(5)
ハリケーンはセントレアの沖合を通過していき、またまぶしい日差しが戻ってきた。三日でなんとか退院にこぎつけたレイは、週末をアパートメントで寝て過ごした。頭痛も鎮痛剤をのまずに過ごせるまでに治まり、月曜日に出勤すると、まず署長室に呼ばれた。
そういえば、クローン猫の件はマッキンタイア署長の友人の依頼だった。いまさらそれを思い出して、別な意味で頭が痛くなる。結局、クローンアニマル研究所の所長のイケてない秘密を守ることはできなかった。その件で怒られるのかもしれない。
緊張しながら最上階にある署長室に入ると、机の向こうにいたマッキンタイア署長が太鼓腹をゆすりながら立ち上がった。手前のソファを勧められ、レイは恐縮しながら腰を下ろす。
「頭の怪我のほうはどうなのかね、クラーク?」
「おかげさまで、もう大丈夫です。ドクターも後遺症は残らないだろうと」
机を回ってきた署長が、ローテーブルをはさんだ向かいのソファに腰を下ろす。ふとかすかに甘い香りがしたように思い、レイは記憶を探った。この香りはどこかで嗅いだことがある。どこでだったか……。
「それはよかった。優秀な捜査官を失うのはつらいからね」
「優秀ならそもそもレッドカードをもらったりはしません。申し訳ありませんでした」
「気にすることはない。デイビスなんかもう三枚ももらってるんだから」
「そうなんですか?」
署長はにやりとした。
「だからって、見習わないでくれよ? それはそうと、今回の件はもうアルファに回したからね。例のわたしの友人の素敵な秘密については、他言無用で頼むよ」
「もちろんです」
「いや、わたしもオメガに下ろしたときには、あんなこととは知らなくってねぇ」
顎を撫でながら、署長は考える顔になった。
「でもこうなっちゃったんだし、仕方ないよね。かわいい部下を殺されるところだったと思うと、奴に同情する気にはなれないな。というわけだから、あまり気に病まずにまた頑張ってくれたまえ」
はい、と答えたレイに、署長はにっこりほほえんだ。
「お父上には今朝、一報を入れておいたからね。だめじゃないか、心配をかけては。ちっとも連絡をしてこないと、お父上が嘆いておられたよ?」
署長室を出ると、レイは長いため息をついた。最悪だ。入院しているあいだに知られなかったのを幸いと考えるしかない。きっと父親から呼び出しがかかり、嫌味を言われるだろうと思うとげんなりする。
七階へと階段を下りるあいだにDフォームに主任からの連絡が入り、レイは今度は軽い気持ちで上司のオフィスに足を踏み入れた。アーケイディアが病院に様子を見に来てくれた際には、とくになにも言わず、頭の状態を気づかってくれただけだった。
だが、彼を迎えた上司の表情は厳しかった。
大事にいたらなくてよかったわと、まず言ってから、アーケイディアは立ち上がって腕を組んだ。
「率直に言えば、今度のことではがっかりしてるのよ、クラーク」
「申し訳ありません」
レイはドアの前で、姿勢を正して答える。
「警察学校でいったいなにを習ってきたの? 分署研修でも容疑者への対応は経験があるはずよね。デイビスだって一枚目のレッドカードは配属翌月だったわよ」
その比較は痛すぎる。しかし反論はできなかった。
「以後、十分に気をつけます」
新人は恥をかいてなんぼだと、誰かから言われた言葉を頭のなかで反芻する。
アーケイディアのエメラルドの瞳が、射るようにレイを見つめた。
「きみが直すべきなのはね、そうやってうわべだけでわかった気になるところよ。秀才にはありがちなんだけど。ちょっとやればなんでもできてしまうから、なめてかかる」
レイは目を見開いた。
「そんなことは――」
「今回のレッドカードの意味を本当にわかっているの? 経歴の汚点だとしか思っていないんじゃない?」
腕組みを解いて、アーケイディアは右のてのひらを自分の心臓の上に当てた。
「赤は血の色よ。レッドカードを出すとき、わたしは部下の遺体をモルグで迎える覚悟を決める。その仕事を部下に振った自分を責める。とくに今回のように、わたし自身が少し気をつければ避けられたケースはなおさら」
資料が不備なのはわかっていた、とアーケイディアは続けた。
「でもデイビスはそういうケースに慣れている。処理もうまい。……彼がきみに丸投げする可能性を考えずに仕事を振った、わたしの責任だわ」
「ぼくの力が足りなかったんです。主任のせいでは――」
レイはうつむいた。あまりの情けなさに、胸がきりきり痛んだ。
「力不足を見抜けなかったところも、わたしの責任なのよ。職場ではね、部下の失敗はすべて上司の責任なの。とくにきみは新人なのだから」
アーケイディアは目を伏せ、疲れたように息を吐いた。
「デイビスにきみをまかせたのは間違いだったわ。色が違うからこそ、お互いに得るところがあるんじゃないかと思ったのだけれど。やはり無理があった。きみは今日からディックの下で――」
「待ってください!」
レイは思わず上司の机に近づいた。
「ぼくは……」
ハルと仕事をしたいのだという言葉を、途中でのみこんだ。どうしてそう思うのか、自分でも理由がわからなかった。無愛想で気分屋で無神経な、自分とはとことん反りの合わない男だ。お互いに好意を持っていないのに、一緒に仕事をしてもうまくいかない。だからこそ、今回のような結果になったのではないのか。
「勘違いしないで、クラーク。あなたの意志は関係ない。これはもう決まったことなのよ。さあ、オフィスに行って仕事をしなさい」
有無を言わさぬ口調に、レイはただ従うしかなかった。
特捜班の島には、ディックがひとりいるだけだった。真剣な顔でディスプレイをにらみ、なにか作業をしているようだ。アルファ班の友人が声をかけてくるのに応えながら、レイはディックに近づいた。
ディックが顔をこちらに向け、にっこりした。
「もう頭痛は治ったのか?」
「ええ、ほぼ消えました」
「そりゃよかった。主任から話は聞いてるよ。だが、わたしは午前中に、たまった書類仕事を片づけないとならないから」
「ぼくが手伝えることはありますか?」
ディックは肩をすくめ、窓のほうを親指で示した。
「とりあえず、アルジャーノンの世話を頼む」
「……え? 先輩は?」
「聞いてないのか? ハルは今日から一週間、クアレンタ・ビーチの交番だ」
「あのぅ、それはもしかして……懲罰勤務、ですか?」
ディックはディスプレイに視線を戻した。
「自宅謹慎二週間と、どっちか選べって主任に言われたらしい」
「ぼくのせい、ですよね……」
穴があったら入りたい。レイは両のてのひらで顔を覆った。
「いや、ハル自身のせいさ。新人をまかされたんだ、監督責任ってものがある」
慰められている気はしなかった。どんどん惨めになるのはなぜだろう?
レイは覚悟を決めた。
「アルジャーノンの世話って、なにをすれば?」
「ケージの掃除と餌やり」と、ディックはレイを見もせずに答えた。
餌か。予想はしていたが。
「ああ、餌はこれだ。昨日、息子と一緒に公園で採ったんだ」
ディックは自慢げに言い、机の引き出しから広口の透明ペットボトルをとってレイに渡した。
受け取ったときに叫んだり飛び上がったりしなかった自分を、レイは褒めた。ペットボトルのなかでは無数の昆虫がうごめいている。気持ちが悪すぎて種類や数を確認する気にもならない。
「ああ、きみは虫が苦手なんだっけ。だったら素手じゃなく、ピンセットではさんでやるといい。アルジャーノンは気にしないから」
ぼくは気にします! レイは心のなかで叫びつつ、ディックからピンセットを受け取った。これで虫をはさんだときのことを想像すると、背筋がぞくっとしてうなじの毛が逆立った。むにゅ、という感じだろうか。それとも……。
レイはごくりと唾をのみこみ、考えるなと自分に言い聞かせた。窓際のケージに近づいてしゃがみ、なかをのぞきこむ。止まり木の上で緑色の爬虫類が首をかしげ、銀色の目をぎょろりと動かす。無意識に体が引けてしまうのを、レイは懸命に叱咤した。
「アルジャーノン、ほら、餌だぞ」
ケージの金属の桟の隙間は一センチほどだ。ここから虫を与えればいいだろう。
ケージの前でボトルの広口のキャップをそっと開けた、次の瞬間。トカゲがいきなり止まり木からジャンプして、手前の金属桟に飛びついた。
レイは反射的に叫び、跳びのいて尻餅をついた。ペットボトルが手を離れて床を転がり、開いていた口から虫の大群がフロアに放たれる。
優れた脚力と翅を持つ昆虫たちの逃げ足は早かった。レイが硬直していた十秒ほどのあいだに、彼らは新天地を目指して跳ね、飛び、走って姿を消した。
その後、おおかたの虫たちは他の捜査員たちの寛大な協力によってペットボトルに戻ってきた。すいません、ありがとうございます、と言いながらレイがペットボトルの口を開けて差し出すと、彼らは無造作に虫を落としこんで、にやにやしながら嫌味を言ったり、同情顔でレイの肩をたたいたりするのだった。
ときおりバッタが机で跳ねてコーヒーのなかにダイブし、謝罪と賠償を要求されたり、キャビネットの下から聞こえてくる鳴き声を頼りにコオロギの捕獲にいそしんだりするうちに、午後が過ぎていった。
アーサー・ケントの遺体が見つかり、検死が行われていると知ったのは、さんざんな一日が終わりに近づいた午後四時頃のことだった。