(5)
十五年前の八月。レベル5に発達したハリケーン・ジャネットは、中心最低気圧八七六ヘクトパスカル、最大風速八五メートルという猛烈な勢力で北米南部に襲いかかった。いくつもの都市が竜巻を伴った凶悪な暴風雨の餌食となり、セントレアも例外ではなかった。高潮とセントレア川の氾濫で市の全域が水に浸かり、沿岸の市街の一部では多くの家屋が濁流に流された。
ハルは当時十一歳。商社に勤めていた父親を前年に亡くして、母親と五歳年下の弟は自分が守らなければと、子供ながらに責任を感じていた。海沿いの一軒家に住んでいた三人は、激しい風雨をついて高台に避難した。命は助かったものの家屋は流され、すべてを失って、避難所生活を余儀なくされた。
「暮らしは不自由だったが、大変なのは俺たちだけじゃなかったし。そのうちなんとかなるだろうって、割と楽観的だったんだ」
ハルは当時を思い出し、無意識に爪を噛んだ。
「市の中心部の水が引いて援助物資が行き渡りはじめ、連邦政府の偉いさんが次々に視察や見舞いに来た。そんななかで、子供たちを慰めるとかいう催しがあった」
モノレールもただで乗れる。乗り物が好きな弟は喜んだ。母親と三人で避難所を出発し、モノレールに乗って、催しのある市庁舎前の広場に出かけた。ハンバーガーやホットドッグ、ソフトドリンクや菓子類が、被災者には無料でふんだんに配られた。
「おもちゃや衣類、文房具ももらえて、俺も弟も大喜びだった。広場の壇上では州選出のなんとかって議員がしゃべってて、そいつと仲のいい連邦の副大統領が見舞いに来てくれたと自慢してたが、弟が疲れたというので俺たちは帰ろうとした。そのとき、俺と同じ避難所で暮らしてたくそガキが、俺の手に女物のワンピースを押しこんで言ったのさ。〝デイジー、これをやるよ、おまえに似合うぜ〟」
それまで黙って話を聞いていたレイが、苦笑して首を振った。
「その年頃にはありがちですよね、そういういじめ」
「だな。いつもそいつにからかわれて、俺は頭に来てた。当然、猛烈に怒って追いかけた。母親と弟は置き去りにして。そいつに背中からタックルして地面に転がした。爆発が起きたのはそのときだった」
「爆発……」
レイは体を起こし、ハルの顔をのぞきこむ。
「副大統領を狙った爆弾テロだったと、あとで知った。二十人以上が死んで、俺の母親と弟が巻きこまれていたとわかったのも、十日後に病院で目が覚めたときだ」
「……なんて言えばいいのか」
ハルは息を吐いた。
「平和と希望? 皮肉だな。あのとき奴に呼びかけられなければ、俺は母親と弟と一緒に駅に向かっていたはずだ。ふたりは死なずに済んだかもしれない。あるいは……俺も一緒に死ねたかもしれない」
レイが探るようにハルの目を見つめた。
「死にたかったんですか?」
「……どうして自分だけ生き残ったのかって、そればかり考えていた時期はある」
ハルは市警の身分証をベルトからはずし、裏ポケットから写真を出してレイに渡した。古いフォロ画像の写真には五人の人物が写っている。それをレイは、電話が終わった携帯端末のディスプレイの明かりに照らした。
「これが先輩の家族?」
「ああ。スーツを着てるのが親父だ。左隣はばあさん、右隣がおふくろ、その膝の上にいるのが弟。俺は八歳だった」
父親は、面差しがハルによく似ている。母親はやわらかな栗色の髪を長く伸ばしていて、膝の上にいる弟は母親にそっくりだ。
「親父もばあさんもまだ生きてたころに撮ったものだ。日本のコインと一緒に財布に入れていたが、ハリケーン・ジャネットの洪水で、家と一緒に流された。それが災害の遺失品保管所にあると、ある男が教えてくれたのは五年後のことだった。これを見たら、まじめに生きなきゃって気になった」
「……必要なものは戻ってくるって、さっきキャロラインが言っていたのは本当なのかもしれませんね」
感心したようにつぶやいて、レイは続ける。
「ある男というのがサイモン・スタージョンなんですね、半年ほど前に亡くなった」
「サイモンを知っているのか?」
「署内の噂話で。ベータ班のエースだったって聞きました」
ハルはうなずいた。
「優秀な捜査官だった。ネオ・エルドラドのあたりには捜査でよく来ていたから、俺もサイモンの顔を知ってはいたんだ。彼は、たまたま遺失品保管所で写真を見かけて、ぴんときたんだと言って笑った。そしてこれもなにかの縁だと、当時不良仲間とつるんで目標もなく過ごしていた俺の後見人になってくれた。俺はサイモンに憧れて警察官になったのさ」
「サイモンは先輩の恩人ってわけですね」
「ああ。いまの俺があるのはサイモンのおかげだ」
「自殺と聞きましたけど」
「俺は信じちゃいないんだ。サイモンは自殺するような男じゃなかった……俺の親父とは違って」
写真を返しながら、レイが遠慮がちに尋ねた。
「じゃあ、先輩のお父さんは……」
「ハリケーンの前年に自殺した。前年から落ち込みがちになっててね」
ハルは写真をもとの場所に押しこみ、代わりに日本の穴あきコインを取り出してじっと見つめた。
「こんなふうに話すと不幸を自慢してるみたいでいただけないな」
「……先輩は間違ってますよ」
「なにがだ」
「おばあさんのつけてくれた名前を嫌ってること。その名前は先輩の命を救ったんだ。もしかしたらいじめっ子も一緒に」
「……感謝したことはないな」
ハルはコインを拳に握りこんだ。
サイモンに拾われるまでの五年間は、孤独という言葉の意味を痛みとともに全身に刻んだ時間だった。触れるだけで皮膚が切れる、研ぎすまされたナイフのようだとクリスチャン・キングは言った。あのまま彼の息のかかった不良グループにいたら、いまごろは殺し屋になっていたかもしれない。闇の世界から抜け出し、こうして市警で捜査官をしていられるのも、サイモンの助力があればこそだった。
爪を噛んでいたことに気づき、ハルはあわてて指を口元から離した。
「サイモンは殺されたんだと俺は思ってる」と、自分に言い聞かせるように言った。
「殺された?」
レイに驚いたように返され、ハルはわれに返る。自分は恩人の死の真相を探っていたはずだった。だが……仇を討って、いったい誰が喜ぶのか。
左腕のダイブウォッチをそっと撫で、ハルはコインを身分証の裏に戻した。
「忘れてくれ。俺がそう思いたいだけだ。……そろそろ行こう」
立ち上がり、レイに手を差し出す。
ハルの手につかまって立ったレイは、ジーンズの尻についた砂を払い、ハルに背を向けた。
「背中の砂、落としてくれませんか」
「ずうずうしいな。先輩を使うのか」
「バイクによけいな砂をのっけたくないんですよ」
「ビーチ沿いに置いてるだけで砂かぶるだろう」
「それはそれです。先輩もよく払ってくださいよ? ヘルヴァに怒られる」
仕方なく砂を払ってやる。
「おまえ、しっぽも砂まみれだぞ」
「しっぽだなんてひどいな」
レイは金髪の長い襟足を結わえていたゴムを取り、無造作にかき乱して砂を落とした。
「それ以外にどう表現しろというんだ。一度訊きたかったんだが、イケてると思ってやってるのか?」
「似合ってるでしょ?」
しれっと訊き返してくる。どういう自信なのかと、ハルは心中で首をひねる。しかし、レイのような恵まれた容姿なら、どんな髪型でも似合って見えるのは事実だった。これを自分がしたら、頭がおかしくなったと思われるに違いない。
「まあ、否定はしないけどな」
「褒められた!」
「褒めてねーよ」
レイは髪を指ですいただけで、またゴムで結わえた。
「もう切ろうかな。手入れも面倒だし」
言いながら、携帯端末を拾い上げて息を吹きかけ、表面についた砂を飛ばす。
「こだわってるわけじゃないのか」
「父がいやがるから始めただけで。きちんとしていないと家の恥になるってうるさいんですよ」
通りのほうへ歩きながら首を振ると、しっぽが揺れた。
「金持ちなりに苦労があるんだな」
「この程度のことを苦労なんて言ったら、本当に苦労してる人に申し訳ないです」
どこまでもまじめな奴だ。ハルは思わず苦笑した。残念ながらいまの市警察という組織には合わないが、この男ならマイペースで、怒ったり笑ったりしながら乗り切っていくだろう。
要するに、レイは本人がどう思おうと立派な〝はみ出し者〟で、特捜班には来るべくして来たと言えそうだった。
◆
翌日の朝、ハルは自分の席に行く前に、上司のオフィスのドアをノックした。ガラスのドアを開けると、アーケイディアがディスプレイから目を離し、けげんな顔をハルに向けた。
「デイビス。今朝は早いのね」
「時計に頼るのをやめたんで」
ハルはなにも巻かれていない左腕を示した。意味を察したらしく、アーケイディアは薄くほほえんだ。
「ちょうどよかった。呼ぼうと思っていたところよ。きみの用はなに? 仕事が多すぎるって苦情ならあさって来なさい」
いつもながら容赦がない。
「相談があるんです」
ハルは部屋に入ってドアを閉めた。上司は椅子を少し後ろに引いて背に寄りかかり、すらりとした脚をおもむろに組む。
「厄介なこと? それとも面倒なこと?」
「どっちか限定なんですか?」
「それ以外の相談なんて、きみにされた記憶がないもの」
うなじに手をやり、ハルは目をそらした。
「……レイの――クラークのことで」
いざとなると、口にする勇気がなかなか出てこない。
「また組ませてくれ、と言いたいの?」
ハルは視線を上司に戻した。アーケイディアがふっとまなじりを下げる。
「俺の浅慮のせいであいつを危険な目に遭わせたのは、許されることじゃありませんが……」
「ねえデイビス。鳥ってね、卵の殻を破っていちばんはじめに見たものを親だと思いこむのよ。そして親を頼って守られて、真似をして大きくなって、巣立っていく」
唇を噛み、目を伏せたハルを見つめて、アーケイディアは組んでいた脚をほどいた。
「きみのはばたきが彼の手本になる。新人を育てるってそういうことよ」
きみには言わなかったけれど、と上司は続けた。
「クラークがきみのリミッターだったように、クラークにとってもきみがリミッターになるだろうと期待していたの。あの子の履歴と警察学校を目指した経緯を見れば、きみに似て不安定なタイプだと――ほうっておくと暴走すると想像がつく。案の定だった。どうしてわたしのところにはそういうのばかり集まるのかしら」
ばつの悪さを隠して、ハルはちらりと上司を見た。目が合うと、アーケイディアはにやりとした。
「相乗効果で暴走がエスカレートする可能性もあるのに。まったく、自分の判断が信じられないわ」
「……じゃあ……」
ハルは顔を上げた。
「いい? またレッドカードなんていう事態になったら次はないわよ? ストレスの種が増えるのはごめんだから。これ以上、体重を増やすつもりはないの」
アーケイディアは口をとがらせてみせた。机に椅子を寄せ、ディスプレイのフォルダを指ではじく。
「ふたりなら、あと三件くらい持てるでしょ?」
ハルは苦笑してうなずいた。
「一件くらい厄介でも面倒でもない案件があることを希望します」
「蓋を開けてのお楽しみよ」
「了解。ところで、主任のほうの用というのはなんです?」
美貌の上司はつかのまハルを見つめて、首をかしげた。
「クラークがさっき、わたしのところに来たの。またきみの下に入れてほしいって」
◆
ハルが特捜班の島に行くと、レイの机の上で緑色の生き物が所在なげにたたずんでいた。
「アルジャーノン」
声に反応して、トカゲはハルのほうに顔を向ける。
島にはほかに誰もおらず、ハルは密かにため息をついて椅子に腰を下ろした。トカゲが羽をばたつかせながら机を渡り、肩に飛び乗ってくる。喉を撫でてやってから、ハルはDフォームにディスプレイを繋いだ。しばらく集中して資料を読みこむ。
「先輩、おはようございます」
腹立たしいほどさわやかな声とともに、机にペーパーカップが置かれた。合成コーヒーの香りを吸いこみつつ、ハルは湯気の向こうの男を見上げた。
「おう、おごりか?」
「まさか。コーヒーを買おうとしたらまた自販機に反乱を起こされて。直してくれた総務の女性が、サービスって言って二杯くれたんですよ。さすがに二杯はいらないんで、お裾分け」
レイは涼しい顔で言い、自分のカップを口元に運んだ。
こいつは女の敵だなと、ハルは胸の内でため息をもらす。おそらく、自販機の性別は男なのだろう。
「そういえば、半年掃除してないプールの水ってどんな味なんですか? やっぱり苦い?」
「知らん。んなもん飲んだら、いくら俺さまでも腹壊すだろ」
飲んでなかったんだ、とレイはつぶやいた。ハルはコーヒーをひと口飲み、顔をしかめてディスプレイをにらんだ。
「熱くてもくそまずいな。レイ、主任から新しい案件をもらってきた。共有にしたから確認しろ。打ち合わせして捜査にかかる。早いとこ片づけて、今度こそニコラで昼飯だ」
返事がないので、ハルはかたわらに立つ男の顔に視線を向ける。レイは驚いたように青い目を見開き、カップを口元に当てたまま凍りついていた。
「……舌でも火傷したか?」
レイはカップを口から離し、首を振った。
「先輩、いまなんて?」
「ニコラで昼飯」
「その前ですよ」
「打ち合わせして捜査にかかる」
「もっと前」と、じれたようにレイが促す。
「熱くてもくそまずい」
「前に行きすぎ!」
レイの言いたいことはわかっていたが、気恥ずかしくて、ハルにはまともに答えられなかった。名前で呼ぶという程度のことで、こんなにうれしそうな顔をされても困る。
まったく、子供の相手は疲れる。けれど、そのこそばゆさがなぜか、妙に心地よかった。
「先輩、ぼくも先輩のことハルって呼んでいいですか?」
「調子に乗るな、十年早い」
ハルがぷいと顔をディスプレイに戻すと、レイは口をとがらせ、ハルの肩からトカゲをさらって自分の肩に載せた。
祖母が亡くなったとレイから知らせを受けたのは、それから十日ほどあとのことだった。