(3)
「ラボで分析してもらったら、正真正銘の、ただの色つきガラスだと言われたよ」
レイのマッハ・ダイナスティでディックに教えられた女性メンターのところへ向かうあいだに、ハルは報告した。なんの変哲もない、二酸化ケイ素と酸化ナトリウム、酸化カルシウムが主成分の、古代からあるソーダ石灰ガラスだった。
「月産でもない地球産だとさ」
「そうなんだ。月産のガラスなら、まだ神秘な雰囲気もあるのに」
「調べたところ、色によっては二万UDで取引されるらしい」
「ルナホープ行きのチケットが二枚買えますね。何色が高価なんですか?」
「赤。だが使う人のオーラと共鳴するとかで、色によらず自分に合う〝唯一の存在〟があるんだそうだ」
よくわからん世界だと、ハルはぼやく。
《マンダラとは東アジアで主に信仰されている仏教にまつわる絵画芸術です》
ヘルヴァが歌うような声で口をはさんでくる。
《ブッダの姿や浄土の風景、サンスクリット文字などを多数配置して、複雑に重なり合う独特の世界を表現しています》
「その〝唯一の存在〟を瞑想に使うと、複雑に重なり合う世界を――時空と次元を超えて、遠く第三銀河の果てに存在する思念エネルギー体であるところの〝誇り高き光〟とレゾナンスして、インスピレーションあふれるスピリットでハイバイブレートな会話ができるそうだ」
途中からは棒読みだった。
「すごい! 先輩、四次元生命体語の解読に成功したんですね。ほんのちょっとだけですが、なんとなく意味がわかったような気がしなくもないです」
「気のせいだろ。言ってる俺がさっぱりわかんねーんだから」
「要するに宇宙人と話をするための道具ってことですよね?」
「要するに霊感商法だろう。うさんくさすぎる。カサンドラ・ビジョンと同じで、まごうかたなき詐欺商品だ」
ハルが力をこめて断じると、レイは笑った。
「先輩もお人好しだな。それでも持ち主を探すところが」
「ディックにあそこまで言われちゃ、捨てるわけにもいかない」
落とし主が半狂乱になっているとなれば、返してやるのが市民の味方、おまわりさんの義務だろう。
「それにしても、ディックにあんなディープな趣味があるとは思いませんでした」
人は見かけによらないなと、レイはつぶやく。
ディックは鉱石の持つ神秘の力を信じ、日々の生活に取り入れているのだ。よい夢を見られる石を枕の下に入れ、願いのかなう石をお守りにして持っている。
「あれは趣味を突き抜けてもはや宗教だ。マンダラだかダンダラだか知らんが、ただのガラスに一万UD払うとか、あり得ねぇ。それでカミさんに逃げられてんだから世話ないぜ。面会日に息子に会うときは、石の話は御法度なんだとさ。当然だ」
辛辣にハルは言う。幸福を追求して幸福に逃げられるなんて、彼に言わせれば愚か以外のなにものでもなかった。
「信教の自由は地球連邦憲章で保障されてますよ。それに離婚の原因は趣味だけじゃないんじゃないかな。男と女って……うまくいかなくなると理由を探すものじゃないですか?」
いかにも経験がありそうな口調だ。ハルは目の前の男の表情を知りたかったが、運転中ではヘルメットの後ろとその下にはみだした金色のしっぽしか見えない。
《ミスター・デイビス》と、ヘルヴァが話しかけてきた。
《連邦宇宙科学研究所のデータベースで調べたのですが、第三銀河に該当するものが見つかりません。第三銀河はどこにあるのでしょうか? 第一と第二はどこに?》
「なあヘルヴァ、俺の言葉は全部記録してるんだろ?」
ハルは聞こえよがしのため息をついた。マンライクな対応を目指す自律学習型のAIとして、ヘルヴァは人間との会話をすべて記録して蓄積し、次にどう反応するかの材料にしている。
「もう一度よく文脈を確かめろ。そうするとな、こいつが壮大なホラだってことがわかるから」
《しかし、そうは言い切れないのではありませんか? 人類がまだ認知方法を発見していないだけで、次元の違う世界やパラレルワールドが存在する可能性はあります》
「その柔軟な思考には敬意を表するがね、ヘルヴァ、ただのケイ素の塊が別次元との交信手段になり得るなら、人類はとっくに認知方法を入手しているんじゃないか? 現実にメンターなる人物もいるんだし、いくらでも調査分析できるだろ」
ヘルヴァは黙りこんだ。返す言葉を探しているような間が、このAIをマンライクに感じさせるひとつの要素だなとハルは考える。意図してプログラムされたものなのだろうか。
あんまりヘルヴァをいじめないでくださいよ、とレイが口を出してくる。
「いじめてない。鍛えてるのさ」
「先輩の鍛えてるってのはいじめと同義語でしょ」
《マスター、わたしは学習しています》
凜とした声で、ヘルヴァは主張する。
「ほらな?」とハルが自慢げに同意を求めると、レイはあきれたように息を吐き、首を振った。
◆
マンダラ・クリスタルについて熟知しているという〝メンター〟キャロライン・ブラウンの家は、なんの看板も表札もない、ありふれた豪邸だった。強いて言えば、グリーンヒルに立ち並ぶほかの屋敷にはない電波塔のようなものが屋根から突き出しているのが変わった点だ。途中でレイが、「ここがぼくの実家」とこともなげに言って通り過ぎた屋敷の巨大さに比べれば、じつにかわいらしい部類だった。
家のなかは非常に簡素だった。真っ白な壁にはいっさい絵画などの装飾はなく、家具もほとんどない。案内された客用のリビングは、白い大理石の床にアイボリーの無地のラグが敷かれ、大小さまざまなシルクカバーの、色とりどりのクッションが無造作に置かれていた。ほのかにエキゾチックな香りがするのは、なにか香でも焚いていたのか。
「インスピレーションで、色や大きさを選んでください」
キャロラインがクッションを手振りで示すと、腰まで届く長いストレートの黒髪がさらりと揺れた。
「それがあなたの未来を判断する材料のひとつになります」
「占いをしてもらいに来たわけじゃないんだ」
ハルは胸のポケットからガラス片を出す。その瞬間、キャロラインの目が見開かれた。
「これを知ってるのか? なら話が早い」
ほっとしながら、ハルは差し出された女性の華奢なてのひらにガラス片を載せた。
「帰ってきたのですね……」
感慨深い口調でつぶやき、キャロラインはそっとガラス片を拳に握りこんで目を閉じた。口のなかでなにかひとしきりつぶやいてからてのひらを開き、その上にもう片方のてのひらを重ねて、またなにかをつぶやく。
〝儀式〟が終わるのを、ハルはじりじりしながら待った。
ようやく女性が目を開け、澄んだすみれ色の瞳を満足げに輝かせた。
「いまのはなんだ?」
「このマンダラ・クリスタルを浄化したのです。さまざまな人の手を経て、バイブレーションのレゾナンスがローフェイズに落ちていましたので」
やはり四次元生命体語は理解不能だ。ハルは気を取り直して言う。
「これはあなたのものということでいいのかな。だったらたしかに返したから、俺たちはこれで――」
「いいえ、わたしのものではありません」
勘弁してくれ! ハルは思わず心のなかで叫んだ。うさんくさい品物の持ち主を探すという気の乗らない任務から、一刻も早く解放されたい。
「でも持ち主を知ってるんですよね? でしたら、あなたからその人に返してあげてもらえませんか?」
隣から口を出したレイが、天使のように見える。
「ぼくらはその石をたまたま拾っただけなんで、早く価値のわかる人の手に戻してあげたいんですよ。それが石にとっても幸福だと思うし。ぼくらが持ってると、またバイブレーションのレゾナンスがローフェイズに落ちて、第三銀河の誇り高き光を受け取れなくなるかと……」
なにやらレイも四次元生命体語をしゃべりだしたような気がしたが、寛大な心で許すことにした。相手を納得させて石を引き取ってもらえるなら、過程はどうでもいい。
「ところで、第三銀河ってどこにあるんですか? 第一銀河と第二銀河は――」
ハルは思わずレイのしっぽをつかんでぐいと引っぱった。
「いたたっ! なにするんですか!」
怒って振り向いたレイの首に腕をかけて引き寄せ、女性に背を向けて、後輩の耳にささやく。
「あほか! んなこと突っこんで聞いてどうすんだ。話が前に進まねーだろ?」
「でもヘルヴァが知りたがってたから」
「あのな、これは壮大なホラなんだよ。全部デタラメのインチキなんだ!」
ふぅ、と背後から大きなため息が聞こえて、ふたりはぎくりとして振り向く。黒髪の女性と目が合い、ハルは曖昧にほほえんだ。
キャロラインはあきらめたような笑みを返し、大きな紫色のクッションをとって腰を下ろした。
「どうぞ、座ってください。話が長くなりそうだわ」
長くなるのか。ハルは天井を仰いだ。そこでふと、頭上に夜空が広がっていることに気づいた。またたく星と、天を横切る霞のような銀河が見える。
「ガラス、なのか?」
「ええ。調光ガラスです。必要に応じて、グレートコスモスのエナジーを取り入れられるように」
キャロラインはくすっと笑う。
「こんなことを言うと、慣れない方にはインチキとかデタラメとか言われてしまうんですよね」
「現代の科学で解明できないものは、信じるのが難しいですよ」そう返しながら、レイがモスグリーンのクッションを取ってきて座った。
ハルは仕方なく、手近にあったロイヤルブルーのクッションに腰を下ろす。
「……捨てたんです」と、女性が言った。
「え?」
「この石」
キャロラインは、てのひらにのせたブルーのマンダラ・クリスタルをいとおしげに見つめた。
そのとき、部屋の入口から騒々しい足音が聞こえてきて、三人はいっせいにそちらに顔を向けた。戸口に現れた男を見て、ハルは目を見開く。
「あんたは……」
黒革のケースをビーチの交番に届けてきた、四十がらみの禿げ男だ。あのときはサングラスをかけていたが、後退しかけた生え際のラインに見覚えがあった。
男は走ってきたのか、息を切らしながら言った。
「キャリー、クリスタルのバイブレーションを感じて――」
「ええ、戻ってきたわ、ロバート」
キャロラインはマンダラ・クリスタルを掲げて男にほほえみかけ、立ち上がって腕を差し延べた。
「キャリー?」
ハルはつぶやいた。その名前には聞き覚えがあった。そしてはっと気づいた。
ゴールドのマリッジリングに刻まれていた名前だ。
いかにも親しげに抱擁するキャロラインと、ロバートという名らしい男を眺めて、レイが髪をかきあげた。
「ぼくたち、邪魔ですかね?」
◆
大切なものを捨てる。
そのことによって心に多大なる揺らぎを与え、レゾナンス能力を高める修行なのだと、キャロラインは説明した。捨てたものは、本当にその人に必要ならいつか戻ってくる。そのときに心はふたたび安定し、一段階上の次元にステップアップするという。
「捨てるのは、命と同等に大切なものでなくてはなりません。わたしは砂浜に指輪を捨てました。ロバートは交番にマンダラ・クリスタルを」
「なんつー人騒がせな修行だ。んなもんは人に迷惑をかけないところでやれ!」
ハルは憮然として抗議し、男に人さし指を向ける。
「だいたい、交番に捨てるってどういうことだ? あんたは拾得物として届けただろう。あとで遺失物として届ければ返してもらえるぞ。それで捨てたことになるのか?」
「いや、こんな価値のあるものを交番に届けて、無事に戻ってくるなんて思わないだろう?」
ロバートにへらりと返され、ハルはいきりたって立ち上がった。
「俺が拾得物をくすねるとでも? きさま、警察官をなんだと思ってるんだ!」
「現にすり替えられた」
禿げ男はバッグから黒革のケースを出し、ふたを開いてみせた。そこにはゴールドのマリッジリングが輝いていた。
「帰ってきたのね……」
キャロラインがつぶやき、手を伸ばしてリングをとった。ほっそりした薬指にはめて、満足げにため息をつく。
「それは……ちょっとした行き違いで――」
分が悪くなって口ごもったハルは、腕をレイに引っぱられてまたクッションに腰を下ろした。
「鍵をかけてあったのに、執念深く数字を合わせて中身をすり替えるなんて。ぼくのマンダラ・クリスタルが欲しかったんじゃないのか?」
ロバートはブルーのガラス片を丁寧にケースに収めてから、レイのほうに目を移し、意味ありげに首をかしげる。
「目の色と同じマンダラ・クリスタルはオーラとレゾナンスしやすから〝唯一の存在〟になり得る。恋人へのプレゼントに――」
「誰だ恋人ってのは!」と、ハルはまたいきりたって遮った。
このしっぽがある後輩のことか? そりゃあかなり整った顔立ちではあるが。
「こいつのどこが女に見えるってんだ? 警察官を侮辱すると――」
「先輩、意味が違うと思います」
レイが口をはさみ、困惑した顔で息を吐いた。
「どう違うんだよ。おまえ、女と間違われてるんだぞ? もっと怒れよ!」
「さすがにぼくを見て女だと思う人はいませんよ」
「は? どういうことだ?」
「ぼくに言わせるんですか? もう、恥ずかしいからいい加減わかってください」
そのやりとりを見ていたロバートが、苦笑して肩を落とした。
「すまなかった。ぼくの誤解だ。じつは、友人が交番でこのケースを偶然見かけて、親切にも取り戻してきてくれてね」
「取り戻しただと? 隙を狙って交番から盗んだんだろう! おかげで俺は始末書を書かされてさんざんだったんだぞ?」
ハルはロバートの襟元をつかみ、顔を寄せてすごむ。
「その不届きな友人の名前と住所を言え。逮捕して絞めあげてやる!」
「先輩、落ち着いて! ぼくらはいま勤務中の扱いじゃないんですから」
割って入ったレイがハルの手を離させ、ロバートに愛想笑いを向けてから、ハルの耳元に口を寄せた。
「懲罰勤務が明けたばかりじゃないですか。いま一般市民と問題起こすと、ほんとに分署に飛ばされますよ?」
「ロバート、あなたも悪いわ。刑事さんに謝って、もう終わりにしましょう。すべて戻ってきて、修行の目標は達成されたのだし」
やんわりとキャロラインが言い、軽くロバートの頬にキスをした。
「もう夜も遅いわ。いろいろとすることもある……」
「ああ、そうだね、キャリー、スイートハート」
「それにしても、なぜわたしのリングがあなたのクリスタルのケースに?」
ハルはいらだちを抑え、ロバートをにらんだ。
「ふたつとも、土曜日の午前中に交番に届いたんだ。ケースはリングにぴったりのものに見えたから、試しにリングに刻まれていた日付でダイヤル錠を合わせたら、簡単に開いたのさ。中身はただのガラス片だと思って。ちょっとしたいたずら心でリングを入れてみた。そこへパラグライダーが突っこんできて、混乱してるあいだにケースを盗まれた」
キャロラインは感極まったように叫んだ。
「ダーリン、わたしたちの結婚記念日を錠のキーナンバーにしていたの?」
「うん……大切な数字だからね。絶対に忘れないし」
問題にすべきなのはそこじゃないだろうと、ハルは内心で突っこむ。だが苦虫を噛みつぶしたようなハルの顔は、手を取り合ってうっとりと互いを見つめる夫婦の視界には入っていなかった。
「ご迷惑をおかけしました。いろいろとありがとうございました」
ふたりを玄関まで送って、キャロラインは頭を下げた。
「おかげさまで、夫婦の次元も一段階上がったような気がします」
「俺の機嫌は三段階下がったぞ」
しかめっ面で言うハルに、キャロラインは探るような目を向け、ふっと口元をゆるめた。
「……迷いがあるなら、ひとりでかかえこまないで誰かに相談することです」
「なんの話だ」
「気にしないで。ロイヤルブルーのクッションを選んだ人へのアドバイス」
「キーナンバーに結婚記念日を使うのは、他人に推測されやすいのでやめたほうがいいって、旦那さんに伝えておいてください」
親切にレイが言うと、キャロラインはくすっと笑った。
「ためらいを捨てて実行なさい。きっと道が開けます。……これはモスグリーンを選んだ人へ」
「心にとめておきます。ところで、マンダラ・クリスタルで本当に宇宙人と会話ができるんですか?」
女性メンターは顔を上げて、すみれの瞳を銀河に向けた。
「答えはそれぞれの心のなかに」
そしてまたレイを見て、ほほえんだ。
「さよなら、刑事さん。マンダラ・クリスタルに興味があったら、またいつでも来て。特別価格でお譲りするわ」