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狼の恋人  作者: Kずき
10/12

9


「いない……」


 階段を飛ぶように下りていったヤエの声が聞こえた。

 一彰は右足を引きずりながら歩いたので、とてもヤエについて行けない。

 噛まれた右足には布切れがグルグルに巻きつけてある。布キレはジャージから剥ぎ取ったものだ。そのせいで右足は半ズボンのような丈になっている。足首をガチガチに固めたおかげで、何とか支え棒程度には役立っていた。

 階段に差しかかると、さらに歩みは遅くなる。今では噛まれた右足だけではなく、左足にも力が加わらなかった。

 血を流し過ぎてるのか……?

 考えるとパニックになりそうなので、「大丈夫、大丈夫」と自分を落ち着ける。


「どうだ?」


 階段を下りると、トンネルの前に立ち尽くしているヤエに並ぶ。ヤエはどこから取り出したのか、マグライトを手に持っていた。


「これは――」


 ヤエが照らしているモノを見て絶句する。

 トンネルの入り口には先ほど一彰がかなぐり捨てた衣服と携帯があった。偶然かそれとも意図なのか、携帯は踏みつけられたようにして割れている。

 その先に、血溜まり。

 隣のヤエを見る。暗くてよくはわからないが、唖然としているようだ。

 二人はしばらく立ち尽くして言葉も無かった。

 振り返った先の時計台は午後五時を回っている。嵐のような風雨も災いして辺りはめっきり暗い。風が吹くとまるで夜の闇そのものが呻いているようだった。


「この血、間宮か?」


 一彰はピクリとも動かないヤエをのぞき込んだ。

 彼女の顔に、一房の髪が張り付いている。未だに目の前の事実を受け入れられないらしい。顎に雨の雫を滴らせながら、ただ立ち尽くしている。


「柏木……」


 肩を叩く。

 ヤエは電気が走ったように震えて、ゆっくりと振り向いた。


「何よ」


「連れ去られたみたいだぜ? ほら」


 一彰はヤエの片手からマグライトを奪い、トンネルの中を指す。トンネルの中には血の雫が途切れ途切れ続いている。


「逃げただけかも……自力で」


 ヤエが言った。


「いや違うだろ……逃げるなら、アンタがいるこっち側に来るんじゃないか? それに足跡も見てみろ」


 今では多くの足跡がつき完璧には判別できなかったが、それでも一番濡れている跡はケモノの足跡だけだった。


「でも、何のために連れ去るの?」


「さぁ……そこまでは」


 ヤエが此方を向いた。手を差し出してくる。一彰はマグライトを返した。


「助けに行かなきゃ」


 ヤエはそう呟いて、二三歩ほどトンネルを歩いた。しかしすぐに振り返ると一彰の下へと帰ってくる。


「一緒に来て」


 ヤエがそう言って手を取ろうとする。それを一彰は拒絶した。


「無理だ。足が良くない……あんまりウロウロできないんだ。あいつに見つかったら、僕は邪魔になるだろう」


 一彰は逃げようとする自分が情けなくて、ヤエから顔を逸らさなければならなかった。が、それでも行きたくない。


「僕は――隠れておくよ」


「ダメ」


「それが一番いいんだ」


「ダメ」


 一彰は伏せていた顔を上げた。ヤエは眉を八の字にして泣いていた。


「ついてきて」


「でも、僕は――歩けないんだ……ほとんど」


 ヤエが近寄ってくる。何をするのかと見ていると、一彰の脇に体を入れて腰に手を回してきた。担いででも連れて行くと言いたいのだろう。


「こんなのじゃ役に立たないだろ? 邪魔になるよ」


 脇の下のヤエをのぞき込む。見るとヤエは首を振り、右目から赤い涙をポロポロ零していた。〝お願い〟と言うように、担いだ一彰の手を握ってくる。

 怖いのか、一人では行きたくないようだ。


「なぁ……まず警察じゃないか?」


 体をくねらせてヤエから逃れる。しかし握った手は離してくれない。


「今の内に警察に連絡しよう」


 ヤエは首を振る。


「何で?」


「ダメなの。これは絶対に私達で――じゃないと、色々マズイ」


「そりゃそうだろうけど……」


 廃園した遊園地に忍び込み、ボーガンを振り回している。確かにお咎め無しとはならないだろう。しかし、あんなバケモノが出てきたのだ。それどころではな無いはず。


「なぁ、やっぱり警察だよ。それこそ間宮の命がかかってる。まだ生きてるかもしれないし、手遅れにならない内に」


 一彰の言葉にヤエは唸り指を噛み始めた。心的ストレスがかかり過ぎている状態なのだろう。

 ヤエは目をきつく閉じ、指を齧り続ける。


「一回だけ」


 ヤエが懇願するように見上げてきた。


「一回だけチャンスをちょうだい。それで、もしダメだったら貴方が連絡して」


「自力で間宮を助け出すってことか?」


 弱々しくヤエが頷く。


「それで上手くいったら、警察はやめて」


「なんでそんなに警察を嫌がるんだ?」


「……それは――」


 煮え切らないヤエの態度。結局、ヤエは顔を伏せて答えなかった。


「わかった――言いたくないならいい。でも、ダメだ。僕は警察に連絡する」


 一彰はヤエの手を振り払い、手を突き出した。

 ヤエの顔が悲愴に染まる。


「どんな事情があるにせよ、僕は怪我して命がかかってるんだ。間宮のもだ」


「悠斗は貴方の敵じゃないの?」


「だからって死んでいいとは思ってない」


 またヤエが頭を抱える。どうやらよほどの事があるらしい。眼球が左右に忙しなく動いている。

 そんなヤエの姿に多少良心が疼く。しかしここは感情に流されていい場所じゃない。


「携帯を貸してくれ――時間が無いんだ」


 一彰は言った。

 ヤエが、ハッと顔を上げる。


「貴方、携帯持ってないの?」


「そこに転げてるだろ? 真っ二つだ。だからお前のを――あ」


 一彰も目を丸くする。一彰は思い出したのだ。


「お前、携帯持ってない……のか?」


 ヤエがゆっくりと頷く。

 そうだ――こいつは携帯を持っていないのだった。

 ヤエが携帯を持っていないのはクラスでは有名な話だった。今時携帯を持っていないというのもそうだったし、その理由が悠斗の独占欲から〝持たせてもらえない″として面白おかしく噂されていたのだ。

 二人して見つめ合う。


「公衆電話」


 一彰は思い付きを口にした。

 ヤエが首を振る。


「無理よ。だってここ、電気がきてないもの」


「でも電話くらいなんとか――」


「……ダメだと思う」


「マジか? マジ……?」


 外との連絡手段がない。と言う事は、橋を渡って自力で脱出しなければ助けを呼べないということか?

 橋――……まさか。

 一彰は自分の思いついた可能性に戦慄した。

 まさか〝橋〟にいるのか? 〝そういう〟ことなのか?


「どうしたの?」


 無意識の内に歩き出していたらしく、ヤエが尋ねてくる。


「橋だ」


「え?」


「橋に連れて行ってくれ」


「どうしたの?」


「いいから!」


 急かすと、ヤエが訝しげにしながらも肩を貸してくれる。


「本当にどうしたのよ? 橋が何なの?」


「とにかく行ってくれ――早く!」


 ヤエが渋々歩き出す。一彰はヤエに運ばれながら思いついた可能性に思いを巡らせた。

 もし仮に、あのバケモノが〝橋〟にいたら――一彰の心臓は緊張でドクドクと唸る。

 橋の袂に到着し、欄干から顔をのぞかせた時、一彰は自分の推測が間違っていなかった事を知った。

 百メートルほどある橋の中腹。そこにケモノはいた。足下には悠斗と思しき塊も転がっている。


「なんてこった……」


 一彰は手で顔を覆った。


「どうして? なんでここにいるってわかったの?」ヤエが目を丸くして訊いてくる。 


「ここが唯一の出口だからさ」


「あ――」


 ヤエも〝橋を塞がれた意味〟に気づいたらしい。

 唯一の脱出経路である橋を封じられた事によって、一彰達はこの島に閉じ込められたのだ。


「でも……泳いで渡れば」


 ヤエが思いついたように口にする。


「僕はたぶん、無理だろうな」


 歩く事さえ満足にできないのだ。まして風雨に荒れる湖など渡れるわけがない。


「お前だって無理だよ。間宮を見捨てないならな。生きてるかどうかわからいけど、あの血だ。生きてたとしても死にかけてる。すぐに助け出さなきゃならない――奴は僕達を逃がさないように、間宮の命で縛ってるんだ」


「そんな――」


 自分達の立たされた状況に、ヤエは言葉を失っていた。

 一彰も信じられなかった。

 噛み付き癖や鳴き声からして見るからにバケモノ――知能は低そうなのに、こんな策を弄してきた。しかも考えれば考えるほど、その策は完璧なモノに思える。

 認めたくないが、アレは頭が切れる。

 橋の欄干から闇の奥をのぞきながら、一彰は自分達と対峙している〝モノ〟を改めて恐ろしく思った。


「あんまり顔を出さない方がいいわ」


 背中に隠れていたヤエが言う。


「この暗がりに雨じゃ向こうだって見えやしない」


 一彰はそう答えて、一体どうするべきかを考える。

 ケモノは唯一の脱出経路を塞ぎ、一秒毎に死んでいくような人質をとっている。

 もし悠斗を見捨てないのなら、早々に助け出す必要がある。けど、どうやって?


「頭を引っ込めて。長く出すぎてる」


 ヤエが引っ張ってくる。その声は切迫していた。


「大丈夫だ。こっちからだってほとんど見えない。あっちも同じだ」


「違うの――いいから!」


 ヤエが強く引く。


「どうしたっていうんだ?」


 欄干に体を引っ込める。


「お前も見てみればわかるけど、こっちを見分けるなんて不可能だ。絶対に気づいてない」


「いいから、訊いて――あいつは、私達とは違うの」


 目の前に迫るヤエの顔は真剣。


「目が違うのよ――見えているモノが」


「どういうことだ?」


 ヤエは一瞬躊躇を見せた。しかし続ける。


「あいつの視力は悪い――でも、サーモグラフィのように獲物を識別できる〝視界″を持ってるの」


「サーモグラフィ……ヘビみたいな?」


「ヘビの事はよくわからないけど……たぶん、そういうことだと思う」


「そうなのか……でも、体温だろ? 大丈夫だ。雨で濡れて冷えてる。感知されやしない」


 一彰がそう言うとヤエはじれったそうに首を振った。


「温度じゃないの」


「なに? でもサーモグラフィーは――」


「血なのよ。血で個体を識別しているの」


「血? まさか――」


 言いかけて、ハッとする。

 そう言えば、ゲームセンターで襲われた際、ケモノはマネキンに飛びついていた。あのマネキンには一彰の背中から流れた血がベッタリとついていた。


「でも血って……見えるモノなのか?」


「何を感知してるのかはわからない――もしかしたら嗅覚で感じたヘモグロビンか何かを視界と合わせて認識しているのかも……とにかく、一度マークした血は〝よく見える″の」


「じゃああいつは……僕たちがいる事に気づいている?」


「たぶん」


 ヤエが深刻な表情で頷く。だから先ほどからこうも怯えていたのだ。一彰もバレていないと思っていたからこそ持っていた余裕が吹き飛んだ。

 あいつは〝こっち″を見てたのか――考えるとゾッとする。まるで裸にされたような心細さ。


「けど、何でそんなことわかるんだ?」


 一彰はヤエに訊いた。どうしてケモノの〝視界〟のことなどわかるのだろう。


「それは――」


 ヤエは言葉を濁した。その時――


「オア、オアオアオアアアア!」


 闇の向こうから声が聞こえる。振り返ってのぞくと、ケモノが片手を掲げていた。その手には人の形をした影がぶら下がっている。十中八九、悠斗だ。


「何が起こってるの?」


 ヤエが訊いてくる。


「間宮を掴みあげてる――まるで取りに来いと言ってるみたいだ」


 実際、そうなのかもしれない。


「オア、オア、オエ、エエルルルルル、エルルルルオオオアア」


 何かわからないことをケモノが叫び続ける。


「ロロロオオオオロオオオオロオ!」


「何? 何なの!」


「わからない! 頻りに間宮の体を振ってる。何なんだ?」


 とうとうヤエも顔を出す。二人はピッタリくっついてケモノの動向を探った。


「ロロロロロロルルルルルオオオオオオオ!」


「何かを伝えようとしてるみたい……」


「仲間を殺されたくなければ、姿を現せってことか?」


「そうかも……どうしたらいい? 悠斗、生きてるよね?」


「ああ……」


 だがケモノに振られてブラブラと揺れる姿を見ていると、自信がない。

 突然、ケモノの声が止んだ。二人して食い入るように見つめる。ケモノの影が半分ほどになる。その時雷で空が光った。ケモノは体を折って此方に駆け出していた!


「やっぱり見つかってた!」


 ヤエが飛び起きる。


「何なんだいきなり! 今までのは何だったんだ!」


「わからない! けど、こっちに来るわ!」


 ヤエが駆け出す。


「待ってくれ!」


 一彰は右足のせいで、腰を上げるのさえ一苦労だ。

 ヤエが跳ね返ったピンポン玉のように戻って来て、脇の下に入る。一彰はヤエに半ば抱えられるようにして走った。

 ヤエは凄い力だった。この緊急事態でさえ、彼女の力には驚かされる。一彰は長身で、体重も七十キロを越えているのに、ヤエは丘の坂道をグイグイと進んだ。抱かれた脇腹が締め付けられて痛いほど。

 丘を登りきると、ヤエが止まり一彰を荷物のように投げ出した。ヤエは振り返って、丘の下を見下ろしていた。


「来てないわ」


「え?」


「ほら――見てみて」


 ヤエに手を掴まれ立たされる。ヤエのライトが照らす先を見ると、橋の袂でケモノがウロウロしている。


「どうして追ってこないの?」


 ヤエは怪訝な表情で呟く。


「橋だよ。橋から離れたくないんだ――それに、ちょっと貸して」


 一彰はヤエからマグライトを奪った。


「やっぱりね。ほら、間宮を抱えてる。あれじゃ十分なスピードが出ない。あんたにとっちゃ僕も十分な足手まといだろうけど、あっちの荷物は完璧に動かない荷物なんだ。さすがに手間なんだろ」


「悠斗を離さないつもりかしら……」


「万が一にでも人質を奪還されたくないんだ。それに橋さえ押さえとけば僕達に逃げ道はないわけだし――追いかけ回して橋を空ける方がアイツにとっては危ないんだ」


 パッと辺りが白く光り、雷が鳴る。一瞬の閃光の間、ケモノがよく見えた。ケモノは悠斗を脇に抱えて、ジッとこちらを見ていた。

 血を見分ける瞳。

 それに晒されていると思うと、生きた心地がしない。考えの上では、ケモノが橋を離れることはないと思われる。それでも、アレが突然駆け出して来る想像を拭えない。作戦を練る知能があるとは言え、あれはバケモノなのだ。獲物を目の前にして、どれだけ理性的でいられるかはわからない。

 ケモノが悠斗を捨て、本来のスピードで駆け出したら逃げ切れないだろう。少なくとも、自分は無理だ。一彰は恐ろしくなった。


「行こう」


「何処へ?」


「あいつがいないところさ。ずっとここで睨めっこしてるわけにはいかないだろ? とにかく離れよう。あいつに見られてると思うと気味が悪い」


「でも……」


 ヤエが丘の下を見下ろして渋る。


「今はどうしようもないだろ?」


 ヤエは一彰の言葉を聞くと、ガックリ肩を落とした。仕方ないとわかっていても、瀕死の悠斗に背を向けることが辛いのだろう。

 人質奪還の目処は立っていないのだから、この撤退は悠斗のことを半ば見捨てるようなモノだった。


 ●


今ではすっかり落ちてしまった椿の森を抜け、一彰たちは牡丹園に落ち着いた。牡丹園はすり鉢上になっており、底にはかやぶき屋根の旧家を再現した休憩所がある。もちろん、閉園となった今では閉まっていたが、一彰たちはそこに忍び込んだのだった。

 廃園になって管理されていなかったのか、旧家の障子紙はほとんど溶けている。畳には雨が降り込み、天井から吊り鉤がおろされている庵の間は、どこか青みがかった闇に包まれていた。


「来ないか?」


 畳の上に寝そべったまま一彰は訊いた。


「来ない」


 ヤエは障子穴から外をのぞいている。


「そうか……」


 一彰は確認を済ませると、傷口を避けながら足を掻いた。噛まれた辺りが妙に痒い。

 疲れて眠い。喉が乾く――そんなことを考えながら、一彰は固まった血をツメで削ぎつづけた。


「あいつ、やっぱりあそこから離れないつもりなんだな」


 足を掻きながら呟く。かれこれ三十分は経っているような気がする。悠斗はまだ生きているだろうか?


「あそこさえおさえておけば逃げられない。瀕死の悠斗がいるから、持久戦も無理。よく考えてるよ」


 一彰の言葉にヤエはまったく反応しない。たまに雷が光ると、パッとヤエのシルエットが浮かんだ。他には〝休憩所″を示す看板の影こそ浮かんだが、他には何もない。少なくともケモノの影は浮かんでいない。


「今思ったんだけど……さっきのアレさ、僕達に下手なことするなって言いたかったのかもな」


「……」


「僕があいつだったら、そうするもの。外部に連絡したり、湖を泳いで逃げたりしたら〝こいつ″は殺すぞって、そう言ってたのかも。まったく誘拐と同じだよ。違うのは身代金が僕たちの命ってことかな」


「……」


 帰ってこない返事に首を起こす。ヤエは背中を向けていた。座ったまま死んでいるのではないかと思う。


「おい」


「……」


「また泣いてるのか?」


「うるさい」


 よくよく見ると、たまに肩がピクンと揺れる。

 よくもまぁそうもメソメソとできるものだ――一彰は泣いてばかりのヤエに溜息をついた。

 自分の恋人――でなかったとしても仲の良い人間が死にかけているのだ。彼女の心中は理解できる。だが、いつまでもメソメソやられるのはうんざりする。


「なぁ」


「……」


「なぁって」


「何よ」


 涙声のヤエ。


「あれは一体、何なんだ?」


 バケモノということはわかる。だが何なのだろうか?


「知ってるんだろ? だから、ボーガンなんて背負ってやって来たんだろ?」


「……」


「あれが……あんたの〝病気〟と関係あるのか?」


 ヤエが振り向く。

 長い、間があった。その間に二度も雷が鳴った。二人の影が畳に刺さる。


「大谷?」


 訊いたのはヤエだった。


「ああ」


 ヤエはたっぷりの溜息をついた。それから、何もかもを諦めてしまったような、投げやりな笑い方をした。


「六年前だけど――」


 ヤエが語り始める。


「H市で起こった〝狼男″の事件、知らない?」


 それはまさに先日、大谷との会話にのぼった事件。


「犬や猫が殺されて、最終的に子供も二人襲われたっていう、あれ?」


 ヤエが頷く。

 彼女が今、そんな話をするということは、つまり――。


「あれが、その〝狼男″だっていうのか?」


 ヤエがまた頷く。それから続けた。


「私なの」


「はぁ?」


「私なのよ……襲われた二人って言うのは」


 さすがに言葉を失う。

 ヤエは畳に目を落としていた。疲れきった顔。その背中でまた外が真っ白になる。今度はすぐに音が炸裂する。どこか公園の中に落ちたのかもしれない。


「お前、前にもあいつに会った事があるのか?」


 一彰は体を起こした。


「そう言ったでしょ」


「それって……どうなったんだ? 襲われたってどういう――」


「噛まれたわ」


「大丈夫だったのか? それ」


「とりあえずはね。今、ここにいるんだから生きてはいるわ」


「ああ……」


 そりゃそうだと頷く。


「無傷ってわけにはいかなったけど。腕を脱臼して、噛まれた跡は今でも残ってる。二人の内もう一人、私の幼馴染だったんだけど、その子の方が重症だったみたい。事件の後すぐに引っ越して行ったから詳細は知れないけど」


「そうか――それで、病気ってのはもしかして……」


 なんとなくだが、わかってしまう。日頃から、オカルト好きの大谷の話を聞かされていたから、〝その可能性〟はすぐにピンときていた。


「そう――狼女よ。私は」


 一彰の言葉をヤエが奪った。まるで自分で口にするのは許せても、一彰にそう呼ばわれるのは我慢ならないというように。

 それからヤエは語ってくれた。自分の症状――〝狼化〟と呼ばれる発作は月の満ち欠けに影響すること。〝親狼〟の血の中にある抗体が〝子狼〟に有効な沈静作用をもたらすこと――大谷が教えてくれたヤエたちの探しているワクチンとは、あのバケモノの血だったのだ。

 先日悠斗との事件があった日は新月。強い発作に見舞われていたこと。

 次の満月を迎えれば最後だとうということを。


「次の満月って、いつ?」


 ヤエが話を終わると一彰は尋ねた。

 ヤエが視線を落としたまましばらく黙っていた。その姿に精気の欠片も見えない。

 ここに落ち延びるまでは緊張が痛いほど感じられ、お互いを罵る言葉も出ていたのに、今ではそれもすっかり下火となり二人とも囁くような声で話していた。

 緊張が解けると、後は抜け殻のような体が残ったのだ。

 外は唸る風雨が一切弱まる気配を見せず、轟く雷が孤立無援の心境にいやに染み入る。

 一彰はヤエが答えるまでの間に、自分達がすっかり元気を無くしていることを認めざるおえなかった。


「次の満月は翌月の中ごろ」


 ヤエがやっと答える。


「すぐだな」


「……」


「お前、どうなるんだ?」


「さぁ……最終的にはアレじゃない?」


「やっぱり、ああなるのか?」


 一彰はそのことに関心があった。


「最終的にはね。でも、それまでに決着はつくと思う」


「どういう意味だ?」


 ヤエが鼻で笑う。一体どいうつもりだろうと訝ったが、彼女の話を聞いて納得する。その嘲笑はこれから彼女が辿る――今となってはかなり可能性の高い結末に向けられたモノだった。


「気が狂うの」


 ヤエがこめかみの辺りで指をクルクル回す。


「最近じゃもう半分狂ってる。あそこまでバケモノにならなくても、私には十分な力がある。人を殺すかもしれないわ。それで……警察に捕まる。それから色々な調査をされてバレるのよ。人間じゃないって。来月には新聞を騒がすわよ、きっと」


 そこまで言うと、ヤエはまた鼻で笑って「なんてね」と付け加えた。


「死ぬわ、自分で。そんな恥さらしできないもの」


 一彰は一瞬言葉を失った。それから自分の動揺を隠すために、何とか適当な言葉を探した。


「死ぬって……自殺か? そんなこと、できるのか?」


 ヤエの顔が糸で引かれたようにツイと上がる。後ろでまた雷が鳴った。


「できる。死体はでないようにするわ。検死でバレたら意味無いから」


「しかし――」


「私、お母さんがいるの」


 ヤエはそれで自分の決意の一切が説明できると言うように、言い切った。しかし、一彰はすぐにはわからない。


「貴方だって私の立場ならそうするわ。自分が人を殺して、バケモノだったって騒がれるのを想像してみてよ。お母さん、どんな思いをすると思う? きっと生きていけない。人殺しのバケモノの母親になるのよ?」


 一彰はヤエの決意を痛感した。自分もまた悠斗の一件でやつれていく母を見るに耐えられなかったからだ。毎朝肩を落として、それでも出勤していく背中を見ていると、冗談ではなく死にたくなった。

 ヤエの気持ちは理解できる。

 だが同時に、彼女は怯えていることもわかった。どうしようもないとわっていたとしても、彼女は自殺しなければならないことをとても怖がっている。

 当たり前のことだが。


「私って、運がないのよ」


 一彰が黙っていると、ヤエが言った。


「そう思うわ」


 一彰は何も答えられなかった。少しすると、ヤエは再び障子に戻り、外を見張り始める。


「この話、全部〝取らぬ狸の皮算用〟ね」


 ヤエが言った。


「何が」


「自殺とか、警察に捕まるとか。だって、私達ここから生きて帰れるかさえわからないんだもの。希望的観測だったわ」


「それってジョークのつもり?」


「別に……笑いたかったら、どうぞ」


 一彰は笑わなかった。それから、自分のことを考えた。

 噛まれた脚が痒い。これは、そいうことなのだろうか?


「……」


 一彰はヤエの背中を見つめた。彼女はそのことに頭が回っているのだろうか? 彼女が語った運命が、そっくりそのままこっちにもあてがわれていると気づいているのだろうか?

 いや、わかってないだろう。わかったところで関係ないことだろうけど。

 パッと雷が光り、ヤエの影が伸びてくる。


 ――ん?


 一彰はおかしいぞ、と思った。

 先ほど〝休憩所の看板〟だと思っていた影が、無かったように思える。

 雷鳴が轟く。

 ゆっくりと、しかし着実に一彰の心拍は上がっていく。一彰は絶対に首を動かさなさいようにしながら、視界の許す限りを探った。

 再び閃光が弾ける。

 畳が真っ白になる。看板の影は無い。今度はすぐに雷鳴も轟いた。

 ギシ――。

 耳を澄ましていたおかげで、一彰はそれを聞き取ることができた。天井の梁にいる。


「柏木」


 一彰は喉がカラカラに乾き、手足が痺れるのを感じながら吐息のように呼びかけた。


「柏木」


 ヤエが精気の無い顔を向けてくる。しかし、一彰のあまりにも緊迫した顔を目の前にしたからだろう、首を傾げた。


「どうしたの……」


 目線だけを上に向ける。


 「いる」


 少し間をおいて、ヤエの目が大きく見開かれる。一彰は首を振った。


「見るな……!」


 ヤエと一彰は金縛りにあったように見つめあう。

 ほんとに?

 ヤエが口だけを動かしてくる。それに小さく頷く。


「結構前からいる。雷の音に合わせて動いてた。今、僕たちの頭の上にいる。寝込みを襲う気かもしれない……絶対、上を見るなよ? 機会を与えるな」


 また閃光が光る。そしてワンテンポ置いて、音がやってきた。

 ギシ――。

 ヤエの瞳が震える。聞こえたのだ、彼女にも。お互いが立てたモノではない物音を。

 静まり返り風雨の音だけがする。一彰は見えない手で押さえつけられているような圧迫感の中で、必死に考え抜いた。


「僕は椿の森を抜ける」


 一彰は言った。


「お前は水辺を走れ。そして橋に向かうんだぞ? ここを飛び出たら、すぐに二手に別れるんだ」


 ヤエは固まったまま頷きもしない。


「次の雷が光ったら――」


 一彰が言い終わらない内に障子の向こうが真っ白に光る。

 一彰は天井を見上げた。

 真上の梁に〝それ〟は張り付いていた。


「行け!」


 ヤエの手を握り、障子を蹴破る。すぐ後ろに何かが落ちた。


「アアアアアアア!」


 ケモノが悔しそうに鳴く。


「走れ! 走れ!」


 一彰はヤエの背中を水辺の方へと押し出した。ヤエは一瞬だけよろめいたが、躊躇せず走り出す。ライトは彼女が持って行った。

 一彰はヤエと真逆、来た道を戻った。後ろを見ると――ケモノは此方を選んでいた。 

 ケモノは悠斗を抱えてはいなかった。置いてきたのだ。だからこそ、不意打ちを狙っていたのだろう。もし一匹でも取り逃がせば人質を奪還され、橋を渡られる危険性がある。

 しかし、そのリスクを犯しただけのモノをケモノは手に入れていた。

 四足で風のように走り、グングン距離をつめてくる。五mほど距離が空いていたのは、一彰とヤエが二手に別れたため、ケモノに一瞬の躊躇があったからだ。

 だが、すぐに詰められそうだ。ケモノはまるで弾丸。

 一彰は寸前のところで転がり、飛びつかれるのをかわした。

 首を起こす。ケモノはまだ空中にいた。どうやら勢いをつけ過ぎたようだ。

 空中で脚をバタつかせている。ケモノの前足が藪椿の幹を捉えた。それを機転に、方向転換を試みるケモノ。ケモノの黒目のない卵のような目が一彰をとらえる。しかしその瞬間、ケモノの重さに耐え切れなかった幹が折れた。


「アアアア!」


 ケモノが坂を転がり落ちてく。ケモノは四肢を振り回しているが雨が降った腐葉土の上ではブレーキが効かない。

 一彰は立ち上がった。裸の上半身には泥がベットリついている。口の中も苦い泥の味がした。


「柏木ー!」


 一彰は椿の森の先、水辺を走っているであろうヤエに向かって叫んだ。

 ケモノが転げ落ちた坂から駆け上がってくる。

 一彰は来た道を逆走した。


「柏木! そのまま行け! 橋を渡れ!」


 ケモノが自分を追ってくるなら、ヤエは橋を渡れる。

 一彰は涙が出た。自分は死ぬかもしれない。

 二択のうち、外れを引いてしまった。

 こんなのってありだろうか? 今朝までは普通の日々だったのに。


「アアアア!」


 またあの声が背中に迫ってくる。

 退学になるかもしれない不安こそあれ、命に危険はなかった。

 生きていけたんだ。ずっと、安全に。なのに今じゃ、一人で、裸で、バケモノに追われてる。

 ついてない。

 涙が背後に流れていく。

 一彰はフラつく足で走った。先ほど飛び出した旧家が目の前だ。障子が雨の庭に蹴り出されている。

 あそこまで行けるか?

 行って何になる。

 走る一彰を絶望が襲った。

 逃げ切れるわけないだろう――足が緩む。するとそのままこけた。木の根で顎をしたたか打ち、舌を噛んでしまう。血と唾液が喉に絡み、呼吸が止まる。


「いやだ!」


 一彰は咳き込みながら叫んだ。

 ドン――と、息が止まる衝撃が走る。肩が二つに割れてしまうような力で押さえ込まれる。背中に、芝生の上を転がったようなチクチクとした感じがした。雨に濡れたケモノの嫌な匂いが鼻腔をかすめる。「グルルル!」という呻きと共に、生暖かい息がかかった――鎖骨の下に、親指よりさらに太いモノがめり込んでいく。


「うああああああ!」


 一彰はケモノの口の中で自分の肩甲骨が砕かれる音を聞いた。

 ケモノがさらに首をふる。左腕をもぎとろうとしているのだ。首から肩、脇から腕にかけの筋肉がビンと伸びる。凄まじい痛みだが、首を押さえつけられて叫ぶことしかできない。

 ケモノの牙が鎖骨から抜け、左腕をナイフのように走っていく。冷たいと感じた後、すぐに熱くなった。肉が裂けたのだ。


「アアアアア!」


 突然、ケモノの悲鳴が上がった。

 引き千切られそうだった腕が地に落ちる。頭と背中を押さえつけていた重みも消える。

 首を回すと、走っていくケモノの後姿があった。その向こうから「逃げて!」とヤエの声が聞こえる。

 助けにきてくれたのだ。

 ヤエとケモノは橋の方角へ去って行き、やがて闇の中に消える。

 一彰は力なく四肢を伸ばして倒れた。

 雨音が背中で弾ける。口の中に泥水が流れ込んでくる。

 一彰は腐葉土に顔を埋めたまま嗚咽をもらした。

続きは2013/02/15を予定しています。

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