(2)
署に戻ると、ハルは三階の総務課に寄って、現場に残してきた車の回収を頼んだ。
「いい加減、あいつをお払い箱にしたらどうだ? 手動運転に切り替えたとき、動かないほうに明日の昼飯をかけてもいい」
なじみの車両担当の職員に言うと、相手は白髪の目立ちはじめた髪を振ってうなずいた。
「署長に言ってやってよ。今日はもう車両死亡報告が三台。署長は日本製の新車に乗ってるからわかんないのよね」
ハルは息を吐く。
「報奨金なんて、もらえたとしても自販機には回らんな。あの泥水以下の液体と一生つきあうのか」
「あんたのごたくはもういいわ。そっちのかわいい子を紹介しなさいよ」
「どこにいるんだ、かわいい子なんて」
ハルはわざとらしく周囲を見まわした。
「白々しい。あんたがセレブのイケメン新人をいたぶってるって、噂になってるよ」
「いたぶってない」
「じゃあ、いじめてる」
「こいつはおとなしくいじめられてるようなタマじゃねーよ」
一歩下がったところに立っている新人を振り返ると、レイはどう反応すべきかと迷っているような顔で、曖昧にほほえんだ。
「頑張ってね、新人くん。まじめにハルに付き合ってると命いくつあっても足りないから、ほどほどにね」
「ありがとうございます、頑張ります」
車両係に投げキッスをされ、レイは悠然と片手をあげて応えた。
気障な野郎だ。いらいらしながら、ハルは階段室に向かう。七階までいっきに駆けのぼって特捜班の島に戻るが、新人は息を乱すこともなくついてきた。優雅な身ごなしで椅子にかけて長い脚を組んだ男を横目で見つつ、ハルは窓際に行った。
ケージの脇にしゃがむと、止まり木にいたアルジャーノンがハルを見上げて首をかしげ、クク、と喉を鳴らした。餌入れにある固形の人工飼料は減っていない。アルジャーノンは三日ほどなら絶食しても平気だが、早く怪我を治してもらうためにも生き餌を手に入れようと、ハルは決意した。
「ウルトラバッドなニュースとアルティメットバッドなニュースと、どっちを先に聞きたい?」
ハルのそばに来たエイミーが、頭上から声をかけてくる。
「一ミクロンでもマシなほうのニュースから頼む」
ハルはエイミーを見もせずに答える。
「アーサー・ケントの弁護士が、彼の尋問は医療拘置所でしろってゴネて認められた」
「マジかよ」
ハルはひとしきり汚い言葉を吐いた。
「精神疾患の気はなかったぞ。脳震盪だってたいしたことなかったはずだ」
「でもさ、ここに来たときにはふらふらで、ろれつが回ってなかったの。ショックパルスくらったせいだろうって」
「俺のせいか」
「まあ、そーなるね」
「俺たちはいきなり違法金属弾で狙われたんだぞ? 下手したら死んでたんだ。反撃するのは当然だろう」
「見た目重視だよ。あんた無傷だし、いかにも暴力刑事っぽい面相だし。あっちは気弱そうで頭に包帯ぐるぐる巻きで、いかにも被害者って感じ? 弁護士の作戦勝ちだね」
「……その弁護士ってもしかして」
ハルは思い切り顔をしかめ、立ち上がった。
「はい、そこでスーパーアルティメットウルトラバッドなニュースです!」
「もういい。聞きたくない」
史上最悪の日だ。アルジャーノンは怪我をするし、新人は生意気だし、逮捕した容疑者の弁護士は〝聖王〟だし。運が悪いにもほどがある。
「現実を直視しなよ、ハル。雄々しく立ち向かえ! われらの天敵、栄えある悪の味方、弁護士クリスチャン・キングに!」
「勘弁しろ。冗談言う気分じゃねー」
エイミーはぽんとハルの肩をたたき、跳ねるような足取りでレイのもとに向かった。
「今日はどうだった? 収穫はあった? ご活躍だったみたいじゃない。ハルに振り回されてただけかもしれないけど」
「今日の収穫ですか?」
レイは考えこむ表情をしてから、にこっと笑った。
「ハイパーアルティメットキュートなエイミーに会えたことかな」
「いや~ん、レイってばほんとに? やだなーあたし惚れられちゃっても困るんだけどぉ――」
柄にもなく身もだえるエイミーの頭をどつき、ハルは「社交辞令に決まってるだろ」と冷たく言ってレイをにらんだ。
「新人、おまえも人を選んで冗談を言えよ。こいつをつけあがらせると、天井突き抜けて銀河の彼方までいっちまうんだから」
「なによハルったら! もっと人の気持ち考えてものを言いなさいよ! だからパトリシアは――」
言いかけて、エイミーははっとしたように口を手で覆った。ごくりと唾をのみこんでから、また口を開く。
「……ハル、主任がね、カサンドラ・ビジョンの件は捜査進んでないならあたしにサポート入れって」
「いや、大丈夫だ。主任に報告しておく」
「りょーかい」
「エイミー、頼みがあるんだが」
ハルは胸ポケットから証拠品パックに入ったフライングアイを出し、掲げてみせた。
「現場に紛れこんでた。どこの社のかはどうせわからんと思うが、いちおう調べてみてくれないか」
「科学捜査班のラボに頼めば?」
「うちの現場のじゃねーんだ」
「あんたまた現場荒らしたの? ベスターにばれたらただじゃすまないよ?」
「奴らも忙しいし、手間を省いてやってるんだ。なんて親切なんだろう、俺」
「親切の押し売りは嫌われるって、あんた見てると納得する」
エイミーはハルの手から証拠品パックを取った。
「たぶんメモリはもう自動消去されてると思うよ。この手のって最近みんなそうだから」
ハルはレイのほうを見た。
「エイミーはこう見えて、スーパーダイナミックなネットスペシャリストなんだ。研修でも教わったと思うが、俺たち一般の捜査員の資格では入れないデータベースもある。連邦政府系とか、麻薬取締局系とか。その場合はウルトラアカデミックでアルティメットスマートなレディ・エイミーに相談しろ。上級資格を持ってるから」
「……あたしのこと、ばかにしてる?」
「褒めてるぞ?」
「あんたと三年も一緒にいると人間不信になるよ」
エイミーは自分の机に戻り、ディスプレイをにらんで作業をはじめた。
「休憩室で昼飯食ってくる」
ハルは誰にともなく無愛想に告げ、オフィスを出た。
◆
いくつか並ぶファストフードの自販機のうち、ハンバーガーを選んで買い、ハルは円テーブルのひとつについた。飲み物はペットボトルのアップルソーダだ。ボトルの自販機は壊れてもせいぜい品物が出てこない程度で被害は少ない。
昼時はとうに過ぎており、二十人ほど入れる休憩室には誰もいなかった。
カサンドラ・ビジョンか。
ハルは眉間にしわを寄せた。一週間ほど前にまかされた事件で、捜査はほとんど終わっていた。あとは落としどころをどうするか決めて報告書を書くだけだ。ただその作業が面倒くさい。非常に。それに、落としどころについては少々考えていることがあった。
休憩室にレイが入ってきて、ハルの向かいの椅子を示した。
「座ってもいいですか?」
「だめだと言ったら帰るのか?」
「……素直にいいって言えばいいのに」
レイは椅子を引いて腰を下ろした。
「カサンドラ・ビジョンって聞いて興味がわいたんで。なにか事件になってるんですか」
「おまえも愛用してるのか」
「まさか! 知り合いが使ってるんですよ」
「へえ、知り合いがねえ」
「ほんとですって」
ハルはアップルソーダのキャップを開け、ひと口飲んだ。
〝カサンドラ・ビジョン〟とは睡眠学習装置の一種で、外観はいかにもなヘルメット状。かぶって眠るあいだに特殊な電波が脳に働きかけ、〝予知夢〟を見られるという、怪しさ満点の商品だ。株式市場や競馬のレースなど、投機的な分野の予想に使うと劇的な的中率が得られるとして、密かなブームを呼んでいる。
「使ってる人間が何人か死んでね」
レイはぎょっとした顔になる。
「商品自体に問題はなかったんだ。睡眠学習の効果は皆無で、看板に偽りありの詐欺商品だという点が問題でなければ、だが」
「睡眠学習効果、ないんですか」
「ああ。ラボで調べてもらった。特殊な電波ってのはただの微弱な赤外線で、効果ゼロ」
そうなんだ、と噛みしめるように言って、レイは椅子に体を沈みこませた。
「で、死因はなんだったんです?」
「薬物の過剰摂取。分析の結果、最近開発された抗うつ剤の新薬と、睡眠導入剤の二種だった。同時に摂取すると〝予知〟の的中率が倍増すると、ワールドネットでまことしやかにささやかれていた。二種とも違法な薬物ではないから、手に入れようと思えば難しくはない。それで、真に受けたバカ野郎どもがさらに効果を高めようと過剰にのんで、あの世へゴーってわけだ」
「なるほど」とうなずき、レイは腕を組んだ。
「おまえも気をつけろよ」
「知り合いに注意しておきます」
ハルはハンバーガーの包装紙を破り、ひと口かじった。
「おいしいですか? 見てるとなんだか腹が減ってくるな」
「ビーチで売ってるサンダルよりはマシって程度だ」
まずいんだ、とレイはつぶやいて立ち上がり、自販機の前に立った。
「そういえば、さっきコインを使ったらコーヒーの自販機が故障しました。先輩、知っててぼくにコインを使わせたでしょう」
「おごるならコインを渡すしかないだろう。IDカードを他人に貸すわけにはいかない」
「警告くらいしてくれてもよかったんじゃないですか?」
「アルジャーノンの仇に情けなぞかけられるか」
レイはチャイニーズヌードルの自販機の前に立ち、いらだった仕草でボタンを押した。
「謝ったでしょう、そのことは。あれは事故だったんだ」
IDカードをスキャナにかざすと、湯がカップに注がれる。しかるべき湯量で止まるはずだが、湯は流れ続けてカップからあふれだした。
「え? どうなってるんですか、これ」
湯がついに取り出し口のドアを突破し、自販機のボディを伝って床に流れ落ちた。レイはしばらく呆然とその様子を眺めた。そしてくるりと体の向きを変えてハルをにらんだ。
「俺は無実だぜ」
ハルは笑わないように努力したが、失敗した。
呼ばれてやってきた総務の職員は女性で、手早く自販機を止めてこぼれた水を拭き取り、礼を言ったレイに特上の笑みを向けて立ち去った。いつも俺に対するのとはえらい違いじゃないか、とハルは内心でむっとしていた。ちょっと顔がよくて金持ちだと、こんなにも周囲の対応が違うものか。わかってはいたが無性に腹が立つ。
だが、と冷静になって考えた。彼と自分との違いは〝ちょっと〟どころではなく、まさに雲泥の差なのだった。顔の出来はおいておくとして、資産は四桁違うかもしれない。そもそも住む世界がかけ離れている。はなから勝負になりはしないのだ。
レイはヌードルをあきらめ、ホットドッグを買ってテーブルに戻ってきた。ハルは食べ終えたハンバーガーの包みを丸め、部屋の隅にあるダストボックスめがけて投げたが、わずかにはずれて入らなかった。
あいかわらずのノーコンぶりだ。舌打ちをしたハルに、レイが訊く。
「クリスチャン・キングがアーサー・ケントの弁護人だっていうのは本当なんですか」
「奴を知ってるのか」
「まあ、名士ですからね」
「名士ね」
嘲りを含んだ声で返し、ハルは続ける。
「奴が絡んでくると、ほとんどの容疑者は無罪放免になっちまう。各種法執行機関に顔がきくんだ」
「本業はネオ・エルドラドで開業してるカジノですよね」
「ああ。弁護士業は趣味みたいなものなんだが、気まぐれに出張ってきては捜査をかき回して去っていく。F5のトルネードみたいに、奴が通った後には残骸さえ残らない」
「アーサー・ケントも釈放ですか」
ハルはテーブルに置いた両手の指を組み合わせ、声を低くして答える。
「医療拘置所送りにして時間を稼ぎ、そのあいだに犯行現場のオフィスをきれいにしてしまう。俺が送った逮捕現場の動画も、通信機器の不備とやらで録画が不完全、証拠能力無しってことになるだろう」
「そんなのって――」
よほど驚いたらしい。レイは食べかけのホットドッグを置き、テーブルに身を乗りだした。
「黙って聞いてろ」と一喝して、ハルは続ける。
「エロ人形とジョナサン・ケントがどう絡んでいるのかはわからんが、いずれにしても捜査は中止の命令が下る。おまえとしては、捜査官になって最初の事件がこんなじゃ後味が悪いだろうがね。〝聖王〟クリスチャン・キングの洗礼だと思って退いておけ」
「……セントレアの闇の帝王ってわけですか。逆らう者は粛正されるって?」
レイの青い目に激しい憤りの炎が揺れ、ハルはふと、五年前の自分を思い出した。
「俺は天涯孤独だからな、どこでのたれ死のうと悲しむ者もない。だがおまえはクラークだ。それをよく考えろよ。聖王は物騒な連中にも顔が利く。下手にかかわると、家族にも塁が及ぶ可能性があるぞ」
ハルは飲みかけのソーダのボトルを手に席を立ち、オフィスに戻った。窓際のケージからアルジャーノンを出してきて、自分の机の上に乗せた。てのひらにソーダを少し出して鼻先に持っていくと、トカゲは赤い舌をちょろりと出しておいしそうに飲んだ。
「うまいか?」
ソーダがなくなると、アルジャーノンはハルの顔を見上げてお代わりを催促した。ハルはてのひらにまた少し出してやる。
トカゲの健康にはよくないのかもしれない。だが、余命はひと月と言われたアルジャーノンだ。いまはおまけの人生。好きなものを食べさせてやりたかった。
「明日、生き餌を仕入れてきてやるからな。やっぱりゴキブリがいいのか? たまにはバッタとかコオロギとかどうだ? クワガタはちょっと硬そうだよな、消化にも悪そうだし。蝶と蛾は柔らかいが、あのでかい翅に栄養はないだろうし、ここで食わせると鱗粉が散るからな……」
ふと目を上げると、向かいの机ではレイが耳を塞いでうつむいていた。
自分も遺言書をつくらないと、とハルは考えた。蓄えなどわずかだが、しかるべき額をアルジャーノンの信託財産にして、世話をしてくれる人に譲ると明記しておこう。
アルジャーノンは証拠品の扱いなので、署内でしか飼うことを許されていない。もっとも自宅に連れ帰るよりここのほうが、自分が世話をできないときに誰かに頼めるので、都合がよかった。自分がいなくなっても、おそらく署のみんなで世話をしてくれるだろう。
外から戻ってきたディックが、受付から預かってきたと言って広口のペットボトルを差し出した。
「パトロール課の連中が、公園でつかまえてくれたんだとさ」
空気穴をあけたペットボトルには、バッタが十匹ほど入っている。
「よかった、どこで調達しようか考えてたところだった」
「わたしもこの週末は息子と会う予定だから、一緒にとってきてやるよ」
「親子水入らずの時間だろう。気づかいはありがたいが――」
「いいって。息子も昆虫は大好きだ。親子で楽しく採集するさ」
バッタを見たアルジャーノンがボトルにかじりついてきたので、ハルは一匹取り出して与えた。
「このボトルはなかなかいいな。もうひとつつくっておくか……」
ふと前の机を見ると、レイは耐えられなくなったらしく、姿を消していた。
ケージにアルジャーノンを戻してから、ハルはしばし窓の外を眺めた。建物の向こうに見える海は青く、日が沈むまでにはまだ時間がある。
目を細めてこれからのことを考えるうちに、無意識に爪を噛んでいたことに気づく。ハルは濡れた爪をジーンズの腿でぬぐった。癖というものは容易にはなくならない。唇を引き結び、窓に背を向けた。机に戻って書類をつくり、暗号の署名を付してネットワークのアーケイディアのエリアに送る。これで彼女のDフォームには、自動的に書類受領の通知が届くはずだ。
時刻は午後五時になっていた。書類仕事がまだ残ってはいるが、残業をしてまで書類を書く気はなく、立ち上がったところにレイが戻ってきた。
「主任が先輩に話があるそうですよ」
まだ机に置いてあったDフォームのバイブ音が鳴り、アーケイディアからの呼び出しを知らせた。Dフォームは体から一定の距離をおくと、着信報知が自動的にバイブ音に切り替わる。
「おまえも呼び出されてたのか」
「ええ」
昆虫話に耐えられなくなったわけじゃなかったのか。少し残念に思いながら、ハルはオフィスの出入口のほうへ首を傾けてみせた。
「退勤時間だ。今日はもう帰っていいぞ」
レイは机で仕事をしているディックとエイミーのほうをうかがった。
「新人に手伝えることはまだない」
ハルはきっぱりと言い、アーケイディアのオフィスへ足を向けた。背中からエイミーの声が聞こえてくる。
「そーよ、気にしないで。今日は疲れたでしょ、帰ってごはん食べて寝るといいよ」
「また明日な、レイ」とディック。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お先に失礼します」
新人は礼儀正しく答えた。
理由の定かでないいらだちをおぼえながら、ハルは上司のオフィスのドアを開けた。