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狼の恋人  作者: Kずき
9/12

8

 

 湖に浮かぶ常盤記念公園。周囲三キロほどのこの島は、入り口から見て前半分が四季の花々を楽しめる公園となっている。

 三百本の桜から始まり、ツツジ、椿の森、藤棚、旧家をモチーフにした牡丹園などがある。

 前回ペリカンの死体が見つかったのは、此方の〝公園″だ。

 そして今一彰が進入している後ろ半分が、規模は大した事は無いとは言え〝常盤ランド″という遊園地。


 壊れたゲートを恐る恐る抜けると暗いトンネルに入る。

 長くはないトンネルで、せいぜい十メートルあるかないかというところ。だがまったく明かりが無いため薄気味悪い。

 目が慣れてくると、そこが入園口だけでなく猛禽類の鳥籠も兼ねていたことがわかる。両側の壁にはメンフクロウ、灰色ミミズクといった名札が、空になった檻にかけられていたのだ。未だに飼っていたころの匂いが残っているのか、獣くさい。

 出口までくると再び風雨が待っていた。目の前には階段があり、その先に時計台がある。それがまだ動いているのなら、今は午後四時二十分。心なしか、辺りの薄闇が濃くなったような気もする。あと一時間の捜索が限界といったところか。


 立ち止まっていると、体が震えた。もはや濡れていない場所は無いほどグショグショだ。体が冷えたのだろう、寒い。一度自覚すると、脊髄がバネに変えられたように震えが止まらなくなる。

 一彰はパーカーも、その下にあるタンクトップも一度に脱いだ。濡れた服は絡みつき、脱ぐだけで悪戦苦闘する。脱いでしまうと手にかかる重さは二kgはありそうだった。

 渾身の力を入れて絞ると、プールに落ちた後かと思えるほど水が出た。


「ん?」


 服からすっかり水を搾り出し、再び袖を通していると、服を絞った他にも水の跡があることに気づく。それは先ほど見失った〝跡″だった。だが先ほどのように〝薄っすら″とでは無い。

 乾いたコンクリートの上にクッキリと足跡がつている。

 これは……人間じゃないぞ。

 しゃがみ込んで観察する。

 まず最初に、デカイ。一つが一彰の顔ほどある。そして鋭利なツメの跡がしっかりついている。何より、これは二足歩行じゃない。前足の跡もある。

 しかし――待てよ、これ。

 一彰は足跡のおかしさに気づいた。足跡の方向が一定ではないのだ。まるでトンネルの内をウロついたようにまったく逆向きでついている。


 このトンネルの内に何かあったのか? ――いや、そうか。一彰は足跡の意味を理解した。

 行って、帰ってきたんだ。

 つまり、この先の遊園地に足跡の持ち主はいない。〝何か〟は一度このトンネルを通ったものの、既に引き返して、後ろの公園にいるのだ。


「……」


 一彰は背後を振り返った。

 そこには、トンネルの入り口を塞いでしまうほどの影が立っていた。


 ●


 入り口を塞ぐ影は優に二mはあろうかというものだった。

 腕――前足が妙に長く、二足で立っているのに地面に届いている。丁度ゴリラのナックルウォークのよう。

 胸部が膨れては縮みを繰り返している。

 トンネルの中にうがいをするようなガラガラガラという音が響く。

 一彰は影と真正面から向かい合いかたまっていた。両手には服が半分ほどかかったまま。

 影は入り口に、一彰は出口に――二人を隔てているのはトンネルの長さ十m程。

 一彰は動かないでいた。

 心臓は破裂する勢いで脈を打ち、その鼓動が体中に響く。

 動いては駄目だと、わかっていた。


 〝アレ″は、始まるのをまっている。僕が始めてはいけない――でも、どうするだ?

 歯がカチカチ鳴る。一彰は振るえを噛み潰す。噛みあわせた歯の間から必死に息をして、考える。

 どうすればいい? どうしよう……あれは何なんだ?

 しかし考えれば考えるほど、冷静さは失せていく。

 影がペタンと上半身を倒した。

 とうとう、頭を低くしてトンネルをくぐってくる。


「アアアアァァァァ」


 唸り声だろうか? だが犬とは少し違う。むしろ人間に近い。首を絞められた相手があげる、弱々しい断末魔のように。

「アアァァァァァアアアアア!」


 地の底から天に向かってのぼりつめるように、声は大きくなった。

〝それ″はツメの音を立てて駆け出してくる。

 始まってしまった。

 一彰は手に絡まっていた服を振り落とし、逃げた。その際、手に持っていた携帯も服と一緒に落としてしまう。

 雨の中に飛び出し、目の前の階段に向けて走る。振り返るともう二mも無い。


「助けて!」


 一彰は腹のそこから叫んだ。

 一人ぼっちなのを思い出す。それでも止められない。


「助けてくれ! 誰か! やば――」


 背中を冷たいモノが物凄いスピードで走っていく。一彰は階段を目の前にしてこけた。


「ああ! やめろ!」


 一彰が倒れこんだ所に、すかさず〝それ″が覆いかぶさってくる。だが丁度、手擦りがあって乗りかかられずには済む。

 しかしそれ故に、一彰は三十センチも離れていない所で〝それ″の顔を見た。

 まるで皮を剥がされたサル。

 ピンクの皮膚には脈が浮き、ドクドクと鼓動している。瞼が無く、白濁した目が今にも飛び出してきそうなほど突き出ている。鼻はそぎ落とされたように穴だけが空いていた。唇も存在しない。ボコボコとした歯茎が、雨と唾液の滴る牙を支えている。

 その醜さといったら、一彰の正気を失わされるに十分なモノだった。

 サルの顔の皮を剥ぎ、そこに火を押し付けて焼いた。それがこの〝ケモノ″を形容するに最上なモノで、それでも十分ではない。

 一番気持ち悪いのは、この目を覆いたくなる醜態に、どこか人間染みたモノを感じるところだった。


「よるな! ――ああ!」


 その醜いモノを遠ざけたい一心で蹴りを見舞っていると、二度目の際、脚を捉えられてしまう。


「ああああああああああ!」


 一彰ははらわたを全て吐き出してしまうような悲鳴を上げた。

 ケモノが一彰の脹脛にかじりついたのだ。

 足を引き抜こうともがくが、顎の力が強くてビクともしない。それどころかケモノは一彰の脚を折るように掴んだ両手を狭めた。犬が肉を噛み千切ろうとするように、首を振りはじめる。

 ケモノは一彰の脚を食べようとしている。


「やめろお!」


 一彰は左足でケモノの顔を蹴った。だが、倒れている上、片足を押さえられた状況では少しも力が入らない。

 ブチィ――と、嫌な音が右足の中からした。足から血が溢れ出す。

 興奮のせいか、痛みは無かった。ただ、何かが剥ぎ取られていく感覚がある。


「このバケモノ!」


 不意に、ケモノが口を開け顔を上げる。一彰はそこにつま先を突っ込んでやった。


「アアアアアアアアアア!」


 ケモノが呻く。一彰の左足のつま先がケモノの目をえぐったのだ。目玉を潰した感触が確かにあった。

 掴まっていた足が解放される。

 一彰は水中でもがくように両手足を全て使い階段を登った。

 肺が痙攣したようになって、息ができない。口から「ヒ! ヒ!」と短い悲鳴が漏れる。

 階段を登り切ると、七色の屋根のメリーゴーランドがあった。

 ケモノはどしてかやってこない。

 一彰はメリーゴーランドの奥に見える「キッズゲームセンター」という建物へと、ケンケンをするように駆けた。

 右足を怖くて見ることができない。腱が切れたのか、足首がグラグラだ。

 片足で走っていると、派手にこける。それでもすぐに起き上がり、メリーゴーランドの柵につかまって何とか前へ前へと進んだ。

 能面の白馬。カボチャの馬車。回らないメリーゴーランド。

 転がるようにして、ゲームセンターの入り口に辿り着く。


「……う、ううう!」


 ドアは締め切ってある。一彰は自動ドアの隙間に指を突っ込もうとした。だが、ツメが硝子を引っかくだけ。


「いやだ! 助けてくれ!」


 硝子を殴る。だが割れない。

 後ろに気配を感じる。確かな足音もした。


「いやだあ!」


 一彰はもう一度自動ドアを叩こうとした。その時――


「どいて」


 掴まれ、横に引き倒される。仰向けになった一彰は、自分の後ろに何がいたのかを見た。

 黒づくめの人間が、巨大なボーガンを背負って立っている。フードの中の顔は――ヤエ。


「そこをどいて!」


 ヤエは肩からボーガンを振り下ろすと、自動ドアを叩き割った。

 

 ●


 ゲームセンターの中は、明かりが一つもなく物置のような状況だった。

 胸にボールをぶつけて点数を競うロボットや中央のテーブルが回る射的。ハンマーで力を競うゲームなどが置いてある。それらと同時に、たくさんのマネキンもあった。どうやらお化け屋敷で使っていたものらしい。頭から足まで――180cmはあるようなモノと、腰から上半身だけあるモノ。中には頭だけというモノもあった。

 一彰は突然現れたヤエに引っ張られて、その人形の中に隠れていた。ヤエは一彰を人形たちの奥に押しやり、入り口にボーガンを向けている。

 ケモノが追って来なかったのは、一彰がケモノの目を潰したすぐ後にヤエが駆けつけてくれたからだろう。ボーガンを使って追い払ってくれたのかもしれない。


「駄目だ。血が止まらない」


 一彰は先ほどから右足を必死に締め上げていた。だが血が流れるのを止められない。手に上手く力が入らないのだ。既に血を流しすぎた可能性がある。


「手じゃ駄目! 何か――服は? 服で縛れない?」


 ヤエが入り口に向けていた視線を一瞬だけ向けてくる。


「服なんかないよ! 見てわかるだろ!」


 一彰は服を脱いでいた時に襲われたため、上半身裸だった。


「なんで! もう!」


 ヤエは徐にフードつきのジャージを脱ぐと、袖の部分を噛み切り、細い布切れを作った。それを一彰の脚に巻きつける。


「やめ……! もう少し軽く。キツ過ぎだ!」


 ヤエは渾身の力を込めて縛ったらしく、足が千切れるかと思う。


「ダメ。これぐらいじゃないと動脈が塞がらない」


「足が……壊死する!」


「それでもよ」


「そんな!」


「うるさい!」


 ヤエが怒鳴る。彼女の眼球は痙攣したように小刻みに動いている。真剣な、有無を言わせない目だった。

 フードをかぶっていたとはいえ彼女の顔は濡れている。いつもはボリュームのある髪がペシャンコ。丁度その背後に明り取りの窓があったので、微かにだがヤエの顔が見えた。

 ヤエの唇は青くなって震えている。寒いのだろうか? それとも怖いのだろうか?


「背中」


 ヤエが言った。彼女の視線は背後に向けられている。振り向くとマネキンが血で濡れていた。マネキン本来のモノではない。

 一彰は泣きたい思いで背中に手を回した。その手が滑るほど背中はヌルヌルだった。

 背中に伸ばした両手で、できるだけ背中を探る。肩甲骨の辺りから脇腹にかけてデコボコしている。ケモノのツメが肉を裂き、その裂かれた肉が固まり盛り上がっているのだ。そんな傷が四本もあった。


「死ぬ……死ぬんだ!」


「しっかりして!」


 ヤエがヒステリックな声で叫ぶ。

 一彰のことを気にしながらも、引っ切り無しに入り口をうかがっている。その緊迫感がよけいに一彰の自制心を奪う。


「もう助からない! こんなに血が出るなんて……!」


「大きな声出さないで」


「終わりだ……見つかってるよ、ここも」


「それでもよ! こっちには一発あるの。不意打ちできれば――」


 その瞬間、ヤエが振り向く。いきなり辺りが暗くなる。先ほどまで仄暗い中でも薄っすらと見えていたヤエの顔が見えない。

 振り向くと、明り取りからケモノがのぞいていた。


「逃げて!」


 ヤエの一言と硝子が割れるのは同時。

 ヤエが床を蹴って、背中で滑りながらボーガンをかまえる。

 ケモノは割れた窓に上半身を突っ込み、蝉の脱皮のごとくボトンと落ちた。一彰の、すぐ目の前。


「どいて!」


 ヤエが叫ぶ。一彰も床を蹴って逃げようとはしていた。しかし右足の感覚はなく、左足も血糊でズルズル滑って上手く逃げられない。

 ケモノが呻き、その巨体を持ち上げる。そして飛びかった。

 ――え?

 一瞬、唖然となる。

 ケモノがまず飛びかったのは無防備な一彰ではなく、ヤエでさえなかった。ケモノはマネキンに飛びつき、噛み付いて攻撃を加えている。

 その姿に、ふと疑惑が芽生える。

 ――こいつ、目が悪いのか? 僕が目玉を蹴ったからか?

 だがその思いに感づいたように、ケモノはマネキンを放すと一彰を視線で捕らえた。

 終わったと思う。吠える声があまりにも近くで、肌がビリビリしたのだ。

 耳の横を、風がかすめていく。


「アアアアアア!」


 ケモノが悲鳴を上げる。ケモノのうなじに長さ三十センチほどの矢が突き刺さっていた。耳をかすめて行ったのは、それ。

 振り向くと、ヤエがボーガンを構えている。そのボーガンからケモノまで糸のようなモノが伸びている。


「エア! ア、ア、ア! オア!」


 ケモノはすぐに矢を抜こうとしていた。だが、抜けない。ケモノは叫びながらジタバタすると、とうとう矢をへし折った。


「いけない!」


 ヤエが声を張る。一彰の横を、折れた矢が糸に引かれてヤエの下へと帰っていく。


「この――!」


 ヤエが一彰を飛び越える。肩には重さ五kgはありそうなボーガンを担いでいる。ヤエはそれを振り下ろし、ケモノの頭を殴りつけた。

 ケモノが床に倒れる。

 やったか?

 ヤエはそれを確認しようともせず、倒れた獣に飛びかり折れて肉に埋もれた矢先を回収しようとした。


「……このぉお!」


 だが折れた矢は抜けない。筋肉が締まってしまったのだろう。


「アアアァァァァアアア!」


 ケモノが激痛に悶える声と共に勢いよく立ち上がる。ヤエはその肩に乗ったまま。

 ヤエはどうしても矢を回収したいらしく、振り回されながらも必死にしがみ付いている。ケモノは大きく口を開けて噛み付こうとしていたが、肩に乗られているため首が回しきれていない。


「キャア!」


 が、とうとうヤエが振り落とされる。ケモノがツメをお見舞いしたのだ。床に転がったヤエは、顔を押さえていた。

 顔面をあのツメで引き裂かれたのか?

 緊張が走る――だが次の瞬間、ヤエは「カー!」っと猫の様に唸り、再びケモノに飛びついていった。

 その様子はまさに猫。四肢を使い、恐れることも無く、ケモノに飛びつく――彼女はお返しとばかりに顔面を〝引っかいた″。

 そんなことで――しかし、思った以上に効果があったらしい。

 ケモノは「アアア!」と悲鳴を上げると顔を押さえて走り出した。そのまま一彰を飛び越え、入り口に残っていた硝子を割って、雨霧の中へと消え去る。

 ケモノは、行ってしまった。

 ――なんでだ?

 一彰にはそれほどの攻撃には見えなかった。女がツメをたてたぐらいで――そう思っていると、唸り声が聞こえてくる。振り返ると、ヤエが此方を見ていた。


「お前……」


 ヤエは顔に二本の傷を負っており、その一つが瞼を切ったらしく、右目は血が貯まり真っ赤。その血は涙のように頬を伝い、顎から零れ落ちている。

 ヤエは、何故か唸り、歯をむいている。まるで敵はまだ去っていないというように。目の前に、敵がいるというように。


「ウウウウウウ……」


 唸るヤエは中腰。尖らせた指を一彰に向けている。


「おい……やめろ」


「カァ!」


 ヤエが飛びかってきた。 


「やめろ! なんで――」


 上をとられ、首を締め上げられる。凄い力だ。首の骨が……折れる。

 グングンと絞められ、視界が白く飛び始める。顔がパンパンになり、弾け飛びそうだ。


「やめ……ろお」


「ぐ――――!」


 ヤエが唸ってさらに力を入れる。


「やめ……やめろ、かし……わぎ」


 一瞬、思考が閉じる。しかし次の瞬間、ヤエの手が緩んだ。

 飛び出そうだった目玉が顔に戻ってくるのを感じる。視界が回復すると、目の前にはヤエの顔があった。

 彼女の表情は人間に戻っている。


「私……そんな」


 ヤエが首から完全に手を離す。その隙に、一彰はヤエを蹴り落とした。


「う!」


 ヤエが血だらけの床を滑る。

 一彰は喉を摩り、咳き込み、叫んだ。


「――殺す気かよ!」


 叫び終わると、辺りは静かになった。雨音が響き、目の前にはヤエが血の海に突っ伏していた。


 ●


「……おい」


 一彰はヤエに恐る恐る近寄った。

 遠くで雷鳴が聞こえる。もはや春の嵐と言ってよいほど外は荒れている。


「おいって……おい」


 ヤエは一向に起き上がらない。先ほどから動きもしない。雨に濡れた髪が血のフロアに広がっている。


「おい……そんなに強くしなかったろ? おい!」


 ヤエは起き上がらない。


「……くそう! 何なんだよお……」


 一彰はパニックを必死に抑え込みながら跪いた。少し躊躇する。が、意を決してヤエの肩を揺すった。


「おいって。おい、おい」


「やめて」


 ヤエから声が上がる。

 一彰は心底ホッとした。トドメをさしたわけでは無かったのだ。


「――どうした?」


 よくよく見ると、ヤエは小刻みに震えている。


「大丈夫……か?」


 ヤエの上半身がヌッと持ち上がる。その時、一彰は本能的に身を引いた。先ほど掴みかかられた出来事がフラッシュバックしたのだ。だが、右足がついてこれなくて尻餅をついてしまう。


「怖がらないでよ」


 ヤエが言う。その背中で、ピカっと雷光が走る。少し遅れてゴロゴロと聞こえてくる。

 ヤエは泣いていた。

 左目からは涙を流し、右目からは血を流している。


「私のせいじゃない」


 ヤエは悔しさに負けたように目を閉じ、歯を食いしばっていた。彼女の中で、何かがポキンと折れてしまったかのようだ。先ほど襲いかかってきたような恐ろしさはどこにもない。雨に濡れた、ただの少女だった。


「あんたがいけないのよ! 何しに来たのよ!」


 ヤエが転がっていたボーガンを引き寄せる。ボーガンからは糸が伸びており、小さなリールもついている。ヤエがそれを巻き上げると、折れた矢がやってきてプランとぶら下がる。ヤエは揺れる矢を、催眠術の振り子のように見つめていた。

 次の瞬間、その顔が歪む。


「わあああ!」


 ヤエはボーガンを抱き、突っ伏して泣いた。

 一彰はこの世の終わりのように泣き叫ぶヤエを見て、ただ呆然とするほかない。一体、どうしたというのだろうか。


「おい……よせよ」


 しばらくして、戸惑いながらも肩を叩く。ヤエが顔を上げる。その瞳は怒りに燃えていた。


「あんまり騒ぐとあいつが戻ってくるぞ」


 一彰は言った。


「あんたのせいなのよ!」


 ヤエは立ち上がると睨みつけてくる。


「何でここにいるのよ! 何で!」


「僕は……お前たちが何をしてるか気になって――」ヤエの迫力に気圧されながらも答える。


「満足なわけ?」


「え……?」


「復讐したかったんでしょ? 復讐なんでしょ? 私のこと憎んでたんだものね。満足した? 喜びなさいよ!」


「やめてくれ」


「こんなの酷い!」


 ヤエが両手を広げて訴えてくる。まるでこの惨劇は全て一彰のせいだと言わんばかりだ。


「僕だってこんなことになるなんて思ってなかった!」


 一彰も反論する。叫ぶと、気持ちの糸が切れてドッと恐怖が押し寄せてくる。


「何なんだよアレ! 僕は……僕は殺されかけたぞ!」


 そう言うと涙が頬をつたう。〝殺されそうだった″〝食われそうだった″という事実がメラメラと燃え上がり、どうしようもなく腹の底を燻るのだ。

 怒りではない、やりきれない憤り――僕は人間なのに食われそうになった。


「足が……見ろ! こんなのじゃ使いモノにならない!」


 涙がまた落ちる。もう満足に歩く事さえできないかもしれない。考えると不安と悲しみで胸が苦しくなる。


「足ぐらいなによ!」


「足がなけりゃ終わりなんだよ!」


 一彰は頭を抱えた。今更ながら、きき足を奪われた意味がわかったのだ。バスケットはもうできないだろう――一生。


「足がなくたって、生きてはいけるじゃない」


「ふざけるな!」


 一彰は頭を抱えたまま唸った。


「お前は怪我してないじゃないか! 致命傷じゃない!」


「何よそれ! 私があんたを助けたのよ? 私が殺されていれば満足だったわけ!?」


「それは――だけど足は……」


 どんな状態か確かめようかと思う。が、やはり怖くて傷を探ってみることはできない。足を見ていると絶望がせり上がってくる。一彰は歯を食いしばって嗚咽を耐えた。すると、先ほどヤエに締め上げられた首が痛む。


「さっきのは何なんだよ!」


 一彰はまた怒鳴った。


「いきなり唸り出して――僕をツメで狙ってた」


 そう口にした時、唐突に〝あの日〟の謎が解ける。

 あの日、悠斗は一彰とヤエの間にいた。そして何故か傷を負った。切り傷。一彰は殴ってないのに。その答えが〝これ〟だ。


「お前だったんだ!」


 一彰はヤエを思いっきり指差した。


「何よ……いきなり何言ってるの?」


 ヤエが目を丸くする。


「間宮の傷だ! あの切り傷――お前が引っかいたんだ! あの時、あいつはお前の前に立ちはだかった――お前は僕に襲いかかる気だったんだ! あの時も!」


 一彰は立ち上がった。右足の膝から下に力が入らないため何度もこけそうになりながらも、ヤエの前に立ちはだかる。


「全部お前だ! よくも……あんな――」


「私のせいじゃない!」


 ヤエが突きつけた指を叩く。しかしすぐに威勢は消えて一彰の視線を怖がるようにオドオドする。


「あの時はあんたがしつこいから――」


「ふざけるな!」


「私はやめてって言ったもん! 私は我慢した!」


「僕はあの傷のせいで退学だぞ!」


「もうやめて! ここまで来てそんなこと言わないで!」


 迫る一彰をヤエが押し返す。だが一彰も怯まない。


「全部はあそこからだ! あそこからここに来たんだ!」


 ヤエがパッと顔を上げる。一彰も、叫んでいた口を閉じた。

 振り返ると、割れた自動ドアの向こうで雨がアスファルトを叩いている。

 ヤエが振り返り、見つめてくる。

 その視線はこう語っていた――今の、聞こえた?

 一彰が頷くより早く、再びそれは聞こえた。


「うわああああ! ヤエエエ!」


 雨に紛れて聞こえてきたのは。悠斗の断末魔だった。

続きは2013/02/14を予定しています。

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