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黎明の風に告ぐ ~刑事ハル&レイ~  作者: 早川みつき
【chapter2】カサンドラは未来の夢を見るか
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(3)

 さほど広くないオフィスはすっきりと整理されている。薄型ディスプレイに資料がいくつか表示され、机にはファイルが数冊と読みかけらしい書類の束、それにベージュ色のテディベア。ぬいぐるみの熊は市警の紺の制服を着て、机の端に所在なげに座っている。

 アーケイディアは真紅のブラウスを着ているが、深くV字にくれた胸元にはなにも飾られていなかった。ハルはふと、上司の白い肌に映えていたゴールドのリングのペンダントトップは、いつ見なくなったのだろうと考え、首を振った。

 いま考えるべきなのは仕事のことだ。

「カサンドラ・ビジョンの件は明後日までに報告書をあげます。あと少し追加で調べたいことがあるんです」

 その件だろうと思っていたので、ハルは機先を制して言った。

 美人上司は鷹揚にうなずいた。

「早く片づけて、新人くんの育成を頼むわ。早く戦力になってもらわないと。人が増えると仕事も増えるのよねえ」

「新人といえば、しばらくってどのくらいあいつと組んでなきゃいけないんですか?」

 ハルは腕組みをして、机の向こうの椅子にかけた上司を見つめた。

 アーケイディアは軽く首をかしげた。

「じつはね、グリーンウェイが退職したいって言ってきたのよ」

 ハルの有能な同僚、グリーンウェイ捜査官はいま育児休業中で、そのあいだは臨時で助っ人が来るはずだった。だが人員は増えないまま一年が過ぎ、彼女の机はアルジャーノンの遊び場になっていた。そこをいま新人が使っている。

「旦那さんがルナホープに転勤することになって、彼女、悩んだ末についていくことにしたんですって」

「月に? それは悩んだでしょうね」

「ええ。赤ちゃん連れの移住はなかなか大変らしいものね。向こうの市警でも女性捜査官を募集しているから、仕事は続けたいと言っていたわ」

「ルナホープ市警には朗報だな」

「だから、きみとクラークとのコンビは無期限ってことになるわね」

「は? 冗談は勘弁してください」

 ハルは腕組みを解き、上司の机に両手をついて身を乗りだした。

「あいつとは馬が合わない。うまくいきませんよ」

「今日はちゃんとふたりで事件解決できたじゃない」

「まぐれです!」

「謙遜なんていつものきみらしくないわよ、デイビス」

 ハルは机から手を離し、腰に当てた。

「まだFバイザーも使いこなせないヒヨッ子とは聞いてませんでしたが?」

「あれは導入まもない特殊機材で、きみみたいに使いこなしているほうが珍しいの。警察学校じゃデモで見せるだけだもの、大目に見てあげないと」

「百歩譲ってそうだとしても」

 いらだった声で、ハルは言い募る。

「あいつは危険に対する認識と判断が甘い。今日だって、俺が助けてやらなきゃあいつのすかしたスーツはいまごろ散弾でぼろぼろですよ」

「新人を特攻させるきみの判断はどうなの? クラークが負傷でもしていたらきみの責任よ。懲罰ものだわ」

「お手並み拝見、ってやつだったんです。金属弾相手に立ち回りを選択するなんて、誰が思いますか。お荷物もいいところだ」

 アーケイディアはあきれたように息を吐いた。脚を組み替え、膝に片肘を置いて頬杖をつく。

「そうねえ、荷物というより足枷と思って。動き鈍るでしょ?」

 ハルはしばし彼女の美しい緑色の瞳を見つめて、そこにあるはずの深遠な意図を探った。

「……それ、世間じゃ虐待って言いますよ」

「人聞きの悪い。愛の鞭と言いなさい」

「SMプレイの趣味はありません」

「わかったわ、本当のことを教えてあげる。彼はきみの機能制限装置――リミッターよ」

 ハルは上司の顔を見つめたまま、ふたたび腕を組んだ。親指を口元に持っていきそうになり、そっと戻す。

 アーケイディアはふっと目を細めた。

「ばれていないと思った? きみの暴走、認めるわけにはいかないのよ。おとなしくヒヨコを育ててなさい。言っておくけれど、彼をウズラかなにかだと思って侮ると痛い目に遭うわよ」

「……たしかに。じゃあ孔雀かな、大仰な尾羽を振り立てるだけでハーレムができる」

「そういう見方しかできないきみは、声が大きいだけの雄鶏ね。ハル・デイビス、無意味な喧嘩をふっかける前に、夜明けの時刻を知りなさい」

 本題に入るわ、と告げて、アーケイディアは手元の書類とディスプレイに視線を行き来させた。


 ◆


 回収したマシンドールはピュアドールズ社に引き取られ、アーサー・ケントは医療拘置所へ移送された。ジョナサン・ケントは行方不明のままだが、捜索願が出されない限り、市警で行方を捜すことはない。唯一の明るいニュースは、ピュアドールズ社から報奨金が支払われると決まったことだ。

 ダメモトでコーヒー自販機の買い換えを総務課に申請してみるべきか、ハルは思案し、首を振った。成功の見込みのないことにかける時間と労力が惜しい。

 うまいコーヒーを飲みたければ、十UD出して本物を買えばいいのだ。アーケイディアのように、家に本物のコーヒーを常備するのもいいかもしれない。

 ハルは通勤に使っている自転車で署の敷地を出た。まだ太陽は沈んでおらず、ビルのあいだから見える海は青い。自分の車はこのあいだ、追跡した犯人の車両にぶつけてひどく壊した。勤務時間内でも労災保険が下りず、廃車にするしかなかった。運転免許のポイントもかなり引かれ、今度違反すると確実に免停になる。

 リミッターか。

 先ほど上司から言われた言葉を思い返し、ハルは唇を引き結んだ。

 大通りを南に向かう脇に、すっと赤のコンバーチブルが近づいてきた。

「デイビス、健康志向だな」

 運転席から、サングラスをかけた男が呼びかけてくる。

「あんたもな、キング。これからビーチか?」

 ハルはちらりと男に目をやった。年は四十を少し出たところ。顎は角張っているが、容貌は全体に端整な趣だ。日に焼けた肌には細かなしわがある。緑色に染めた髪、アロハシャツに白のショートパンツ、片方の耳だけにダイヤモンドのピアスという外見は、とうてい弁護士には見えない。

「いい天気だからな。仕事なんてしてられるかってところだ。かったるい」

「だったら俺のヤマを踏み荒らすなんて無駄なことをせず、ビーチにこもって波乗りでもしてろよ」

 クリスチャン・キングに事件をつぶされるのは、もう五度目だった。

「おもしろそうな事件だったんでな、担当がおまえさんだし」

「俺はあんたのおもちゃじゃないぞ」

「つれないな。まあいい。アーサー・ケントの尋問は明日の十一時だ。遅刻するなよ。じゃあな」

 コンバーチブルはスピードを上げ、みるみるうちに視界から消えた。

 ハルは誰にともなく毒づいた。

 夕方のセントレア市街の空気はまだ熱い。汗ばんだ体に吹き付ける風は潮を含んでいてべたつくが、不快ではなかった。十分ほどで目的地に着き、自転車を降りる。

 ここはネオ・エルドラドのはずれ、放置された廃ビルが何棟か並ぶ細い路地だ。表の道路は交通量が多いが、路地を少し入ると人通りは絶え、繁華街の一画とは思えない静寂に包まれる。

 ハルは周囲を見まわし、廃ビルの一棟の取り壊しがはじまっているのを確認した。この地域は再開発が決まり、三か月後には大規模な総合スポーツ施設の建設が本格化する。

 カジノ街にスポーツ施設なんてミスマッチだと思うが、市はあまりに享楽的なイメージが定着するのを嫌い、健康的な施設をつくってバランスを取ろうとしているようだ。上層部の考えることは、下々には理解しがたい。

 ハルは蝶番の壊れたドアを押し開けて建物に入り、暗い階段を上がった。二階フロアは窓ガラスがすべて落ち、家具もないがらんとした空間だ。打ちっ放しのコンクリートの床には、不良たちの宴のあとと思われるファストフードの袋やドリンクのボトル、酒瓶やビールの空き缶が無数に転がっている。窓から見えるのは向かいのビルの無表情な壁だけで、日光も直接は入ってこない。

 ここでサイモン・スタージョンの遺体が発見されてから、もう半年になる。当時も廃ビルだったが、壁のスプレーの落書きはさらに厚くなり、床のゴミと埃が増えて、うらさびれた趣がいっそう増していた。

 ハルは部屋の隅の、サイモンのいた場所に行って腰を下ろした。遺体は冷たいコンクリートの壁に背をもたせかけ、閉じきらない薄いブルーの目をぼんやりと正面の壁に向けていた。だらりと床にたらした手のそばには、錠剤の入った小さなボトル。一回一錠が規定のその薬を、サイモンはほとんどひと瓶のんでいた。

 ハルは自分も遺体と同じ姿勢をとって、光を失ったサイモンの目に最後に映っていただろう風景を眺めた。

 出会いは十年前。それから二年、一緒に暮らした。兄とも父親とも慕い、警察官になるという目標をくれた彼の存在がなければ、いまの自分はなかった。

 左手首の古びたダイブウォッチを撫で、ハルは目を閉じる。これは息子の遺体を引き取りに来たサイモンの父親から、形見分けでもらった。息子が警察官になったときに自分が贈ったものだと、父親は泣きはらした目で言いながら、ハルの手首に巻いてくれた。

 最近は遅れが目立ちはじめ、メーカーに修理を頼んだのだが、部品がもうないので無理だと言われた。ハルにはそれが、死者からのメッセージのように思えていた。

 サイモンは遺書を残さずに死んだ。当然だ、彼には自殺するつもりなどなかったのだから。サイモンは誰かにはめられて、巧妙に殺されたのだ。そのからくりを暴いて犯人を逮捕し、サイモンの父親に報告してやりたかった。あなたの息子さんは自殺ではありませんでした、と。

 それは多分に、サイモンの父親のためだけではなく、自分のためでもあった。

 親しい人においていかれるつらさ――死を止められなかった後悔は、いつまでも錆びたナイフのように胸に刺さっていて、折に触れ新鮮な痛みとなってよみがえるのだ。

 恩人の最後の時間を刻んだ時計がいま、自分の人生の残りを報せている。焦りにじりじりする胸をなだめるように、ハルは親指の爪を噛んだ。

 ベルトのDフォームが鳴り、メールの着信を知らせる。ハルはゆっくりと画面を確認する。アーケイディアからだった。

『そこだと思った。言ったはずよ、暴走は許さないと。もう忘れなさい、ハル。死者を安らかに眠らせてあげて』

 GPSで追跡されているらしい。Dフォームと市警察の身分証についているエンブレムには位置発信機能があり、携帯している限りいつでも追跡が可能だった。

 エンブレムは盾をかたどっており、市民を守るという意味がこめられている。捜査官は常にこれをベルトやポケットにとめて携帯する義務があり、休日も携行する規則だ。そもそも捜査官の休日は「待機休日」であり、呼び出しがあれば応じなければならない。

 公務員であるかぎり、勤務時間中に追跡されるのは当然としても、退勤後や休暇中はそっとしておいてほしいものだ。だがそれも、この管理社会では難しい。

 アーケイディアが自分を心配する気持ちも、わからなくはなかった。ハルにとってサイモンがどんな存在だったかを、彼女はよく知っていたから。

 最後に上司の家を訪れたときの記憶が、ハルの脳裏によみがえる。当時はまだサイモンもいて、ふたりは恥ずかしげもなくハルの前でいちゃつきながらコーヒーを飲んでいた。リビングのサイドボードには、ふたりの写真を入れたフレームがいくつも飾ってあった。彼女のオフィスの机の引き出しにもサイモンの写真が入っていたし、おそろいのゴールドのリングをチェーンに通して首にかけていた。

 ふたりは署でも公認の仲で、結婚も秒読みと思われていたのだ。

 それでも、アーケイディアはサイモンの自死を受け入れ、忘れる選択をした。

 ハルは頭を壁にもたせかけ、天井を見た。床や壁ほど汚れてはいないが、打ちっ放しのコンクリートの灰色はただ無表情だ。風が通りにくく、室内は蒸し暑い。こめかみから流れた汗が首筋を伝うのにまかせて、目を閉じて考える。

 カサンドラ・ビジョン。クリスチャン・キング。

 残された時間を思えば、試してみて損はないだろう?

 ハルは目を開け、重い腰を上げた。

「また来るよ、サイモン。次にはいい報告ができるようにする。俺はあきらめないから」

 ジーンズの尻の埃を払い、歩き出す。建物から出ると、正面に止めて盗難防止のチェーンを巻いていたはずの自転車がなくなっていた。

 そうか、人生最悪の日はまだ終わっていなかったのか。

 ハルはうなじを撫でた。ふだんなら悪態を並べ、壁でも蹴って当たり散らすところだが、今日はそんな元気もなかった。ただ顔を上に向け、日が沈んで藍がかかってきた空を眺める。

 移動の足がないとわかると、予定をこなす気力が急激に失せた。幸い、まだ相手に連絡もしていない。今日はよけいなことをせず、おとなしくピザとコーラを買ってアパートメントに帰り、野球中継でも観るべきなのだろう。もっともセントレア・マーリンズはいま九連敗中で、ツキのない自分が応援すると十連敗の泥沼にはまりこみそうな気もした。

「歩くのもだるい。モノレールに乗るか」

 つぶやくと、ふと、走る車両の窓にへばりつくようにして外を見ていた新人の顔が思い出された。海の色の瞳が、まるで遠足に出かける少年のようにきらきらしていた。

 記憶の底から、十五年前の夏の日の光景が浮かびあがってくる。あの年、セントレアを襲ったのは百年に一度の巨大ハリケーンだけではなかった。

 ……少年という生き物は、なぜ乗り物が好きなのだろう? 窓があれば外を眺めて飽きない。視界に現れては消えるさまざまを追い、道路の先に、軌道の果てに、まだ自分の知らない世界が――光に満ちた未来があると信じている。その世界を、未来を、夢を、つかむことのできない可能性なんて塵ほども考えない。

 レイのなかにはまだ、自分がすでに失ってしまった少年のかけらが棲んでいる。それがハルにはひどくうとましく、同時にねたましかった。

 昼間、モノレールに乗ったときに嫌味を言ってレイの目の輝きを消してしまったことに、かすかな罪悪感をおぼえていた。ハルは頭を振ってそれを打ち消す。だいたい、朝一番にあの男と顔を合わせたのが悪運のはじまりだったのだ。レイの身長が自分より五センチほど高く、向かい合うと見下ろされるのも癪だった。

 あんなでかくてかわいくないヒヨコがいるもんか。法の正義とか恥ずかしげもなく口にするような、青臭い理想主義者のお守りをしなければならないなんて、どんな罰ゲームだ。

 ハルはなにに怒っているのか自分でもよくわからないまま、ネオンの看板が鮮やかさを増す黄昏の歓楽街を、憤然と歩きはじめた。


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