(6)
取調室から引きずり出された直後に、署長から命じられたという医務官がやってきて、ハルは問答無用で鎮静剤を打たれた。強制供述が避けられないなら、暴れるべきではなかったのだ。まだ拘束衣のほうがましだったと歯噛みしたが、あとの祭りだ。
自殺の暗示のことをレイに警告しなければならない。あいつの手も、声も届かないところに逃げろと、レイに伝えてくれ。誰にもそう言えないまま、意識が闇にのみこまれた。
次に目覚めたときはすでに、医療拘置所の処置室にいた。尋問用のシートはリクライニング式で、背もたれの斜度が小さく、ベッドで仰向けになっているような感覚だ。手足はベルトでシートに固定され、はだけられた胸元にバイタルモニターのパッチが貼り付けられている。壁際に据えられたシステムのウィンドウにバイタルや脳波のデータが反映され、記録カメラの画面には、額とこめかみにいくつか脳波のモニターパッチを貼られた自分の姿が見えた。
強制供述の準備はすでに整っていた。
この状況はかなりやばい。必死にもがいたが、そもそも鎮静剤が抜けきっていないので力が入らず、シートに縛りつけられた体はハルをあざ笑うかのようにがんとして動かない。被疑者の強制供述に立ち合ったことは何度かあったが、自分がされる立場になってはじめて、人権無視な制度だと思い知った。
モニターのデータでハルが目覚めたことを知ったのだろう。処置室のスライドドアが開き、クリスチャン・キングが入ってきた。後ろにはブランドン・ベスターが続いている。
「市警側の立ち合い人だ」と、キングが説明した。
ベスターのあとから医師の制服を着た中年男と男性看護師が入ってきて、ドアが閉まった。医師はスコットという医療拘置所の専任精神科医で、ハルは顔を見たことがある程度でなじみはない。
「ドクター・バロウズは事件当事者だから担当はできない。安心だろう?」
シートの脇に立ったキングが、冷たい目で見下ろしてくる。
「安心ってのは解剖台のカエルみたいな気分のことを言うのか? ベスター、ちょっと来い!」
ベスターが腕組みをして、のっそりとハルに近づいてくる。いけすかない野郎でも、いま頼れるのはただこの男だけだ。
「頼みがある、ベスター。耳を貸せ」
「弁護人に言えよ、おやさしい聖王さまに」
ベスターは顎でキングのほうを示す。
「そいつは仲間じゃない。おまえだから頼むんだ。レイに伝えてほしいことが――」
「クラークならゲートに来てたぞ。奴とすかしたバイクが受付のモニターに写ってた」
「なんだって?」
「もめてたようだぜ。特捜班の連中はいま立ち入り禁止だからな」
「始めさせてもらいたいんだけど? ぼくも暇じゃないんだよね」
スコット医師が嫌味っぽく言い、看護師を手招きして薬品や注射器の載ったワゴンを持ってこさせた。
いかにも面倒だと言いたげな中年医師の顔を見上げて、ハルは懇願した。
「先生、俺は同意してないんだ! 頼む、やめさせてくれ!」
医師がキングを見る。
「こう言ってるけど、いいの? 強制供述を拒むケースってはじめてなんだけど」
「やってください。書類はそろってる」
「あとで証人で裁判に呼び出されたりするのは勘弁だよ?」
肩をすくめて、医師は手にしたボードの書類を一瞥した。
「ハル・デイジー・デイビス、要請により薬物投与による供述の強制を開始する」
頭上で、感情のない声が宣言した。
「俺は要請なんかしていない!」
医師はとりあわず、壁際のシステムに目をやって、おざなりにモニターの数値を確認した。看護師から渡されたセンサー式の注射器の底面を、むきだしで固定されているハルの肘の内側に近づける。
「ちょっと待ってくれ! 言わなきゃならないことが――」
そのとき、ドアの向こうに慌ただしい気配がした。
「なんだ?」
医師が手を止め、けげんな顔をドアへ向ける。
スライドドアが開いて処置室に入ってきた人物を見ると、キングが露骨に眉をひそめ、肩を怒らせた。
「バロウズ、きみの立ち合いは認められないな」と、不愉快そうにスコット医師が言った。
バロウズの隣に立つマッキンタイア署長がにっこりして答える。
「わたしが特別に許可したんです。邪魔はいたしませんよ、ドクター・スコット。署員の供述に興味があって立ち合うだけですからね」
署長が腹を揺すりながらシートに近づいてきて、ハルを見下ろした。市警の青い制服の胸には、盾をデザインした金のエンブレムが誇らしげに輝いている。
「なにしろ……重大な事件なので。わたしの監督責任も問われますからねえ」
凍るような目で見つめられ、ハルは息をのんだ。
「きみがバロウズを殺していないなら、そう正直に言えばいい。あくまで隠し続けて捜査を攪乱すれば、真犯人をむざむざと逃走させることになるからね?」
「依頼人を脅さないでもらえるかな」
キングが無愛想に遮る。
「正直に言うための強制供述だ。まったくすばらしい制度だと思わないか、マッキンタイア?」
「なにが目的なんだ、キング? こんな下っ端の刑事ひとりのために――」
「喧嘩は外でやってくれないか? 邪魔だし時間の無駄だから」
にらみ合うふたりの男を、注射器を手にしたスコット医師が大儀そうに押しのけた。
「だいたいさ、なんで喧嘩してるわけ? ふたりともこの男は無実だと思ってるんでしょ? 利害一致してるじゃない。さっさと済ませようよ」
強制供述で、自分の無実は証明される。その後の光景が、一瞬でハルの頭をめぐった。
俺はまた大事な人が死ぬのを止められず、悔恨の海に溺れるのか。親父、おふくろ、弟、サイモン、主任。……レイ。
自分のせいだった。十五年前に消えていたはずの命を、いまさら惜しんだ結果がこれだ。いや、恩人の仇討ちなんて勝手な自己満足を追求しなければ、レイを巻きこむことはなかったのだ。
生きていてはいけなかった。夢を見る資格はなかった。
注射器の底面が皮膚に当たる冷たい感触。数秒後にはセンサーが静脈を探し当てて針を突き刺し、薬剤が注入される。
ハルはかたく目を閉じた。
「待て、スコット!」
鋭い声が響いた。注射器が離れたのを感じ、ハルははっと目を開ける。バロウズ医師が同僚の手首を握り、険しいまなざしを注射器からスコットの顔へと移した。
「いつも使っているものとアンプルの形状が違う。仕様の変更があったとは聞いていないが」
「そうか?」
スコット医師は注射器にセットされたアンプルを眺め、眉をひそめて看護師に顔を向けた。
「これ、いつものと違うの?」
「おまえ、自分で確認していないのか」
バロウズが声を荒らげ、さっと看護師のほうを見る。
「ラベルを貼り替えたな? 中身はなんだ?」
看護師は顔に狼狽の色を浮かべて首を振り、ドアのほうへ後ずさった。
「わ、わたしはなにも……」
さっと身をひるがえしてドアを開け放ち、廊下に駆けだす。
「待て!」
捜査官としての本能か、ベスターが猛然と追いかけていく。唖然として見送るスコット医師の手から、バロウズが注射器を取りあげて署長をにらんだ。
「デイビスを殺すつもりだったんですか?」
「わたしはなにも知らないよ」
「あなたという人は――」
バロウズの言葉はそこで途切れた。署長の手に握られた銃からショックパルスが放たれ、医師の体がぐらりとかしいで、シートの上のハルに覆いかぶさるように倒れこむ。悲鳴をあげてドアに向かおうとしたスコット医師の背に一発、続いて、壁の警報装置に指をかけたキングの背に一発。まばたきするほどのあいだに三人を倒した署長は、ドアを閉めてため息とともに言った。
「とんだハプニングだ。筋書きを書き換えないとならないじゃないか」
「いったい何人殺す気だ!」
私用の携帯端末で誰かに電話をかけるマッキンタイアに、ハルは怒鳴った。
「きみだけ死んでくれれば、それでよかったんだけどねえ。バロウズが変に患者思いだから。そもそもキングが出しゃばってきたのが誤算だったよね」
電話の相手になにか話しながら、マッキンタイアはハルのそばに歩み寄り、医師の体を床にずり落とした。電話を終えて携帯端末をポケットに入れ、ハルの腕をシートに縛りつけていたベルトを解きはじめる。
「もうひと働きしてもらおうか、デイビス」
ドアががらりと開き、ベスターが飛びこんできた。
「署長、看護師の野郎が……」
「ベスター、逃げろ!」
ハルが叫ぶのと、マッキンタイアのショックパルス弾がはじけるのは同時だった。胸に弾を受けたベスターは背を壁に打ちつけ、そのままずるずると腰を落とす。
「署長、これは……」
ベスターはあえぎながら言葉を絞り出した。耐ショックパルスベストのおかげで威力が半減され、気絶は免れたものの、全身が麻痺している。
「ああ、あの看護師は屋上から飛び下りちゃったでしょ。そういうふうに命令したからね。ベスター、きみはもっと刑事らしい死に方がいいよね? 殉職すれば二階級特進だし」
「どういうことだ……武器は入口で警備員に預けるはずだ」
「わたしはセントレア市警察署長だよ? この部屋の監視カメラもね、今日は作動していないんだ」
マッキンタイアは無表情に言って、ベルトにつけていた装備品の手錠を取り、シートから解放したハルの両手首にかけた。それから脚と胴を拘束していたベルトを解き、立つようにハルを促した。
バロウズ医師の手から離れ、床に落ちていた注射器を示す。
「それを拾って。まずベスターに打つんだ」
「……なんの薬だ?」
死に至る種類のものなのは間違いなかった。自分がおとなしく打たれていればよかったのだ。立ち尽くすハルに、マッキンタイアが淡々と告げる。
「知る必要はない。早く従わないとクラークに電話をするよ? かわいい後輩を死なせたくないでしょ?」
鎮静剤が残る体は重く、ハルはふらつきながらもなんとか注射器を拾って、壁際にぐったりと座りこんだままのベスターに近づいた。顔を見れば罵り合う、犬猿の仲の同僚のそばにしゃがみこむ。
「すまない、ベスター。許してくれ」
ベスターはあきらめたように笑った。
「いいさ。十五年前になくしていたかもしれない命だ。おまえにやるよ、〝デイジー〟」
見交わすまなざしが、互いのなかに少年の日の己を見いだす。ふたりは幼稚園生のころから犬猿の仲だった。
「おまえに助けられたなんて認めたくなかったけど。おまえが爆弾の破片を受けてくれたおかげで、俺が無傷だった事実は変わらない」
ハルは無言で、手錠で繋がれた手の片方に持った注射器を振り上げる。目を細め、ベスターの顔を見つめた。
「レイを頼む。あいつを死なせないでくれ」
注射器を、自分の首筋に押しあてた。