(6)
そのビルは、メイドカフェが入っている建物と路地を隔てた向かいにあった。コンクリートの外壁は薄汚れていて、十階あるフロアは一階と三階が入居者募集中。ケントの兄のオフィスは二階だ。
レイとハルは足音を忍ばせて非常階段をのぼった。
「奥の部屋に人型の熱源が二体。どうやら手前がエロ人形らしいな、体表の温度分布が均一だ」
フロアの入口から赤外線スキャナーで確認して、ハルは低い声で伝えた。
「アリスと呼んでくださいよ。エロ人形って言われると救出する気力が半減します」
「相手はマシンだぞ? 救出じゃなく回収と言え」
ハルは幾度か素早くまばたきをしてから毒づいた。
「くそ、やっぱり相当模様替えしてるな、データと合わねぇ」
Fバイザーに投射した建物内の見取り図は使えないらしい。ハルは簡単にFバイザーを操っているが、多機能であるだけに操作は複雑で、使いこなすにはかなりの熟練が必要だ。自分も練習を積んで早く認定試験を受けようと、レイは決意する。
「武器はありそうですか?」
「感知できる範囲にはない」
「だったら行ってみましょう。敵はケントだけのようだし」
レイは先に立って、奥の部屋へと廊下を歩いた。オフィスとはいっても、従業員らしい人影は皆無だ。ペーパーカンパニーなのだろう。グレーのスチールドアの横に壁を背にして立ち、レイは深呼吸をしてから腕を伸ばしてドアをノックした。
「誰だ?」と、驚きを含んだ声が応じる。
「セントレア市警察の者だ。ジョナサン・ケントだな? 話がある」
ドアの向こうに沈黙が落ちた。
宅配便ですとか、ピザ屋の配達ですとか答えるべきだったかもしれないと考えながら、レイは待った。じきに、ひそひそと話す声がなかで聞こえた。独り言か、あるいはアリスと相談でもしているのだろうか?
「エロ人形ごときのくせにセンサー使うとか、生意気な」と、ドアの向こうの壁際にしゃがみこんでいるハルが悔しそうに言う。Fバイザーに組みこまれた音声増幅機能で室内の音声を聞いているのだ。
「そこにふたりいるのはわかってるぞ! 人違いだ、わたしはジョナサン・ケントじゃない。帰ってくれ!」
室内からの声には切迫した調子があり、レイは努めて穏やかに返す。
「武器は持っていない、ただ話をしたいだけだ。入ってもいいか?」
「帰れと言ってるだろう! わたしはジョナサン・ケントじゃない、令状がなければ逮捕はできないはずだ」
「そのとおりだ。だからジョナサン、きみが出頭してくれ。アリスを傷つけていないいまなら罪も軽い。初犯だから執行猶予で済むかもしれない」
ためらう気配がした。
開けるぞ、と静かに言って、レイはドアノブを回した。鍵はかかっていない。ドアを押し、十センチほど開いた隙間からなかをうかがう。
百平方メートルはありそうな広い部屋だった。奥の壁際にキングサイズのベッドが据えられ、手前にはソファが数脚とローテーブル。横手の壁際に据えられた長い衣装かけには、ハンガーに吊られた女物の服がずらりと並ぶ。その反対側はドアの陰になっており、ケントとアリスはそちらにいるらしく、姿を確認できない。
レイは向かいにしゃがんでいるハルと目を見交わした。
ハルの唇が〝行け〟と動いた。レイはうなずき、ドアを大きく押し開けて、部屋のなかに体をすべりこませた。両手を挙げ、武器がないことを示しながら、さっき死角になっていた場所に顔を向ける。
ステージを模しているらしく、直径三メートルほどの半円形の低い壇が壁からせり出し、その壇の上にアリスが立っていた。紺色のメイド服姿の彼女は清楚な美しさで、おのずから光を発しているかのようなオーラが感じられる。サファイア色の瞳の焦点がレイに合った瞬間、無機質なアクリルの眼球に命の灯がともったように錯覚して、レイは思わずどきりとした。そのせいで、アリスの後ろに隠れるように立っている男を認識するのが遅れた。
……ジョナサン・ケントじゃない。
唖然として、レイは思わず挙げていた両手を下ろした。これはどういうことだ?
「アリス、そいつはわたしたちの仲を裂こうとしている! 戦闘準備だ!」
男がアリスの肩越しに叫んだ。
「はい、ご主人さま。承知いたしました」
アリスは無表情に言い、白いエプロンの下から手を引き出した。ほっそりした手に握られている無骨な金属の筒を見て、レイは青ざめた。
「ショットガンですよ、あれ。武器はないって言ったじゃないですか!」
ドアの向こうにかがんでこちらをうかがっているハルに、小声で叫んで抗議する。
「感知できる範囲にはと言ったんだ!」
ハルが焦ったように返し、「ショットガン? 金属弾かよ」とつぶやく。
「本気でヤバイです、先輩」
「頑張れ新人、おまえの口のうまさを最大限に有効活用するんだ。そして隙を見て逃げろ!」
無茶だ、と思ったものの、ハルの前でみっともない姿をさらしたくはなかった。
「アリス、ぼくは敵じゃない、きみを助けに来たんだ!」
「助けに来た? あなたは何者ですか?」
「惑わされるな、アリス! そいつはわたしたちの敵だ!」と中年男がアリスの背後から叫ぶ。
「わかりました、ご主人さま」
ショットガンを握ったアリスの両手があがり、銃口がレイに向けられる。サファイア色の瞳がきらりと光る。
「あなたは敵です」
……ものすごくヤバイ。冷たい汗が背中を伝うのを感じたが、レイは狼狽を顔には出さなかった。虚勢を張って表面を取り繕うのには、子供のころから慣れていた。
「違う! きみの味方だ」
アリスの表情は動かない。構えたショットガンの銃口がかすかに揺らぐ。
「あなたは誰ですか?」
「セントレア市警察の刑事だ。武器を捨てろ、アリス!」
――そして場面は冒頭に戻る。
◆
結局、レイの説得は失敗し、事件はジョナサン・ケントの自演だというハルの推理もはずれていたが、アリスを無傷で回収することはできた。〝終わりよければ〟だなと、レイは心のなかで安堵の息を吐いた。
ハルが床に伸びている男の指紋をスキャンしてデータベースにかけたところ、オフィスの借り主であるジョナサンの兄と確認できた。男が携帯していたIDカードの情報と合致する。
「起きろこら、アーサー・ケント」
男は何度かハルに腹を蹴られて、ようやく意識を取り戻した。まだショックパルスの影響で動けない男に、ハルは規則にのっとって容疑者の権利を聞かせた。Dフォームで呼び出した権利の条項が、味けのないAIの声音で読み上げられる。それが終わると、ハルは男に訊いた。
「権利は聞いたよな? 了解したならイエスと言え。規則で、記録しておかないとならないんだ」
「弁護士を……」
「イエスかノーかで答えろ」
髪をつかまれて頭を揺さぶられ、男は半泣きになった。
「うう、頭が割れる……」
「俺が聞きたいのは泣き言じゃない。答えだ。イエスだろ?」
「……イエス」
ひどい誘導尋問だ。アーケイディアに言われた言葉を、レイは思い返した。この男から学ぶべき〝いろいろ〟に、「規則の柔軟な適用」という項目があるのは間違いない。
「いや、やはり反面教師なのか?」と、レイはため息まじりにつぶやく。
釈然としないが、四時間にも満たないうちにとりあえず事件を解決したハルの手際は、認めざるを得なかった。
それにしても、ジョナサンはどこへ消えたのだろう? アーサーを署に連行すれば、供述で明らかになるだろうか。もしジョナサンが兄に脅されてアリスの窃盗に協力していただけなら、ピュアドールズ社からの報奨金は出るのか?
ぼんやりと考えながら、レイはマシンドールを横抱きにして建物を出た。後ろからハルが、アーサーを半ば引きずるようにしてついてくる。
路地には、応援要請で駆けつけてきた派手な青いパトロールカーが止まっていた。レイがその後部座席にマシンドールを乗せたところへ、横に真新しい黒のセダンが乗りつけ、マッキンタイア署長が腹を揺すりながら下りてきた。
「おお、ご苦労だったね、クラーク。アリスは無事かい?」
「ええ、五体満足ですよ」
貞操はわかりませんが、とレイは心のなかでつけ加える。それにしても、署長自ら現場にご降臨とは、それほど報奨金が欲しいのか。
「それはなにより、うん、よかったよかった」
マシンドールを点検する署長を横目でうかがいながら、レイはドライバーの警官にアリスを署へ運ぶよう頼み、ハルに近づいた。
ハルが自分たちの乗ってきた白い車にアーサーを押しこむと、腹の出かけた中年男は情けない顔でうめいた。
「頭が痛い……」
「気の毒に。ショックパルスをくらって倒れたときに、脳震盪を起こしたのかもな。署に着いて幸運にもドクターがいたら診てもらえるかもしれないぞ」
同情のかけらもない口調で言い、ハルは中年男を、容疑者を連行するときに使う拘束フックで座席に固定した。
「ちくしょう、告訴してやる。これは誤認逮捕だ」
「くそったれが。捜査官に金属散弾を五発もぶっ放しておいて、なにほざいてやがる」
「撃ったのはアリスだ」
「おまえが指示したんだろう。記録してあるから言い逃れをしても無駄だぞ。弟はどこへ行ったんだ? アリスを盗んだ主犯はおまえか?」
ハルは中年男の胸ぐらをつかんで容赦なく締め上げた。レイは耐ショックパルスベストを脱いで乱れた服を整えながら、ハルを止めるべきかどうか考える。
「わ、わたしは善良な市民だぞ。弁護士もいないのにこんな暴力聴取が許されていいのか?」
「善良な市民が純粋無垢なメイドをたぶらかしたり、清廉な法執行人たる捜査官を殺そうとしたりするかよ」
純粋無垢なメイドって誰。いやそれより、清廉な法執行人ってもしかしてあなたのことですかとレイがもう少しで訊きそうになったとき。
隣のビルの裏口から、頭のはげかけた中年男が路地に走り出てきた。
「誰か救急車を! いや、警察を呼んでくれ! ひ、人が死んでる!」