(6)
「遺言書が公開されて、あなたにこれをと」
レイから渡されたのは、一通の桜色の封筒だった。〝親愛なるミスター・ハル・デイジー〟と直筆された宛名は、やや震えてはいたものの、老婦人の性格を物語るようにかわいらしい字だった。
なかに入っていたのは、手紙とルナホープ行きの無記名の往復チケット。
「ぼくがもらった封筒にも同じものが入ってました」
苦笑いをしながら、レイが言った。
手紙は、知らない人が見ればラブレターだと思ったかもしれない、そんな内容だった。ただ十分ほど電話で話しただけの関係なのに。ハルも、なぜ胸がこれほど締めつけられ、泣きたい気分になるのかよくわからなかった。
『……大切なのは、いまという時間にあなたが在ることです。それに繋がる過去に、わたしは感謝を捧げます。人生の最期にあなたに出会えた〝縁〟に。明日へ繋がるものすべてに。ねえ、神さまは本当にいるのかもしれないわね? そう思わない? ――心の友、メアリー・デイジーより。愛をこめて』
便箋をたたんで封筒にしまいながら、ハルは赤い服をまとったチャーミングな老婦人の面影をしのんだ。本当にすてきな――〝いかした女〟だった。
「おまえ、ミセス・クラークに俺の昔のことを洗いざらい話したんだろう」
とがめるようににらむが、レイは悪びれもせず返す。
「口止めはされなかったし。祖母が知りたがったから……なんか、先輩のことを相当気に入ってたみたいです。男はワルっぽいほうが好みなんだそうで。黒い目がセクシーだって褒めてましたよ」
セクシーと言われたのははじめてだ。ちょっと照れる。
「……気に入ったというより、気になったというほうが正しいだろう、おそらく」
過去にとらわれている自分の愚かさを――危うさを、老婦人は見抜いたのかもしれない。ハルは一万UD相当の高額チケットを指ではさみ、目の前に掲げて考えこんだ。
「おまえと一緒に行けってことか?」
「さあ、どうでしょうね。手紙にはなにも書いてなかった」
「一緒に行くならむさ苦しい野郎じゃなく、いかした女がいいだろ?」
「好きにすればいいですよ。無記名だから売ってしまったっていいんだし」
「んなことできるかよ」
ハルはチケットを封筒にしまって胸のポケットにおさめ、厚地のコットン張りのソファに背を預けた。向かいの肘掛け椅子に座っているレイがリモコンを操作し、壁に大きなスクリーンを展開した。自動的に室内の照明が落ちて、スクリーンの暗さが増す。そこに映し出されているのは、紺色の空と無数の星々。室内が完全に暗くなると、壁の向こうにじかに夜空が広がっているかのような錯覚をおぼえる。
「BGMはいらないよな」と、スクリーンの隅の表示をにらみながら、レイが独り言のようにつぶやく。
「あとどのくらいだ?」
「五分くらい。祖母はUFSのなかからの中継を希望しなかったので。まったく、マイペースもここまでくるとね……。顔くらい見せてくれてもよかったのに」
ハルは立ち上がり、フロア続きのキッチンに行って冷蔵庫を開けた。コーラの缶をとると、ぼくにはビールをとレイが声を投げてくる。ほぼ飲み物で占められた冷蔵庫の棚からビールの缶を一本抜き、ハルはスクリーンの前に戻った。
ビールをレイに渡し、コーラのプルタブを引く。ふたりはどちらからともなく缶を触れ合わせ、目を見交わした。
「ミセス・メアリー・デイジーの旅立ちに」
「乾杯」
コーラは冷たく、はじける泡が舌に少し苦かった。
レイの祖母は、その自由な精神を象徴するかのように、宇宙葬を選んだ。一緒に見送ってほしいとレイに頼まれ、ハルはレイのアパートメントに来ていた。
ガス単車を置くガレージのために、公務員宿舎ではなく民間で借りたという家具付きの部屋は、広さもそこそこ。暮らしぶりはシンプルというより質素で、はじめて来たときは驚いたものだ。それは金の節約とは関係なく、レイには生活の質へのこだわりというものがないからだと、つきあううちにわかってきた。
『射出三分前です』
アナウンスが流れ、スクリーンの右上にカウントダウンの数字が表示される。
ふたりは無言でスクリーンを凝視する。そのとき、画面に薄く緑色の幕が刷いたかと思うと、みるみるうちに全天に広がって、静かに、ときに激しく炎を揺らめかせた。
オーロラだ。ハルはコーラを飲むのも忘れて立ち尽くし、淡い緑の光の乱舞に見入った。
カウントダウンが終わり、数字がゼロになる。数秒後、スクリーンの端にまぶしいプラズマの輝きが現れた。揺らぎながらオーロラと画面を切り裂いて、流星が空を翔ける。途中ではじけ、分裂した細かな星たちは、それぞれが長い尾を引いて光をまき散らし、やがてひとつひとつ消えていく。
最後の星が消滅し、濃紺の空にオーロラだけがゆるやかに舞うスクリーンを、どれほどの時間眺めていただろう。
「……ありがとうございました、先輩。祖母も喜んでいると思います」
レイの声は平静だった。
地球の低軌道にある宇宙ホスピスで生涯を閉じたメアリー・クラークは、遺志に従い、同じく低軌道上を周回するユニバーサル・フューネラル・シップ――UFSに送られた。
二十二世紀を目前にして、地球連邦の人口は百億に迫り、月面や軌道域の労働者はいまや十万人を超える。それらの人々も当然、地球上と同様に――むしろ割合としては地球上よりも多く、怪我や病を得て死に至る。月面に墓地はなく、宗教上の要請がなければ、宇宙での死者は宇宙で葬られるケースが増えていた。といっても、そのまま遺体を宇宙に流してしまっては、たんに宇宙ゴミ――スペースデブリが増えるだけだ。
UFSで、遺体は特殊硬化パルプの棺に納められ、北極近くの公海上で大気圏に射出される。そして流星となって燃え尽きる。日に何億個と地球に降り注ぎ、流星になる細かな塵と同化して、人は母なる星に還る。
希望すれば、UFS内部からの中継を受けて〝最後のお別れ〟もできるのだが、レイの祖母はそれを拒んだ。自由な魂だけを携え、極北の冷たい空で星となる道を選んだのはいかにも彼女らしいと、ハルには思えた。
聞けば、レイの父親は最後まで宇宙葬に反対していたという。遺言に反しても遺体を地上に戻し、盛大な葬儀で埋葬したいと主張したのを、レイが説得してあきらめさせたそうだ。いまふたりが見たものと同じ、北極圏の小島にある基地からの流星の映像を、サイラス・クラークもグリーンヒルの広大な屋敷で見ていたはずだった。
「ちょっと電話してきます」
レイがリビングの続きのベランダに出て、ガラスのスライドドアを閉めた。かけた相手は父親だろう。ハルはソファに腰を下ろし、まだオーロラが揺らめいているスクリーンをぼんやりと眺め、ぬるくなったコーラを口に運んだ。
ハルの祖母も明るい女性だった。思い出すのは笑顔だけだ。いつも陽気な歌を口ずさみ、勤めていた学校でも人気者だった。亡くなったのは突然で、心臓が悪かったのだとはあとで知った。
ハルはコーラの缶を前のローテーブルに置き、身分証から日本のコインを取り出して眺めた。
祖母の死後、父親はふさぎがちになった。翌年、勤務先の商社でなにか大きなミスをしたことがきっかけで、自ら命を絶った。ふたりが埋葬された墓地はハリケーン・ジャネットの洪水で泥土の下になり、母親と弟はハルがまだ病院で昏睡しているあいだに火葬に付されて、灰は市の共同墓地に眠っている。
しばらく忘れていた死の影が忍び寄ってくるのをおぼえ、ハルは産毛の立った腕をこすった。
ベランダではまだレイが電話で誰かと話している。こちらに背を向けて手すりに寄りかかり、ときおりうなずくたびに、襟足を伸ばしたしっぽが揺れる。
ハルはコインをテーブルに置き、胸のポケットから封筒を出した。ルナホープ行きのチケットを取り出して眺める。
これを使いたいなら、その前にしなければいけないことがある。
ベランダのドアが開く気配がした。ハルが封筒をふたたび胸ポケットに収めたところにレイが戻ってきて、やれやれといった顔で肘掛け椅子に腰を落とした。
「父が号泣してしまって。慰めるのもひと苦労だ」
「おまえは泣かないのか? 肩を貸してやるつもりで来たのに」
「まだ祖母がいなくなったっていう実感がわかないんですよね。なんというか……呼べば返事をしてくれそうな気がして。むしろ、宇宙ホスピスにいたときより存在が身近に思えるんです」
レイはスクリーンに目を向けた。オーロラはさっきより勢いを弱め、色も薄くなっている。
「……〝太陽があって、風が吹いていれば〟」と、彼はつぶやいた。
〝明日が来て、また新しい一日に会える〟
宇宙ホスピスの窓からオーロラを眺めながら、老婦人は歌うように言った。
ハルは無意識に親指の爪を噛んだ。
「あ、日本のコイン。ちょっと貸してください、今夜は月がきれいですよ」
ハルが返事もしないうちに、レイはテーブルからコインをとって、またベランダに出ていった。ハルはゆっくりと立ち上がり、月光の差す表をガラス越しに見た。手すりに寄りかかってコインを空にかざしているレイに、幼い弟の面影が重なる。
弟もよく、こんなふうにコインを月に向けていた。欲しがっていたのに、ハルはついに弟に譲らず、自分のものにしたままだった。
はじめてレイに会った日も、モノレールのなかで弟のことを思い出したなと、なつかしさにとらわれる。十五年前のあの日、弟は車両のいちばん前で文字通りガラスに張り付いて、軌道の先を眺めていた。半月を模した特徴的な市庁舎の建物が見えてくると目を輝かせ、ハルを見上げた。
あそこに楽しいことが待っている。うれしいことを体験できる。帰りには両手いっぱいのお土産を持って、またモノレールに乗れる。そんなことを、母親と同じ明るい茶色の目が語っていた。厳しい避難所生活のなかでも、弟はいつも楽しげだった。
帰りのモノレールに乗ることはないのだと、そのとき誰が思っただろう? 軌道の先に未来はないのだと、誰が知っていただろう?
ハルはベランダに出て、レイの隣で手すりに寄りかかった。夜空を見あげ、満月かと考える。ディックの家で満月を見てから、およそひと月ということだ。
「何度見ても不思議だな」
隣から、レイの感心したような声が聞こえてくる。
こいつ、ほんとにガキだよなと内心であきれながら、ハルは口元に苦笑をのぼらせた。
「それ、やるよ」
「えっ?」
「相当気に入ってるみたいだし。マンダラ・クリスタルの代わりだ」
「でもあれは拾得物ですよ? これは先輩の大切なものでしょう。もらうなんて――」
レイはあわてた様子でコインをはさんだ手を下ろし、その手をハルのほうへ差し出す。ハルはコインをレイのてのひらに落とし、両手で包んで握りこませた。
「持ってろよ、きっといいことがあるから」
これも縁なんだろう、とハルは続けた。
「俺の弟、生きてればおまえよりひとつ下のはずだ。おまえを見てるとさ、弟を思い出すんだよ。モノレールが大好きで、そのコインも欲しがってた。もうあいつにやることはできないから、代わりにもらってくれないか」
「だけど……」
レイは拳を開き、てのひらのコインに視線を落とす。
「ミセス・クラークのくれたチケットで月に行ったら、そのコインを地球に重ねてみろよ。そうするとなんと! 地球はコインと同じ大きさなんだぜ? 信じられるか? 地球の直径は月の四倍で、そのコインの直径は穴の四倍だからな。すごい偶然だろう? こういうのを縁っていうのさ」
レイが目を上げて、ハルを見つめた。
「ミセス・クラークは、そのコインには宇宙があると言っていた。もしかしたらマンダラ・クリスタルより希少かもしれないぞ。空にかざすだけで、ミセス・クラークの声が聞こえてくるんだからな」
「先輩……」
青白い月光が、レイの金髪と海の色の瞳を闇から浮かび上がらせている。その目から涙がこぼれ落ちるのは、一瞬のことだった。
レイは顔をそむけ、コインを握った手の甲で目をぬぐった。
予想もしなかった反応に虚をつかれ、ハルは言葉を失う。
「……すいません。子供みたいですよね。なんか……祖母が亡くなった実感が急にわいてきて。大好きだったんです、祖母のこと。もう……会えないんだ。電話しても、出てくれないんだな……」
手すりに置いた手の甲に額を押しつけ、レイは低い嗚咽にむせんだ。
自分も目の奥が熱くなるのを感じながら、ハルはそっと後輩の肩に腕を回した。
「なあ、一緒に行こうか、ルナホープに。ミセス・クラークはきっと、そのつもりで俺たちにチケットをくれたんだろうから。ウサギみたいに跳ねて月を一周して……」
「……クレーターの底を探検して、宇宙人の船を見つける?」
「そう。そしてバードマン・ケージで鳥になる。連邦賛歌はパスだ。あの辛気くさい歌は好きじゃねーし」
「残念だな。ぼくは好きなのに」
レイは顔を上げて苦笑し、洟をすすりあげて、震える長い息を吐きだした。
「……大切にします」
「おう。なくすなよ」
なだめるように軽く背中をたたいてやると、レイは恥ずかしそうに肩をすぼめた。