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狼の恋人  作者: Kずき
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4


「前も言ったよな? 勝手に体育館を使うなって」


 入り口を塞いでいる悠斗が言った。悠斗の後ろには七人の男子と、二人の女子がいる――その内の一人がヤエ。

 他の者たちは悠斗と同じ様に意地の悪い笑みを顔に浮かべていたが、ヤエだけは顔を伏せている。一彰から隠れようとするように。

 この場にいることは本意ではなさそう。けれど、悠斗の背後にいる。心中がどうであれ、やはり彼女が敵の女であることは間違いないようだ。


「聞いてんのかよ!」


 一彰がヤエを睨んでいると、その視線に気づいたのか悠斗がボールを投げつけてくる。ボールは一彰が避けるまでもなく大きく逸れ、壁にぶつかり、狭い体育館に大砲を発砲したような音が響く。


「え? おい。聞いてるのか?」


 悠斗が凄んでくる。


「朝のじゃ足りなかったか?」


「楽しいか? こんなことして」


 一彰は悠斗に向きあった。


「恥ずかしいと思わないのか? 人数をゾロゾロつれて凄んで、正当な戦いじゃ勝てないからって」


 悠斗の顔から一瞬笑みが消える。だがすぐに持ち直すと「最高に楽しいね」とヘビのように笑った。


「虚勢しか張れなくなった奴をいたぶるのは良い気分だ。お前はビビッてる」


「そう思うか?」


一彰は〝一人″であることを示すために手を広げた。


「思うね」


「お前なんか怖くないさ」


「だったらなんで地下なんかにいるんだ? 堂々と上でやったらどうだ? 俺達の横で」


「僕は馬鹿じゃない。絡まれるとわかってて、ノコノコと出て行くわけない」


「バーカ。それがビビッてるって言うんだよ。そろそろ負けを認めたらどうだ?」


「負けって、なにが」


「部から出て行け」


「嫌だね」


「もう誰もお前にパスしないぞ。これはお前が卒業するまで変わらないんだ。お前はもう、仲間じゃない」


 胸が焦がされるような悔しさが込み上げてくる。実際、そうだったのだ。部活中、ちょっとした試合形式になろうものなら、一彰にパスが回ってくることなど皆無。一彰がオフェンスに加わる機会は、リバウンドかルーズボールで、何とか自分でボールを奪った時だけ。そのことは顧問との間でも問題になっていたが、悠斗達は口を揃えて「一彰のポジショニングが悪い。とてもパスは出せない」と言い張った。レギュラー全員が徹底してその証言を繰り返すので、顧問も強くは言えない。

 一彰はまさに孤立無援の状態。


「何でなんだ?」


 一彰は胸にこみあがってくるモノを必死に堪えて言った。


「はぁ?」


悠斗が惚けた声を上げる。


「僕が何をした。そんなに気に食わないのか? 僕があんたより上手いのが」


 悠斗が真顔になる。


「お前はセルフィッシュで使いモノにならない。お前の個人成績が上がれば上がるほど、チームは勝てなくなった」


「それはお前たちがついてこないからだろ! 速攻だって走ってるのは僕だけだ。トランディションが遅いのはずっとウチの課題なはずだ!」


「リズムやペースってもんがあんだよ! お前がそれをブチ壊して、皆ウナザリしてるんだ。皆、嫌なんだ。お前とプレーするのが」


「お前がそう仕向けたんだろ――一番目立つのが自分じゃなくなったから。後ろにいる女にいいとこ見せられなくなったから、僕を締め出そうとしているんだ。カッコつけの卑劣漢め」


「お前がいないほうが、ウチは勝ってた。それは事実だ」


「協力もしなかったくせに!」


「水かけ論だな。堂々巡り――身勝手なお前は自分が見えちゃいない」


 悠斗は仲間を振り返り、〝子供相手は疲れる″というように肩を竦めた。


「お前は僕より弱い。だから僕が気に入らない。だからボールをぶつけて、コートから追い出そうとしている。それが〝事実″だ」


 一彰が告げると、悠斗が睨んでくる――その時、悠斗は何かを閃いたようにニヤっと口を歪めた。


「確かめてみるか?」


「何を」


「一対一で勝負だ。そうだな……時間もないから、三本先取。それで負けたらお前は部をやめろ」


「今からここで?」


「もちろん」


「ダメだ! ギャラリーはお前の連ればかりじゃないか。どうせ不正をするに決まってる」


「またそれだ」


 悠斗はわざとらしく溜息をつく。


「お前は俺が勝負をつけようと言うたびに、やれ周りが悪い、ズルをするって、勝てない言い訳ばかりだ。部活でもそうだよな? パスがもらえないから得点できない――いい加減認めたらどうだ? 自分のことしっかり見てみろ。口だけ達者なエース。それがお前だよ。どんなミスをしても、活躍できなくても、あれが悪い、あいつが悪いっていくらでも言い訳が出てくるんだもんな――まったく、勝てねぇよ」


 悠斗はまた後ろを振り返る。悠斗の饒舌な演説にギャラリーはすっかり感じ入っている様子で、「そういう奴いるよね」「わかるわかる」と頻りに頷いている。

 一彰はもう目の前が真っ黒になりそうだった。

 現実を悠斗がすっかり書き換え、それが現実になっていく様を見せ付けられたのだから。


「――僕が勝ったら?」


 もうこうする他なかった。


「僕が勝ったら、お前はどうするんだ?」


 悠斗は余裕の笑みを見せる。一彰は自分の足を挟み込んだトラバサミの音が聞こえたような気がした。


「お好きなように」


 悠斗は負けない事を確信している。当然だろう。ギャラリーを仲間で固めて、そもそも〝負け″というものを〝存在しない″ようにしているのだから。

 だが、その油断が一彰にとっては一縷の望みだった。


「謝るんだ」一彰は言った。「今までのこと全部。そしてこう言え。『身の程をわきまえない恥さらしでした』と」


 悠斗の顔が激情に歪む――が、すぐに戻る。また余裕しゃくしゃくという態度をとって、肩を竦めた。


「別にいいけど――何に対して謝ればいいのか見当もつかないな」


「勝負に乗るんだな?」


「……」


 悠斗が探るような目で見つめてくる。


「どうした? 逃げるのか?」


「……いいだろう」


 一彰はしめたと思い、すかさず悠斗を指差した。


「審判はお前だ」


「はぁ? 何を言ってんだ? 俺がお前と勝負を――」


「お前じゃない。〝お前″だ」


 一彰の指先。そこには悠斗がいた。その悠斗が振り返った先に、ショックで目を丸くしているヤエ。


「ダメだ」


悠斗がヤエを背中でかばう。


「ヤエはバスケットのルールなんか知らない」


「いや知ってる。体育の時間、必ず習うはずだ。僕はその光景を見た。そいつはちゃんといたぞ」


「一コマの授業でのことなんか一々覚えてるわけないだろ。そうだろ? ヤエ」


 悠斗が振り向く。ヤエは一彰と従兄を見比べて混乱しているようだった。


「私――うん。たぶん、覚えてない」


「ほらな」


悠斗がホッとした顔で見返してくる。


「そうか――うん。そうだろう。そりゃ怖いよな」

 

一彰はわざと意味ありげに呟いた。


「何だって?」


「自分の女が、もしかしたら自分を守ってくれないかもしれないと思うと、気が気じゃないよな?」


「どういう意味だ」


「柏木」


 ヤエの名前を呼ぶ。ヤエがビクッと体を震わせる。


「チャンスだぞ。こんなことが嫌なら終わらせるんだ――ただ普通にしてればいい。公平なジャッジをするんだ」


 あいつは間宮たちのやり方にうんざりしている。恥ずかしいことをしているとわかっている。

 それは一彰の憶測でしかない。しかし、ニヤニヤと笑う集団のなか、一人だけ辛そうに頭をたれているヤエの姿に、一彰はかけてみた。

 ヤエもまた、クラスの女子からはのけ者にされ身だ。もしかしたら、同じような境遇の自分に同情してくれているかもしれない。

 先ほど物理の授業でのやり取りで、一彰はヤエと、一瞬だけれど、心がかよった気がしたのだ。

 何より今は、ヤエの良心にかけるしかない。


「勝手に話しかけるな!」


悠斗が怒鳴る。


「本当は嫌なんだろ? 勇気をもってやってみろよ」


一彰は無視してヤエに話し続ける。


「おい!」


「僕を助けろ!」


 一彰の声に一切が静まりかえる。ヤエと目が合う。ヤエは悲しそうな顔をしていた。『どうして私を巻き込むの?』と言わんばかりだ。それでも、一彰はヤエを見つめ続けた。「ありがと」と告げてくれた彼女にかけて。


「私、やるよ?」


 沈黙を破ったのはヤエとは別の女だった。その女は悠斗と同じく三年で、バスケ部のマネージャーでもある。


「私ならルールわかるし、ヤエちゃん嫌がってるみたいだから」


 そう言って女は悠斗に愛想の良い笑顔を向けた。

 だが、悠斗は首を振る。ヤエに向き直った。


「やってくれ」


「私……」


 ヤエがどもる。


「簡単なことだろ?」


 顔を背けようとするヤエの肩を、悠斗が掴む。どうやら一彰の言葉の数々が悠斗のプライドを刺激したらしい。

 悠斗を示したいのだ。自分の女が〝自分を選ぶ〟ことを。一彰の声などに心を動かされてはいないことを。


「やるんだ」


 悠斗はもう一度言って、一彰に向き直った。


「三本だ。いいな?」


「ああ」


 一彰はこれでイーブンとは言えないまでも勝機が見えてきた、と思っていた。


 ●


 一彰はヤエの良心にかけた。

 もし彼女に一握りでも良心があり、それが今の状況に苦しんでいるのなら、勝機はあったのだ。

 少しは悠斗に有利なジャッジを取るかもしれない。だが、露骨なファールさえ封じてくれれば勝てる自信がある。ヤエが一彰の期待通り〝ある程度公平なジャッジ〟を試みてくれさえすれば。

 しかし試合が始まってみて、それがとんでもない誤算だったことに気づかされた。

 一彰は三回目のオフェンスを迎えている。スコアは1対0。悠斗に先制を許していた。

 一彰は注意深く相手の目を見つめた。両手の間でボールをつく。少しでも相手に体重移動があれば、ワンドリブルで抜き去ってやる。ハーフコートオフェンスなら一彰は歩幅を生かしたワンアクションのプレーが得意だ。

 周りのギャラリーから「ボールを持ちすぎ!」「三秒ルール!」と野次が飛ぶ。

 何が三秒ルールだ。ルールも知らないど素人め――心の中で毒づきながら、ただひたすらプレッシャーに耐える。


「ファール! ファールだ! ヤエちゃん!」


 仲間内の男が叫ぶ。

 それを皮切りに「ファール!」「ファール!」の大合唱が始まる。チラッとヤエを見ると矢先に上げられたのが自分であるように、ホイッスルを持ってオロオロしている。


「――いた!」


 手に鋭い痛みが走る。

 わぁ! っと歓声がわく。

 一彰がヤエを見た隙に悠斗がボールを奪ったのだ――一彰の手を思いっきり叩いて。


「ファールだ!」


 今度は一彰が声を張り上げる。

 ヤエはギャラリーに気を取られていた視線をハッと戻した。どこか顔色が悪い。


「ファールだ! 手を叩かれた!」


 大きなジェスチャーを加えて訴える。

 ブーイングが飛び、「悠斗ナイス!」「ナイスプレイ!」と続く。


「またかよ。いい加減にしないか? 何回そうやってごねたら気が済むんだ?」


 悠斗が得意気に言う。


「何度でもだ!」


 一彰は悠斗を睨みつけた。


「お前こそ何度ファールしたら気が済むんだ! この――下衆野郎!」


「手を叩かれたにしちゃ、跡がついてないみたいだけど?」


「当たり間だろ! もう……全部なんだよ!」


 一彰はツバが飛び散るのも気にせずにブチまけ、手の甲を突き出した。茹で上がったように赤く腫れあがっている。悠斗に数限りなく叩かれたためだ。先ほどからこの仕打ちで満足にドリブルさえつけない。


「奴のファールだ! フエを鳴らせ!」


 一彰は腫れあがった甲を突き出したまま、ヤエに詰め寄った。周りで大ブーイングが起こる。しかしバスケ部の女子マネージャーだけ楽しげな顔をしていた――一彰に攻め立てられるヤエを見て。


「鳴らせ!」


 つかみかかる勢いでヤエを攻める。ヤエは陶器のような蒼白な顔で「私……」と呻いた。ブーイングは明らかに一彰に向けられているのに、ヤエはそれを全身で浴びているように怯えている。

「続行!」「続行!」――また大合唱が始まる。その声と目の前の一彰を見比べるようにヤエの視線が動く。そして俯くと、言った。


「私……よく見てなかった」


「なんだと!」


 ワァ! っと色めき立つ観衆。皆、ヤエのジャッジ――見てみぬ振りに拍手喝采を送った。


「この――!」


 一彰はヤエに掴みかかろうとした。相手が女であることなどもはや頭になく、胸元を締め上げてやるつもりだった。だが、また破裂したような歓声が上がり、止められる。後ろを振り向くと、悠斗がゴールに向かって華麗なステップを刻んでいた。


「待て!」


 一彰は咄嗟に駆け寄り止めようとした――だが、遅い。

 悠斗は難なくレイアップを決め、着地と当時に仲間達の声援に迎えられる。


「なしだ! ノーカウントだ!」


 一彰は、両手を広げて仲間達の下へ向かう悠斗の前に立ちはだかった。


「ディフェンスを疎かにしたお前が悪い」


「まだ始まってなかった! 俺はあいつと――審判に抗議してたんだ!」


「そりゃお前の勝手だ。ディフェンスにつかないのも、お前の勝手だ」


「ディフェンスがついてないのに始まる一対一があるか!」


「本当にお前は口ばかり動くな」


「お前がズルするからだ!」


「フエは鳴ったのか?」


 悠斗が冷めた微笑を浮かべる。


「審判のフエは鳴ったのか?」


 悠斗の顔は「どうだ?」と見せびらかしているようだった。俺の女がお前を助けるわけないだろ? ――と。

 一彰は振り返ってヤエに怒鳴ろうとした。その時、腹に衝撃が走る。

 悠斗がボールを投げつけるように寄こしてきたのだ。


「ポジションにつけよ。クレイマーエース」


 ギャラリーからやんやんやの喝采。

 一彰は臓物がグラグラと煮えたぎっているのを感じた。それでも鼻から思いっきり息を吸うと、堪えて、スリーポイントラインの頭に立つ。

 いよいよクライマックスとあって、ギャラリーの興奮もピークに達している。「退部、退部」と手をたたく者、指笛を吹くもの、足を踏み鳴らす者――そんな騒音を遠ざけるために、一彰は目を閉じる。

 落ち着け――落ち着け! ファールを予想しろ。手を叩かれても怯むな。抜きさえすればいい。強引にゴールにねじ込んでやれ。奴を黙らせろ。

 瞼を上げる。

 もう周りは気にならない――一彰は心に冷静さを宿すことに成功した。

 冷たい炎が体の中で燃えている。リズムを作るために、ゆっくりと長い息を繰り返す。瞳は瞬きもしないで悠斗を捉えていた。


「そうやって昼休みを終わらせるつもりか? それでドローって言い張る気か?」


「それもいいな」


 一彰が答えると、悠斗の目が訝しげに細められる。


「だが最高なのは――別だ」


 一彰は長身をできるだけ縮めた。バネのように力を蓄える。悠斗が真顔になる。一彰が100%の集中を見せたことを――この状況下でさえ、脅威になったことを悟ったのだ。


「ブチのめしてやる」


 一彰は言って、悠斗から離れた左手で一度ボールをつく。

 同時に、ピポッドで自由だった左足を大きく開く。

 悠斗の体重がボールに釣られた!

 それはピクっと震えるような、悠斗自身も自覚していない生理的な現象でしかなかった。しかし、一彰は見逃さなかった――何故なら、それを狙い澄ましていたのだから。

 一彰は強烈なクロスオーバーをかけ、悠斗の右から抜き去る。悠斗も一彰を追う。だが、できない。一彰が体を当てて、体重で押さえ込んでいるのだ。反転さえ容易にできない。悠斗が振り返った時には、一彰は飛び上がっていた。

 滞空時間、一彰は息を止めている。

 手とボールの絡みがいい。こういう時、打つ前からシュートが決まるとわかる。一彰のフォローポイントのたかいジャンプシュートは、抜群の精度をほこり、必殺とまで呼ばれている。そのシュートがまさに必殺で決まるのだ――だがその時、カメラの脚立が失われたように一彰の視界が揺れた。

 目の端に、悠斗の憤怒の形相が映る。

 悠斗は一彰のシャツをつかみ、空中から引きずり下ろそうとしていた。

 一彰はゴールに集中する。

 右手でボールの重心を感じると、腕を伸ばし、フォロー。同時に、フロアに叩きつけられる。

 背中に衝撃が走り、息が詰まる。たが一彰が最初にしたことは叫ぶことでも、悪態をつくことでもない。ただ首を上げ、ボールの行方を見た。

 ボールは吸い込まれるようにネットを巻き上げ、リングを潜る。

 体育館に、ボールが跳ねる音が木霊す――誰も、一言も喋らなかった。何人かは呆気に取られたような顔をしている――悠斗もそうだ。

 他の者は、目のやり場を探すようにソワソワしていた。見てはいけないモノが、目の前にあるのだ。

 背中が痛む――だが、そんな事は気にならない。

 どうだ――一彰は倒れたまま悠斗を見た。悠斗は一彰の視線に気づき、うろたえる。

 明らかなファールをしかけ、自分を引き倒した悠斗。そんな相手に、悪態をつこうとさえ思わなかった。もうどうでも良い。

 最高の気分。

 勝った――一彰は立ち上がり、まだ声の上がらないフロアを見渡した。

 勝ったんだ。いや、まだ勝ってはいない。けれど見せつけてやった。悠斗は自分を止められなかった。その事実はもはや揺るぎ無い――そう思うに至った時、声がする。


「ファールよ!」


 声を張り上げたのはバスケ部の女子マネージャーだった。

 小柄な体でピョンピョン跳ね、まるで参観日を迎えた小学生のように手をふりあげている。


「ファール! 私見た! ボールが離れる前に足がついてた! トラベリング!」


「何を馬鹿な――」


「そうだ!」


 一彰の声を掻き消すように、ギャラリーから声が上がった。それにハッとした周りも、「そうだ!」「ノーカン!」と騒ぎ始める。皆、窒息しそうな空間から、やっと逃げ道を見つけたような顔をしていた。

 あまりのことにしばらく声が出せない。あまりに馬鹿げている。

 実際、一彰の足はボールフォローの後についた。確かに際どかったが、絶対だ。何より、後ろにいたあの女に正確なところなどわかるわけない。第一、トラベリングをとるなら悠斗のファールはどうなるのだ? シュートモーションの相手を後ろから引き倒すなんて、フレグラントファールもいいいところだ。それをこっちが目を瞑ってやったのをいいことに、トラベリングだと?


「そんな――有り得ない」


 一彰は騒ぐ連中に向かって無意識に首を振った。


「トラベリング! ノーカン!」


 女がキンキン声で叫ぶ。

 一彰は悠斗を見た。

 悠斗はムスッとして立ち尽くしている。さすがに格好の悪さを感じているのかもしれない。だが、わざわざ一彰の無実を晴らすつもりはないようだ。

 ヤエに視線をむける。ヤエは先ほどより顔を白くして――青いとさえ言って良いほどに――壁にすがっていた。一彰と目が合うと、避けるように視線を逸らす。


「ヤエちゃん! ファールよ! トラベリング! フエを鳴らして!」


 女が叫ぶ。それを追って「ヤエ! ヤエ!」とコールが始まる。皆、ヤエが一彰にとどめを刺すのを待っていた。

 ヤエの顔が、胃から込み上げてくるモノを我慢するように歪む。ヤエは顔を上げて一彰を見つめた。


「ヤエちゃん早く!」


 また女の金属を打ち鳴らしたような声が響く。

 ホイッスルをつまんだヤエの手が、糸で釣られたように上がっていく。その間も、ヤエは一彰を見つめていた――悲しそうな瞳で。

 一彰は首を振った。

 頑張るんだ――心の中で唱える。

 ヤエも首を振る――もう無理なの。逆らえない。


「ヤエちゃん!」


 女が苛立ちを交えた声で叫ぶ。


「早く、グズグズしないで! フエよ、フエ!」


 ヤエの口元にホイッスルが運ばれる。ヤエはもう目を閉じていた。


「やめろ!」


 一彰は叫んだ。

 ヤエの瞳がひらかれ、一彰を見つめる。

 次の瞬間、ヤエのホイッスルをもつ手がストンとおりる。


「ごめんなさい――気分が悪いの。もう無理」


 そう言うとヤエは首からホイッスルを外し、床に置いて、逃げるように隅の方にしゃがみ込んだ。

 ギャラリーから、落胆の息が漏れる。

 ヤエは最後の最後に自分を救ってくれたのだろうか? いや、もしかしたら、本当に気分が悪いのかもしれない。顔が真っ青だ。

 騒いでいた連中からは、露骨な溜息が聞こえる。興を削がれて、悪態をつく者までいる。その態度から、一彰はこの集団におけるヤエの立場を見た気がした。彼女はここでさえ、必ずしも受け入れられているわけではない。だからこそ、集団の意向には逆らえない立場にある――皆を敵にまわさないために。

 今になって、ヤエに危ない橋を渡らさせたことを理解する。


「大丈夫かヤエ」


 悠斗がヤエの元に駆けつける。ヤエは首を振って悠斗を追い払おうとした。

 その態度が、ますますメンバーたちの不審を買う。今まで盛り上がっていた熱は雲散霧消していた。悠斗も一彰のことなどどうでも良いらしく、拒絶されながらもヤエの前をウロウロしている。

 ギャラリーがざわめき始める。取り残された自分達に所在無さを感じたようだ。聞こえないと踏んでなのか、それとも聞えても良いと思っての事なのか「勝手だよな」という声も上がった。

 これは良い流れかもしれない――一彰は時計を見た。昼休みの終わりまで二分とない。このままゴタゴタで終わればこの窮地を脱することができる――その時、一彰は一つの視線に気づいた。うろたえるギャラリーの中にありながら、その二つの目はあざとく一彰を捉え、まるで心の内をのぞいているかのようだった。

 視線の主――バスケ部の女マネージャーが突然周りの者から離れ、ホイッスルを拾う。

 ピ――!

 場の一切を吸収するようなホイッスルが響く。


「テクニカルファール!」


 女は一彰を指す。そして――


「ワンスロー!」


 悠斗を指した。

 一瞬間を置いて、ワッと再び騒ぎになる。

 女はホイッスルを口から外すと、自信に満ちた笑みを浮かべ、腰に手をあてて一彰が何も言わない内に言った。


「あんた、さっきから審判に立てつき過ぎ。最初から私だったら、とっくに五回はとっていたけどね」


 そう言って女はニンマリと笑った。

 一彰はこんなことが成立しないとわかっていた。いきなり観客の中から飛び出てきた一人がフエを取り、判定を下すなんて――有り得ない。そもそも1on1でテクニカルファウル・ワンスローなんて……。

 しかし、そんなのは最初からだ。

 問題は、場の雰囲気なのだ。

 そしてそれは、完璧に彼女を指示していた。

続きは2013/02/10UP予定です。

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