(7)
ルナ・アスールにキングを訪ねたのは、水曜日の夜だった。闇を背景にしたカジノの建物には、青みがかった大きな月が浮かびあがっている。
けじめをつけて、レイとルナホープに行く。その決意は、なけなしのプライドさえ捨てさせるほど強かった。
前回と同様に、グラマラスな美人秘書の案内で最上階のオフィスへ向かう。この時間、ほかのエレベーターはカジノやホテルを行き来する客でにぎやかだが、キングのオフィスに直通のエレベーターに乗っているのは、当然ながら秘書とハルだけだった。
つやのあるブロンドはきっちり結いあげられ、うなじにかかるひと筋の後れ毛がセクシーだ。ふだんなら興味深く眺めるところだが、さすがに今夜はそんな気分になれない。ハルはガラスの壁の向こうに目を向けた。ネオ・エルドラドの夜はネオンがうるさいだけで、昼間のような爽快感はなかった。
カーペットを踏んで廊下を歩き、秘書が開けたドアからオフィスへ入る。
「この前、ここへ来るのは最初で最後だと言ってなかったか?」
顔を見るなり投げかけられた皮肉な言葉を、ハルは甘んじて受けた。
「あれは取り消す。……CVの効果的な使用法を教えてほしい。一度きりのチャンスを無駄にしたくないんだ」
キングは広い机に両肘をついて、組んだ指に顎を載せた。
「まだ使ってなかったのか。どうりで代価を払うと言ってこないわけだ」
観察するような相手の視線から逃れるように、ハルは腕組みをして顔を窓のほうへ向ける。明るいはずのネオ・エルドラドの夜が、今日はひどく暗く、重たく見える。
「……正直、迷ってたんだ。臆病者と笑ってくれていい」
「幻滅する覚悟ができたってことか。どんな真実も受け入れられるのか、ハル・デイビス?」
ハルは深呼吸をして、キングのほうへ顔を戻した。
「俺もいい加減、大人になるべきだと気づいたのさ。ここらで階段をひとつのぼろうかと」
「足を踏み外す可能性もあるぞ」
「そのときはそのときだ。たぶん誰かが支えてくれる」
しばらくハルの目を見つめてから、キングはふっと皮肉っぽく笑い、椅子を引いて立ち上がった。
「噂が聞こえているぞ、ハル。最近は子犬と遊ぶのに忙しいと」
「子犬?」
机を回ってハルのそばに寄り、耳元に口を寄せた。
「金色のしっぽを振って、おまえさんにまつわりついてる。死んだ弟の身代わりか?」
「……そんなんじゃない。だいいち、あんなでかい子犬がいるかよ」
「まあいい。せいぜいかわいがってやれよ。あいつはあいつでけっこう苦労してるからな」
「レイのことを知ってるのか?」
ハルがにらむように見ると、キングはにやりとした。
「富豪連中の頭に詰まってるのはゴシップと金儲けの方法だけなんだ」
おまえさんたちはいいコンビだよ、とキングは続けた。
「あいつの兄貴連中ってのはまあ、共通してるのがDNAの半分だけっていう、ある意味他人より厄介な関係だ。あいつにとっちゃ、おまえさんのほうがよほど兄貴らしく思えるんだろう」
それからキングはCVについて必要なことをハルに教え、机に戻ってふんぞり返るように椅子に座った。
「ハル、使わないという選択肢もあるぞ。わたしはそれでもかまわない」
「……もう決めたんだ」
「時間がないからか?」
「さすがに、聖王はなんでもご存じだな」
皮肉な口調で返して、ハルはドアのほうへ足を向けた。
「代価はいつ支払ってくれるんだ?」
背中に声をかけられ、立ち止まって振り向く。
「期限があるのか?」
「当然だ。取引だからね」
キングは片方だけのダイヤモンドのピアスを撫でた。
「……月曜までに。また連絡する」
ハルがそう答えたのは、真実を知ってからなにか行動を起こすときの余裕を考えたからだった。キングはなにも言わずにうなずいた。
◆
自宅に戻ると、キングに教えられた使用法に従い、準備を整えた。
銀色のアルミパックの封を切ると、小指の先ほどの大きさの白いカプセルが現れた。カサンドラ・ビジョン――CVの外観は、ありふれたカプセル薬となにもかわらない。
ハルはいままでに集めた資料を入れたDフォームをFバイザーに繋ぎ、装着してソファに腰を下ろした。前のテーブルには合成コーヒーのカップとビールの缶。そして、止まってしまったサイモンのダイブウォッチ。
缶のプルタブを引き、カプセルを口にほうりこんで、ビールで喉の奥に流しこむ。
十年ぶりに口にするアルコールは苦く、おいしいとはまったく思えなかった。三分の一ほど缶をあけただけで酔いが回り、こめかみがずきずきして気分が悪くなってくる。彼はそれをぐっと我慢し、Fバイザーに資料を流しはじめた。
睡眠学習機のカサンドラ・ビジョンはインチキ商品だったが、そもそも眠っているあいだに新しい情報を記憶するのは無理なのだ。睡眠中の脳はインプットを遮断し、情報整理をしている。クリスチャン・キングがくれたこの薬、CVは逆に脳を活性化させて、感覚器官からインプットされる情報を選択透過することなくすべて受け入れる。
人間の脳は案外いい加減で、キャパシティはそれほど多くない。ふつうは感覚器官から入る情報のうち必要と判断したものだけを受け入れ、不要なものは捨てている。そうでないと情報を整理しきれず、オーバーヒート状態になってしまうのだ。
Fバイザーを通して感覚器官から入力される情報は、いままでもすでに一度は目を通し、耳にしているものだ。そのなかから自分の目や耳、脳が意識せずに捨てていた無数の断片を拾い上げ、記憶とともに攪拌し、繋ぎ合わせて新たな推理を導く。
――それがCVの〝予言〟の正体だった。
『破滅の予言が欲しいのか?』
キングの言葉を、ハルは自分にぶつける。
新しい朝を迎えるために、知るべき真実がたとえ破滅への一歩であったとしても。
――受け入れなければ、前には進めない。
〝けじめをつける〟。それが、ハルの出した結論だった。
CVをゴミ箱にほうりこみ、残された日々を安穏と過ごすこともできた。怒りや苦悩には永遠に別れを告げ、弟のような相棒のそばでピザとコーラと野球中継で夜を明かし、笑顔と楽しい思い出で頭と胸とを満たして旅立てるなら。
――幸福な人生じゃないか?
それを捨てた自分は大ばか者だ。わかっていたが、もうあと戻りはできなかった。
朦朧としてきた意識のなか、老婦人の言葉が北極星のように、逡巡する魂の進む先を輝きで示していた。
『道は常に、必要なときに前に現れる』
アルコールとCVの相乗効果により、猛烈な勢いで感覚器官から情報の断片がそそぎこまれ、ハルの脳と記憶が攪乱されはじめる。まるで眼前が巨大なスクリーンで覆われたかのように、あざやかな幻視が千億ものフラッシュを繰り返して網膜を焼く。
自分が叫んでいるように感じたが、定かではなかった。映像と文字、音声の濁流に意識がのみこまれそうになり、ハルは必死で合成コーヒーの香りにしがみついた。現実を教えてくれるたしかなものに、すがりついていないと溺れてしまう。一UDの粗悪な香りが、いまはただひとつの命綱だった。
どれほどの時間がたったのか。
灰色の意識の底で形が生まれる。おぼろな影がゆらりと立ち上がり、しだいに輪郭がはっきりしてくる。
目をすがめて、ハルは見極めようとした。
現れた道の先にあるのは、破滅の予言か、それとも黎明を告げる声か。
パズルの最後の一片がはまるときのように、カチリと音がしたように思った。