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(1)

 閑静な住宅街のなかにある平屋の家は、前庭の芝生もよく手入れされていて、端整な趣だった。ハルは歩道沿いの街路樹に市警の青い自転車を立てかけて止め、ブーゲンビリアの咲き乱れる低い生け垣を抜けて、砂利敷きのアプローチを歩いた。木の階段をのぼって玄関ポーチに立ち、ドアベルを鳴らす。やがて透かしガラスのはめられたドアが開き、波打つ栗色の髪のグラマラスな女性が顔を見せた。

「主任、こんばんは」

「デイビス。こんな夜中にどうしたの?」

「お話があって。……入れていただいても?」

「……どうぞ」

 アーケイディアは大きくドアを開け、ハルをなかへ通した。日付も変わったのに、彼女は昼間と同じ麻のスラックスに白いニットのトップという格好だ。自分を見ても驚いた様子がないのは、GPSで追跡して、来るのを予想していたのだろう。

 退勤後に二時間ほど班の仲間とスポーツバーで飲み、マーリンズの勝利を祝って別れた。それから四時間がたっていた。

「コーヒーをいれたところなの。飲むでしょう?」

 玄関ホールを過ぎて広々としたリビングへとハルを案内しながら、アーケイディアは訊いた。

「主任の家に来るといつも本物コーヒーにありつけるって、サイモンが言ってましたっけ」

「サイモンが来ると、あるだけコーヒーを飲まれてしまうから困ったわ」

 寂しげな顔をして、ハルに座るよう勧めた。

 ハルは涼しげなラタンの椅子にそっと腰を下ろし、リビングを見まわした。象牙色の大理石の床、オフホワイトのクロスが貼られた壁、印象派の複製画。それらは半年以上来なかったあいだもかわっていない。けれども、サイドボードに飾られていたサイモンとの写真はすべてなくなっていた。

「結局、サイモンは主任にプロポーズしたんですか?」

 キッチンとリビングを隔てるカウンターで、アーケイディアはコーヒーをふたつのカップに注いでいる。

「いいえ。待っていたのだけれど……」

 やがて、目の前に透明感のある茶色の液体を満たしたボーンチャイナのカップが置かれる。ソーサーにはスプーン、ローテーブルにはミルクピッチャーとブラウンシュガー。ハルの向かいの椅子に腰を下ろしたアーケイディアは、カップに手を伸ばさないハルを見つめて首をかしげた。

「疑っているの?」

 皮肉っぽい笑みを浮かべ、ソーサーごとハルのカップを自分のものと交換する。彼女は優雅な仕草でミルクと砂糖を入れ、かき混ぜてから口に運んだ。

 ためらいながらも、ハルはカップを取ってひと口飲んだ。すっきりした香り、さらりとしていながらこくのある苦み。アーケイディアの好きな南米の豆だ。いつもここでふるまわれるものと同じはずだが、苦さが増して感じられた。

「話というのは、サイモンのこと?」

 ハルはカップを置いてうなずいた。貴重なコーヒーがまだ半分ほど残っていたが、もう飲む気にはなれなかった。カップから上司の顔に視線を移し、口を開く。

「……サイモンを殺したのはあなたですよね、主任」

 エメラルドの瞳が揺れた。

 ハルは一瞬目を閉じ、かすかに首を振る。

「否定してほしかったのに」

 しばしの沈黙ののちに、アーケイディアは目を伏せて、低い声で言った。

「ハル、Dフォームを出して。記録は困るの」

「話してくれるんですか、理由を」

「話すわ。サイモンがしていた悪事を、すべて」

 視線をハルに戻して、アーケイディアは背筋を伸ばした。

「悪事……」

 息をのんだハルに、アーケイディアは、Dフォームを出しなさいと繰り返した。ハルがベルトからはずしてテーブルに置くと、彼女はそれをとりあげ、上長権限ですべての機能を停止させた。それからゆっくりと脚を組み、椅子の背にもたれて、膝の上で両手の指を組み合わせた。

「きみは知らないでしょう。サイモンをまるで神のようにあがめていたものね。軌道エレベーターの誘致の件でわたしの父を罠にはめ、自殺に追いこんだ張本人はサイモンだったのよ。わたしを通じて得た父の情報をエドガー・バージェスに売って、謝礼をもらっていたの」

「嘘だ! サイモンが、まさか――」

 思わず腰を浮かせたハルに、アーケイディアは哀れみのまじった笑みを向ける。

「彼はクリスチャン・キングとも手を組んでいた。サイモンがギャンブルで借金をつくっていたのは知っていた?」

「いや……」

 おめでたいわね、とアーケイディアは苦笑した。

「あなたがもらっていた災害遺児救済基金からの補助金も、サイモンはピンハネしていた。災害遺児の後見人になれば市からも補助金が出る。彼がきみを引き取ったのは、それも目当てだったのよ」

 なにも言わずに、ハルはただ上司を見つめて座っていた。

「そうやって得た金を、サイモンはクリスチャン・キングのカジノでギャンブルに費やし、多額の借金をつくった。キングは寛大にも、返さなくていいから市警の内部情報をリークしろとサイモンに迫り、サイモンは受け入れた。むしろ喜んで情報を提供して礼金をもらっていたの」

『おまえさんは幻滅する勇気があるのか?』

 ハルの耳の底で、キングの声がこだました。

 あの言葉はそういう意味だった。

 CVを使って、ハルはさまざまな情報のかけらを、バイアスをかけることなく評価した。サイモンを英雄視していたときには見過ごしていた事々が、残酷な真実となって提示される。その見方に立てば、すべてが繋がる。

 サイモンは金遣いが荒かった。自分も含めてネオ・エルドラド界隈の不良たちの悪事を見逃してやっていたのは、人がよかったからではなく、キングに恩を売るためだったのだ。もしかしたらハルを引き取ったのも、補助金のためだけではなく、キングとなにか裏取引があったのかもしれない。

 エドガー・バージェスとの関わりはCVでは推測不能だったが、それはハルのまったく知らないところで行われていたからだ。そのほかのことは、CVが教えたとおりだった。

「サイモンがわたしと寝ていたのは、市警の機密情報を得るためだった。わたしがマッキンタイア署長に気に入られているのを知っていたから。……プロポーズなんてするわけがないわ」

「それを……どうやって知ったんですか? サイモンから直接聞いたんですか」

 アーケイディアは表情をこわばらせた。

「そうよ。きっかけは彼の浮気だった。においでわかるのよ。わたしのものとは違う香水のにおいがした。だから、規則違反だと知っていたけれど、彼をGPSで追跡した。出張だと言って出かけた日に、サイモンは一日中ルナ・アスールに――キングのカジノにいたわ。IDカードの使用記録で、カジノで遊び、そのままホテルに泊まったのがわかった。キングの秘書とできていたのよ」

「嫉妬、ですか」

 それには答えず、アーケイディアは無表情で続けた。「自白剤を使って吐かせたの。それで父のことも、キングとの関わりも、すべてが明らかになったというわけ。サイモンはヒーローなんかじゃなかったのよ、ハル。薄汚い裏切り者の女たらしだわ」

 キングの秘書のセクシーな後ろ姿を、ハルは思い出した。自らの記憶に埋もれていたが、サイモンが死ぬひと月ほど前に、彼女とカジェ・ウノを歩く姿を目撃していた。当時は彼女がキングの秘書だとは知らなかったので、意識にのぼらなかったのだ。

 ハルは静かに返す。「サイモンがどんな男だったにせよ、俺の人生は彼に出会ったことで変わったんです。ヒーローではなくても恩はある。……自白剤はドクター・バロウズが処方したんですね?」

 カイル・バロウズは患者第一の実直な医師だ。そう思っていたのに。

「兄は、署員のカウンセリングでサイモンとも話をしていたのに、彼の本性に気づけなかったことを悔いていたわ。父の仇をふたりで殺そうと決めて、実行した」

「無意識下の暗示を使ったんですね。ドクター・バロウズの研究論文に……」

 言葉を切り、ハルは頭を振った。急激に眠くなり、霞がかかったように視界が曇ってきたからだ。

「そこまでわかっていたのね」

 アーケイディアの声がゆがんで聞こえる。

「そうよ。あるキーセンテンスを聞いたら、薬物を過剰摂取する行動をとるように暗示をかけたの。人間ってバカだから、信頼している人の言葉は基本的に疑うのを拒否する。あなたもね、ハル」

「コーヒーに……なにか――」

 立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。前のめりにテーブルに上体を崩れさせると、ひっくり返ったコーヒーカップから茶色の液体がテーブルに流れた。

「俺のカップと交換したはずなのに」

「薬は両方に入っていたのよ。でもミルクに中和剤を入れておいた。あなたはミルクを使わないって知っていたから」

 サイモンは最低だった、とアーケイディアはつぶやいた。

「警察官としても、人間としても。父を殺しておきながら、彼はなにも知らない顔でわたしを抱いていた。……許せなかった」

 ごめんなさい、という彼女の謝罪の言葉が、ハルの耳を通りすぎていく。

「知られたからにはこのまま帰すわけにはいかない。四枚目のレッドカードよ。安心して、死体は見つからないように遠くに運んで埋めるから」

「……俺がなにも保険をかけずに来たと思いますか?」

 ハルは必死に言葉を絞り出した。

「俺が死んだり行方不明になったりすれば、あなたとドクター・バロウズのしたことをまとめたファイルが公になる」

「なんですって?」

「信頼できる人に預けてあるんだ」

 襟首をつかまれ、顔を上げさせられる。

「それは誰なの? 言いなさい!」

 ハルはにやりとしてみせた。ぼやけていく視界で、アーケイディアのエメラルドの瞳がぎらぎらと輝いていた。

「言ったら殺される。俺はまだ死ぬつもりはないんだ。行きたいところがあるし」

「自白剤で吐かせるわ」

「かまわないさ。でもファイルを取り戻すのは無理だ。すでに何千とコピーしてあって、一瞬であらゆるメディアに送られる手はずになっている」

 預けたのはもちろん特捜班のメンバーじゃありませんよ、と、薄れていく意識のなかで、ハルは続けた。

「彼らを締めあげても無駄だ。俺だって、死んでまで彼らに迷惑をかけたくはない……」

 そこで意識が途切れ、ハルは深い眠りに引きこまれていった。


 ◆


 どれほどの時間眠っていたのか。

 重いまどろみから覚め、ぼんやりと目を開ける。視界が鮮明になったとき、そこに映っていたものがなにかを理解するまでには、かなりの時間が必要だった。

 アーケイディア・バロウズ。上司の見開かれた目がこちらに向けられている。だがエメラルドの瞳に光はなく、まなざしは虚ろだ。唇はなにか言いたげに薄く開かれ、顔は紙のように白い。

 ……死んでる。

 うつぶせで床に横たわっていたハルは反射的に身を起こそうとして、自分の右手がなにかを握っていることに気づいた。

 血塗れのサバイバルナイフ。見れば、自分の手も服も血まみれだ。すぐそばに倒れ伏しているアーケイディアの体の下、大理石の床には大きな血溜まりができている。

 どういうことだ?

 あわててサバイバルナイフを離し、アーケイディアににじり寄った。

「主任、主任!」

 体を揺するが反応はなく、脈をとらずとも、彼女が絶命しているのは明らかだった。体を仰向けにすると、ニットのトップの胸は真っ赤に染まり、刺し傷がいくつかあるのがわかった。

 ハルは呆然とその場に座りこみ、無意識に髪をかきあげた。ふとその手を見て、血だらけなのがなにを意味するかを悟った。

 まさか、俺が主任を刺し殺したのか?

 一瞬頭をよぎった考えを、ハルは振り払う。あり得ない。いくら主任がサイモンの仇だったからといっても、理由がわかれば恨みなど抱けるはずはなかった。けれども、人を暗示で操る技があると知っているいま、自分の行動に絶対の自信は抱くことはできない。

 そこでハルはあることを思い出し、シャツの胸のポケットに手をやった。なにも入っていない。彼は奥歯を噛みしめた。

 ――気づかれたのか。

 玄関ドアが開く音がして、ハルははっとしてそちらに顔を向ける。

「主任! 先輩! いるんですか?」

 二メートルほど先のアーチ形の入口に、銃を手にした金髪の背の高い男が現れる。

「レイ! なんでおまえがここに――」

「先輩……」

 状況を見てとるなり、レイは目を見開いて、信じられないというように首を振った。

「俺じゃない! 俺は主任を殺してなんか――」

 レイは落ち着けというように左手でハルを制す。

「動かないで、そこにじっといてください」

 銃を構え、ゆっくりとハルに近づく。そばに落ちていたサバイバルナイフを爪先で蹴り飛ばすと、レイはハルを見下ろして唇を引き結んだ。

「殺人の容疑で逮捕します。背中を向けて、手を後ろへ」

「レイ――」

「早く、言うとおりにしてください」

「信じてくれ、俺はなにもしていない!」

 ハルは思わず立ち上がった。刹那、腹に銃口を突きつけられ、息をのむ。

「従わないなら撃ちます」

 肩をつかまれて向きを変えさせられる。後ろに回された手首に冷たい感触。ロックのかかる金属質の音が、耳に非情に響いた。絞り出すように、ハルは訴える。

「レイ、これは罠だ。俺ははめられたんだ」

「わかってます」

 耳元で、レイがささやいた。ハルのもう片方の手首に手錠をかけながら続ける。

「いまは従ってください。ここは規則通りにして現場を保全しないと、あとで裁判でつつかれる材料になる」

 ふと、レイの動きが止まった。彼が振り返る気配がした次の瞬間、ハルの背中にレイが倒れかかってきた。ハルは受け止め切れず、よろけて床にくずおれる。

「レイ!」

 力の抜けたレイの体は、アーケイディアの遺体にのしかかるように倒れこんだ。うなだれた頭がアーケイディアの血に濡れた床に落ち、乱れた金髪が赤く染まる。ハルはすでに後ろ手に拘束されていて、体の自由がきかない。もがきながら立ち上がろうとしたところで背に衝撃を受け、ふたたび床にうつぶせに倒れた。

 ショックパルスだ。レイも撃たれたのか。だがレイは気絶しているのに、自分は麻痺させられただけだ。

 アーチ形の出入口のほうから足音が近づいてくる。ハルは懸命に体を動かそうとしたが、むなしかった。

「筋書きどおりだな」

 頭上で、淡々とした男の声が響いた。

「デイビス、きみにはもうひと働きしてもらうよ」


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