(5)
会議室を出たレイは、特捜班の自分の机に寄って必要なものを取り、走って階段室に向かった。三段抜かしで駆け下りるあいだに電話をかける。
「お父さん、頼みがあります」
切迫した調子が伝わったのか、サイラス・クラークは会議中だったにもかかわらず、内容を聞くと、すぐに折り返すと言って通話を切った。
レイは地下駐車場に飛びこんだ。ゆうべは班のメンバーと飲みに行ったので、バイクは駐車場に置いたままだった。マッハ・ダイナスティはいつものスペースで静かにまどろんでいた。
「ヘルヴァ!」
呼ぶと、たちまち目覚めてテールランプが光り、車体全体に命がみなぎる。
《こんにちは、マスター》
透明なアルトの声は、すでにレイの耳にAIを超えたものとして聞こえていた。彼はバイクに走り寄り、ひらりと座席にまたがった。
「ヘルヴァ、ゆうべ先輩からなにかデータを託されただろう。それを渡してくれ」
ハルが主任の家で言っていた〝信頼できる人〟とは、ヘルヴァしか思いつかなかった。そして、ルナホープに行くつもりだったハルが、なんの保険もかけずにアーケイディアの家に乗りこんだとは考えられない。秘密のファイル自体ははったりではなく、存在しているはずだ。
レイはフォロディスクをバイクのコントロールパネルのスロットに押しこんだ。
「これにコピーして、オリジナルは消去しろ」
《マスター、申し訳ありませんがお渡しできません》
涼やかな声のヘルヴァの返答に、彼は耳を疑った。
「ぼくの命令が最優先のはずだぞ。渡せ」
やはりファイル自体はあったのだとうなずきながら、レイは厳しい口調で言う。
《マスターにお渡しすればマスターの命が危険にさらされると、ミスター・デイビスから警告されています。マスターの生命を守るほうが、命令を守ることより優先します。ミスター・デイビスが亡くなったときにのみ定められた場所に送ると、わたしは約束しました》
「約束? 命じられたんじゃないのか」
《信頼に基づく依頼は、命令ではなく約束なのだとミスター・デイビスがおっしゃいました。わたしは友達で、信頼しているから頼むのだと。信頼には応えなければなりません》
いかにもハルらしい。レイは笑い、首を振った。こんなふうに本気でAIに教える人がどこにいるだろう?
「わかった。おまえの意志は尊重する。だがぼくは先輩がおまえに託したファイルの中身をほぼ知っているんだ。ぼくの上司、アーケイディア・バロウズと兄のカイル・バロウズについてのことだ。つまり、ぼくの命はすでに危険にさらされている。おまえがファイルをぼくに渡しても、先輩との約束を守らなかったことにはならない」
AIは考えこむような間ののちに、また涼やかな声で言った。
《マスター、それは詭弁というものではありませんか?》
案外手ごわい。レイは顔をしかめた。誰だ、こいつをプログラムしたのは。
「くそったれが、先輩の命がかかってるんだよ。つべこべ言わずに渡せ! コピーはぼくの個人端末か? クラーク・グループのネットワークに隠したのか? あるいはネット上のストレージか? 全部消去の指令を出せ!」
《ミスター・デイビスのお命が危険なのですか?》
「そうだ。いま先輩は悪人どもにとらわれて拷問されている。助け出すためにそのファイルが必要なんだ」
まるっきり嘘というわけでもない。ヘルヴァは数秒の間をおいてから、ファイルをフォロディスクに書きこんだ。レイはコントロールパネルを軽くたたいた。
「ありがとう、ヘルヴァ」
《ミスター・デイビスのお命を守るほうが、約束より優先します。オリジナルを消去しました。コピーの指示は受けていませんでした》
ハルは何千もあると言っていたが、そちらははったりだったらしい。ファイルの中身を一瞥し、レイは唇を噛んでいっとき考える。やがてスロットからフォロディスクを吐き出させ、胸ポケットに落としこんだ。
「先輩になにかあったとき、このファイルを送るよう指示されていた場所とはどこだ?」
ヘルヴァの答えを聞き、また考えているときに父親から連絡が入った。要求した答えとデータを受け取り、レイが感謝を口にすると、父親がからかうように言った。
「ひとつ貸しだぞ、レイモンド」
「このあいだカサンドラ・ビジョンのことを教えてあげたでしょう。これでイーブンですよ」
父親は笑った。
「またいつでも頼ってくれ。……気をつけてな」
「はい、お父さん」
そう答えるのに、ためらいはなかった。レイはFバイザーを調整して装着し、ヘルヴァに命じた。
「手動ガソリン走行、速度リミッターを解除」
スロットルを開け、エンジン音を響かせながら地下駐車場のスロープを駆け上がる。
《マスター、ヘルメットの不着用で減点一、市内ガソリン走行違反で減点五です。そのうえ速度違反をすると確実に免許停止になります》
「道交法と先輩の命とどっちが大事だ?」
《ミスター・デイビスのお命です。以後、道交法に関する警告はいたしません》
ためらいなく答えるヘルヴァに、レイはにやりとする。いいプログラムだ。さすが祖母の手になるだけのことはある。
ハルと一緒に見送った流星の軌跡が脳裏をよぎったが、寂しさは感じなかった。大好きだった祖母、メアリー・デイジーの息づかいは、ヘルヴァのなかにたしかに感じられた。
《マスター、遅くなりましたが、ミスター・デイビスからの伝言をお伝えします》
午後のまだ強い日差しのなか、本署の敷地を出て大通りに入ったところで、ヘルヴァが告げた。
「伝言?」
《〝俺のことは、以後ハルと呼べ〟とのことでした》
一瞬、なにを言われているかわからなかった。なぜこのタイミングなのだろう?
「どういう流れでそうなるんだ? その伝言はいつ受けたんだ」
《昨夜二十三時二十二分、ミスター・デイビスがわたしのところにいらしたときです》
ハルがアーケイディアを訪ねたとされる時刻の少し前だ。スポーツバーでのハルはいつもと変わらない様子で、コーラを片手にマーリンズを応援していた。その後、疲れているからと、ディックの家での二次会には行かずに帰っていた。
《先ほどマスターにお渡ししたファイルを、わたしに託されたあとでした》
レイは前方をにらみ、アクセルをふかす。Fバイザー内側のスクリーンによるルート表示では、あと数分で目的地に着く。近隣の住民から警察に苦情が行って追跡されるかもしれないが、そのときはそのときだ。
「記録を再生しろ」
鋭い口調の命令に従い、ヘルヴァはハルとの会話を再生した。
『なあ、ヘルヴァ』
マッハ・ダイナスティのAIと連動させたFバイザーのスピーカーから、ハルの声が流れてくる。スクリーンには、バイクのコントロールパネルに組みこまれたカメラが撮った画像が投影される。
ハルは駐車場でバイクに腰をもたせかけ、まるで友人にするように話しかけていた。
『そのファイルを送ったあとで、レイに伝えてくれ。最後におまえと組めて楽しかった、って』
すっかりなじんだはずの低くて少しざらついた声が、ひどくなつかしく、そして遠くに聞こえた。
これはハルの遺言だった。
《承知しました。あなたが亡くなって、お預かりしたファイルをご指定のところにお送りしたら、マスターに伝えます。しかしそのようなことは、死ぬ前にご自分でマスターに伝えるべきではないのですか?》
『生意気な。どっからそういうせりふが出てくるんだ、AIのくせに……と、これは侮辱じゃないぞ。褒めてるんだ』
ハルは軽くバイクの座席をたたいた。
『自分の口からなんて、恥ずかしくて言えるかよ。おまえにだから頼むんだ』
《それは〝約束〟ですね。必ずマスターにお伝えします》
覚えが早いなと、ハルは笑った。
『認めるよ、おまえは最高だ。だがジョークはもう少し勉強が必要だぞ。レイがなんと言おうと、上品なジョークなんてジョークじゃないからな?』
じゃあ、と手を振って離れようとしたハルに、ヘルヴァは呼びかける。
《また笑っていただけるネタを探しておきます、ミスター・デイビス》
『ああ、楽しみにしてる。それとヘルヴァ、俺のことはハルと呼んでくれ。ミスター・デイビスと呼ばれると、どうも背中がむずむずする』
《承知しました、ミスター・ハル》
『〝ミスター〟はつくのか』
《親しき仲にも礼儀ありと、ミセス・メアリー・デイジーに教えられています》
律儀な奴とつぶやいて首をひねり、しばらく考えてから、ハルはまた口を開いた。
『ヘルヴァ、もうひとつ、レイに伝えてくれないか』
《承ります》
『俺のことは、以後ハルと呼べ、と』
《これもあなたが亡くなったあとに伝えるのですか?》
『あほか。死んでから呼ばれたって答えらんねーだろ。そうだな、明日の朝、レイに会ったときにでも伝えてくれ』
《しかし、そのようなことはご自分でマスターに――》
『自分で言えるならおまえに頼んだりしねーんだよ。じゃあな』
ぽんとひとつ座面をたたき、ハルはバイクから離れて、カメラの視界から消えた。
どこまでもひねくれた人だな。画像が消えると、レイは苦笑した。これはヘルヴァと同列に、友人と認めてもらったということなのか。あるいはFバイザーの支給を受けたことでヒヨッ子から相棒に昇格したということか。
どちらにせよ、ひとつはっきりしたことがあった。死の予感はあったかもしれないが、ハルにはやはり死ぬつもりなど毛頭なかったのだ。
昨夜までは。
バイクは高級アパートメントが建ち並ぶ住宅街に入っていた。最初の目的地はもうすぐだ。
《マスター、約束してください》
ヘルヴァの声が、心なしか不安げに聞こえた。
《必ずミスター・デイビスを無事に助け出してくださると》
約束は、信頼に基づく依頼だ。
「友達だからな。ヘルヴァ、おまえも一緒に行くんだよ。先輩を――ハルを助けに」
ヘルヴァは答えず、ただマッハ・ダイナスティのエンジンをひときわ高く歌わせ、銀色のマフラーを震わせて、夏の終わりの熱気を切り裂き疾駆した。
◆
父親に教えられた住所は、十五階建ての瀟洒なアパートメントだった。花の咲き乱れる前庭とアプローチを抜け、レイは玄関前にバイクを止めた。警備員に市警のエンブレムを示して建物に入り、内側に鏡が張られたエレベーターで十二階にのぼる。
落ち着いた紺色のカーペットを踏んで、目的の部屋のドアベルを鳴らした。だが応答はない。レイは大声で呼びかけた。
「アリス、いるんだろう? 開けてくれ」
ドアの内側でなにかが動く気配がした。モニターでこちらの姿は確認しているはずだ。
「ご主人さまがいないあいだは、開けてはいけないと言われています」
聞き覚えのあるアルトの声が応じる。
「ぼくは例外だよ。覚えているだろう? 以前にきみを押し倒してあげたじゃないか。ぼくをご主人さまと呼んでいたのを忘れた?」
「覚えています……ご主人さま」
予想したとおり、アリスの「ご主人さま」の認識にまつわる混乱は修正されていないようだった。担当していたジョナサン・ケントが行方不明になり、アリスはメモリのメンテナンスを受けないままレンタル先に回されたのだろう。
クラーク・グループの銀行がピュアドールズ社の大株主だったことから、レイは父親に頼みこみ、アリスがレンタルされた先を調べてもらった。そうでもしなければ、捜査令状をとらないかぎり個人情報を教えてはもらえない。
「よく覚えていてくれたね。ご褒美をあげるから、ここを開けなさい」
尊大な口調をつくって告げる。
「はい、ご主人さま」
ドアを開けたアリスは、メイド服姿ではなかった。絹のようにつややかなプラチナブロンド、透明なサファイアの瞳はそのままに、ほっそりしたボディにはショート丈で透ける素材のキャミソールドレスをまとっている。
レイは思わず後ろを見て誰もいないことを確かめてから、急いで部屋に入った。ドアが閉まり切らないうちに、アリスがしなだれかかってくる。ふわりと甘いにおいに包まれ、レイは記憶が間違いではなかったことを確認した。
「ご褒美をくださいませ」
顔を両手ではさまれ、唇にキスをされる。
ストロベリーチョコレート味――甘いにおいの正体。
シャツのボタンに指をかけてくるアリスの両手首を片手でまとめて押さえ、レイはもう片方の手を彼女の背に回してヒップをまさぐった。
「あっ……そこは……ああっ、んん……」
「じっとしていなさい、アリス」
「はい、ご主人さま……あ、いや、やぁっ!」
ひどくいけないことをしている気がしてきて、レイは頬を赤らめた。Dフォームの記録を止めたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢して作業を続行する。やがて指先が小さな突起に当たった。
ぷち。
ボタンを押しこむとマシンドールの動きが止まり、レイは息を吐いた。罪深い気分を振り払い、ベルトの後ろに挟んでいたFバイザーをとってかけ、さっき父親から送ってもらったアリスの取り扱いマニュアルを表示させる。
「いい子だ、アリス。さあ、きみが見ていたことを教えてくれ」
つぶやきながら、床に横たえたアリスの服を脱がせ、背中のコントロールパネルを開いた。マニュアルを参考に目的の部品を取り外し、証拠品パックに収めた。人工毛髪とスキンをはがされて部品も取られ、硬直したまま床に転がっているアリスは、ただの人形に見えた。
同じAIなのに、ヘルヴァとは似ても似つかない。ボディは対照的に、アリスは人間を超えるほど美しいのが皮肉だ。レイは脱がせた服をおざなりにアリスにかけてやっただけで立ち上がった。奥の寝室らしき部屋は全面が鏡張りで、落ち着かなさそうな趣だった。ため息をつき、レイはアパートメントを出た。
Fバイザーを通じて本署にいるエイミーとディックに連絡しながら建物を出る。玄関の正面に止めてあったマッハ・ダイナスティを見ると、安堵が胸に広がった。
「ヘルヴァ、待たせたな。行くぞ」
《はい、マスター》
答える声は凜として涼やかだ。色気はなくとも、ヘルヴァには彼女だけの色彩があった。
ふたたびバイクを駆り、エンジンをうならせて、レイは一路南を目指した。