよう! こんな姿じゃ、出歩けないよ! せっかく気合い入れて取材に来たのに!」

 朝陽は両手を頬に当てて顔を挟む。するとつむぎが軽く朝陽の羽織を引っ張った。

「姐さん、よかったら、中に入りせんかぇ? 服を借りられるかもしりせん」

「え、本当!? 服を借りれなくても、乾かすぐらいはしたいから、是非!」

 朝陽が首をぶんぶん振ると、つむぎは笑顔で朱色の柱の門の中に導いてくれた。



 中に踏み入れると、さらに人気が少なくなり、静寂が漂っていた。綺麗に整えられている庭を眺めつつ進んでいると、鮮やかな黒い毛並みの二匹の猫が視界に入る。

 二匹とも瞳の色が違う、どことなく神秘的な雰囲気を漂わせていた。金色と青色の瞳がまるで対になるかのように、二匹は左右対称だった。

 猫たちは朝陽のことを、目を細めて見ている。ほんの僅かだが悪寒が走った。足を止めていたため、つむぎと距離が付いてしまう。彼女が不思議そうな顔つきでで振り返ったのを見て、足早に朝陽はその場から立ち去った。

(何だろう、あの黒猫。黒猫って、あまりいい噂は聞かないけど、あの二匹は――何かまったく異質のものに感じられる)

 猫を追いかけたいという思いもあったが、それよりも朝陽にとっては服をどうにかするので、頭の大半を占められていた。

 つむぎに連れられて、入り口に近い店の一角に通される。彼女は代わりの羽織を探してくると言い、朝陽をその部屋に置いて出ていった。

 昼過ぎであるが、障子で締め切っている部屋だと少し薄暗い。朝陽は障子を一気に開け放った。

 歩いてきた通路側とは別の障子を開いたため、また違った庭の風景が見渡せる。

 大きな庭を挟んだ母屋に視線を向けると、僅かに開いている障子戸の向こうから、一人の少女が三味線を弾いていた。軽やかな音を鳴らし、人々の心を持ち上げる音を。

 朝陽が縁側に踏み出して彼女の姿をじっと見ていると、少女は三味線を弾くのをやめ、横目で見てきた。胡桃色の髪を大きく結い上げている、着物を着崩し、艶めかしい白い肩が見える少女。朝陽より歳はやや上だろう。

 彼女と視線が合い、朝陽は挨拶の意味を込めて、にこりと微笑んだ。だが彼女は侮蔑の目を向け、障子戸を意図的に音を立ててぴしゃりと閉めた。その行動に朝陽は呆気にとられていたが、それが過ぎ去ると唐突に怒りが沸き上がってきた。

「なななな、何なの、あの子! あたしが何をしたっていうの!」

 あの子がいる部屋までは、整えられた庭を越えればすぐである。

 朝陽は怒りに身を任せて踏み出そうとした矢先、何かに睨みをきかされた感覚に陥った。

 空を雲が覆い、昼にも関わらず辺りが暗くなる。

 ゆっくり視線を横に移動すると、隣の部屋の障子が開いているのが目に入った。そこから一つの影が覗かしている。

「ごめんなさい。稽古中の風景を見られたくなかったから、繻子(しゅす)は障子を閉めたのよ」

 大人の女性の声だが、どことなく少女のような声質にも聞こえる。

 朝陽はその場から動けずに、じっと彼女の影を見つめていた。

 それからまもなくして鴉が一羽鳴いた。

 数回鳴くと、二羽目が鳴き始めた。

 さらに数回鳴くと、三羽目、四羽目と、数を増やしながら、まるで輪唱のように鳴き出したのだ。

 背筋がぞっとした。周辺は急激に冷え込み、朝陽は右手で左腕をさすっていた。

「な、何……?」

「この鴉、もしかしてあの人のかしら」

「え?」

「何かを知らせているようだわ。楽しみ」

 女性が呟くと、部屋の奥に入ったのか、廊下に出ていた影が小さくなり、消えてしまった。そして障子が小さな音をたてて閉められる。

 彼女の気配が感じられなくなると、朝陽は唐突に腰が抜け、その場に座り込んでしまった。心臓が速く、そして徐々に加速していく。ぎゅっと握っていた手のひらを開くと、汗が付いている。

(あたし、緊張していた。鴉に? それとも――)

「――姐さん、どうしたでありんす?」

 警戒しながら朝陽は振り返ると、つむぎが色の抑えた紫色の羽織を持って首を傾げている。隣には麻呂丸がちょこんと座っていた。ふっくらとした顔のたれ目を見ると、緊張していたのが嘘のように緩んでいく。お腹周りは他の猫とは一脱するものがあるが、よく見れば愛嬌がある、なかなか可愛い猫だ。

 朝陽が手を伸ばすと、麻呂丸はのそのそと歩き、傍まで来る。その頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、朝陽は表情を崩していった。



 羽織を借りて、朝陽は夕方前には門の外に出ていた。つむぎや麻呂丸ともっと遊んでいたかったが、花街の住人にとっては夜が本番の時間帯。仕事の邪魔をしてはいけないと思い、別れを告げて足早に出ていったのだ。

 結局、思い描いていた取材内容を繰り広げることはできなかった。

 だが実際にあの鴉の鳴き声を聞いて、あまり追求すべきではないと体の底から実感していたのだ。

 あの現象はいわゆる異質なものの一つ。理由はわからないが、何も力がない朝陽が手を出すことではない。

 記事にするのはやめ、メモだけにして、引き出しの奥にでもしまっておこう。

 かわりに昼間に見た、あの不思議な腰掛の現象でも面白おかしく書こうか。

 今日は妙なものをよく見た日だなと思いながら、夕暮時の江戸の町を歩いていった。

 以下、今回の話で新しく出た登場人物及び設定考案者です。


 *赤い襟巻の青年=比良 (一理さん)

 *つむぎ、麻呂丸 (藤藤キハチさん)

 *繻子蘭 (村谷直さん)

 *黒い猫二匹=春童、秋童 (おうち穂里さん)

 *影を見せた女性=此糸 (品さん)


 皆さま、どうもありがとうございます!

 花街関係の人々を一般人の少女と絡ませるのは難しかったです……(結果的に擦れ違っただけ状態でした)。

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