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(4)

 取調室でのやりとりを見守っていた特捜班の三人は、予想もしないなりゆきに唖然とし、お互いの顔を見やった。

「聖王は味方だったの? ハルと知り合いだったから助けに来たってこと? ますますわけわかんないよ! 頭バクハツしそう」

 エイミーは両手を頭に当てた。

「ハルが昔イキがってたってのは噂で聞いてたけど……」

「サイモンに拾われて、あいつは更正したんだよ」とディックがため息をついた。

「ディックは知ってたんだ?」

 うなずいて、ディックは弁解するように答える。

「三年前にあいつが特捜班に来たときに、サイモンから事情を教えられたのさ。サイモンはハルの後見人だったからな。ハルは不良時代も喧嘩っぱやいだけで、根っからのワルってわけじゃなかった。キングに気に入られて幅きかせちゃいたがね」

 ディスプレイには、アルファ班の捜査員たちが抵抗するハルを引きずるようにして外に連れ出す様子が映っている。キングが悠然とした足取りで部屋を出ていき、ドアが閉まった。

 以前にハルがルナ・アスールの封筒を持っていたことを、レイは思い出した。捜査のためという説明が真実だったのかどうかはわからないが、キングとのあいだに浅からぬ縁があったことをディックも知っているのだから、ハルにそれを隠す意図はなかったのだろう。

「それより……」

 レイの意識は、ハルがもらした言葉のほうに向いていた。

「どうせ長くないって、どういう意味ですか? 惜しむものはないって、まるでもうじき死ぬみたいな言い方じゃないか」

「……ハルはおまえに教えてなかったのか」

 ディックがつぶやくように言った。

「あいつの脳には、昔爆弾テロに巻きこまれたときに入りこんだ金属片が残ってるんだよ」

「そのかけら、すごく微妙な位置にあって手術が難しいんだって。でもほうっておくとじきに脳幹の機能に影響して、あるとき呼吸が止まる」

 エイミーの口調はいつもとは違い、淡々としていた。

「そんなことって……」

 絶句するレイの脳裏に、クローン猫事件で入院した日の記憶がよみがえった。レイを担当した脳神経科医が、話があるとハルに言っていた。それに気づいてはいたのに、レイはレッドカードのことで頭がいっぱいで、追及はしなかった。

「あるときって……いつですか」

「明日かもしれない」

 エイミーがぽつりと返した。

「嘘でしょう?」

 それ以外になにが言えるだろう? ひと月のあいだハルのそばにいたのに、死の影を感じたことはなかった。

「あいつは負けず嫌いだからな。弱みを見せたくなかったのさ。とくにおまえには」

 ディックがため息とともに言った。

「みんな知ってるのに、なぜぼくには教えてくれなかったんだ……そんな大事なこと」

「あたしも教えられたわけじゃない。ふた月くらい前に病院の前であいつを見かけて、様子が変だったんで問い詰めたんだ。告知された直後だったみたい。でなきゃ一生隠してたと思う。精密検査の結果がよくないのがわかった、突然いなくなるかもしれないけどそのときはよろしくって、ほんとに軽い調子で言ってた」

「突然いなくなる――」

 その先を、レイは続けられなかった。

「ディックと主任以外には話さないって約束させられた。特別扱いもするなって。でも……ハルは明らかに落ちこんで、やけになってた。パトリシアとも別れて……」

「だからおまえが来て、ハルと組むってわかったときは、正直びっくりしたんだ」

 ディックは肩をすくめた。

「主任はなに考えてるんだろうってな。だがすぐに納得したよ。ハルがまた笑うようになった」

「そうそう。ぼんやり考えこむこともなくなったしね」

 間違いなくきみのおかげだよ。エイミーはそう言って寂しそうにほほえみ、誰もいなくなった取調室を映しているディスプレイに目をやった。そしてきゅっと唇を噛む。

「だから、ハルが懲罰を恨んで主任を殺すなんてあり得ないんだよ」

「それをキングは強制供述で証明すると言ってるんだろう。なぜハルはあそこまで拒むんだ? 真犯人があいつにとってそれほど重要な人物だってことか?」

 独り言のように言い、ディックは頬杖をつく。

「そこまでしてかばう人なんて思いつかないよ。ハルには家族もいないし、特別仲のいい友達ってのも聞いたことないし。アルジャーノンはトカゲだしね」

「アルジャーノンのためなら、人ひとりくらい簡単に殺しそうだけどな」

「ディック、それしゃれになってない……あ!」

 とんきょうな声をあげ、エイミーが部屋の隅の端末へ跳んでいく。

「アルジャーノンで思い出した! ハルに昨日、フライングアイの調整を頼まれたんだ」

 彼女は自分のDフォームをシステムに繋いで市警のネットワークに入り、またたくまにハルのエリアに侵入した。

「名誉のために説明すると、あたしはネットスペシャリストの資格を持ってるから、業務上必要なら市警全員のエリアに入れるの。ほんとは上司の許可が必要なんだけど、そんなこと言ってる場合じゃない……あった、これこれ。あたしがつくったフォルダ」

 フライングアイをテストで使ってみたいから、記録先を自分のエリアに設定してくれって頼まれたんだ。エイミーはそう言いながらディスプレイに動画を呼び出した。

「ありゃ、真っ暗だな……ん、音声は入ってる……って、これ主任の声だよ!」


 ◆


 二十分ほどの音声だけの画像は、ハルがアーケイディアの家を訪れたところから始まっていた。

 サイモンの死にまつわる彼女の告白、ハルへの死の宣告、そしてハルの反撃。

『ごめんなさい』

 アーケイディアの声は静かで、苦悩がにじんで聞こえた。

 フライングアイはハルの胸ポケットに入っていたようだ。意識を失ったらしくハルの声が途切れたのち、画面に室内の風景が映った。白いクロスの壁、印象派の複製画。

「主任の家のリビングだ」とディックがつぶやく。

『こんなものを仕込んでいたなんて――』

 アーケイディアの焦ったような声のあとで、音声も画像も途切れた。フライングアイは彼女に発見され、処分されたのだろう。アーケイディアは、フライングアイから送られたデータをあとで探して消去するつもりだったのかもしれない。だが、それを果たせないまま殺された。

「サイモンは……主任に殺されたのか」

 呆然とした声で、ディックがつぶやいた。あまりにもショックが大きかったのか、エイミーは放心した様子でなにもしゃべらない。

 暗くなったディスプレイのウィンドウを凝視して、レイは奥歯を噛みしめた。

「そして主任は先輩も殺そうとしていた。信じられないし、信じたくないけど」

 ぶんぶんと頭を振ってから、エイミーは目をつぶって両手で何度か自分の頬をたたいた。

「しっかりしなさい、アンドロメダ・ローズ! ぼけっとしてないで考えるのよ!」

 彼女は目を開けて、虚空をにらみつけた。

「気になるのは最後の部分よね。ハルは殺されていないし、行方不明にもなっていないから、秘密のファイルは公になっていない。ハルがファイルを預けた相手って誰だろ?」

「わたしたちではないと言っていたが、本当にみんな、ハルからそれらしいものを受け取ってないのか?」

 エイミーが無念そうに首を振る。

「市警のネットワークのなかなら、ファイルなんか簡単に消せる。署内の人じゃないと思う」

「この動画に証拠能力がないのが悔しいな」

 レイは奥歯を噛んだ。昨今は音声や画像が簡単に偽造できるので、正式な機器を用いたものでなければ裁判時の証拠としては採用されない。それはハルも知っていたはずだった。録音はしても証拠にするつもりはなかったということだ。おまけに市警のネットワークに入れていたなんて、消してくれと言わんばかりだ。

「これはエイミーに気づいてもらうためだけに、先輩がかけた保険なんだろう」

「ハルは主任に自首を勧めるつもりだったんじゃないかな」と、考える口調でディックが言う。

「でも主任は先手を打って、先輩に薬を盛って眠らせた……」

 あとを引き取って続け、レイはまた部屋のなかをうろうろと歩き回った。

「このあとなにが起きたんだ? 少なくとも主任は、この時点では自分が殺されることを予想してはいなかった」

「犯人がハルじゃないのはたしかだよ」と、エイミーが悔しげに言う。

「サイモン殺しには共犯者がいた」

 低い声でディックが指摘した。

「ドクター・バロウズだ。わたしも何度かカウンセリングを受けた。いいドクターだと思っていたが」

「署員はみんな一度くらい受けてるんじゃないの? あたしは悩みがないから関係ないけどさ」

「ぼくもクローン猫事件のあとで受けましたよ」

 レイは足を止め、髪をかきむしった。

「主任を殺したのはドクター・バロウズなのか? でも、先輩がドクターをかばって罪をかぶる理由があるとは思えない。それに、ぼくはなぜ主任の家に呼び出されたんだ? ぼくが現場を目撃して証言しなくたって、先輩は自白してるんだし、証拠は多すぎるほどあるのに」

 もどかしさのあまり悪態をつき、つい汚い言葉を羅列する。

 エイミーが苦笑した。

「きみ、ハルに似てきたよね」

「そんなことありません!」

「……髪が汚れてるよ」

 レイは髪に手をやった。ところどころ髪の房がもつれたまま固まっている。指を通すとごわごわしていて、思わず顔をしかめた。

「血がついていたんです……たぶん主任のが。シャワーを浴びる暇もなかったから、濡らしたタオルで拭いただけで」

 しばらくレイの顔を見つめてから、エイミーが口を開いた。

「整理してみよう。まず、ハルはサイモン殺しの犯人が主任とドクター・バロウズだったと気づいて主任の家に行く。主任はそれを予想していて、あとで殺すつもりで睡眠薬でハルを眠らせる。ハルは、自分が死んだら殺人がばれるぞと主任を脅す。主任は真犯人に殺される。きみが主任の名前で呼び出しを受ける。ハルは睡眠薬から覚めて、主任の死体を見てびっくりする。訪ねてきたきみに、犯行を否定する。きみはどこかに隠れていた真犯人に撃たれて気絶する。誰かに腕を切られ、何発もショックパルスを浴びる。ドクター・バロウズが通報する。きみは保護され、ハルは逮捕される。ハルは犯行を認めて自白する」

「……そんな流れですね。だからなんですか」

 いらだって、レイは声を荒らげた。

「エリートのくせにわかんないの? 頭冷やしなよ。真犯人がドクター・バロウズなら、ハルが殺されずに戻ってきて自白してるのには、きみがなにか関わってるってことじゃん」

「ぼくが? どうして」

「そうか!」と、ディックが声をあげた。

「ハルがかばってるのは真犯人じゃない。レイ、おまえなんだよ」

 わけがわからず、レイはまた髪をかきあげた。かたまった血が指に当たる感触に、胸の奥がざわつく。

 エイミーがスカートのポケットからヒマワリの花の髪飾りを出し、ポニーテールの根元にとめた。

「やっぱりこれがないと調子出ない! さあアンドロメダ・ローズ、本気出して行くよ!」

 彼女は椅子に座り直すとポニーテールを振りたて、猛烈な勢いでキーボードをたたいた。ディスプレイをにらみつけ、「あーもう、ばれたら絶対クビになる」とつぶやきながら。

「ドクター・バロウズの現在位置は、GPSによれば主任の家。科学捜査班の通信を見ると、ドクターが現場検証に立ち合ってるのは間違いない。あと二時間はかかりそうだね。ゆうべドクターは通報の少し前に主任の家に行ってるけど、発信元はドクターの仕事用のDフォームのものだから、偽装はいくらでもできる。あてにはならないな」

 エイミーの隣に座ったディックが、眉をひそめて顎を撫でる。

「主任はハルが保険をかけていたことを知って、ドクター・バロウズに相談したんだろう。そこで意見の相違かなにかあって、ドクターは主任を殺した。その罪をハルにかぶせようと計画する。奴はカウンセリングでハルの弱点を――どう脅せば言うことをきかせられるか知っている。そのためにおまえを呼んだんだ」

 そう言って、ディックはエイミーの後ろからディスプレイをのぞきこんでいるレイを見上げた。

「……先輩を脅すために?」

 レイは無意識に二の腕の傷に手をやった。そこはちょうど上腕動脈の上で、傷がもう少し深ければ動脈が切断され、失血死していただろうとERの医師に言われたのを思い出す。

 うなずいて、ディックは人さし指を立てた。

「ハルを殺せば秘密のファイルが公になる。時間稼ぎが必要だったのさ。」

「だけど、ぼくはこうして解放されてる。先輩ももうぼくをかばう必要はないはずだ」

「ちょっときみたち、ウルトラアルティメットスマートなプリンセス・エイミーの仮説を聞きたい?」

「ごたくはいい、早く言え」とディックは冷たい。

 エイミーはむっとした顔で口を開く。

「ドクター・バロウズの書いた論文に、『深層意識におけるインプリントと行動惹起の理論的可能性』ってのがあって、これが主任の言ってた〝暗示をかけて自殺させる〟ってやつの基本らしい。ハルもこれを読んで当たりをつけたんじゃないかな。たぶんドクターはこの理論を完成させて、発表はせずに実践してるんだと思う。過激な方法で」

 レイは息をのんだ。

「それ、完全犯罪をやりたい放題ってことですよね」

「工夫しだいで、そーなるね。さあ聞いてびっくりして。エドガー・バージェスも、アーサーとジョナサンのケント兄弟もドクターのクライアントだった」

「全員自殺してるな」

 ディックは唇を引き結ぶ。

「ドクターはもう大量殺人をはじめてるわけだ。奴のカウンセリングを受けた者は全員、暗示によって自殺させられる可能性があるってことか」

「ハッピーなことに、それはないと思うよ。この論文によれば、暗示が有効になるのは、声をかけても起きないくらい患者が深く眠っている無意識状態のときだけ。患者が術者を信頼していなければ暗示はかからない。ただのカウンセリングで無意識状態にまでなることはないでしょ」

 つまり、と強く言って、エイミーはレイの頭を指さした。

「きみ、ドクターに爆弾を埋めこまれてんのよ。サイモンに仕掛けられたのと同じやつを」

「……自殺する暗示をかけられてるってことですか?」

 エイミーは厳しい表情でうなずいた。

「主任の家で気絶してるあいだにね。そう考えればハルの不自然な言動もすべて説明できる。ハルがあくまで主任殺しの罪を着ようとしてるのは、きみを人質にとられてるからなんだ」

『俺はどうせ長くない。もう惜しむものはないんだ。……守らせてくれ』

 絞り出すようなハルの言葉の記憶が、レイの耳の底を打った。

 自分の残りの人生と引き換えに、ハルはぼくを守ろうとしてくれているのか。十五年前の爆弾テロで守り切れなかった弟に、ぼくを重ねているのかもしれない。

 こんなところも自分はハルと似ていたのかと、レイはそっと胸の内に苦笑をこぼす。異母兄たちに相手にされなかったせいで、自分は兄というものへの憧れを捨てられず、無意識にハルに重ねていた。

「強制供述で自白が嘘だったとばれれば、ドクター・バロウズがなんらかの方法できみの爆弾の時限装置を作動させる。だからハルは強制供述を拒否してるんだ」

 エイミーはそう続けた。

「まだハルの強制供述の件はドクターに伝わっていないのかな。ドクターが知ったらどうすると思う?」とディックが訊く。

 エイミーは顔をしかめて数秒考えた。

「あたしがドクターなら、ハルが自白する前に始末するよ。たぶんハルはもう秘密のファイルのありかを吐かされている。レイの腕の傷がその証拠。もっと深く切るって脅せば、ハルはなんだってしゃべったはず」

「じゃあ秘密のファイルがあるっていうのは、はったりだったのか?」

「たぶんね。あるいは内容が脅威ではない、回収や隠滅が容易と判断されたのかも」

 ディックが立ち上がった。

「こうしちゃいられん。ドクターの身柄を確保してもらおう」

「どうやって? 証拠もないのに。レイの時限爆弾もどんなふうに仕掛けられてるかわかんないんだよ? 自動で電話がかかってきて、キーセンテンスをささやかれるのかもしれない。自宅の玄関にスピーカーが仕掛けられていて、ドアを開けた瞬間に録音が流れるのかもしれない」

「じゃあレイは医務室のベッドにでも縛りつけておけばいいだろう」

「冗談じゃないですよ!」

 レイは叫んだ。

「先輩の命が危ないのに、ぼくだけ隠れてられるわけないでしょう?」

 フライングアイの録音の最後のほうで、ハルは「行きたいところがある」と言っていた。それは、レイの祖母がくれたチケットの行き先に違いなかった。

 ルナホープ――弟と行くつもりだった月へ、ハルは自分と一緒に行こうとしていた。そのためにクリアすべき課題が、ハルにはあったのだ。

 頭のなかの金属片だ。それを取り除かなければ、月域への渡航ビザは下りない。脳神経系の疾患は、気圧と重力の変化が激しい月への旅行で悪化する恐れがあるからだ。

 たぶん、ハルは除去手術を受ける決心をしたのだろう。成功率の低い手術に臨む前に、彼はどうしても、恩人であるサイモンの死の謎を解明しなければならなかったのだ。彼なりのけじめとして。

 ――どうすればハルを助けられる?

「ぼくに仕掛けられた爆弾を除去する方法はないんですか?」

 エイミーがキーボードを勢いよくたたいてから答えた。

「残念だけど論文には書いてない。ドクター・バロウズなら知ってるかもだけど」

「訊いても教えてはもらえないだろう。手詰まりだな」

 ディックは両手をあげた。

 そのとき会議室のドアが軽くたたかれ、アルファ班にいるレイの友人が顔を出した。ドアの隙間からコーヒーの香りとともにアルジャーノンが入ってきて、レイの肩に舞い降りる。差し入れだと言い、彼女はペーパーカップの三つ載ったトレイを差し出した。そして受け取ったレイにそっと、ハルの強制供述の承認が正式に下りたらしいと耳打ちして立ち去った。

 ハルはこれから医療拘置所に護送され、強制供述が執行される。

「いいお友達じゃん。美人だし。前の彼女でしょ?」

 訳知り顔でエイミーが訊き、レイがテーブルに置いたトレイからカップをとった。

「わかります?」

「あたしを誰だと思ってんの?」

 エイミーは片目をつぶってみせた。

「持つべきものは気前のいい友だ」とディックが笑ってカップを口に運ぶ。

 アルジャーノンが喉を鳴らし、レイの耳のそばで羽づくろいをはじめる。

 張り詰めていた空気がほんの少しゆるみ、同時にレイは、締めつけられるような胸の痛みに襲われた。合成コーヒーの香りとともに、配属初日の光景があざやかに脳裏によみがえる。

 お互いに最悪の印象だったあの日。それでもハルはコーヒーをおごってくれたのだ。あれが彼なりの精いっぱいの譲歩だったのだと、いまはわかっていた。

 自分が枷となってハルを追い詰めているのだと思うと、たまらなかった。募る焦燥に思考が乱れ、時系列のばらばらな事象の断片が頭をぐるぐる回る。

 サファイアの瞳のマシンドール。死んだケント兄弟。ピュアドールズ社。クローン猫。報奨金。レッドカード。医療拘置所。ピザとコーラ。穴あきの古いコイン。見かけより小さな月。オーロラと流星。主任の家。血の海のなか、呆然と座りこんでいたハル。

 撃たれる直前に振り返ったのは覚えていた。なにかが鼻先をかすめたのだ。それがなんだったのか。

 レイは目を閉じ、コーヒーのにおいを吸いこんだ。ハルは考えをまとめるとき、いつもこうしてコーヒーをそばに置いている。最近は自分もときどきそれをまねしていた。

 目を開けて、カップをとってひと口飲み、顔をしかめてトレイに戻した。

「……ちょっと確かめたいことがある。連絡します。ドクター・バロウズに動きがあったら教えてください」

 レイはアルジャーノンをディックの肩に移すと、返事も聞かずに身をひるがえし、会議室のドアを勢いよく開けた。


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