予想外のバレンタイン・デー
『十四日は絶対空ける、だから絶対空けといてね!』
男は携帯を眺めて溜息を落とした。
彼がこの短いメールを眺めるのはもう何度目だろう? この文面があまりにも彼女らしいので、眺める度に彼女の事を思い浮かべてしまう。
一週間ほど前に恋人から来たものだった。その後電話で直接話し、予定も立てての今日がその約束の十四日だ。
しかし、寄越した当の本人は未だ姿を現さない。
当初の約束の時間から七時間。変更した時間も一時間過ぎ、喫茶店に入ってすぐに頼んだコーヒーは、とっくに空になっていた。
お代わりを頼むか否かと、彼は暫し考えた。
◆
付き合い始めてもう少しで3年--と、いう二人は、近頃それぞれの多忙にかまけて会えずにいた。
彼--芳彰は学業に。その彼女である美晴は学業とアルバイトにと、日々の時間を忙殺されていた。
芳彰の当初の予定は午前の講義だけだった。しかし急遽ゼミの召集がかかり、予定は大幅に狂う事になる。
芳彰はこの召集を”嫌がらせ”だろうと考えていた。何となく、ただの感でしかないものだったが、実際研究室に入ってみれば、仕切りたがりで煙たがられている先輩が腕組みをして待ちかまえていた。顔には嫌な笑みまで浮かんでいる……ような気がしたのは芳彰の主観であったかもしれないが、それだけで彼は感が当たったのだと確信した。
始まってみれば状況的にも裏付けが成されていった。この会合に教授は姿を現さず、話の内容もメールで周知すれば済むような類のものでしかなかった。また後半には、件の先輩が下らない議論を始め、時間を無残に浪費した。
それらの事実から--独りで寂しい先輩が、バレンタインの日に予定ある恋人持ちに”嫌がらせ”を目論んだのだろう。と、芳彰は辛辣にそう判断した。
終了後には駄目押しをするように、飲みの誘いまで持ちかけていた。
数人は拒否せず、または出来ずに近くの居酒屋に場を移す事になったようだが、芳彰にはそんな些事に関わっている時間など無い。彼は終わるや否や部屋を飛び出した。他にも数名慌てて駆け出していく。
別段、咎めも引き止めもない。今の慌てる姿に、先輩の気は十分済んだのだろう。
しかし、今日で無くとも彼は断る。”下戸”に酒の席など、コンプレックスを刺激されるばかりで楽しくも何とも無いからだ。
公の会と仲間内以外の席に彼は顔を出す事をしない。既に周知されている。しかし、それは情けないばかりでもない。そのように扱われる事は案外楽なのだ。
待ち合わせの時間はゼミの召集を知った時点で連絡し、七時間も繰り下げる事になった。
◆
美晴の方もまた、ハプニングに巻き込まれていた。この日と翌日、アルバイトを全く入れていなかった事が災いした。
バイト仲間の急病による欠員を補うため、店長に頼み込まれて駆り出される事になってしまった。
「ありがとう美晴ちゃん。ゴメンね、今日は予定あったんだよね?」
裏口から店に入ると、厨房にいた店長が申し訳なさそうに言っだ。だが、愛想である事は否めない。個性的な縁の広い眼鏡と、顔の半分をも隠すヒゲは、表情から得られる情報を半減させてよく分からない。
美晴のアルバイト先は小洒落たアジアン・カフェである。洒落た店であるが故に、バレンタインの今日はかき入れ時だった。ただ客の組み合わせは男女ではなく、女同士のグループばかりではあるが。
この店は日頃から女性客が多い。その原因はおそらくユニホームにある。鮮やかで美しく、とても珍しい。かつ、女性客は彼氏と一緒には来たがらない。
それは空色をしたアオザイだった。美晴がこの店で働く理由もそれだ。彼女はとにかくそれが着てみたかった。
理由がそれだけであるという事が、美晴という人物を如実に物語っている。
美晴は手早く着替え、壁と一体化している大きな鏡の前に立つ。それから背の半ば程まである髪を上げて纏め、赤い花の髪飾りを留めた。それは彼女の黒いままの髪によく映えていた。じっと鏡を覗き込むと、くっきりと体のラインが出るユニホームを着た彼女が、反対側から見つめ返す。
くるりと回って全身をチェックし、「よし」というかけ声とともに、”労働モード”のスイッチを入れる。
とにかく今は働こう。彼女はそう腹を決めている。芳彰との待ち合わせは大幅に後ろにずらしたのだ。終われば急いで会いに行く。美晴はもう一度「よし」と呟き、更衣室を後にした。
働いて、時間が来れば会えるのだから。
◆
……と、思ってたんだけどなあ。と、厨房の隅で美晴はそう大きく溜息を吐いていた。
同僚のアルバイトは栞が帰って皐月が来た。しかし皐月と同じ時間に来るはずの莉奈は、本人ではなく電話だけを寄越してきた。
連絡の電話を取ったのは美晴だった。莉奈は一つ下の可愛らしい子だが、明るい声で仮病を伝えた。きっと彼氏と二人でいるのだろう、そう推測されるノイズがきっちり受話器に拾われていた。だがここで文句を言って水を差す気にもなれなかった。「今度休み代わりなよ」と恩を売る格好で店長に伝える旨を了承した。
結果、莉奈のドタキャンにより、美晴は帰る事が出来なくなった。
おまけに今日に限って、いつも以上に客で賑わっていた。バレンタインの女子会とやらで、店内には女の子達の話す声がさざめいている。
おかげで連絡を取る隙も無いまま待ち合わせの時間は過ぎ、美晴は罪悪感に苛まれていた。
もちろん待たせている芳彰の事を気にしている。彼を待たせているという事が彼女の集中力を散らしていた。接客に厨房仕事にと手際よく動いたつもりだったが、洗っている皿を一枚割ってしまった。
何で今日はこんなに忙しいんだ!? 割れた皿を前に彼女は歯噛みした。今日はいつもより人手が少ないのに客は多いからだ。答えが分かっていても、この悪循環に陥った状況に叫び出したくなるのは仕方がない事だろう。もちろん叫んでなどいない、そこは十分に自重した。
「美晴ちゃん、次これ3番によろしく」
店長がカウンターに蒸し鶏の生春巻きを置く。美晴は「はーい」と、返事をして笑顔を作った。いくら焦っても、機嫌が悪くても、手を抜くのは主義に反する。
お客さんには笑顔で接する。それが彼女の主義だった。ほんの僅かな時間の縁だとしても、だからこそいい加減な態度で出会いたくはない。より良く笑顔で、自分ならそうされたいと思うからだ。彼女の基準は明快だ。
美晴はトレイを掴み背筋を伸ばす。蒸し鶏の生春巻きを3番テーブルへ届けるために、一呼吸後に足を踏み出す。
◆
一方、芳彰は美晴の働く店の傍で足を止めたまま、次の一歩を踏み出せずにいた。
そこは竹を多く使った外観の、そう大きくもない店でしかない。しかし、彼には入りにくい事情があった。正直言ってこの店が好きではない。はっきり言えば店員の衣装が苦手なのだ。
どうして日本でアオザイなんか着ているんだ? 彼は常々そう思っている。理由は主として二つある。
第一に。あんなにはっきりとラインの出てしまう服など、目のやり場に非常に困る。堂々と見られる事を喜ぶ男ばかりではない。と、彼は考えている。
第二に。目のやり場に困るような服を着た、自分の彼女の姿を他の男に見られたくない……と、いう嫉妬心を彼女から隠さなければならない状況に陥るからだ。
女性客の多い店である事が救いではあるものの、男性客は皆無ではない。何より店長が男だ。しかもその衣装を選んだ人物なのだ。
こんな事を考えただけでこんなに悶々としてしまうのに、目の前にしたらどうなってしまうのだろう? 嫌がるものを着せられているのなら、辞めてしまえばいいと喜んで言える。だが美晴はそのアオザイを着たいがためにこのアルバイトを始めたのだ。
芳彰にもプライドがある。嫉妬している事を美晴が知れば必要以上に喜んで笑う。それはそれは嬉しそうに笑い物にされる。芳彰はそう睨んでいた。そしてそれはきっと外れていない。
また彼はこうも考えていた。待ち合わせの時間になっても美晴が来ないのは、おそらくまだここで働いているせいだろう。連絡が無いのは、寄越す暇も無いほど忙しく、良くも悪くも人の良い美晴の事だ、帰り損ねてズルズルと働いているのだろう。
芳彰は再び溜息を落とす。大変な子に惚れたものだな、と。
数人の客が出て行くのを見送った後、芳彰はようやく覚悟を決めた。
ドアを開けるとカラカラと竹の細工が音を立てる。店中に足を踏み入れると、間接照明だらけで照度を落とした雰囲気重視の内装になっている。外だけでなく、天井にパーティションにと店内でも竹が多く使われている。ここの店長はそんなに竹が好きなのだろうか? 店長自身への印象が、店の印象までをも見当違いの方向へ向かわせる。
彼がここに来るのは二度目だった。美晴がここで働き始めた頃に一度、友人を伴って様子を見に来た。そして、嫉妬で挙動不審になった姿を友人に大笑いされた。
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
目の端を薄い水色が掠めた。アオザイのひらひらした部分が体の動き以上に動き回って落ち着いた。芳彰はホッとした。知らない声だった。
「ええ、今は。待ち合わせなんです」
「ではこちらに」
動く水色に誘われ、芳彰はパーティションで仕切られた半個室のような席に着く。コードを脱いでいると、先ほどの店員が水のグラスを持って現れた。
彼女は当たり前のように黒いピーコートを受け取り、壁のハンガーに掛けてくれた。この店ではこんなサービスまでしているのか? と、彼は内心驚いた。
この店でもコーヒーを頼んだ後は、隙間からこっそり辺りを窺った。だが彼の席からは美晴の姿は見えなかった。きっと奥にでもいるのだろう。美晴は料理も美味いからな。と、彼はしばらく口にしていない彼女の料理を思い起こす。
--本当にどうにかしている。救いは彼がその自覚を持っている事だろう。
美晴の料理が美味しい理由は「どうせなら美味しいものが食べたい」というものだった。面白いと彼は思った。ポーズやたしなみ等の付加価値ではなく、とても合理的で当たり前の発想だ。芳彰はそんな発想をする彼女が好きなのだ。
考え事に没していると、三度水色が視界に入った。「コーヒーです」や「お待たせしました」等のありがちな言葉ではなく「ゴメン」という言葉が聞こえて、芳彰はやっと店員の顔を見た。美晴だった。
スレンダーな彼女のラインそのままの衣装というのは、やはり複雑な心境になる。二人だけの時に見たい。と、いうのが彼の……いや、彼女を持つ男の本音だろう。髪の赤い花をそっと外して……と、その先を想像しかけて彼は止めた。
湯飲みのようなカップに入ったコーヒーをテーブルに置きながら、美晴自身も芳彰の隣にするりと座った。
「連絡できなくてゴメン、人が足りなくて抜けられなくなちゃった」
小さく手を合わせて謝る彼女の言い分は、あまりにも芳彰の予想通りで彼は思わず吹き出した。端から責めるつもりも無かったが、一言だけ彼は言った。
「お前は人が良すぎだ。このままだと今後も良いように利用されるぞ?」
「でもしょうがないじゃないか。人手が足りないのは事実だし、困った時はお互い様だもん」
こんな事ばかりを言っているから、こういう事態に陥るのだ。芳彰はそれを案じていた。
「最初に頼まれた時点でお前が断れば、きっと誰かが代わりに出たと思うぞ」
「そうかもしれないけど……さ」
「貧乏くじだろう? で、結局俺も待ちぼうけだ。まったく、俺でなければこんなに待たないぞ」
「ゴメン、悪かったってば。待たせたのはいくらでも謝るけど……その言い方は何か嫌だ」
美晴は座り直して背筋を伸ばした。同時に僅かばかりだが芳彰からも距離を取り、変わる空気に芳彰は自らの失言を悟る。調子に乗って口が滑り、彼女が忌み嫌う物言いをしてしまった事を。
「美晴? 今のは冗談だから真に受けるな。そもそも待ってるのは俺だけだ、他にはいない!」
慌てた芳彰はおかしな事を口走る。本人も言っていておかしい事に気付いているが、彼女の忌避する上から目線の恩着せがましい言い方を取り消したくて必死だった。
「そういう言葉には本音が出るんだよね。けど、いいや。こっちもまだ終わりそうにないからチャラにする」
美晴は立ち上がり、この席から離れようとした。芳彰の失言はチャラにはしてもらえたものの、おそらくまだ分が悪い。彼は様子を伺いながらもなお食い下がる。
「まだ終われないのか?」
「当たり前じゃん。迎えが来たからって、仕事放り出して帰る訳にはいかないよ」
「予定の終了時間はとっくに過ぎてるだろ?」
「予定外の労働時間だからね。とにかく三十分待って、それで閉店だから」
時計を見ると確かにそんな時間になっていた。終わりが見えた事で、彼の心にようやく余裕が生まれていた。
「そっか、じゃあ読書でもして待ってるよ」
美晴は再び謝り、戻って行った。一人残された芳彰は、壁のコートから携帯を出し、電子書籍のアプリを起動した。読みかけの本でも読んでいれば、三十分などあっと言う間だろう。
◆
「ねえ、あの人誰?」
美晴が奥に戻ると皐月がテンション高く問いつめた。
「え、誰って誰の事?」
しかし、その唐突な質問は美晴を困惑させるものでしかなかった。皐月の言う”あの”が誰を示しているのかを瞬時には計りかねた。
「ほら、今コーヒー持って行った人。サービスしちゃいたくなるくらい格好良くない?」
美晴はやっと質問を理解した。WHOの部分を不定称の人代名詞で省略しないで欲しい。と、よく彼女は思う。
「ああ、彼? あれは私の……彼氏?」
言いながら美晴の心臓が跳ねる。ただでさえ”彼氏”と口にするのは恥ずかしいのに、褒められた後では尚更に言い難かった。
「え-、じゃあ彼が待ってる人って美晴? そっかー」
皐月はニヤニヤ笑いで美晴の背中をバシバシと叩いてきた。ほとんど痛くはないものの、言葉にならない部分を察して彼女は困る。
芳彰と話していた事は知らないが、美晴は状況から話を合わせる事にした。
「うん、あいつは閉店まで居座るよ」
「ははは、若干迷惑?」
皐月は何事も無く笑い、美晴は流せた事にホッとした。
確かに。コーヒー一杯で粘る客というのは、回転率の面から見て嬉しいものではない。しかし、もう閉店近い事でもあるし、このくらいは許して貰えるだろう。美晴は
「迷惑ついでに、後をお頼み申し候」
「後ですと?」
「後に御座候。今日の私はもうオーバーワークで御座る。故に片付けはお任せ致したく候」
「ならば仕方なし。では、私が引き受け致し候」
二人はふざけてわざとらしく言い、笑い合った。
美晴は何故かこういう時によく分からないテンションで頼み事をしたくなる。ふざけて誤魔化したいという衝動に駆られるのだ。つまりは苦手なのだ。
おそらく芳彰が来なければ、彼女は最後まで職務を全うしていた。よって、苦悩する芳彰がここに来た効果は十分にあったと言える。
◆
閉店時間から十五分後、店を出た二人は暗くなった道を歩く。目的地は近くのホテルだ。夕食に予定していたレストランは、待ち合わせの時間がズレた時点でキャンセルしてしまった。きっとキャンセル待ちか、飛び込み客か誰かの役には立ったはずだ。二人はあえてそう考えた。
夕食の代案は考える必要が無くなった。皐月が二人の事を店長に話した事で、詫びのようにまかないを包んでくれた。
この件で芳彰は店長の印象を僅かに変えた。ただのエロおやじでは無いのかもしれない。
歩く度に美晴の髪先が跳ねる。店にいた時のまとめ髪のままだった。どうせ解いても跡が付いているからと、解くのを面倒がったのだ。
美晴はアオザイから自身の服に着替え、濃いグレーをしたビッグカラーのコートを着こなしていた。そこから伸びるすらりと細いジーンズの先はショート丈のエンジニア・ブーツだ。
芳彰は跳ねる髪をしげしげと眺める。出会った頃より随分と伸びた。最初は肩ほどの長さしかなく、片方をピンで留めているだけだった。
「美晴は何で髪伸ばしたの?」
芳彰は、これまで確認していなかった理由を尋ねた。
「飽きたから。ずっと短かったからね」
長い方が髪型のバリエーション多いんだよ。と、いかにも彼女らしい理由が飛び出し、芳彰は若干の不安を覚える。
「じゃあ、飽きたら変えるのか?」
「そうだなー、変えるかもしれないな。でも、自由自在だからね。まだ短くする気は無いよ?」
「けどそのうち飽きるんだろう?」
「芳彰、何言ってんの? 何か変だよ?」
美晴は引っかかりを覚えて芳彰を見上げたが、彼は視線を合わせなかった。
芳彰は髪型に自分を重ねていた。美晴は新しいものや面白そうなものが好きだ。大好きだ。だから彼は、自分より彼女の気を引く者が現れた時を恐れている。
「いつかも分からないような先の事を、そんなに気にする必要があるかな?」
髪の事を言う美晴は、芳彰に呆れていた。
「美晴の興味は色んなとこに向くからな。俺もいつか捨てられるんじゃないかと、気が気じゃなくてな」
その言葉を耳にして、美晴は瞬時に眉をしかめた。そして一瞬考えて口を開く。
「そうだね、マイナス思考ばっかされると嫌になるかもしれない」
芳彰は再び失言に気付く。内心の不安をうっかり口に乗せてしまった。どう立て直そうかと心中で慌てていると、美晴の言葉が更に続いた。
「だからずっと惚れさせてて欲しいんだよね。私はずっと、芳彰の良いとこを見つけていたいんだ」
やっぱり彼女には適わない。芳彰はいつもそう思い知らされる。自分のどこが”良いとこ”なのか? 一体どこに惚れられているものかよく分からないけれど、今の自分は彼女の望む基準を越えているのだろうと思うと少しホッとした。しかし、その基準が分からない限り、真の安寧は得られない。
「難しい事を言ってくれるな」
それは心からの言葉だった。
「難しくなんか無いよ。芳彰が自信持って”芳彰”でいてくれたら良いだけだもん。芳彰って面白い人材なんだよ」
芳彰は足を止め、大いに悩んだ。
完全に美晴の世界である言葉は、彼の常識を撹乱させる。
「それは褒められてるのか?」
「もちろん。最上級だよ」
薄暗い道で、美晴は芳彰を見上げて笑う。
「お前、最初から変なやつだと思ってたけど、本当に変なやつだな」
「そうだよ。思い知ったか?」
美晴はずっと笑っていた。普通だと言われるよりもよっぽど嬉しい。”普通”という事場は定義があやふやで、結局何だか分からない。何より全く面白みが無い。だから嬉しい。
芳彰は笑う彼女を見て納得した。”変なやつ”と言われて喜ぶ人物に、惚れ込む俺も相当”変なやつ”なのだろう。芳彰はそこに落ち着いて諦めの境地に陥る。
「人生楽しんだ者勝ちだよな」
「当然」
一緒に、いや俺以上に楽しめる人間に出会えて、隣にいられる事は相当幸運な事なのだろう。芳彰はまじまじと美晴を見た。つられて美晴も芳彰を見上げる。
しかし、無言のまま見つめあううちに、美晴の顔には疑問符が浮かぶ。芳彰の長考の内容が美晴には分からないせいだ。
「何?」
「いや、早くホテルに行こうか」
「はい? 何でそうなるの? 途中省略し過ぎでしょう?」
芳彰は美晴の手を取り早足で歩き出す。
「楽しもう」
「こら、何か違うだろ、それ!?」
引っ張られた格好の美晴は、必死でついて行きながら憤りを口にするものの、内心ではヒールの低い靴で良かったと考えていた。
美晴は嬉しくてたまらない。これでこそ芳彰だ。どういう理由でそこに至るのか良く分からない、そんなやり取りが楽しくてたまらない。
「まだ騒ぐな」
「まだって事は、後で騒げって事?」
芳彰の言いたい事が見え見えの台詞に美晴は体温が上昇する。しかし、こんなに感情が動かされる所もまた好きなのだ。
街灯の灯る道を二人はじゃれ合って歩く。分からないようでよく分かる。分かっているようで本当は分かっていない。そのくらいがきっと楽しい。
二人は互いにそう思った。