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ステンレスの解剖台に横たわっているのは、たしかに一週間前にマシンドール・アリスの陰に潜んでいた冴えない風采の中年男だった。不起訴処分になり、医療拘置所から別の医療機関に移されたはずだが。顔には傷らしきものはなく、体にはシートがかけられている。
「レイ、だったわね? 見学したかったなら遅かったわ」
検死官のパトリシア・フィールズが、髪を覆っていたキャップをはずしながら言った。現れた栗色の髪はうなじでまとめられている。
「ぼくの名前を覚えていてくださったんですか。光栄だな」
けげんな表情で、パトリシアは髪をまとめていたゴムをとった。首を振ると髪が広がり、カーリーヘアがふわりと肩にかかる。
「有名人だもの」
「ぼくが?」
彼女は首をかしげ、グリーンがかった茶色の瞳でレイの全身を一瞥した。
「クラークの御曹司、エリート新人、オメガ配属三日目でまさかのレッドカード」
……痛すぎる。顔をしかめたレイに、パトリシアはゆるく笑む。
「よかったわ、完璧な人とはつきあいにくいもの。で、ここへなにをしに?」
「この遺体、ぼくもかかわった事件の犯人だったので、確認に来たんです。自殺らしいと聞いたんですが」
パトリシアは解剖台の脇のテーブルにあるディスプレイに歩み寄り、なにか記入をはじめた。
「他殺の証拠はいまのところないわね。血液検査の結果も合わせれば、死亡原因は睡眠導入剤とアルコールの過剰摂取による急性薬物中毒と思われるわ。力づくでのまされたような抵抗のあとは見られない。自殺か他殺かは、現場の状況との総合的な判断ね」
「エドガー・バージェスの検死もあなたがしたんですよね?」
「ええ。そういえばあなたもハルと一緒に、バージェスの遺体発見現場にいたんだったわね」
ハルの名前を聞くと、レイの胸はちくりと痛んだ。同時に、先週の月曜日にネオ・エルドラドの現場でパトリシアと会ったときの、ハルの反応が思い出された。彼女に関してはほかにもいくつかヒントがあり、ハルと以前につきあっていたのだろうと推察はできた。
「バージェスについてなにか知りたいことがあるの?」
「本当に自殺だったのかと思って。彼には恨みのある者も多かったでしょうからね。軌道エレベーターの誘致の件で、あくどいことをしていたようですし」
「死因は金属弾による頭部の損傷で間違いないと思うわ。射入角度は自らの右手で右こめかみを撃ったという仮定で矛盾しない。争った形跡も抵抗の跡もなかったから、自殺の可能性が高いわね」
説明をしながらも、パトリシアはよどみなく手を動かして仕事をしている。豊かな胸とヒップ、引き締まったウエストのラインは美しく、ただ機能的なだけの検死官の制服でさえセクシーに見える。コンクリートとステンレスで構成された無機質な解剖室のなかで、彼女のいるところだけが光と色を放って輝いているようだ。
〝やわらかくてむちっとした〟というハルの好みは別として、パトリシアに関しては惹かれるのも納得できた。理知的な受け答えや気取らない仕草も好印象だ。
「問題になるとしたら、やはり服装かしらね。ああいった格好で最期を迎えたい人は稀ですもの。あれだけの社会的な立場の人ならなおさら……レイ、聞いているの?」
いつのまにかうっとりと彼女に見とれていたことに気づき、レイは赤面した。しょうがないわね、という表情で、パトリシアは軽く首をかしげる。カーリーヘアが肩で揺れ、化粧っ気のない顔にからかうような笑みが浮かんだ。
「もう五時よ。病み上がりの人は帰って休んではどうかしら」
「……今夜、なにか予定はありますか?」
「え?」
「その……食事でもどうかな、と」
「あなたと?」
「アルコールはドクターストップがかかってるんでダメなんですが」
「ふたりで?」
「軽く。ピザとかハンバーガーとか」
「わたし、来月で二十九歳よ?」
六歳年上か。いや、そんなことは問題じゃない。全然。
「前の彼女とは別れて半年以上になります」
ハルへの遠慮がなかったわけではない。それでも、せっかく訪れたチャンスを棒に振るのはいかにも惜しかった。
パトリシアはアーサー・ケントの遺体を冷蔵庫に収め、ドアを閉めて、そこに背をもたせかけた。
「野球は好き? 今夜は対ブラックサンズ三連戦の初日よ」
「七連勝がかかってますね。大丈夫、今夜もホーガンが打ちますよ」
いたずらっぽくほほえんで、彼女はうなずいた。
「ホットドッグをおごってくれるなら、いいわ。オニオン大盛り、マスタードは控えめでね」
◆
パトリシアはよく笑う女性だった。見た目はおっとりした雰囲気なのに、球場でのはじけっぷりは別人のようで、そのギャップが新鮮だった。
ふたりで声を枯らして応援したおかげでもないだろうが、ホーガンは今日も大当たりで、八回裏のスリーランホームランでチームの大勝に花を添えた。試合が終わると、ふたりはモノレールに乗った。球場に来るのに、レイはマッハ・ダイナスティを使わなかった。趣味に走りすぎた単車のせいで、パトリシアに変人と思われるのは避けたかったからだ。変人という自覚は、レイにもあったのだった。
熱気の残る球場駅を出た車両には、マーリンズ七連勝を祝う市民たちの興奮した声が満ちている。レイは習慣で車両の前に行き、まっすぐに伸びる軌道をガラス越しに見つめた。隣で同様に景色を眺めて、パトリシアはため息をついた。
「楽しかったわ、とっても」
「ぼくもです。球場で観戦するのは久しぶりだったから。やっぱり盛り上がりが違うな」
「勝っているときはとくにね」と言って、彼女は笑った。
「このあいだまでの九連敗はつらかったわ」
「せめて先月からホーガンが頑張ってくれてれば。いまからじゃリーグ戦の優勝争いに絡むのは無理ですよね」
四番バッターの打率、ペナントの行方、ポストシーズンの大物選手の移籍、監督の交替、そんな話をするうちに、車両は線の分岐がある乗り換え駅に着いた。
「じゃあ、さよなら。ホットドッグをごちそうさま」
パトリシアは軽い足取りで、開いたドアを抜けた。ホームに下り、くるりとこちらを向いたところでドアが閉まった。ガラスの向こうで手を振る笑顔には屈託がない。彼女はそのまま乗り換え口のほうへ歩き去った。車両が動き出し、ホームが遠ざかる。
あまりにもあっけなく振られたことに、レイは呆然とした。まったく、歯牙にもかけられなかった。どうやらパトリシアとは野球観戦友達以上の関係にはなれないようだ。
レイはため息をついた。それほどがっかりしてはいないのが自分でも不思議だった。今日は朝から落ちこむことばかりで、最後までついていなかったけれど。
『最低最悪な自分を肯定しろ』
いまようやく、ハルに言われたその言葉が胸に落ちた。
非常に自虐的な気分になってきた。夜はまだ長い。唐突にあることを思い立って、レイはにやりとした。
たまには先手を取るのもいいんじゃないか? 人生はゲームだ。逃げるばかりでは勝てないのだ。