プロローグ
以前、こちらのサイトに投稿させていただいた物語ですが、賞への応募の関係で取り下げていました。UPしたことのある話をまたあげるのはどうかと思いましたが、とりあえず、本当に皆様にみていただきたい物語の体裁が整うまで、お茶にごしをば……。
「寒いから、この毛糸の帽子」
母がそう言ってかぶせてきたのは耳のついている〝クマさん″の帽子。
「ヤダ! クマなんか……もう、子供みたい!」
ヤエは押し付けられた帽子を振り払うと洗面所に走りこみ、鏡をのぞいた。鏡には前髪を切りそろえられた女の子が映っている。とってもダサい。
夕方、お母さんに切ってもらったのは失敗だった!
ミトンの手袋で前髪をいじくりながら泣きたくなる。
「お母さんのせいだからね!」
「気になるならなおのことかぶりなさいよ」
「ヤダ」
「そんなに子供っぽくないわよ? 可愛いって」
「ヤダ!」
「じゃあどうしようもないでしょ? どうするの? 行かないの? 京君、十分も待たせてるよ?」
そう言って母が指した時計は、八時十二分。
近所のお兄さんである〝京くん″が、星座観察に連れて行ってくれると言ったのは三日前のこと。
〝一緒に行かない? 運が良ければ、ふたご座流星群が見れるよ″
ヤエはこれを、人生初のデートだと考えていた。しかも相手は中学生のカッコいいお兄さん。星座を見つめる、ロマンチックなデート――そう思って意気込んでいたのに。
ヤエは鏡を見て、眉の上で切りそろえられた前髪にとうとう涙を零した。
「何も泣くことないじゃない」
母の呆れた声がする。
「京ちゃんに嫌われたら、お母さんのせいだからね!」
「嫌われるほど好かれてもないと思うけど」
ヤエは渾身の力を込めて母を睨んだ。
「そんなに怒らないの――ほら、あんたが好きなの貸してあげるから」
そう言って母が取り出してきたのは、バニラ色の毛糸にバラのアップリケが散りばめられたマフラー。
「お母さんの貸してくれるの?」
「大事なデートでしょ?」
母がマフラーを両手にかけて、得意そうな顔をする。
そんな母の表情を見て、ヤエは「マフラーで機嫌をとられた」と自分を恥じた。
「いらっしゃい。私の可愛い〝おませさん″」
「おませじゃないもん。みんな、お洒落はするもん」
「はいはい」
母はヤエの後ろにまわると、防虫剤の匂いが少し残るマフラーを巻いてくれる。顎の下に、バラがくるように上手くとめてくれた。
「気をつけるのよ」
「大丈夫。汚さないようにする。お父さんからの、たった一度のプレゼントだもんね」
「そうじゃなくて……もちろんマフラーも大切にしてほしいけど、お母さんが言ってるのはね、貴方よ」
母の声が神妙になる。
「最近、おっきい犬が出てるの知ってるでしょ? 京くんがいるから大丈夫とは思うけど」
その事件は、小学校でも注意を促がされていたのでヤエも知っていた。
この一ヶ月、ヤエが住む港町では猫の死体がいくつも見つかった。三日前はとうとうペットの犬も襲われている。そのどれもに大型の犬歯の跡がついていたのだ。
噂では「狼男」だとも言われている。
最後の事件で犬が襲われた際、その飼い主が犯人を影ながら見たというのだ。それは犬よりは巨大な猿のようで、走り去る姿も、四足歩行ながら犬よりは猿に近かったという。そしてその大きさたるや、大の大人ほどあったそうだ。
「大丈夫よ」
ヤエは振り返って、母を安心させるために告げる。
「なにが大丈夫なの?」
「だって、今日は新月だもん。満月じゃないから、狼男はでてこないわ」
ヤエの言葉を聞いて、母は目を丸くしたあと、呆れた顔をした。
「狼男なんているわけないでしょ」
■
アパートのエレベーターを出ると、十二月の夜の空気が待っていた。耳がつねられたように痛む。ヤエは寒さに負けないように、体に力を入れて東駐車場に向かった。
京ちゃんもヤエと同じアパート群に住んでいる。ヤエが親子二人で暮らすのが第三アパートで、京ちゃんが暮らすのが第一アパート。その中心にあるのが東駐車場だ。
「あれ? なんでモンチィがいるの?」
待ち合わせ場所であるツツジの植え込みに到着すると、一つの影が座り込んでいる。のぞき込むと、それは京ちゃんではなく、京ちゃんの弟であるモンチィだった。
京ちゃんの一つ下の弟、モンチィ。ヤエにとっては一つ上にあたる小学六年生。兄の京ちゃんは背が高くて髪の毛がサラサラなのに、弟のモンチィは背丈がヤエと同じほどしかなく髪の毛も芝生のようにツンツン。
二人は兄弟なのに全然似ていない。
モンチィはヤエを見つけると「助かった」と言わんばかりに顔をほころばす。鼻の頭も尖った大きな耳も赤い。長い時間を待っていたようだ。
「あ、ヤエちゃん、前髪、切ったんだね。可愛いと思うよ」
「そんなことより京ちゃんは?」
「お父さんの帰り待たなきゃいけないから、今日は無理だって。ごめん、と伝えてくれって言われて、それで僕が――」
「えぇ! なんで!」
モンチィが喋り終わらないうちに、批難の声を上げる。
「仕方ないよ。お父さんのご飯、京ちゃんが作るんだから。お父さんが帰らないと京ちゃんは出られない。もし出てたら凄く怒られるんだ」
京ちゃんとモンチィには母親がいない。ずっと以前に「リコン」したらしい。だから家事全般は京ちゃんがこなしている。それを普段は「カッコいい」と思っていたけれど、今日だけは別だ。
「約束したのに!」
「だから仕方ないって」
モンチィがたしなめてくる。だがヤエの気持ちは治まらない。
こんなの、お母さんのマフラーまで借りた私が馬鹿みたい!
「あんたがお父さんのこと待ってればいいじゃん。あんたがご飯作ればいいじゃん!」
「そんなの……無理だよ」
「京ちゃんが来ないなら意味無い!」
ヤエは泣いてしまいたかった。せっかくお洒落したのに。せっかくデートだと思ったのに。流星群だって――そこでヤエはハッとした。
「今、何時?」
「え――?」
悲しそうにうつむいていたモンチィが顔を上げる。
「今何時? 流星群があるの八時四十分ぐらいからでしょ?」
「八時二十分だけど――行く?」
モンチィが腕に巻かれたキャラクター物の腕時計を見る。それから、期待と不安が入り混じった顔を上げた。
「その……僕しかいないけど。いやなら、かまわないよ。京ちゃん、いないし」
ヤエはモンチィを見た。
モンチィは睨まれたと思ったのか、目を逸らしす。
一つ年上のはずなのに、気弱なモンチィ。ツンツンの髪の毛に覆われた顔は、サトイモの煮っ転がしを連想させる。着ているトレーナーは京ちゃんのお下がりでカッコ悪い。京ちゃんが着ていた頃はカッコよかったのに、今は駄目だ。
気弱なモンチィは学校でも苛められていると聞く。ヤエの友達も「お兄ちゃんはカッコいいのにね」と言う。
ヤエ自身もそう思う。
「海の方に行こ。ここじゃアパートの明かりでよく見えないわ」
ヤエはモンチィの手を取った。モンチィはびっくりしたようだったが、そっと手を握り返してきた。
◆
「ごめんね」
ヤエは勇気を出して謝った。
アパートから離れると、辺りはすっかり暗くなる。新月である今日は月もない。月という大きな灯りを失った夜空には、他の星々がくっきりと見えた。まるでその煌きが音になって降ってきそうな、そんな夜空だった。
ヤエはモンチィと手を繋ぎ、入り江に向かって歩いていた。
「さっき私、ひどかったよね」
喋ると息が白く濁る。
「ううん。いいよ。京ちゃんいないの本当だし――ヤエちゃん」
「なに?」
「京ちゃんのこと、好き?」
「うん」
ヤエは躊躇せずに答えた。隠す事ではない。逆に、中学生のお兄さんに抱く恋心は誇らしくも思える。
「結婚したいって思う?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく、そうなのかなって」
「思う」
「そっか……」
一時、会話が途切れる。
「じゃあヤエちゃんは僕のお姉ちゃんになるね」
モンチィがいやに明るい声で言った。
「なんで?」
「だって京ちゃんは僕のお兄さんだもん。だから、その奥さんはお姉さんになるんだよ」
「でも私の方が年下よ?」
「だけどそうなるんだって。京ちゃんが言ってた」
「京ちゃん? 京ちゃんと結婚の話なんかしたの?」
「うん……京ちゃんもヤエちゃんのこと、好きだってよ?」
「――本当?」
振り返る。モンチィはニッコリ笑っていた。
「両思いだね」
ヤエは心がキュウキュウ締め付けられるのを感じる。胸が痛い。なのに、ぽかぽか温かい。顔がニヤけるのがわかる。
「私が十六になったら、京ちゃんは十九ね」
「なにそれ」
「知らないの? 女の子って十六になったら結婚できるのよ?」
「へぇ」
「そしたら、私達家族ね」
「家族か……」
モンチィがしみじみと繰り返す。
「私もお母さんと二人だし、モンチィと京ちゃんもお父さんしかいないから、家族になれたならきっと――」
素敵ね――そう言おうと思って振り返ると、モンチィは立ち止まっていた。立ち止まって、来た道を振り返っている。
「モンチィ?」
モンチィは答えない。
「モンチィ――」
その時、ヤエにも聞こえた。モンチィは〝これ〟が聞こていたのだ。だから、振り返った。
アウウウウゥゥゥ……アウウウウゥゥゥ……。
遠くから、犬の鳴き声が木霊してくる。それも一匹じゃない。まるで救急車のサイレンを聞きつけたかのように、たくさんの犬が遠吠えしていた。
「なにこれ」
嫌な予感がしてモンチィにしがみつく。
モンチィは信じられないモノを見るように、夜道の奥を見つめている。
「ねぇ」
モンチィの腕を揺する。しかし反応はない。
「ねぇ!」
アウウウウウウウ――!
ついに十mほどしか離れていない角で、犬が鳴いた。
「逃げて!」
モンチィがヤエの手を引き、走り出す。
「あいつが来た!」
ヤエはモンチィに手を引かれながら走った。後ろから何かかが追って来る気配がする。まだ遠いが〝カリカリ″とアスファルトを金属で引っかくような音が聞こえる。
「狼男?」
ヤエは走りながら、苦しい息の中で訊いた。
「狼男なの? ねぇ! アレって何よ!」
モンチィは振り返らない。今では浜辺の近く、松の防砂林に差しかかっていた。モンチィは無言でヤエの手を引っ張り、黒い松の幹をすり抜けていく。
後ろで「ジャ!」と音がする。
何かが防砂林の砂地の中に入ったのだ。しかし、不思議な事に音はそこで途絶えた。
モンチィに手を引かれとうとう入り江の浜に出る。
海は潮どまりを迎えピタリと止まっていた。波音はささやくほどにしか聞こえない。
「こないぞ」
モンチィは砂浜からキャンプファイヤの燃えさしを拾い、かまえた。
「どこだ……どこ」
逃げなくていいのだろうか、と思う。けれど、すぐに逃げられないのだと気づく。後ろは静まりかえった海。目の前は何かが忍び込んだ松林。夢中で走っていたからとはいえ、良くない場所に逃げ込んでしまった。
「どうするのぉ!」
ヤエは泣き出しそうな声を振り絞った。
「わかんないよ!」
モンチィの声も震えている。
「何でこんなとこ来たのよ。逃げられないじゃん!」
「だって……」
「モンチィのバカ!」
その時、松がザワザワと揺れる風が吹いた。
「ああ……!」
走ったときにゆるんでいたマフラーが風につかまり、海に飛ぶ。風は続き、マフラーはどんどん沖に飛ばされていく。
「お母さんの!」
ヤエはマフラーを追おうとした。だが、モンチィが掴んだ手を離してくれない。
「駄目だよ!」
「でも、お母さんのだから!」
また一段と風が強く吹く。松がザワザワと騒ぐ。
「ああ! ヤエちゃん!」
ヤエはモンチィの手を振り切って海に駆けた。潮が止まった海はまるで鏡の様に張りつめ、夜空の星々を映しこんでいた――その一つ一つの輝きがわかるほど鮮明に。ヤエはその中に割って入った。
十二月の海が、スニーカーに染み、タイツをこして足を襲う。その冷たさといったら、皮膚を突きさすかのよう。
それでもマフラーを追って進む。ヤエが作る波紋が、鏡の海の静寂を壊す。海はどんどん深くなっていく。膝をこえ、スカートまで濡れる。ヤエは一瞬引き返そうかと思った。マフラーまではまだ距離がある。冷たい海の中では、一歩進むごとにガラス片の中で足を動かしているように痛んだ。一歩踏み出すごとに、海は深くなっていく。
星の海を、マフラーがアイスホッケーのパッドのように滑っていく。
「待って……!」
ヤエは腕を振って駆けた。水しぶきが上半身をも濡らす。顔まで跳ね上がってくる。潮の匂いがした。とうとう腰まで海水につかったとき、ヤエの指がマフラーに届く。
良かった……。
今ではプリーツのスカートが海水に持ち上げられ、白い牡丹のように広がっている。服を海水につけてしまった。きっとお母さんには怒られるだろう。それでも、良かった。このマフラーはとても大切なものだから。
……あれ?
ヤエは海を揺らす波紋が落ち着かないことに気づいた。自分はもう立ち止まっているはずなのに……それに、このジャブジャブという音は?
「そんな……!」
振り返ると、そこには二足歩行の獣が立っていた。
ヤエと目が合うと、獣はピタと進行を止める。
「アアアア……!」
獣が大きな口をあけて、まるで窒息しかけた人間のような声を上げる。獣の容姿は犬でもなかったし、猿でもなかった。
何と言い表せばよいのか、ヤエにはわからなかった。強いて言うなら、首までの着ぐるみを着た坊主――そんな感じ。全身毛で覆われているのに、頭だけ禿げているのだ。
「モンチィ……!」
ヤエは海岸を見た。モンチィは倒れている。
でもどうやって近づいたの?
モンチィの声さえ聞こえなかったから、不意打ちだったはず。けれどこんな見晴らしの良い場所でどこから?
風が吹いた。
松がザワザワと揺れ、水面が波立つ。
その時、水面でいくつもの光りが走る。
流星群が始まったのだ。
夜空をシャワーのように流れる星の光。それがヤエを囲む海にもうつりこむ。あたり一面に星が降り始めた。
凍りつくように冷たい十二月の海。星の走る空。ヤエと獣はその狭間で向かい合っていた。
わかった――
獣が向かってくる。その刹那、ヤエは獣がどうやってモンチィを襲ったのかを理解した。
風だ――松の上にいて、風の音に乗じて近づいてきたんだ。
沖に逃げる。けれど海が邪魔して上手く逃げられない。獣はそんなヤエを笑うように「エッ! エッ!」と短い声を漏らした。その声が、どんどん大きくなる。
「ヤダアア!」
右手が物凄い力で掴まれる。ヤエは海から引き抜かれ、宙に浮いた。肩で嫌な音がする。骨が折れたのだろうか? それとも肩から腕の骨が抜けたのだろうか? まだ痛みはやってこない。ヤエは宙を舞いながら一瞬だけ流星群の走る空を見た。
ザブン――頭から凍てつく海に突っ込む。
「イヤアアア!」
ヤエは水面から顔を上げるとあらん限りの力を使って叫んだ。
冷たい。寒い。しかしそれだけではない震えが体中に走る。
何か温かいモノを右腕に感じる。右腕が引き上げられ、そのままヤエの体が浮く。見ると獣の目がすぐそこにあった。鶯の卵の様に乳白色の中に青みがある目玉。醜い顔がヤエの右腕にくっついていた。
「ヤアアアアア!」
獣はヤエの右腕に噛み付いていた。