(2)
――その四時間前、午前九時。
鮮やかな緑色の生き物が、目の前を飛んでいた。
レイ・クラークはドア口に立ったまま思わずまばたきして、その生き物を凝視した。どう見ても翼の生えたトカゲだ。
一瞬、アミューズメントパークによくある3Dフォロの空中投影かと考える。だが次の瞬間に否定して首を振った。あり得ない。ここは北米サウスイースト州、ソルブライト郡の大都市セントレア、その中心区域にある市警察署のオフィスだ。
トカゲはコウモリのような皮膜の翼を羽ばたかせ、オフィスに並ぶ机の上空を横切った。そして、窓際を飛んでいた黒っぽいなにかを口で捕らえ、ぱくんとのみこんだ。
げっ、と思わず声がもれたのを、隣に立っていた上司は聞き逃さなかった。
「慣れてちょうだい、クラーク。あれは署のみんなのアイドルだから」
「アイドル、ですか? ゴキブリかなにかを食べたようですけど」
レイは昆虫が苦手だった。亜熱帯域に属するセントレアで昆虫が苦手だというのは、かなりのハンディキャップではあるが、苦手なものはどうしようもない。
「だからアイドルなのよ。セントレアは年々暑くなるから、あの手の奴らが繁殖しちゃってるじゃない? 殺虫剤も効かなくなってるから引っ張りだこよ。昨日は署長室に出張していたわ」
レイの上司であるアーケイディア・バロウズは、波打つ栗色の髪を揺らして言った。机を半分ほど埋めている捜査官たちがトカゲに注意を払う様子はなく、日常の光景なのだろうと思われた。
「さあ、こっちへ来て。みんなに紹介するわ」
歩きだしたグラマラスな美人上司のあとから、レイも机を四つ突き合わせに並べた窓近くの島へ近づく。机のかたわらにはすでにふたりの人物が立ち、アーケイディアとレイを待ち構えていた。レイは事前に署員の名簿を見て、班のメンバー構成を覚えていた。どうやらひとり足りないようだ。
「ようこそ、セントレア市警察特捜班へ」
赤毛をポニーテールにした小柄な女性が、にっこりして手を差し出した。
「あたしはエイミーよ。本名はアンドロメダ・ローズ・ネビュラ。二十五歳、蟹座のAB型、ここに来て三年、好きなミュージシャンはミスター・ブブ、趣味は――」
「お黙り、ネビュラ」とアーケイディアが遮った。
「どうでもいい自己紹介はあとで、個人的にしてちょうだい。忙しいんだから」
「りょーかいです、主任」
エイミーはしゅんとした声になる。
「名簿を見たときに、アンドロメダ・ローズってすてきな名前だと思っていたんですよ。お会いできるのを楽しみにしていました。ぼくはレイ・クラーク」
握手しながらレイが言うと、エイミーはぱっと顔を赤らめた。
「ありがと。でも呼びにくいからエイミーでいいよ。スーパービューティフルなエイミーとか、セクシーダイナマイトでゴージャスキュートなエイミーとか、ずばりぴったんこの形容詞をつけてくれてもオッケーよ?」
「は、はい……努力します」
たじろぎながら、レイは答えた。彼女に合っている形容詞は、かろうじて最後の〝キュート〟だけではないかと密かに考える。
「とりあえず、その大きなヒマワリの髪飾りがスーパーゴージャスですね」
エイミーのポニーテールの根元には、大人のてのひらほどもある黄色いヒマワリの造花がとめてある。赤い髪とのコントラストが目にまぶしい。
「ありがと。名前がローズなのになんでヒマワリとか、突っこまないとこが紳士だね、新人くん。本名はレイモンド・サイラス・クラークだっけ? レイって呼んでいい? クラークだとほら、赤マント青タイツのヒーローみたいだし。それも楽しそうだけどさ。あの公衆電話で着替えるとこ、きみがやったらマジ受けると思う――」
「ネビュラ、口にテープ貼られたい?」
厳しい口調で上司に遮られ、エイミーは口に手をあてた。
「すみません、主任」
レイは、この班が〝はみ出し者の吹きだまり〟と称される理由の一端を見た気がした。
警察学校を同期トップで卒業し、二か月の分署研修を終えて配属された先が特別捜査班だったのには、正直に言えば驚いた。いや、もっと正直に言えばがっかりした。強盗や殺人などの凶悪犯罪を担当する花形部署、アルファ班に警察学校時代の友人が配属されたのが、落胆に拍車をかけていた。
特捜班は署内で、最後を意味する〝オメガ〟班と暗に呼ばれているという。その名にふさわしく、他の班から見捨てられた事件や、事件というより悪ふざけといったほうがいいレベルのものも持ちこまれる。
しかし、配属先は選べないし、文句は言えない。ゆうべ祖母に電話でこぼしたら、すべてはいまのあなたに必要なことなのよ、といつものように柔和な笑みで諭された。祖母によれば、どんな経験も出会いも、人生を前へと進むための大切なステップなのだった。
「わたしはディック・フィリップスだ。よろしくな」
レイが次に握手したのは、五十がらみの大柄な黒人男性だ。太い腕には赤い半貴石のブレスレットがはまっている。
「人員が足りなくて困っていたところなんだ。きみのような優秀な若者が来てくれたなら百人力だ。期待しているよ、レイ」
グローブのような手でつかまれてぶんぶんと振られる。歓迎されているらしいとわかり、レイはうれしくなって、配属先に不満を持ったことを反省した。
「ご期待に応えられるよう頑張ります」
「わたしのことはディックと呼んでくれ」
「デイビスはまだ来ていないの? 今日は遅れるなと言っておいたのに。勤務評定にマイナスつけてやらなきゃ」
アーケイディアがいらだった口調で言い、胸の前で腕を組んだ。豊かな胸が盛り上がり、組んだ腕のなかでたぷんと揺れる。真紅のブラウスの深いV字の襟ぐりからのぞく白い肌、そして贅沢な谷間に、ディックとレイの目が釘づけになる。
そのとき、駆け足の足音がオフィスの入口のほうから近づいてきた。レイは美人上司の魅惑的な胸から目を引きはがし、足音の主へ顔を向けた。
「なんだよ、もうはじまってたのか。時間早くないか?」
黒い半袖シャツに黒のジーンズ姿の男が、左腕に巻いた古びたダイブウォッチを見ながらディックの横に立った。その肩へ、羽音をたてながら緑色のトカゲが舞い降りる。
「よしよし、アルジャーノン、よくやったな」
いとおしげにトカゲの背を撫でる男は、短い黒髪に黒い瞳で、ラテン系と思われる容貌だ。肌は浅黒く、着衣も上下黒。つまり全身黒い。そこに唯一、エメラルドのように彩りを添えているトカゲは、名をアルジャーノンというらしい。さっきよりも明らかに大きい獲物を口の両側からはみ出させたまま、トカゲは喉の奥でケケッと自慢げな声をたてた。
「うん、でかいのはわかった。俺はもう見たから始末していいぞ」
男が言うと、トカゲは首を振って獲物を空中でくわえ直しながら、頭から丸のみにしていった。昆虫がつぶされる、ぐしゃ、ぶちゅ、というグロテスクな音に背筋がぞわぞわして、レイは思わず身震いした。白状すると、爬虫類も苦手だった。ぎょろりとした表情のない目が、どうにも好きになれないのだ。
「なんだ新人、虫が嫌いなのか」
蔑むように言って、黒い男はにやりとした。
「デイビス、遅刻よ。勤務評定にマイナスつけられたくなかったら時間を守りなさい」
上司の叱責も、男にはまったく効き目はないらしい。
「べつに重要な用でもないでしょう」と、トカゲの喉を撫でながら返す。
「えー、ハルってば新人くんが来るの楽しみにしてたじゃない」
エイミーが口をはさんだ。
「してねーよ」
「してたよ。机整理して、引き出しもきれいに拭いてたでしょ」
「ああ、それはアルジャーノンが食事の残りの隠し場所にしてたから。さすがに、な?」
察してくれというように、男は肩をすくめた。
……つまり、自分がこれから使う机の引き出しには、食べ残しのゴキブリの頭とかカマキリの脚とかが入っていたのか? レイはめまいをおぼえた。だがまあ、掃除をしてくれたのならもうないのだろう。たぶん。きっと。
「ハル、とりあえず挨拶しろよ」
ディックが肘で隣の男をつついた。
「彼はサービス残業続きのわが班の救世主、期待の新星、レイモンド・サイラス・クラークだ。どうだ、名前からしてバリバリ書類仕事をこなしてくれそうじゃないか?」
……つまり、自分は書類仕事を期待されているのか? レイはまためまいをおぼえた。たしかにクラークの語源には学者の意味もあるが。まあ、ある程度は仕方ないだろう。先輩たちの役に立つのも、新人としては大切なことだ。
「ああ、そういえば俺も五年前は分署でさんざんこき使われたな」
黒ずくめの男は、面倒くさそうにレイに手を差し出した。
「俺はハル・デイビス」
この男の本名も、レイは事前に知っていた。彼もおそらくレイの略歴は知っていて、よい印象を持っていないのだろう。研修を終えたばかりのぺーぺーにちゃんと仕事ができるのかと、危ぶんでいるのかもしれない。
レイはハルの手を握り、最大限にフレンドリーな笑みを浮かべた。予備知識はあることを知らせておこうと、口を開く。
「レイ・クラークです。名簿であなたの名前を拝見して、お会いするのを楽しみにしていたんですよ。ミドルネームが〝デイジー〟って、珍しい――」
そこで言葉を切ったのは、周囲を取り巻く空気の温度が瞬時に、確実に五度は下がったからだ。べつに部屋のエアコンが壊れたわけではない。ディックもエイミーも、アーケイディアでさえもが、静止の魔法でもかけられたかのようにその場に凍りついている。
レイの手を握ったハルの手に、力がこもった。半端ない力でぎゅうと握られ、レイは思わず声をあげそうになるが、正面にいるハルの顔があまりに険悪なので、口を開くこともできなかった。
「俺のミドルネームが、なんだって?」
どすのきいた声で、ハルが尋ねた。いや、語尾にクエスチョンマークがついてはいるが、答えを求めての問いではない。それはわかっていながら、レイは迫力に押されるように答えてしまった。
「デイジーって、珍しいな、と――」
この全身真っ黒で鋭い目つきの男のフルネームは、ハル・デイジー・デイビスというのだ。
アーケイディアが天井を仰いでから胸で十字を切り、エイミーは両手を頬に当てて、画家ムンクの代表作『叫び』の人物のような顔をした。静止の魔法がとけたディックが「よけろ!」と警告してくれていなければ、レイの頬にはハルの拳がまともにめりこんでいただろう。頬をかすられただけでも、十分に痛かった。
「いきなりなにするんですか!」
反射的にレイが打ち返した拳を、ハルはひょいと身軽に避ける。だがハルの肩の上のトカゲは、主の唐突な姿勢の変化についていけなかった。バランスをとろうと大きく翼を広げたところに、レイの拳が突き刺さった。