(2)
レイはアーケイディアの遺体のそばで気を失っているところを、彼女の兄、バロウズ医師の通報で駆けつけてきた警察官によって保護された。市民病院のERに運ばれ、傷の手当てを受けて署に戻るやいなや事情聴取されて、ようやく解放されたのが三十分ほど前だ。時刻はすでに午後二時。レイは地下の解剖室に行き、正式な検死前のアーケイディアの遺体を見せてもらおうとしたが、担当はパトリシアではなく、拒否された。
「わたしは関わらせてもらえないの。一時期、ハルとつきあっていたから」
検死官の控え室で、パトリシアは低い声で無念そうに言った。
「ざっと見ただけだけれど、胸の正面の三カ所の外傷によって失血死した可能性が高いわ。抵抗した様子はないから、相手は顔見知りかもね」
「先輩がやったとは思えません」
「わたしに言えるのは、犯人はハルだと仮定しても矛盾しないということだけよ」
「冷たいな。先輩を好きだったんでしょう?」
レイの言葉に、パトリシアの瞳の奥に暗い炎が揺れた。目をそらして、彼女はかすかに首を振る。
「本当はね、いまでも好きなの。でも……いったんうまくいかなくなると難しい。あの人、昨日わたしになにか言おうとしていたのに。……聞いてあげなかった」
ほのかに苦い笑みが、彼女の口元に浮かんだ。
「あなたに嫉妬していたのかも。あなたと組むようになって、ハルの表情がやわらかくなったわ。……また球場に行かない? 今度は三人で」
どう答えればいいのか。結局、レイはあいまいに言葉を濁して立ち去った。パトリシアもハルが犯人だとは思っていないということがわかったが、それがなんになるだろう?
そののち、レイは刑事捜査課のオフィスがある七階に来たが、フロア全体に異様な空気が満ちており、他の捜査員たちの視線が痛かった。いつもならみんな気軽に声をかけてくれるのに、誰もレイに近づこうとしない。ようやくアルファ班の友人が来て小会議室へ行くよう言ってくれ、〝特捜班臨時出張所〟というエイミーの字の貼り紙があるドアを見つけたときは、心底ほっとした。
ノックをして会議室に入ると、テーブルについていたエイミーとディックがさっとレイを見て、かたい表情でうなずいた。立ち上げたディスプレイには、取調室の様子が映っている。
「とても島にいられる状況じゃなくて」とエイミーが言った。
当然だ。班をまとめる主任が部下に刺し殺されたというのだから。
捜査にはアルファ班があたることになったが、実際にすることはあまりなさそうだった。ハルは犯行を認めていたから。
レイは左の二の腕の肩に近い部分に巻かれた包帯を解き、まくりあげていたシャツの袖口を下ろして治療パッチを隠した。病院というところは大げさすぎる。五センチばかりの切り傷だ、治療パッチだけで十分だろう。
ディスプレイのなか、ライトグリーンの拘置服姿のハルはこわばった表情で椅子に座り、手錠のかけられた両手を膝に置いたまま身じろぎもしない。連邦法によって選任される弁護人の到着を待っているのだ。必要ないとハルは言ったが、故意の殺人にあたる第一級殺人では、調書の作成に弁護人の立ち合いが義務づけられている。それを知っているハルは、強く主張はしなかった。
「きみの聴取は終わったの?」
部屋の隅へ歩いて包帯をゴミ箱に放りこんだレイに、エイミーが訊いた。
「ええ。先輩がやったって頭から決めてかかってて、話になりませんよ」
「仕方がないさ。ハル自身が認めてるんだから」
ディックが両手を頭の後ろで組んで椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「それがわけわからないんですよ。先輩はどうして自分がやったなんて言ってるんですか? ぼくがゆうべ主任の家に行ったときには、全力で否定してたんだ」
レイは昨夜の記憶をたどった。上司から呼び出されたのは夜中の二時だった。スポーツバーでしたたか飲んだあとにディックの家でまた飲み、タクシーでアパートメントに帰ったのが十一時。シャワーを浴びてベッドに入ったところをたたき起こされた。
上司の家の前でタクシーを降り、歩道の街路樹にハルが使っている市警の青い自転車が立てかけられているのに気づいた。窓にはブラインドが下りているが、なかは明るいようだ。不審を深めながら玄関ドアに手をかけると、施錠はされておらず、警報装置が鳴る気配もない。
なにかおかしいと感じ、警戒しながら家に入った。そして玄関ホールを抜け、リビングからの明かりがもれるアーチ形の入口に近づいたとき、その光景が目に入ったのだった。
「ぼくが見たのは、先輩が主任の遺体の脇に座りこんでいる姿だけです。呆然とした顔だったし、自分じゃないと何度も主張していた」
信じてくれと、確かにハルは言った。はめられたのだ、と。もちろんレイは、聴取を担当したアルファ班のベテラン捜査官にそう訴えたが、とりあってもらえなかった。おまえも怪我をさせられたのにかばうのかと、まるで共犯者扱いだ。
「凶器のナイフにはおまえと主任の血がべったり。指紋はハルのものだけ。奴の服にも主任の血がたんまりついている。証拠は十分だろう」
「でも――」
「おまえだって、最初はハルがやったと思ったんだろう?」
「それは……。だけど!」
「そういうことなんだよ」
ディックは体を起こし、テーブルに肘をのせて頬杖をついた。ディスプレイを見つめて眉間にしわを寄せる。
「主任の遺体のそばにハルがいたっていう、おまえの目撃証言が決定的だ。本人も犯行を認めている。証拠もそろってる。ひっくり返しようがない」
言われなくてもわかっていた。レイは髪をかきむしる。
「ほかにも誰かいたような気がしたんですよ。気配を感じたんだ」
「そいつを見たのか?」
「……いいえ」
「じゃあ話にならん」
アーケイディアの家の警報装置は切られており、玄関に設置された監視カメラも、ハルが訪ねてきた直後から映像が途切れていた。レイは家に入った時点からDフォームで記録をしていたはずなのに、操作をした形跡さえなかった。猫夫人の件で懲りたので、同じ間違いはおかすまいときちんと手順を踏んだつもりだったのに。
「先輩に不利な証拠しか残ってないのはおかしいでしょう? 不自然じゃないですか?」
「レイ、起訴に必要なのは不利な証拠なんだよ」
「あなたはどっちの味方なんですか!」
「ハルが主任を殺すなんてあり得ないよ!」
エイミーが叫び、テーブルに拳を打ちつけた。
「そりゃ、あいつはちょっと乱暴だけど、主任のことを心から尊敬してた。もう、どうしたらいいかわかんないよ……」
頭をかかえてテーブルに突っ伏す。赤毛のポニーテールが揺れるが、今日はヒマワリの髪飾りはつけていなかった。
ディックがテーブルの向かいから手を伸ばし、エイミーの手を軽くたたいた。
「顔を上げろ、エイミー。わたしたちがあきらめたら終わりだぞ」
エイミーは頭を起こし、ディックを見つめた。ディックは肩をすくめる。
「わたしだって三年もハルとつきあってきたんだ。あいつが主任を殺すなんて思うわけないだろう?」
「ディック」
グローブのような大きな手に、エイミーは自分の華奢な手を重ねてぎゅっと握った。
「あたしたちだけでも、ハルの無実を信じてあげればいいよね?」
「残念ながら、そのハルが犯行を自白しているんだがね。考えられるのは、誰か真犯人をかばってるって可能性だな」
「真犯人……。主任を殺したいと思ってる人だよね」
「そして実際に殺して、ハルに身代わりをさせる知恵のある奴だ」
レイは部屋のなかをいらいらと歩き回った。
「ぼくが気絶してるあいだに、いったいなにがあったんだ?」
ハルに手錠をかけたところまでは覚えていた。同僚が共謀して証拠隠滅をはかったなどと裁判でつつかれれば、逆にハルに不利になる。現場の保全が優先だと判断したのだ。だが、直後にショックパルスを浴びて失神し、気づいたのはERに着いてからだった。時刻は六時。左の二の腕に切り傷があり、強いショックパルスの着弾痕が腹と背にいくつも残っていた。
「ぼくは先輩の背中側にいて、両手に手錠をかけていた。そのぼくを先輩が撃つことはできないはずだ」
あのとき、誰かの気配を感じて振り返ったのだが、人影は見ていない。レイは悪態をついた。
「あの気配が真犯人のものだったとしたら、ぼくは大間抜けだ。ぼくを主任の家に呼び出したのも、主任じゃなくそいつだったってことだよな。先輩の犯行を証明するために、のこのこ出かけていったなんて」
焦燥に胸を焼かれ、おかしくなりそうだった。レイは決然としてドアに向かった。
エイミーがあわてたように立ち上がる。
「どこに行くのよ、レイ」
「取調室。先輩にじかに訊く」
「アホか、冷静になれ!」
追いかけてきたディックに腕をつかまれ、傷がずきりとして、レイは思わず息を詰める。
「当事者のおまえがハルに会えるわけないだろう。いますべきなのは、ハルの自白を覆す証拠を集めることだ」
この傷も、ハルの犯行を示す証拠のひとつだった。ハルがそう自白しているというのだが、レイにはまったく記憶がない。銃で撃たれたこともだ。捜査官に支給されるショックパルス銃は、発射の記録が本体に残る。だが、その銃そのものが行方不明だった。ハルは捨てたと主張し、どこに捨てたか覚えていないというのだ。
ハルは、己が犯人ではないという証拠を消しているとしか思えない。
あるいは、本当にハルが犯人で、主任を殺したのだろうか?
「弁護士が来たみたいよ」
エイミーに言われ、レイとディックはテーブルに戻ってディスプレイをのぞきこんだ。
「嘘だろ」と、ディックがつぶやく。
エイミーはいつものムンクの叫び顔になる。
「なんで? わけわかんない!」
レイは息をのんだ。
「……聖王」
取調室のドアから入ってきたのは、ぴしりとしたスーツに身を包んだ〝聖王〟クリスチャン・キングだった。