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狼の恋人  作者: Kずき
3/12

2


 一彰が駅につくと、ローカル線の狭い構内は制服で賑わっていた。

 まだ新年度が始まったばかりの四月だったので、ノリの匂いが漂ってきそうな初々しい制服が目につく。中には入学早々頭を染め上げ、気合の入っている連中もいたが、彼らにしたってカッターシャツの白さやブレザーの金ボタンは輝き、襟元はまだまだピシっとした折り目がついている。

 そんな彼らの中にいると〝大谷〟のだらしない服装はいつもより酷くうつった。

 だらしない奴だなあ――一彰は友達に声をかけるのを躊躇した。


「よう」


 ベンチにふんぞり返っていた大谷が一彰を見つけて笑顔になる。

 大谷道也(おおたにみちや)――男のくせに長髪で、野武士のようにマゲを結っている。一人暮らしの部屋にアイロンは無いらしく、シャツは丸めた折り紙のようにクシャクシャだ。側にいる新一年生と比べると、シャツの色も心なしか黄ばんで見える。地黒の肌も手伝って、ジプシーみたいな井出達だった。


「久しぶりじゃないか? 朝から学校に行くなんて」


 大谷の隣に腰を下ろす。


「久しぶりって言うか、初めてだな。今年度初」


「サボり過ぎ」


「なんか調子狂うんだよな、やっぱ。部活やってねぇとサイクルができないんだ。実は昨日も夜の九時に起きて、それから寝てなくてさ、眠いのなんのって」


 大谷が生あくびを噛み殺す。


「そうか――テレビ見たか?」


 一彰は部活という単語を聞いて、話を変えた。


「ん?」


「またペリカン殺されたって」


「ああ、あれな」


 眠そうだった大谷が、にやりとする。


「俺、犯人知ってるぜ」


「へぇ。じゃ、誰」


 期待しないで訊く。どうせろくでもない推理を口にするに決まってる。いつもそうなのだ。


「あれ、狼男のしわざだよ」


 ほらきた。

 一彰はため息をつく。何か事件がおきると、それを都市伝説やUMO、オカルトの類いに結びつけるのが大谷の趣味なのだ。彼の部屋に並んでいる「吸血鬼の系譜」だとか「狼男、その歴史と正体」なんてタイトルの本が一彰の脳裏によみがえる。


「いや、お前、そんな顔するけどな、今回のマジなんだって。俺、知ってるんだよ」


「何を」


「六年くらい前かな。覚えてないか? H市のあたりで騒がれた狼男事件。子供二人が襲われたってやつ」


「ああ、そんなことあったな……」


 一彰が小学生の頃の話で、H市から離れた内陸のこの町にも聞こえてきた。海辺の町をあらす狼男、なんてコピーにやたらと恐い思いをして、それ以上に興味をそそられたことを覚えている。

 犯人が本当に狼男だったのかどうかは知らないが、確か最後まで捕まらなかったはず。


「今回の事件、あの時の事件と酷似してんだよ。これは同一犯、つまり同じ狼男の犯行に違いない」


「そんなに似てるか? 今回の事件と前の事件」


「似てるね。そっくり。お前はH市にいなかったから、最後に子供が襲われたことしか知らないだろう? あそこだけニュースになったからな。けどな、子供が襲われる前に、犬や猫がかなり殺されてるんだ。今のペリカンと同じように、強大な犬歯によってな」


「詳しいな。お前、その頃からそっち系のマニアだったのか?」


 そっち系というのは吸血鬼や狼男のことを指す。


「違うくて。俺、小学校までH市にいたから。超身近でおきた事件だったってわけ。ま、あの事件によって、俺は目覚めたわけだけど」


「なるほどね」


 納得したのは狼男がいるいないの話ではなく、大谷の悪趣味にも原因があったのだと知れたことにだ。

 しかし小学生の頃の出来事を今でもひきずっているなんて本当に子供っぽい奴だ、と呆れる。

 大谷は長身で一見すると厳つい容姿だが、人懐っこい笑顔がそんな調子を和らげている。実を言えば大谷は一彰の一つ上にあたる高校三年生なのだが、彼はそれを感じさせなかった。子供っぽいとも言えるほどの明るさで大谷は年齢など気にしなかったし、敬語がうまく使えない一彰にはありがたい友達である。

 大谷がさらに自分勝手な見解をのべ、それを一彰が聞き流していると、菜の花の向こうから電車がやってきた。


「うげ、なんじゃこりゃ」


 電車がホームに止まると、大谷は悲鳴を上げる。二両しかない電車の中は、制服がひしめいていたのだ。

「なんでこんなことになってんだ?」

 大谷はまだ信じられないと言うように目を丸くしている。


「ダイヤが変わったのさ。四月一日からね」


 そのため遅刻ギリギリに間に合うはずだった最後の一本が、ギリギリ間に合わなくなった。


「こりゃ駄目だ。やめとことう」


 大谷はベンチから立ち上がらない。


「またサボるつもりか?」


 一彰は今までの会話では見せなかった軽蔑の視線を大谷に向けた。


「饂飩でも食べに行こうぜ?」


「駄目だ。僕は落ちこぼれにはならない」


 大谷が傷ついた目をする。けれど、結局は笑った。一彰はそんな彼が嫌だった。彼は〝落ちこぼれ〟と言われる事を、すっかり諦めている。


「俺はこのままズラかるけど、気をつけろよ」


 大谷が今までとは違う真剣な調子で言う。


「俺が側にいないときは我慢だ。ちょっかい出されても無視してろよ? そろそろ、あっちも仕掛けてくる頃だろうからな」


 大谷が言い終わらない内に発車のベルが鳴り始める。一彰は頷くと電車の中に飛び込んだ。内心では大谷が側にいてくれないことを不安に思ったけれど、「心細い」とは言えない。

 電車に乗り込んだ一彰が振り向くと、大谷はもうベンチから立ち上がって歩き出していた。


「んん! ――んん!」


 電車が滑り出すと、後ろの方から胡散臭い咳払いが聞こえてくる。確認するまでもなく、声の主はわかる。一彰はさっそく大谷と別れたことを後悔した。

 運の悪い事に、同じ車両に乗り合わせてしまったらしい。

 一彰は緊張で胃が重くなるのを感じた。けれど、しばらくは無視するように努める。

 咳払いは続きクスクスと笑い声も聞こえてくる。

 一彰はそれでも無視を続けた。


「本当は気づいてるんだぜ? あいつ。ビビッてるんだよ」


 咳払いの声が言う。

 我慢して窓の外を睨み続ける。


「おい」


 呼び声に、一彰は奥歯を噛み締めて耐えた。


「おい」


 呼び声は続く。

 車両は満員だったので、きっと多くの視線を集めていることだろう。一彰は首さえ動かさずに恥辱に耐えた。

 悔しさと、怒りと、情けなさが腹の中でこねくり回っている。だが、一彰は二十分の移動時間を耐え抜いた。そして学校最寄の駅についた時、一彰は車両から飛び出そうとした――が、出口には〝彼ら″が陣取っていた。

 一彰は飛び出そうとしたため、彼らの内の一人とぶつかってしまう。


「痛ぇよ」


 そう言うと相手――間宮悠斗(まみやゆうと)は一彰のスニーカーを踏みつけた。

 一彰はショックと怒りで当惑しながらも、どうにか体を出口の方にねじ込む。しかし、出口一体には三年生グループ――悠斗の仲間が固めており、逃げようとした一彰の脹脛をいくつもの足が蹴りつけてきた。

 振り返って飛びかかりたい。悠斗の顔を目茶苦茶に殴りつけたかった。しかし、通学路の電車でそんなことをすれば取り返しがつかなくなる。今まで我慢してきた事をパァにはできない。それに問題を起こすなど――絶対にダメだ。

 一彰は大谷がいないことを残念に思いながら、早足でホームを出た。悠斗の卑劣さ以上に、逃げ出すという自分の行為が一彰を傷つけた。


 ●


 ――三十分前。


 通学の電車の中で柏木ヤエ(かしわぎやえ)は気分が悪かった。月の影響だ。今日は新月。満月よりはマシだとしても、体調はすこぶる悪い。ヤエは学校を休まなかったことを後悔していた。

 でも休むとネチネチ煩いのがいるから仕方ない。仕方ないけど、耐えられるのかしら……。

 額に脂汗が浮くの感じながら、喉の奥で絡む〝呻き声″を我慢する。満員電車の中は女子高生達の香水や防臭スプレーで溢れており、それがプンプン匂って、毛穴の隅々まで不快を感じる。


「気分が悪いのか?」


 従兄の悠斗の声が、すぐ近くでした。


「大丈夫。気にしないで」


 ヤエは目を閉じたまま答える。


「辛い?」


「平気だから。お願い、ほっといて」


 悠斗はしばらく黙っていたが、やがて他の仲間達と話し始める。ヤエは心を静めることに集中した。

 血の一滴一滴に意思が産まれたように体中がザワつく。肌が敏感になり、服を着ているのさえ耐え難い。目が裏側から炙られるように熱くて痛い。

 思いっきり叫んで、腕をぶん回し、ムチャクチャにしてやりたい。

 ヤエは周期的にやってくる破壊衝動に耐えていた。

 月に二度――新月と満月を迎えると起きる現象。年々症状は悪化している。先月の満月などは正気を失うほどに衰弱してしまった。

 だから次の満月がたぶん最後だろう。

 ヤエは朦朧とする頭で思った。

 ガタンと、電車が繋ぎ目で揺れる。それに合わせてヤエの思考も真っ白に吹き飛ぶ。

 いや、そもそも、今日をこえられるのかしら?

 ヤエは自分が「うううう」と呻いていることにハッと気づき、慌てて辺りを見回した。幸い、ヤエに注目している人間はいない。悠斗も仲間達とのお喋りに夢中の様子だ。


「あいつらがいる」


 車両が駅に進入した時、悠斗が言った。

 ヤエは嫌な予感がしてつま先で立ち、男子生徒の肩越しに外をのぞいてみた。すると、目の前のベンチに青葉一彰と大谷道也がいる。

 隣の悠斗を見ると、歪んだ笑みを浮かべている。


「俺達に気づいてない。あいつら、この車両に乗る気なんだ」


 ヤエは心の底から、一彰たちが一つ後ろの車両に向かってくれる事を祈った。しかし一彰は立ち上がると、最悪なことに悠斗たちに一番近い入り口を選んだ。

 嫌だ――見たくない。ヤエは一彰とは反対側の出口を振り返った。


「どうした?」


 悠斗が手首を掴んでくる。


「気分が悪いの」


「降りるのか? 俺も一緒に――」


 悠斗は本当に心配そうな顔をしていた。だがその後ろの仲間達は冷めた目をしている。ヤエはその視線に気づいていない振りをしなければいけなかった。


「いい。一人で大丈夫だから、悠斗は皆と行って――トイレに行ったら、次の電車で行くから」

 悠斗は手首を放してくれない。ヤエは自分の手を彼の手に重ねた。


「お願い」


「わかった……本当に大丈夫?」


 悠斗の手が名残惜しそうに抜け落ちていく。


「ありがと」


 ヤエは出口を飛び出した。振り向くと、一彰は大谷と何やら話しこんでいる最中。こちらに気づいている様子はない。

 ヤエはトイレに駆け込んで、個室の鍵を閉めた。それと同時に、思いっきりドアを殴る。

 ガンン、っと低い音が響く。

 ヤエは左の拳でも殴った。縮んで力をたっぷりと貯めていた筋肉は、爆発したような速度で伸びきり、拳をトイレのドアに食い込ませる。

 もちろん、ヤエの拳にも損傷はあった。左手の甲の皮が剥け、桃色の肉が見える。ヒリヒリと目の覚めるような痛みが走る。しかし、ヤエにとってはそれがリラックスを促がした。血が指を伝う。ヤエは血を流すことで、やっと生きている心地がした。

 トイレは洋式で、便座に腰を下ろすと呼吸を整える。


「うううう!」


 喉の奥に溜まっていた〝唸り声″を漏らすと、熱でうなされたような声が出る。爪が痒かったのでドアを引っかくと、表面の塗料がゼンマイのような形にはげる。ヤエの爪は今、鋭い牙のような形に尖っていた。口の中にも違和感を感じる。触ってみると、また犬歯が伸びていた。かみ合わせると下唇に違和感がある。

 また削らなければ――。


「ううう!」


 また破壊衝動の波が押し寄せてくる。それを堪えた時、右目の中で何かが切れた感じがした。涙が込み上げてくる。瞳の中に溜まり――う、これは――玉になって、顎に向かって流れる。


「――だめ」


 ヤエは咄嗟のところでスカートを捲った。白い太ももに、真っ赤な雫が落ちる。右目から溢れてきたものは涙ではなく、血。また興奮のしすぎで血管が切れたのだろう。よくあることだ。

 ヤエは股を開くと、右目から零れる血筋を便器の中に落とし、血が止まるのを待った。血を便器に流していると、次第に心が落ち着いてゆき、代わりに腹が猛烈に減り始める。

 トイレットペーパーを巻き取り、手の甲に滲んだ血を拭き取りながら、ヤエは一つ目の波を乗り越えた事にドッと疲労した。


 ●


 ヤキトリの詰め合わせと、ビーフジャーキー、二個入りのチーズハンバーグ。拳ほどあるハムは迷ったけれど、それを口いっぱいに頬張ることを想像すると我慢できなかった。

 レジに並んだ際、保温器に入っていた唐揚げとつくね棒も頼むと、さすがに店員に訝られる。ヤエは「これで全部だっけ」と誰かに買い出しを頼まれたような独り言を呟き、店員の怪訝な視線をかわした。

 コンビニを出て、アスファルトの道をそれると、神社がある。新緑の木々で覆われたそこは、学校をサボるには持ってこいの場所だろう。

 短い石段を上がると、生い茂った木々に囲まれた境内につく。

 ヤエは楠木の麓に座ると、すぐにコンビニの袋を漁って出てきたつくね棒にかぶりついた。まだ温かいつくねが奥歯で潰され、肉汁を零す。それがあまりにも美味しくて、喜びが背中を駆け上がる。唾液が吹き出て、お腹が鳴る。

 右手でつくね棒を口に運びながら、左手で唐揚げを取り出す。唐揚げは触るだけで油が指を汚す。口のなかはつくねでまんぱんなのに、ヤエは早く唐揚げを頬張りたくて仕方なかった。

 背後で足音が聞こえた。

 反射的に、食べ物を背中に隠してしまう。今のヤエは餓えた獣と変わらない状態で、食べ物が何より大切なのだ。


「……貴方」


 後ろに立っていたのは大谷だった。


「ずいぶん買ったな」


 大谷が呆れたように見下ろしてくる。


「なによ」


 ヤエは右手に齧りかけのつくね、左手に唐揚げを持っていることを恥ずかしく思った。


「一ついい?」


「だめ」


「ケチんぼ」


 大谷が腰を下ろす。大谷はずいぶん近いところから、ヤエを真っ直ぐに見つめてきた。


「電車から逃げるのを見て追いかけてきたんだ。あんた、なかなか一人にならないもんな」


「まだ根に持ってるの?」


「根に持ってる? 何を」


「春休みのこと」


「ああ……」


 大谷は今思い出したと言うような頷き方をした。


「いや、そのことじゃないけど――まぁ、どうだ? 気分はいいかい? 俺を退部に追い込んで万々歳だろ? 祝砲というこうか」


 そう言って大谷は唐揚げを一つ盗んでいく。

 過ぎたる三月の終わり。ちょっとした事件があった。それは悠斗の仲間が大谷にちょっかいをかけるという毎度のことだったが、結果が意外だった。

 大谷がその挑発にのってしまい、相手に怪我をさせたのだ。

 それは挑発した悠斗達にとってさえ予想外の出来事だっただろう。血の気が盛んな一彰ならまだしも、悠斗たちに冷めた態度を取り続けていた大谷が手を出すとは――青天の霹靂とも言える事件だった。

 その決着は、大谷の退部で幕を閉じた。大谷は悠斗達と同じバスケ部であり、それは一彰と同じ部活でもある。


「私は関係ない。嬉しくもないし、気の毒だとも思ってない」


 ヤエは唐揚げの袋を遠ざけながら言った。


「貴方も悪いのよ――どうして我慢できなかったの? いつもは、歯牙にもかけないのに」


「日が悪かったのさ。誰だって、そういうのはあるだろ? 生理とか」


「最低」


「とにかく間が悪かったのさ」


 大谷はアッサリと答えた。まるで退部になったことなど、遠い昔の若気の至りだというように。


「いや、本当に、今日はそのことじゃない――話ってのはさ、今朝のニュースのことなんだけど、見たかな?」


 大谷がニヤリと笑う。

 ヤエは内心、気持ち悪いほどにドキドキした。刑事に嗅ぎつけられた犯人の気持ちとは、こういうものかもしれない。


「まぁ物騒な話だよな。それで俺ちょっと気になったんだけど、一昨日、お前と間宮、駅にいたよな?」


「さぁ、どうだか」


「いたよ。見たんだ。〝下り″の電車に乗ってた」


 ヤエは腹の底で舌打ちした。やっぱりか――あれはこの男。

 一昨日、〝あそこ″へ向かう電車の中で見た覚えのある頭。一緒に悠斗がいたから気づかない振りをしていたけど、やっぱりだった。

 それで今朝、駅でこの男の顔を見た時から〝嫌な予感〟はしていたのだ。


「電車ぐらい使うわよ。遊びに行くのに交通手段がないもの」


「何処に遊びに行ったんだ?」


「貴方には関係ない」


「下りに乗ってたな」


「だから?」


「何かあったっけ? 商店街は〝上り″だけど」


 嫌な奴だ――ヤエは惚けたような調子をとり続ける大谷を憎らしく思う。


「貴方には関係ない」


「いや――一つあったな。デートスポットには持って来いの場所」


 大谷の目が瀕死のネズミを見つけた猫の様に、嬉しそうに細められる。


常磐公園(ときわこうえん)だ」


 心臓が止まるかと思う。常磐記念公園――ペリカンの死体で騒がれている廃遊園地だ。


「でも、おかしいんだよな。常盤公園は閉園になったはず――」


「何が言いたいの? 貴方」ヤエは大谷を睨みつけた。一応先輩であるがそんなことは関係ない。


「俺はあんたのことを知っている。あんたの過去をな」


 大谷が真面目な顔で言った。ヤエは一瞬、何も答えられなくなる。


「……何を言ってるの」


「惚けるなよ」


「なんのことかわからない」


 ヤエは無意識のうちに体に力を入れた。

 この男は私の正体を知っている? 何故――心臓が体をバラバラにしてしまういきおいで唸る。せりあがってくる緊張と共に、耳の奥で血がゴウゴウと鳴り始めた。


「あんたの〝探しているモノ〟も知ってる」


「なんのことかさっぱりだわ」


「もう随分キツいんだろ? 今日だって新月だ。こんなに〝肉〟をとってるってことは、相当パワーを持て余してるんだろ? 爆発しそうかい?」


「意味がわからない。もう行って」


 やはり、知っているのだ。こいつは私の正体を知っている――


「認めろよ――あんたは狼女だ」


 目の前で赤インキのビンが破裂したように視界が赤く染まる。


「ダマレ!」


「うお……!」


 ヤエに突き飛ばされ大谷が無様に転げる。

 いけない――そう言い聞かせても、もう理性の声は遠い。頭の中で怒りが過度に電圧をかけられた白熱球のように光り出す。

 四肢に力がみなぎり、胃が熱くなって自信が湧いてくる。目の前で間抜けに腰を抜かしている相手など、捻り潰せる。

 指は鉄だって引き裂けるように思えてくる。犬歯が疼き、この男の噛み付きたいと主張を始める。


「もうギリギリ――アウトって感じ?」


 男の声が聞こえる。尻餅をついているくせにやけに冷静な口調が耳に障る。

 この男は私を見くびっているのだろうか? ただの脅しと思っているのか? 何て生意気なんだ。泣いて謝らないなんて、なんて、傲慢なんだ……!

 そうだ。傲慢だ。コイツは私を脅かした。この私を危機に晒そうとしている。か弱い存在で、この私を――思いしらせてやる。

 思いしらせてやる!

 ヤエの腹の中には自分を鼓舞する言葉で煮えくり返っていた。

 視界は赤褐色に染まり、目の前の男は深紅の霧に変わる。ヤエの目は〝獲物〟をしっかりと捉えていたのだ。


「犬みたいに唸ってるけど、自覚している?」


 大谷が立ち上がる。ヤエは右手を突きだした。


「おっと!」


 大谷が飛び退く。彼が着地するより早く、弾丸のような体当たりを食らわす。

 大谷の悲鳴が聞こえ、砂地を滑る音。ヤエは獣の様に両手足で着地し、すぐに大谷に飛びついた。

 いけない! やめて! こんなのダメよ!

 噛み付こうとした時、胃を締め付けるような不快感が襲う。最後の理性が介入してきたのだ。


「うううううう!」


 唸る。その時、腹に、重い衝撃が突き上げてくる。下になっている大谷に膝蹴りを入れられた。その痛みで、目の前の赤褐色が晴れる。ヤエは飛び退いた。

 赤い霧でしかなかった大谷が、次第にその姿をハッキリとさせていく。

 大谷は砂まみれになって転がっており、目を白黒させて此方を見ていた。

 正気に戻ったヤエは、倒れている大谷を見て頭が真っ白になる。

 サッと見渡すと、取り合えず怪我はしていないようだ。


「貴方が悪いのよ」


 ヤエは後ずさりながら言った。


「だって、こんな時期に――私だってどうしようもできないのに」


 大谷は黙って見上げている。


「こんなことするつもりじゃなかった――本当に。貴方が変なこと言うから……」


 ヤエは一瞬だけ躊躇して、脱兎の如く駆け出した。駆け出した際、食料がはいっているコンビニ袋を忘れたが、立ち止まらない。一目散に石段を駆け下りて逃げる。

 大丈夫。怪我はさせなかった。大丈夫――ヤエは必死になって自分に言い聞かした。

次回は2013/02/08のUPを予定しています。

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